太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年03月03日

171豊の国古代史研究会 神社トレッキング資料から(前編)

171豊の国古代史研究会 神社トレッキング資料から(前編)

20160201

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 当ブログは最低でも3ヶ月程度の掲載用文書のストックを用意している事から自ずと掲載にはタイムラグが生じます。

 ただ、緊急性のあるものについてはスポット□□□として出しています。

 今回、171掲載予定稿は都合により公開しない事としました。

このため、代わりに豊の国古代史研究会 神社トレッキング資料をお見せする事にしました。

この程度の簡単な資料で現地を周り、必要に応じてリポートを書いている事がお分かり頂けると思います。

 トレッキングに関しては、久留米地名研究会のHPやblog「ひぼろぎ逍遥」のトップ・ページにスケジュールを出していますので、お近くで参加を希望される方は直接現地に向かわれて構いません。

 このため普段は参加者の目にしか触れない資料をお見せする事にしました。

 実際、130日には太宰府地名研究会の、131日には豊の国古代史研究会の、28日にも熊本県山鹿市を中心にトレッキングを行っていますので、そのリポートを書くだけでも大変になります。


以下pdfファイルがドロップボックスにアップロードされています。

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2016豊の国古代史研究会新春三社詣りトレッキング 

久留米研究会 太宰府地名研究会 菊池(川流域)地名研究会 玄海地名研究会
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遠賀川の神々探訪ツアーから数カ月、今度は全く別の視点から神社を見る事にします。

@高木神社(大任町成光)A諏訪神社(添田町中元寺)

B北斗宮(嘉麻市大隈町)C日吉神社(飯塚市庄内町筒野)

D大分八幡宮(飯塚市大分)E厳島神社(飯塚市鹿毛馬)

高皇産霊系高木神社、大国主系建御名方神社、天地開闢神の北斗宮、大山咋系日吉神社、八幡系大分八幡宮 神皇産霊系の厳島神社 各々6系統の神社を考えます。

    写真は鹿毛馬神籠石正面に鎮座の瀛氏系神皇産霊系の最重要神社

無題.png2016131豊の国古代史研究会「新春三社詣り(バスハイク)トレッキング」先着25

2016131日 日曜日 900 集合〜 930出発  申し込みは母里まで 090-7463-0474

田川市 料亭「あをぎり」に集合! カーナビ検索田川市新町21-28 0947-42-1251

大雪の場合は中止!

@  高木神社(大任町成光)      彦山48大行事社(高木)神社の中心はここではないか?

A  諏訪神社(添田町中元寺)     何故?筑豊に出雲系強硬派の神社が存在するのか?

B  北斗宮(嘉麻市大隈町)      天之御中主神 伊邪那岐神 伊邪那美神 を祀る縁起式内社.

C  日吉神社(飯塚市庄内町筒野)   この日吉は大山クイ〜崇神天皇を祀る上賀茂系神社なのか?

D  大分宮、大分廃寺跡(飯塚市穂波町)宇佐神宮の元宮ともされる大分宮は箱崎八幡宮の跡宮

E  厳島神社(飯塚市鹿毛馬)     公式には消滅した白川伯王家の痕跡を探ろう!

               では個々に詳しく見て行きましょう!    

カーナビ

無題.png@  高木神社(大任町成光2310-3どんぐり保育園2310-3より入る) 

彦山48大行事社(高木)神社の一社、左 殿はスサノウ(昔氏新羅系)を祀る今宮社ですが、右殿(主祭神)に高木大神、その次女である拷幡千々姫(タクハタチヂヒメ=ニニギの姉)それに少彦名命が 祀られています。参道の配置を見ると後で今宮社が加わったような印象を受けますが、少彦名命は、本来、大国主命(越智族=大山祇系)であり、許氏で高皇産霊系のニニギ一家に加わるはずがないのですが、これは今後の課題です。なお、神紋を見ると両殿ともに、恵比寿系(古々代ユダヤ)の九本の燭台(メノラー)を意味する三柏紋であり、新ヘブライ系のスサノウのものではなく古々代ヘブライ系のもの。無題.png


A  諏訪神社(添田町中元寺1461

全国に約25,000社あり、長野県諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。また、諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)という。諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。鹿児島県では祭神名の建御名方命から「南方神社(みなみかたじんじゃ)」としているものもある。

