太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年02月08日

ビアヘロ003 北北東に進路を取れ! B 舞鶴市西舞鶴の笶原神社

ビアヘロ003 北北東に進路を取れ! B 舞鶴市西舞鶴の笶原神社
20151219
久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

舞鶴と言えば舞チン、佐世保と言えば佐世チン、横須賀と言えば横チン、呉と言えば呉チン…と相場が決まっていたのですが、今やこのような話が全く通じない時代になってしまったようです。
太平洋での日米会戦はまさに激闘に次ぐ激闘でしたが、所詮、ユダヤ金融資本に操られていた事を認識している人は日本国民の1%以下であろうことは間違いないでしょう。
ましてや、帝国海軍はパナマ船籍の油槽船からアメリカの石油を買い付け、日本水産(三菱商事)が運び敗戦まで動いていたことなど想像もつかない事でしょう(関心を持たれる方は鬼塚英昭氏の話をユーチューブなどで確認されては如何でしょうか…)。
京都府舞鶴市は旧帝国海軍の舞鶴鎮守府が置かれ、日本海海戦で名を馳せた東郷平八郎も初代司令長官として舞鶴市余部に宿舎を持っていたと聴き及んでいます。
当時の海戦に於ける主戦場は東シナ海から日本海であり、佐世保と並び舞鶴の重要性は言うまでも無いものだったのです。
姫路から福知山に入りその日は国領温泉で疲れを取り、その近辺での車中泊を決め込みました。
翌朝、早々にも舞鶴に入ったのですが、東郷が住んでいたその余部を通り貫け、直ぐに足を向けたのは、当然にも、海上自衛隊の舞鶴総監部でした。
朝まだきからいつしか夜が明け、明るい朝日が海上自衛隊の艦艇に注いでいたのでした。
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写真は翌日撮影したもので曇り空、悪しからずご容赦 後方にはなにやらイージス艦らしきものまで…

舞鶴にはこれで五度目ぐらいですが、前回、十年前に訪ずれた時には、岸壁の母ならぬ引き揚げ記念館などを見たと記憶しています。
しかし、今回は、図らずも舞鶴市内の神社を見て回る羽目になってしまいました。
それと言うのも、二台ある車載用パソコンの一台のアダプターのコードが断線し、おまけにショートしたようで、内蔵バッテリーまでもがダウンしてしまったからでした。
慌 てて家電専門店、パソコンショップ、リサイクル・ショップなどを走り回ったのですが、台湾製のDELLという一般的でないメーカーのものだったために、容 易に代替品が見つからず、途方に暮れていました。しかし、救いはあるものです。幸いにも地元のパソコン修理などを行う店をネットで探し出し、なんとか24 時間でリカバリーできたのでした(深謝)。
結局、ただの通過のつもりだったものが、まるまる24時間の滞留の必要性が生じ、舞鶴の神社調査を行うはめになったのでした。
しかし、10社ほどの初見の神社を見たことから得たものは多く、非常に意義深いものでした。
さて、最初に足を向けたのは西舞鶴の市街地の一角にある笶原神社(笑原ではない)でした。
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今回は、パソコン修理のための足止めで急遽調査することになったことから、下調べを全く行っていません。以下は同社御由緒書。「祭神は天照皇大神、豊受姫、月夜見神。」とあります。


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 予備知識もないまま何とか付近に車を止め見せて頂くことにしましたが、まずは、神額が非常に気になりました。読めないのです。

バックアップ用パソコンで画像処理をしてようやく読めたのですが、さすがは文化と伝統の中心地の教京都、立派な研究者がたくさんおられるようです。これらに一通り目を通さなければ一言も書けなさそうです。
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どうやら「総社笶原魚井匏宮」(ヤハラマナイヨサ)と書かれているようなのです。

…鳥居には「総社笶原魚井匏(やはらまないよさ宮)」と書かれた大きな神額がかかっているが、この字は清仁親王書と伝えている。 …

つぎはぎで申し訳ありませんが、一部を掲載させて頂きます。

元伊勢というの(ママ)今の伊勢の伊勢神宮の故地ということで、まことに重要な伝承を伝える神社でもある。
残欠が真名井の近くの矢原山と言うし、その神名帳では笠水社−笶原社−伊吹戸社の順に並ぶのだから、式内社・笶原神社はここにしか考えようはない。
丹 後海部氏の重要な拠点でもあった。丹後分国は和銅6年(713)で、勘注系図によれば丹波国造海部直愛志の児の海部直千成が笶原神宮の祝部の祖となってい る。養老5年(721)より十五年勤めたとある。その児は橋木麿という。あるいは多門院あたりにいたかも知れないような名である。この矢原山は残欠の冒頭 に出てくる加佐郡の最も重要な地である。海部氏が加佐郡支配の拠点をどこに置くかを考えても、やはりここであろう。
古代の長い時代に渡っての非常に大切な役割のあった社であったらしいことがわかる。
この地は天香語山命とか天村雲命とかが登場して説かれるのであるが、彼らは名から見れば金属神やヘビ神であろう、さて「神社旧辞録」のヤブ山という地名、そして実はこの神社の本当の名であるが、この考察が大変に鋭くて大変に面白い。
笶原とは「ヤブ」とも訓で但馬の養父と同義であって「ヤブ」は「ウブ」即ち初生ウブが源であり、壬生ミブ、弥布ミフ、養父ヤブの神及び笶原ヤブ神社は太古よりの土着神生えぬきの村といはれる。

