太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年02月29日

ビアヘロ010 北北東に進路を取れ! I 但馬の山奥で発見した若宮八幡宮について

ビアヘロ010 北北東に進路を取れ! I 但馬の山奥で発見した若宮八幡宮について

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久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


今回の調査旅行は、往きこそ下関から姫路東まで山陽自動車道を使い播磨から舞鶴に入りましたが、帰路は、山形の手前から舞鶴に戻り、福知山市の高良神社一社を確認し、兵庫県朝来市から養父市へ、さらに鳥取市へと国道9号線で九州へ戻りました。

気比神社、白山神社、彌彦神社と何やら大社ばかりを周っている様に思われるかも知れませんが、本当にヒントを得られるのはそのような大社ではなく、地域以外には見向きもされない様な良社(妙な表現ですが外に適当な言葉もないため)です。

兵庫県養父市から国道9号線で鳥取市に向かうと、北の妙見山、南の氷ノ山(伯耆大山と同じ様にヒョウノセンと呼びます)山系の高丸山、瀞川山などの鞍部を越えることになります。

「夢千代日記」で有名なと言っても最近はご存知ない方が多いでしょうが、但馬でも高級旅館が軒を並べる高温泉の名湯湯村温泉の少し手前(九州への帰路)に村岡温泉、小代温泉があります。

どちらにしてもどこかの温泉では休憩するつもりでしたから、今回は小代温泉で一泊(と言っても車中泊ですが)することにしました。

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今 回は良いロケーションの温泉に遭遇しました。森が守られているため(林野庁による売れもしない針葉樹林が少ないためですが)、二日間の雨にもかかわらず、 泥水ではなく透明な水の川が維持されていました。好い加減に事実を認めて新規造林の中止と危険で無駄な針葉樹の撤去による広葉樹林の拡大へと転換(放置す れば良いだけ)させて欲しいものです。林野庁の縮小も当然ですが。

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兵庫県(但馬)香美町小代 小代温泉


雨の上がった翌日、鳥取に向かって走り始めたところ、カーナビの表示を見ていると、国道9号線との邂逅部である長板地区に若宮八幡宮があることに気付きました。

但馬地区には何度も足を踏み入れているために見当がつくのですが、八幡とは宇佐八幡宮の威光と権勢を受け容れ、面従腹背の姿勢をとった石清水八幡系の橘一族の領域だった事を示しているのです。

その事に気付いたのは、氷ノ山北麓のスキー場が集中する鉢伏高原に別宮と言う地区があり、そこに石清水八幡宮の別宮を見出したからでした。

当時、随行者の内倉武久氏と朝からその別宮を参拝し、この一帯には物部氏、橘氏の一族が大量に入っていると考えた事を思い出します。

この小代、長板地区もそうした物部系の集落であった事が徐々に見えて来たのでした。

周辺には、大田、大野、大谷、八坂、吉井、八井谷、黒田、福岡、矢田、安井、水間、鍛冶屋、勿論、鉢伏そのものから、和田、奈良尾といった安曇族を思わせる地名がぞろぞろ拾えます。

そう考えると、若宮八幡宮の意味は、偽装八幡でしかなく、実際には高良玉垂宮の若宮、つまり、高良皇子神社=九体皇子神社か、その筆頭、斯礼賀志命(シレカシノミコト)=仁徳天皇を祀る神社である可能性が高そうなのです。

それらの興奮を抑え、集落の高台への狭い道を登りつめ、早朝から若宮八幡宮を参拝させて頂きました。

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若宮八幡宮正面 カーナビ検索 兵庫県香美町長板

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居並ぶ境内社と参拝のお婆さん  遠い古代九州から移住して来た人々の集落としか思えない長板地区


若宮八幡宮という社名だけで判断した様に思われても仕方がないのですが、社殿の規模からは不釣り合いなほどの覆いの掛けられた居並ぶ境内摂社は圧巻で、大山祇神社、松上神社(これは不明)、金毘羅神社、荒霊神社、愛宕神社、稲荷神社、大国主神社とこれほどの神々を臣下として従えるのは高良玉垂命の若宮である仁徳天皇(高良皇子神社の長男=斯礼賀志命)としか考えられないのです。

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左から大山祇神社、松上神社(これは不明)、金毘羅神社、荒霊神社、愛宕神社、稲荷神社、大国主神社


  玉垂宮史料によれば、初代玉垂命は仁徳七八年(三九〇)に没しているので、倭の五王最初の讃の直前の倭王に相当するようだ。『宋書』によれば倭王讃の朝貢 記事は永初二年(四二一)であり、『梁書』には「晋安帝の時、倭王賛有り」とあって、東晋の安帝(在位 三九六〜四一八)の頃には即位していたと見られることも、この考えを支持する。
 さらに現地(高良山)記 録にもこのことと一致する記事がある。『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として 仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累 代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃 死して弟珍立つ」と一致するのだ。すなわち、玉垂命(旨)の長男斯礼賀志命が讃、その弟朝日豊盛命が珍で、珍の子孫がその後の倭王を継いでいったと考えら れる。この理解が正しいとすると、倭の五王こそ歴代の玉垂命とも考えられるのである。
 この仮説によれば、倭王旨の倭風名や倭の五王中、讃と珍の倭風名が判明する。さらに推測すれば、三瀦地方の古墳群(御塚・権現塚・銚子塚)が倭の五王の墳墓である可能性も濃厚である。

〔高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)〕

高良玉垂命(初代)――――― 斯礼賀志命(しれかし)→ 隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く
物部保連(やすつら)  ―― 朝日豊盛命(あさひとよもり) →草壁(稲員)氏へ続く
            ―― 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
            ―― 渕志命(ふちし)
            ―― 渓上命(たにがみ)
            ―― 那男美命(なをみ)
            ―― 坂本命(さかもと)
            ―― 安志奇命(あしき)
            ―― 安楽應寳秘命(あらをほひめ)
              ※読みは「草壁氏系図(松延本)」によった。

九州王朝の築後遷宮 玉垂命と九州王朝の都(『新・古代学』古田武彦とともに 第4集1999年新泉社)  古賀達也

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久留米高良大社を中心に多くの若宮神社がありますが、これらは、高良玉垂命の若宮であり、久留米市山川町の高良皇子神社の意味であり、九体皇子を(高良玉垂命と神功皇后の間の5人の皇子と、年嵩となる仲哀の連れ子)祀っているのです。


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「高良玉垂宮神秘書」の一部


実は、もう一つ「これは…」と思った事がありました。

無題.pngそれは集落で見掛けた土蔵に付された家紋で、高良玉垂宮の裏紋でもある木瓜紋が、この長板集落でもかなりの数確認できたからでした。

帰りを急いでいたので、次回ゆっくり見て回るつもりですが、目に触れた集落の5〜6軒の土蔵で立て続けに木瓜紋を見たのです。

もはや疑う余地はありません。長板の若宮八幡宮とは、高良玉垂命=第9代開化天皇と神功皇后との間に産まれた若宮=第14代仁徳天皇を祀る神社だったのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:08| Comment(0) | 日記