諏訪大社の祭神は諏訪大明神ともいわれる建御名方神とその八坂刀売神で、他の諏訪神社もこの2神を主祭神とするほか、「諏訪大神」と総称することもある。諏訪大社より祭神を勧請する際には薙鎌に神霊が移され、各神社ではこれを神体としている。また、中世には狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業を守護する神社としても崇拝を受ける。これらは諏訪大社の山神としての性格を表している。諏訪大社では6年に一度、御柱と呼ばれる4本の杭を立てる御柱祭が行われるが、全国の諏訪神社でも同様の祭が行われる。

岡田莊司らによると、祭神で全国の神社を分類すれば、諏訪信仰に分類される神社は全国6位(2,616社)であるという。                                      「諏訪神社」ウィキペディア による

公式見解はともかくとして、百嶋神社考古学の立場からは、出雲神話の舞台は出雲ではないのです。

古 代の出雲国とは大幡主の一族が展開していた領域の総称であり、九州全域から西日本の海岸部に多くの出雲と呼ばれる領域があり、そこには蒲生、鴨、隈…と いった地名が付されているのです。旧桂川町の「出雲」もその一つなのです。さらに言えば大国主が国譲りをしたのは九州であり、国譲りの結果その移動した国 が現出雲なのです。言わば大和朝廷により造られたテーマ・パークが現出雲なのです。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:22| Comment(0) | 日記

171豊の国古代史研究会 神社トレッキング資料から (後編)

171豊の国古代史研究会 神社トレッキング資料から (後編)

B  北斗宮(嘉麻市大隈町988) 

祭神 天之御中主神 伊邪那岐神 伊邪那美神 玉姫大神

 事代主神人皇第三十八代天智天皇の御代(紀元一三三一)若木連と言う人、北斗星の信仰篤く益富山に北斗大明神として勧請し、延命長寿縁結びの神として尊崇を集めたのが北斗宮の起源となる。
 天正六年龍造寺隆信の兵乱によって神殿が焼失するも御神体は樹齢二千数百年の大楠の下に奉安して安泰、以后大楠神社を祀る。
 大楠神社は武運長久事業繁栄の神として尊崇さる。(元禄十年筑前貝原好吉の古文書による)

境内祭祀神社 大楠神社、恵比須神社、玉姫稲荷神社、松尾神社(社頭由緒石碑より)

「九州神社紀行」による

まず、旧大隈町の周りには、鴨ケ岳(旧山田市北境)、牛隈(旧嘉穂町)、鴨生(旧稲筑町)、吉隈(旧桂川町)、忠隈(穂波町)…といった隈地名があり、私達百嶋神社考古学を信奉する者には、博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の領域であることが見えます。大幡主の伯母が天御中主命であり、その大幡主のお妃になられたのがイザナギと別れた後のイザナミ(クマノフスミの命)であり、その子が豊玉彦(ヤタガラス)、さらにその子が鴨玉依姫なのです。つまり、北斗宮の3/4神がこの系統の白族(ヘブライ系)の神なのです。まず、天理教、曹洞禅宗、日蓮宗が展開する地区はその系統が住んでおられる場所とも考えており、「寒北斗」の一族もその高貴な末裔と言えるかも知れません。

C  日吉神社(飯塚市筒野442)旧庄内町

通説では、「日吉神社(ひえじんじゃ、ひよしじんじゃ)は、滋賀県大津市坂本にある山王総本宮日吉大社(ひえたいしゃ、現在は「ひよしたいしゃ」)を勧請して日本各地に建立された神社である。」とします。主祭神は大山咋神で同神大年神の御子神、大年神とは実は阿蘇高森の草部吉見神社のヒコヤイミミなのです。「古事記」によると、大年神と天知迦流美豆比売神(実は市杵島姫)が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。奥津日子神奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神阿須波神波比岐神香山戸臣神羽山戸神庭高津日神大土神(土之御祖神)

説明は不要と思いますが、筑豊には数多くの日吉神社が分布しています。これが何であるかはほとんど理解されていないようです。故)百嶋由一郎先生によれば、阿蘇高森の草壁吉見宮の主神(ヒコヤイミミ)と白族の宗像市杵島姫との間に産まれたのが大山咋神であり、松尾神社、日枝神社、日吉神社、山王宮、そして、現在、祭神が猿田彦に入替られているものの出雲の佐田大社の祭神でもあるのです。

