太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2016年01月03日

伊倉001 天子宮は誰を祀るか? 001 “クラとは祭りの場”

改訂版“伊倉 天子宮は誰を祀るか?”の掲載について


肥前、肥後、薩摩…の領域を中心として天子宮、天子神社、天子社と呼ばれるものが散見されます。

この神社群に関しては、かなり広がった分布領域を持ち、現在もなお地元の崇敬を失っていないものも多いにもかかわらず、系統だった調査も行われておらず、研究面について謎の神社として打ち捨てられている感もあります。

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熊本市大津町森の天子宮神額


これを取上げられたのは荒金卓也氏でしたが、氏は二〇〇二年に出された『九州古代王朝の謎』で一章をもうけ熊本の天子宮についてかなり詳しい研究を展開されておられます。 

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さて、本稿は2007年頃から古田史学の会会報(81号〜)に掲載されたものですが、途中から掲載の要請もなくなり、当方としても古田史学の会の編集方針と齟齬を来す(会に対して迷惑をお掛けする)事を感じ取ったことから掲載自体を依頼しなくなったものです。

この間、ネット上(「新古代学の扉」)には60本ほどのレポートを掲載したところで中断し、会報紙面からもネット上からも続編が掲載されず途絶えていたものです。

しかし、その後も天子宮調査を続けており、最終的には113本のレポートを書いたところで中断(終了)し、その後一本を追加し(これは「ひぼろぎ逍遥」069 玉名市玉東町木葉に新たな天子宮を発見した!にも掲載済み)して、都合、114本を書き上げているものです。

今回、現在の評価を各々の後尾に追加し、基本的には当時の文体と文章には変更を加えず全文を掲載して行く事にしました。

本 来は、特に出羽を中心に分布する東日本の天子宮の調査に踏み込み、全体像を把握した上でネット上に公開するつもりでしたが、より重要な百嶋神社考古学に関 する作業に追われ、これ以上先延ばしにはできないと感じた事から、画像、図面、地図等を加え公開する事にしたものです。

「新古代学の扉」は文献史学派の本拠地とも言うべきものである上に、文字データ中心の掲載が中心である事から当方のフィールド・ワークを中心とするレポートにはどうしても大量の画像データの掲載が必要であり、当ブログで公開する事にしたものです。



伊倉001 天子宮は誰を祀るか? 001“クラとは祭りの場”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


肥前、肥後、薩摩の領域に天子宮、天子社と呼ばれるものが散見されます。これを取上げられたのは荒金卓也氏でしたが、氏は二〇〇二年に出された『九州古代王朝の謎』で一章をもうけ熊本の天子宮についてかなり詳しい研究を展開されておられます。 

当 然ながら後追いの作業になるのですが、現在、小郡市在住の会員である荒川恒昭氏のご協力を頂きささやかな調査を続けています。本稿はいわばその途中経過と も言うべきものになります。このため、長期に及びますのでここで、一旦、区切りをつけて簡単な報告をさせて頂きます。もちろん、この延長上になんらかの成 果が得られることを期待しているのですが、結論めいたものに到達するには資料が少なく苦戦しています。

(作業グループを代表して)



私 は、熊本地名研究会のメンバーでもあります(当時)。以前、鞍岳(クラダケ)という地名に関する小論において、“クラとは祭りの場を意味する“と書きまし たが、熊本県内で初めに頭に浮かぶ地名は、JR鹿児島本線、肥後伊倉(ヒゴイクラ)駅のある玉名市の伊倉です。隣接して大倉という地名もありますが、こち らの方が祈り、祭りの中心地であるかどうかについては今のところは何とも言えません。一般的には伊倉は飯倉であり、古代の屯倉、郡倉と考えても一向におか しくはないのですが、目と鼻の先にあるかむろ山が気になるところです。

さて、この伊倉については非常に気になる興味深い論文があります。平成十三年に開催された熊本地名研究会“第13回熊本地名シンポジウム「神々と地名」”で報告された“『国郡一統志』に見る中世の神々”(玉名市教育委員会審議員、西田道世氏)です。

これについては長くなりますので後回しにします。この報告には伊倉安楽寺領などを中心に天子社、天子神社という耳慣れない神社の集積が認められます。

安楽寺とは神仏混交時代の太宰府天満宮の別称であるため、それだけでも興味を押えることができません。

一応、ここでは地名成立の話をしているつもりですので、後代の宇佐八幡宮の影響、平安後期から鎌倉期にかけて旧国衙領に持ち込まれた熊野信仰、伝統的な霧島、阿蘇系の信仰、菊池氏によって持ち込まれた新たな八幡信仰といったものは考えません。 

しかし、この伊倉において、道を挟んで互いに向かい合う北八幡宮(南向き)と南八幡宮(西向き)は異様であり、ただならぬものを感じさせます。

ま た、八幡信仰以前の海神信仰を感じさせる玉名市街地の疋野(ヒキノ)神社(祭神玉依姫)、『肥後国風土記逸文』にある景行天皇と長(渚)洲の腹赤魚(ニ ベ)の伝承、また、『肥後国史』にも腹赤魚が御贄(オニエ)として毎朝献じられたという話が掲載されています。これが伊倉の津に運ばれ、さらに、太宰府に 送られていたといった伝承があるなど、この伊倉は濃厚な祈りの場所との思いが深まります。

