太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年12月19日

147 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 A 馬見神社とは何か?

147 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 A 馬見神社とは何か?

20150918

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回の遠賀川流域の神社探訪トレッキング(バスツアー)で最初に参拝したのは遠賀川源流の高峰馬見山直下の馬見神社でした。

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嘉麻市馬見神社参道正面


まず、事前資料には以下のように書いていました。


@  馬見神社=伊弉諾尊(イザナギ)天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギ)

外に賀茂大明神・荒穂大明神 多分、木花咲哉姫命(コノハナノサクヤ)も昔の名前で残されている


@  馬見神社

東隣の白髭神社や北斗宮と並び嘉麻郡では非常に重要な古社


カーナビ検索福岡県嘉麻市馬見(高木大神、海人族、一部金山彦、秦氏のエリアです)


まずは、太宰府地名研究会メンバーの綾杉るな女史の「ひもろぎ逍遥」から見て頂きましょう。


由緒については他の本にも載っていたので書いてみます。
『筑前国続風土記附録』から抜き出します。

馬見大明神社 産土神である。御祭神は天津彦ホホデミの尊・ニニギノ命であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。
馬 見山が東にそびえ、渓水が西に流れて、人里離れて潔浄の宮所である。馬見山の山上に社があって、白馬山大明神ともいう。どんな神を祀っているか分からない という。ここでは、御祭神に、イザナギの命の名はありません。その代りに、ホホデミの命が出て来ました。ニニギノ命の子供です。山幸彦の名の方が有名で す。また、山頂の神は白馬大明神だと言っています。どんな神なのかは分かっていません。
二つに共通するのはニニギノ命でした。そろそろ系図なしには理解が出来ませんねえ。
(
と言って、パッと出てくる。親切ですねえ。)

三つの由緒書の祭神を色分けして囲みました。これで分かるように、共通するのはニニギノ命でした。
江戸時代のガイドブック『筑前名所図会』にも、白馬大明神について書いてあります。

馬 見大明神 古宮は馬見山上にあり。御神域という大岩の辺に石の祠あり。今の社は山下にあり。白馬大明神とも申して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり。この 神、葦毛の馬を忌むという。この里に飼うを忌むのみならず、他のことろから来ても、村の方で留めて置くという。ここでははっきりとニニギノ命が白馬大明神 だと書いています。

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当方の悩みというか疑問は明確です。佐賀県、福岡県の境界領域である基山直下や、天拝山直下に鎮座する荒穂神社から馬見神社など、ニニギが祀られている神社の祭神はどうも怪しいと考えています。

それは、天孫族に先行する天神族の排除が見て取れるからですが、これらの神社をじっくり見て回れば多少とも解明の手掛かりが拾えると思うものです。ただ、古代の謎解きでもあり時間が掛りそうです。

馬見神社の場合は賀茂大明神、荒穂大明神(基山の荒穂の場合は随神とされた鴨大神、八幡大神、宝満大神、春日大明神、住吉大明神、五十猛命)は敗散の結果排斥された神々に思えるのです。

木花咲哉姫命も百嶋神社考古学ではニニギを袖にして前玉姫と名を変え、豊玉彦(ヤタガラス)と一緒になり、鹿児島県溝部町に南下の後、富士浅間神社を経由し、埼玉県行田市の前玉神社に移動している…とします。これについては、


「ひぼろぎ逍遥」    067 霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る

「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)023 コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪


をご参照下さい。 もちろん、通説の「その代りに、ホホデミの命が出て来ました。ニニギノ命の子供です。山幸彦の名の方が有名です。などは大ウソでしょう。山幸彦はニニギの子ではありません。

 結論的には、本来の祭神であるニギハヤヒ=山幸彦がニニギに入れ替えられているものと考えます。

(以上事前資料より再掲)