ここには、今も明瞭な立ち葵の古い神紋が残されているのでぜひ見て頂きたいと思います。

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D  大分宮、大分廃寺跡(飯塚市大分1272

祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫命。大分は「だいぶ」と読み、太傅(天子の師傅となる官)府の事である。すなわちここは天子の養育に携わる府が置かれた場所である(だからショウケ越えがある)。 福岡県飯塚市大分…八幡宇佐宮託宣集」にも筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていた。とする。

宇佐神宮の元宮ともされるが、その事は大分宮が九州王朝の神宮だった事の裏付けとも言える。

 表面的には箱崎八幡宮は大分宮のお汐井汲みの場でしかなかったのであり、本来は箱崎宮の元宮であった。しかし、箱崎はその事に触れたがらない。また、元々は鴨玉依姫を祀る神社でもあったと考えている。

無題.png5-2大分廃寺跡(飯塚市大分726

福岡県飯塚市大分にある寺院跡。726年(神亀3)の創建と伝えられ、筥崎宮(はこざきぐう)の元宮という大分八幡宮の東方約1kmのところにある。塔跡は古くから確認されていたが、礎石が創建当時のままほぼ完全な状態で残っており、奈良時代初期の寺院跡として貴重なことから、1941年(昭和16)に国の史跡に指定された。塔跡は周囲から1mほど高い土壇に、心礎を中心として17個の礎石があり、心礎は花崗岩の上面に円形柱座を造り出し、さらに径約82cm、深さ約9cmの枘(ほぞ)穴があることから、塔は高さ30m余りの三重塔であったと推定。また、柱穴には外側に向けて2本の溝が設けられており、水が溜まるのを防いだのではないかと考えられている。その後の調査で、寺域は南北約94m、東西約102mと推定され、大規模な伽藍(がらん)を有する寺院であったことがうかがえる。また、塔跡近辺から蓮華の文様がほどこされた新羅(しらぎ)系や百済(くだら)系の軒丸瓦(のきまるがわら)や軒平瓦が出土したことから、豊前地域の仏教文化と密接な交流があったと推測できる。

行橋市には椿市廃寺もありますが、小郡市にも井上廃寺があります   いずれも白鳳時代の寺院

当然にも解体され筏で瀬戸内海を運ばれ畿内に移設された九州王朝の神宮寺跡である可能性が高い

E  厳島神社(飯塚市鹿毛馬1088

本来は、宗像大社はもとより、安芸の宮島の厳島神社よりも格上の神社である。

百 嶋由一郎先生からは“飯塚市鹿毛馬の某神社が白川伯王の流れを汲む本家であり、厳島神社の元宮、白川伯王家の源流の一族の神社である”“宗像大社以上に権 威を持つ重要な一族である”と言った話を聞かされていました。「白川神道」など聴いた事もないという方のためにも、学者の権威を無視するためにも、敢えて 彼らが無視するウィキペディア(20150417 2030から紹介させて頂きます。

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(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元

白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。

白川伯王家の成立

白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「」を名乗られたことである。「王」の身位天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。…中略…

吉田家との地位逆転

室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏吉田兼倶吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた。家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。

王号返上と家系断絶

明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄北白川宮能久親王庶子)の男子の久雄養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となる。

白川伯王が何かついては、既にひぼろぎ逍遥 159 秦の始皇帝と市杵島姫、173博多の櫛田神社の祭神とは何か? で説明していますので詳しい説明は省く。

  ただ、簡略化して言えば、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族が、始皇帝の姓である「臝」姓を許され「瀛」(イン)と名乗り、その一族と強固な姻戚 関係で結ばれた白族(白川伯王→博多櫛田神社の主祭神大幡主→豊玉彦=豊玉主=ヤタガラス)を含め強固な「瀛氏一族」が形成されたのです。

 この「瀛」という姓を名乗ることが許された神代の有名な人物に、宗像三女神の一人である市杵島姫=津島姫があるのだが、古代の社格について言えば、本当は宗像大社よりも上位の神社だったのです。

 その証拠に、九州王朝の巨大山城である鹿毛馬神籠石の正面に鎮座しているのです。ともあれ、社殿をご紹介致しましょう。神 社縁起はご覧の通り宗像同様の配神(三女神)ですが、むしろ、宗像大社が、この厳島神社と同様だと表現する方が正しいはずなのです。ただ、これだけではこ の神社の重要性は言い尽せない様に思います。なお、牧野神社についても、もしかしたら百済の目支(マキ)国を意味しているかも知れません。     無題.png

博多祇園山笠で有名な櫛田神社の神紋は上の通りです。勿論、祇園山笠の祇園は右の五花木瓜紋ですが、主祭神である大幡主は六角形の三盛り亀甲に五三桐をシンボルとしています。