この腹赤魚(ニベ)の伝承については、当然ながら民俗学者谷川健一氏による「続日本の地名」(岩波新書)第二章[ニベ](鰾 谷と腹赤)“ニベとハラアカ”がありますが、「漁師が朝ごとに贄(ニエ)の魚を献じたという話が載っている・・・」とあるように、御贄は後代の塩物の献上 といったものではなく、生魚の献上である事からその対象が誰であるか(もちろんそのまま長洲に滞在中の景行天皇などとは考えていませんが)が気になりま す。


にべ【鮸】

ニベ科の海産の硬骨魚。全長約90センチメートルで背びれに切れ込みがあり、シログチに似る。・・・(広辞苑)有明海のような干潟の海を好み南日本から中国の近海で普通に捕獲される食用魚。


一方、それ以前の縄文以来の信仰も感じさせます。当然ながら、その対象は伊倉の北に位置する“かむろ山”と考えたくなります。そもそも、“かむろ”とは“神室(カムロ)”でもあり、神のおわす所と考えるのですが、はたして的を得ているかどうかはわかりません。

神 漏岐(カムロギ)神漏美(カムロミ)は中臣神道に遡る大祓の詞:祝詞(「延喜式」第八巻)ですが、この神室はそれをさらに遡る物かもしれません。ただ、気 楽に山の神がおわす所が“かむろ山”で、祀りの場が伊倉もしくは隣接する大倉で、山から降りてきた神が留まるところが稲佐だなどと考えられれば良いのです が、どうも、伊倉の天子領域にはそれ以上のものを感じてなりません。

さらに、玉名の古名が玉杵名(タマキナ)、多万伊奈(タマイナ『倭名抄』)であることを考えると、玉は言霊(コトダマ)の玉であり、玉杵名とはスピリットがやって来る場所とも言えそうです。

玉名とは玉杵名(タマキナ)が多万伊奈(タマイナ)に音便変化し玉名(タマナ)になったとも言えそうです。いずれにせよ玉名の伊倉を祀り祭りの場所とする事までは許されるでしょう。

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横島頂上から伊倉を望む。手前は加藤清正が造り出した干拓地であり、四〇〇年前までは有明海であった訳です。してみると、伊倉台地は有明海に突き出した岬(干満の差が大きいために岬は津となるのです)だったのです。


再掲


と、ここまで書いて本当に良いのかを考えていると、やはり不安になってきました。そ のきっかけは枕崎でした。印象的な立神岩に連なる半島の東側や先端一帯が火之神町(ホノカミマチ)、火之神岬町(ホノカミミサキマチ)と呼ばれていること から、かつてこの半島が火之神岬(ホノカミミサキ)と呼ばれていたと想像されます。この火之神が何かは別として(もちろん今後の課題とします)、もしも、 ここが古代において神を祭る場所であったのならば、クラとは祭りの場を意味しますので(*)、“ま”が真心の“ま”であるとすると、枕崎とはまさしく火之神を祭る聖域と言う意味を持っている事になるのです。

これが正しいとすると、枕崎という地名は“枕”と関係があるなどという安っぽい話をした事になるのであり、やはり地名は難しいと思うばかりです。

阿蘇の鞍岳、天草の倉岳についても、そのように考えられるかどうかも今後の課題とさせて頂きます。


*)クラとは祭りの場

私 は古田史学の会に所属しており、古田武彦氏の説を支持するものです。もちろん、鵜呑みにすることは探求者として失格であり、もちろん教授もそのようにお考 えかと思います。この話は古田史学の会の公式ホーム・ページ“新・古代学の扉”に掲載されている講演(音声版でありインターネットで聴く事ができます) 「箕面道端サミット」Bに登場します。先生はこの中で、松本市から見える名峰乗鞍岳の名は一般には乗馬と関係があるように思われるかも知れないけれども、 乗鞍のノリは祝詞のノリであり、クラはその祭り(イノリ)の場であるとされています(ネットで簡単に聴けますので、詳しくはそちらをお聴き下さい)。古代 において、穂高岳に対して乗鞍岳から祝(イノリ)が行われていたのでしょう。

民 俗学の世界でも、桜、早乙女、サナボリといった言葉は全て稲作と関係があるとされています。山の神(サの神)が山から降りてくる頃に、里で米作りを始める 頃になると、山から山の神(サの神)が降りてくると言われています。その時、山の神が座る場所が桜の木の又であると考えられており、だからこそサクラの木 と呼ばれているとするものです。

してみると、長崎市の稲佐山(古事記にも稲佐山が登場し、奈良県榛原町の稲佐山とされていますが)はそのようにも思えますが、長崎が古来稲作の盛んな土地であったとは思えませんので、これについてももう少し調べる必要があるように考えています。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:17| Comment(0) | 日記