「丹後の地名地理・歴史資料集」より

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以下は別のサイト「ぶっちゃけ古事記」より


笶 原神社(やはらじんじゃ)は、京都府舞鶴市にある神社。『延喜式神名帳』にある「笶原神社(丹後国・加佐郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格は無 格社。「笶」は「笑」ではないが、笑原神社と誤表記される場合がある。「やぶじんじゃ」「神明さん」「えばらじんじゃ」「えみはらじんじゃ」などとも。
笶原とは「ヤブ」とも訓で但馬の養父(養父神社)と同義で、「ヤブ」は「ウブ」すなわち初生(ウブ)が源であり、壬生(ミブ)、禰布(ミフ)、養父(ヤブ)の神はいずれも太古よりの土着神生えぬきの神社であり、一帯であるという。
『倭姫命世記』にあるトヨスキイリビメが巡歴した「吉佐宮」の伝承地の一つで、伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)の前身とも言うべき、元伊勢の一つ。
その他に、「吉佐宮」の候補としては、いずれも京都府内に皇大神社(福知山市)、真名井神社(丹後国一宮・籠神社の奥宮。宮津市)、竹野神社(京丹後市)がある。
御 祭神は、天照大神(アマテラス)、豊受大神(トヨウケビメノカミ)、月夜見神(ツクヨミ)。創建は不詳。慶長年間(1596年-1615年)に領主だった 細川家が再建。寛文年間(1661年-1672年)、牧野家入国以前は地元の人々による崇敬が厚く、栄えた。その後衰退。
本 殿は裏山の顕仁親王(後の第七十五代崇徳天皇<1119年-1164年>)の書という忠魂碑後方の山上にあるというが、氏子の紺屋町内約七十 世帯の手では管理が行きとどかないため、御神体を下の拝殿に移した。山上の本殿は明治36年(1903年)の建物だが、荒廃にまかせているという。本来は 愛宕山山頂の、今の愛宕神社の地にあったと思われる。
鳥居には「総社笶原魚井匏宮」と書かれた大きな神額がある。字は清仁親王(第六十三代冷泉天皇の子、実際は第六十五代花山天皇皇子。約1000年前)書と伝えている。
式内社「笶原神社」は淡路国三原郡にもある。
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ひときわきところに鎮座する伏見稲荷こと伊勢外宮の豊受大神


名を捨て、実を取った感じですが、この奥に鎮座している稲荷様=豊受大姫こそが主神ですね。

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千木も外切りし「男神」を表しているようです。

天照大御神は女神ではないのか?と言われるかもしれませんが、だから伊勢神宮の神官などがあしらう様に「良く千木の男女の区別を問題にして質問してくる人がいるが、それは素人考えで、千木とは全く無関係…云々」といった事を言ってのけるのです。

このような浅薄な理解は、表面しか見ていないだけであって、神社はその時々の情勢で奥方の神を表に出し、夫方の神を引っ込めたりしているからでしかないのです。そこを見なければいけないはずなのです。

百 嶋由一郎神社考古学では、伏見稲荷は豊受大神=伊勢外宮=辛国息長大姫大目命=アメノウヅメ命とし、その二番目の夫に当たる山幸彦=ニギハヤヒ(その実体 は天香具山=香春岳命)が表に立たれているからです。これは、奈良の大和朝廷から伊勢が忌避された事と通底しているのです。

 久留米や筑豊には天照御祖神社、天照宮…と言われる男千木を掲げる神社群があります。

  伊勢外宮の豊受大神とは勿論イザナギ女神とイザナミの間に生まれたスサノウと、大山祗命と埴安姫(大幡主の妹)との間に生まれた神大市姫との間に生まれた スーパースター同志に生まれたプリンセスであり実は伏見稲荷様でもあるのですが、その夫となった神々も、格式は非常に低いものの、実力者である海幸彦(阿 蘇高森の草部吉見)から山幸彦(物部の祖ニギハヤヒ=猿田彦)へと変わっており、奈良大和政権に対して物部を表に出さざるを得ない情勢が存在したからなのです。

 従って、この総社笶原魚井匏宮では、一段高い所に奥方の伏見稲荷が置かれ、臣下としての実力者としての山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦が祀られると言う臨戦態勢の配神になっているのです。

 倭姫命が伊勢神宮の鎮座地を求めて移動した事が「倭姫命世紀」には書き留められ、この笶原神社も大江山皇大神宮同様、その移動した(流浪した)仮宮の一つだったのですが、その起源は無論九州なのです。

 その証拠に、全国で唯一倭姫を単独で祀る味島神社が佐賀県の嬉野市塩田町、鹿島市などに数社集中しているのです。

これについては「ひぼろぎ逍遥」012「日本で一つ、主神として倭姫命を祀る神社」をお読みください。

御祭神は、天照大神(アマテラス)、豊受大神(トヨウケビメノカミ)、月夜見神(ツクヨミ)とされています。

簡単に言えば、この神社とは豊受大神と山幸彦=ニギハヤヒの御夫婦と後見人としての大山祗の神社なのです。百嶋神社考古学の立場からは丸分かり(頭隠して尻隠さず)に透けて見えるのです。

ただ、関係者のうちスサノウは消えてる(消されている)ように見えますね。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


なお、「ぶっちゃけ古事記」氏がお書きになっている「やぶじんじゃ」「神明さん」「えばらじんじゃ」「えみはらじんじゃ」などとも。 笶原とは「ヤブ」とも訓で但馬の養父(養父神社)と同義で、は同意ですが、この養父も肥前の旧郡、「養父郡」の地名移動であり、養父市大屋町の御井神社群は筑紫、肥前からの移動なのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記