 ここで、鹿毛馬の厳島神社神紋を見て頂きましょう。


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千木は女神である事を表していますが、三盛亀甲(これは剣付き唐花)

これだけでもこの厳島神社が大幡主と同じ傘下にあったことが分かります。宗像も確認しましょう。

無題.png楢紋は、宗像大社の神紋。大社の御神木である楢の木から。
 『神社名鑑』には、梶紋とあるが、電話で確認したら楢であるとのこと。 
「玄松子の記憶」より

これだけでは何とも…と言われる方は多いでしょう。その向きには次の写真をご覧いただきましょう。


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厳島神社の宮司家が「白土」を姓としている事が分かります、ただ、何故か土に「、」点が付いています。

この厳島神社にも数軒の白土さんがおられる事が境内の氏子の名を見ても分かります。点のある白土さん、点の無い白土さんがおられるのですが、宮司家は明らかに点付きの「白土」様です。

 無論、点付きの「土」という文字はない訳で、普通ならこの理由は全く分からないはずです。

 しかし、百嶋先生は十分お分かりだったようで、明治期に当時の神祇官=後の神祇庁が同社に押し掛け、千年以上続いた「白王」姓をけしからんとして変名を迫った結果であるとされていました。

結果、白川伯王の「王」の横一棒を抜いた「土」へと変更させられたという記録(歴史)を残すために痕跡としての「、」を残されたのです。 

川伯→白(土+)へと。 ※「、」は、栄えある王の横一文字を削らされた印ですね。

この「点」についての謂れを、ちょうど境内の掃除をされていた宮司(90歳)の息子さん(実質的な宮司様)にお尋ねしたところ、“五代前の宮司からそのように聴いています”とのお答えを頂きました。

白川伯王家の本流、源流であり御本家であるという意味がお分かり頂けたと思います。

0947-42-1251

トレッキング注意事項

豊の国古代史研究会は夏の遠賀川流域の神々トレッキングに引き続き2016新春三社詣りを企画しました。

@  実際には67ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。

A  最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意され参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば ケイタイ 09052892994(古川)までご連絡下さい。

  緊急時連絡:09062983254 古川

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:24| Comment(0) | 日記

2016年03月05日

172 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 E 天照宮(宮若市)

172 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 E 天照宮(宮若市)

20150929

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 嘉麻郡から飯塚市に踏み入った探訪ツアーが次に向かったのは宮若市でした。

 この地で直ぐに頭に浮かんでくるのが天照宮と六嶽神社です。自分が選ぶとしてもこの二社になるはずで違和感はありません。

 事前に作成した資料では以下の様に書いていました。


@  天照宮  概して筑豊の天照神社はアマテラスオオミカミではなくニギハヤヒの場合がほとんど… 


カーナビ検索福岡県宮若市宮田町大字磯光字儀長大幡主、大山咋、スサノウのエリアです


祭神 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 (あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)、八幡大神、春日大神、応神天皇、天児屋根根命(あめのこやねのみこと)

饒速日は、山幸彦=ニギハヤヒ=卑弥呼宗女壱与やウマシマジの父で後の物部氏の中核的氏族が奉祭する神であり、小倉南区の神理教(明治期に佐野 某により造られた教派神道系新興物部教団)の神でもある。

以上

九州でも天照大神を祀る神社が無い訳ではないのですが、一旦、筑豊に足を踏み入れると、天照神社なるものは、ほぼ、天神ニギハヤヒを祀る神社になってしまうのです。

この事が、筑豊が物部氏の牙城であった事と無関係であるとは考えられず、例えば、肥前や肥後や日向にそのような現象が認められない事から今のところそのように考えている訳です。

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天照」と言えば、女性の神様として知らぬ人のない日本神話の大スターですが、こと筑豊に入るとその常識が全く通用しないのです。それは、飯塚から宮若に掛けて展開する多くの天照神社、天照大神宮…といったものが、等しく物部の神たる天神ニギハヤヒを祀っているからです。