2016年01月06日

伊倉002 天子宮は誰を祀るか? 002 “熊本県玉名市と佐賀県江北町の対応する同一地名群”

伊倉002 天子宮は誰を祀るか? 002 “熊本県玉名市と佐賀県江北町の対応する同一地名群”

20070328

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


玉名市の伊倉について、太古、ここが祀りの場であったのではないかという事を書きました。以降はその続編という事になります。

伊倉と江北の対応する地名群


以前から気になっていましたが、まず、玉名市の伊倉周辺と佐賀県の江北町には相互に対応する地名が認められます(列記しますので確認してください)。


玉名市、菊水町、玉東町(いずれも玉名市に隣接)


上小田、下小田、山口、白石、白木(菊水町)、稲佐(玉東町)、梅木谷(鹿央町)


江北町、白石町(江北町に隣接)


上小田、下小田、山口、白石、白木、   稲佐神社(白石町)、梅木谷溜池(白石町)


 稲佐、白木とくれば、まずは百済、新羅といった渡来系氏族の定着地と見たいのですが、江北町側で掲載した山口は小田の直ぐそばですし、白木は小田の裏山のような場所です。

稲佐は少し離れてはいますが、直線で五キロ、古墳時代には小田周辺まで有明海が奥深く入っていたと考えられますので、対岸の杵島山の東麓の稲佐(稲佐神社は旧有明町一の宮です)までは船で楽に移動できたと思われます。

まず、似た地名、同じ地名の存在についてはほとんどの人が経験的に知っている事でしょう。

しかし、これほどまでにまとまって存在している例は見たこともありません。あの安本○○による“筑紫と大和の対応地名”のようで多少の気恥ずかしさが伴いますが、これが何を意味しているのかは、今のところ見当がつきません。

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江北町の上小田周辺(マピオン)全ての地名を一度に表示する事はできませんので興味のある方は地図をひらいて下さい。

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玉名市の伊倉周辺(マピオン)全ての地名を一度に表示する事はできませんので興味のある方は地図をひらいて下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:51| Comment(0) | 日記

2016年01月09日

伊倉003 天子宮は誰を祀るか? 003 “安楽寺領の天子社の排他性

伊倉003 天子宮は誰を祀るか? 003 “安楽寺領の天子社の排他性“

20070328
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


平成十三年に開催された熊本地名研究会の“第13回熊本地名シンポジウム「神々と地名」”で報告された玉名市教育委員会審議員西田道世氏による“『国郡一統志』に見る中世の神々”という論文に登場する天子社の話です。長くなりますが引用させて頂きます。

第8図に掲載しました図には、非常に多くの点を打っておりますが、これは天神様の分布図です。これも木、森、石などを祀った自然神です。その中で、太宰府天 満宮、安楽寺領の荘園は図のとおりですが、玉名荘、天道西荘、合志郡富尾片俣、飽田郡山崎天満宮周辺など非常に少なく小さい。小さい荘域ですので、何とも 言えないところはありますが、その中では、天神の鎮座は、各一所となっています。一見この一所以外の天神を拒否しているかの感があります。関 連して、天子・天子神の分布を見てみましょう。第9図です。そのうち、小天村の天子神は五條の天神を祀るという伝承が『肥後国誌』に記載してありますの で、自然神の一種でしょうし、天神の要素を持っている神様だと思います。この神様は現在も天水町の天子宮として大きく祀られていますが、天子の中では唯一 天子神と書かれている天子の中では最も大きな神社と思われるものです。天子はこの神社を南限にして北の方に分布が延びています。宇佐領伊倉別府と小天村は 隣同士ですが、天子は見事に伊倉別府の荘域から外れたところに分布しています。(第10図)伊倉別 府には天神が非常に多いにも関らず隣村の天神類似の天子神を全然受け入れず、天子は更に北にある安楽寺領玉名荘方面に拡がっているのです。序でながら、権 現も伊倉別府の中には全然入っていません。加えて、安楽寺領玉名荘では天神は本家の天神以外の天神が全く存在しないのに、天子はこのように沢山鎮座を引き 受けています。
これらから、「八幡宮領は天神を受容するが天子は容認しない。天満宮領は天子は容認するが天神は鎮座させず排除する。」という現象があったようです。これが 江戸時代になりますと、名前も天子は天満天神、天子天神、と名乗りが変わってきますし、伊倉別府の領域だったところにも鎮座するようになります。それも江 戸時代の後半には天満宮と名乗られることが多くなりますので、このような垣根は払われたともいえるでしょうが、少なくとも江戸初期、現象的にはそのような 状況だったのです。


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第8図、第9図、第10図

長い引用でしたが、お分かりになったと思います。少なくとも、過去、この伊倉には異常なほどの天子社という耳慣れない信仰の対照の集積が認められていたのです。

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田崎の天子宮 伊倉台地の天子社、かつてはこのようなものがいくつもあったのでしょう

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マピオンによる
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:15| Comment(0) | 日記