 今回は、飯塚、宮若エリアでも最も重要な神社である天照宮についての話です。

 まずは、太宰府地名研究会のメンバーでもある彩杉るな女史の「ひもろぎ逍遥」から見ることにしましょう。


祭神 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 八幡大神、春日大神、応神天皇、天児屋根命



祭神 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 八幡大神、春日大神、応神天皇、天児屋根命 

…中略…

そうか、この川は犬鳴(いぬなき)川なんだ。そしてここは「粥田の荘」。

天照神社の由来は、貝原益軒著の「鞍手郡磯光神社縁起」によれば、饒速日尊が垂仁天皇16年に宮田町の南に聳える笠置山頂(425m)に降臨し、同77年に笠置山頂に奉仕した事に始まります。
 その後、千石穂掛谷、明野(脇野)と移り、延慶元年(1308年)に、白き鶴の住む里に廟を遷すべしとの神託があり、西国探題惣政所(そうまんどころ)玄朝(げんちょう)の造営により、現在地に移されました。

…中略…

また、谷川健一氏は『白鳥伝説』のなかで、神武天皇の東征軍を難波の日下(くさか)で苦戦させた長髄彦の背後には物部氏がおり、日下の地を中心に日神ニギハヤヒを奉斎し、ここを太陽信仰の拠点にしていたことを論証している。



さすがは、るなさん。押さえるべきところは押さえておられるようです。

谷川健一が主張した筑紫(筑後)物部25部族の筑豊への展開(東征)との関係を意識されているようです。

それが深部において、神武東征(初代神武はあくまでも神武巡行しか行っていない…畿内への東征は第10代崇神天皇によるもの)=「神武は筑豊に東征した」という福永仮説も、この物部の東征神話と通底しているのかも知れません。

「まず、饒速日尊が垂仁天皇16年に宮田町の南に聳える笠置山頂(425m)に降臨し」

についてですが、「建武の中興(新政)」で知られる後醍醐天皇が三種の神器を持って楯籠った山が、笠置山 であり、後の元弘の乱に繋がる切っ掛けともなったものです。

 この京都府南部 笠置町周辺にも物部系の人々がいた事は容易に想像できるものであり、後醍醐帝もこの物部の天孫降臨を擬えなかったとしても、知っていた可能姓は十分にあるのではないかと思うものです。

本当は、それに犬鳴川の話もしたいのですが、横道にそれる事になりそうですので、それはやめておくとしても、この筑豊の天照(ニギハヤヒ)の起点(どこからやってきたのかという出発地)については、多少思い当たるものがあります。

それは、久留米市大石町の水天宮の近くに伊勢天照御祖(イセアマテルミオヤ)神社というものがあり、やはり天神ニギハヤヒを祀っているのです。

これに関心を持たれる方は、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)106 伊勢天照御祖神社 “久留米の佐岐神社は誰を祀るのか?”をお読み下さい。

実のところ、「神話」を地上に引き降ろし、ようやく「歴史」に取り返したとされる古田武彦九州王朝論がその天孫降臨の起点とした対馬は小船越の阿麻氐留神社についても、ニギハヤヒの可能性があるのではないかと考えているところです。

偽りの歴史を真に受ける方は別として、やはり重要なのは藤原によって捩じ曲げられたと言うよりも捏造されたと言った方が正しい千数百年に亘る偽装を見破り、物部氏の神社という性格からどこまで正確に把握できるかどうかにかかっています。

まずは、神殿(本殿)の屋根に載せられた千木、鰹木から見ることにしましょう。

下の写真を見ればお分かりの通り、千木は横切り、鰹木は六本の偶数で、千木、鰹木だけから見れば、主神は、明らかに女性である事を示しています。

それは、明治期の天照大御神を持ち上げた時期の影響なのかどうかは調べる必要はありますが、単純に天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒ命と対応していない事は明らかでしょう。

しかし、外の可能性が見て取れるのです。

いつも言う事ですが、古代の列島では母系制が主流であったからか、先住民族(氏族)の女性の方が圧倒的に格式(神格)が高く、その時々の有力な外来(渡来)の指導者を男神として受け容れ、先住者の打ちたてた既得権=平和を維持しようとしてきたのです。

このため、男神は時勢の移ろいによって、絶えず入れ替えられ、政略結婚が繰り返されて来たのです。

従って、表面的にはエリザベス女王の夫であるエディンバラ公が対外的には臣下(ある種種馬)として振る舞っているのであり、神権、権威は女神の側=先住民族の側にあったのです。

このため、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(実は猿田彦)という仰々しい名称にも拘わらず、この神社の本当の神様は、ニギハヤヒを入婿として受け容れた伊勢の下宮様=豊受大神(実は香春神社の主祭神韓国息長大姫大目命=天宇受賣命)こそが、物部の神としてこの神社を支配しているとも考えられるのです。

その場合は、神殿にはその神は祀られているものの、縁起ではそれを隠していると考えざるを得ないでしょう。

神殿の奥深く隠された女神を確認できればこの事がはっきりするのですが、実はもう一つの可能性があるのです。

それは、縁起の通りニギハヤヒを単独で祀っている可能性です。それが明治期の天照大御神の受容れで女千木などを受け容れた可能姓です。

ここらあたりになると古老や宮司にお尋ねして神社の在り様をお聴きするしか手がありません。

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次に縁起をお読み下さい。お分かりでしょうか?面白い点、おかしな点が配神からだけでも読みとれるのです。

まず、八幡宮でもないはずなのに、八幡神と応神天皇が別神であると言わんばかりに配されています。

 通常、宇佐八幡宮も応神(ホンダワケ)を八幡神とするはずなのですが、この異様さはただ事ではありません。

  ただ、これも百嶋神社考古学では解析の糸口はあるのです。それは、本来の八幡神が博多の櫛田神社の主神である大幡主こそが、多くの幡を立て大船の艦隊を 操っていた正八幡神であった事を知っているからですが、この神社縁起はその事を十分に知っており、それとなく明らかにしている様に見えるのです。

 もう一つは、春日大神、天児屋根命が別神扱いになっていることです。


天児屋命

神社の祭神としては天児屋根命とも表記される。春日権現(かすがごんげん)、春日大明神とも呼ぶ。居々登魂命(こごとむすび)の子で、妻は天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)。天押雲命の父。

岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、古事記には中臣連の祖となったとある。


ウィキペディア 20150930 2030 による


お分かりでしょうか?通常、天児屋根命は春日大神とされているにも関わらず、敢えて、別神扱いにしている点が、物部の神社たる所以である訳です。

 これも百嶋神社考古学では明確で、この天児屋根命とは阿蘇の草部吉見神=ヒコヤイミミであり、それは、通説による表向きの解釈は確かにその通りなのですが、実はそれには大きな舞台裏があるのです。

 まず、古代は母系制社会だったためか、有力な先住民族(氏族)への入婿として何波にも亘る外来(渡来)民族(氏族)の侵入を受け容れ、その有力者との政略結婚を繰り返してきたのです。

  春日大神が何者かについても説明が必要ですが、奈良の春日大社とは藤原不比等が平城京移転に合わせ、自らの権勢を長らえるために、常陸の鹿島大社から剣豪 塚原卜伝が信奉した武甕槌神(実体は秘密に近く全く知られていませんが、阿蘇草部吉見神=ヒコヤイミミなのです)を勧請し自らの氏族の守護神=軍神とした のです。

これも、春日大神と天児屋根命を別神としていることが単なる神社伝承の混乱なのかそれとも裏事情を知っての事なのかが気になるところです。

 何故ならば、奈良の春日大社の奥には水屋神社なるものがあり、草部吉見神の妃でもあった韓国息長大姫大目命を祀るなら分かるのですが、本当は、その母神である(父神はスサノウ)神大市姫=弥都波能売神(罔象女神)を祀っている事から、そのような裏事情を知ってのものとすることもできるのです。

しかし、それは裏読み過ぎるかも知れません。

 このように、解釈が非常に難しいのが天照宮なのです。

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境内摂社


 このように、物部氏の最大拠点とも言うべき天照宮ですが、境内の摂社を見ればそれが良く分かります。

 須賀神社は言うまでもなくスサノウを、鹿島神社は草部吉見神、諏訪神社は国譲りに抵抗した通常は出雲系とされる建御名方神、それに古々代ヘブライ(ユダヤ系)の恵比寿神…と荒ぶる神のオン・パレードになっているのです。

 最後になりますが、境内で面白いものを見つけました。

冒頭で、「饒速日は、山幸彦=ニギハヤヒ=卑弥呼宗女壱与やウマシマジの父で後の物部氏の中核的氏族が奉祭する神であり、小倉南区の神理教(明治期に佐野 某により造られた教派神道系新興物部教団)の神でもある。」と書いていますが、この神理教の開祖佐野経彦(巫部経彦)に縁続きと思われる方が奉納された石塔を発見したのです。

 瞬間、「やはり」と思いました。

 千三百年の時空を超え、なお、この神社こそ、ニギハヤヒ、ウマシマジの本流を祀る神社であるとの認識が継承されていたのです。


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初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の幼名は佐野命でしたが、この方も同教団の関係者なのでしょう


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:19| Comment(0) | 日記