まずは、同社由緒をご覧ください。

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神武東征に関わる「足白」「馬見」といった地名説話はともかく、同社西方の谷には「荒谷」という集落があります。

このような要地にこのような地名を見ると、直ぐに朝鮮半島の安羅(慶尚南道咸安郡)を頭に浮かべますが、無論、根拠があってのことではありません。

百嶋神社考古学の立場から、一目、祭神のバランスが悪い事に気付きます。

まず、イザナギは祀られているもののイザナミが祀られていません。

ニニギとコノハナノサクヤは夫婦神で良さそうですが、イザナミがイザナギと別れたのと同様に、コノハナノサクヤもニニギと直ぐに別れてヤタガラスと一緒になるのです。

また、イザナギの子はスサノウであって、ニニギではないのです。

どうも、系統がそぐわない「記」「紀」を写し換えたような配神になっているのです。

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参道(上)参拝殿(下)

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参拝殿右から奥に進むと本殿の形状が見えてきます。

 形状を見て驚きました。神殿を守るように覆いが掛けられているのです。

 これは、多くの神社を見てこられた方ならお分かりになると思うのですが、筑後に多い、鞘(サヤ)殿の形式になっているのです(ただし右半分だけですが)。

この手の神殿様式を採用するのは筑紫(筑後)物部氏であり、物部25部族の筑豊への移動を思わせる痕跡と言えそうです。

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いうまでも無く、この馬見郷一帯も物部25部族の一派、馬見物部の領域なのです。

 ただ、物部氏とは元々の民族も異なる雑多な職能集団、戦闘集団であって、如何なる氏族が中心的な存在であったのかを神社や地名などから探るのが筑豊に於けるフィールド・ワークの中心的な課題になるのです。

 この馬見神社〜前述した嘉麻市牛隈の荒穂神社に見られる祭神の混乱については、天孫族降臨に先行する天神降臨に伴う祭神の排除、祭神入替、再合祀が考えられ、一概に“馬見神社の祭神は何か?”といった単純な質問には答える事はできないようなのです。

 これについては、白鳥伝説、「先代旧事本紀」といったものが絡んでくるのですが、簡単に言えば、天神族の上に天孫族が覆い被さってきているため、本来の神は天神系と考える事は一応できるでしょう。

 当然、天孫ニニギ(実は高木大神の息子)は後からの祭神であって、彩杉るな女史が賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。」としているように、賀茂大明神(恐らく博多櫛田神社の主神=大幡主)、荒穂大明神(恐らく山幸彦=ニギハヤヒ)が元の祭神ではないかと考えています。

 今後もある事から、筑紫物部の筑豊への展開について分かり易いサイトがありますのでご紹介したいと思います。


遠賀川の記紀伝承                              <<  作成日時 : 2010/07/31 02:38  >>



『直方歴史ものがたり』 (直方市企画調整課 発行)第26話  

神話のふるさと その3 鞍手郡から東征した物部氏  P6061
  
『日本書紀』には、神武天皇が九州から攻め上って大和地方に入ろうとした時、土地の豪族長髄彦が、「あ なたは天神の子といわれるが、すでにその昔、ニギハヤヒという天神の子が天磐船に乗って天からこの地に降って国をつくっておられます。私はニギハヤヒに奉 (つかえ)る者です。それなのに、あなたは、どうして天神の子と称して人の国を奪おうとするのか。」と、厳しく抵抗したという話があります。

この事は、神武東征の前に、もう一つの集団が東征して大和に国をつくっていたことを物語っています。『旧事本紀』という本には、ニギハヤヒが大和に降った時、同行した人たちの名前が挙げられていますが、北九州(特に鞍手郡)出身者と思われる名前が目立ちます。
 すなわち、十市部首等祖、筑紫弦田物部等祖、二田物部、筑紫贄田物部、嶋戸物部、筑紫聞物部、馬見物部などがそれです。
  十市は古く鞍手郡若宮町にあった地名。筑紫弦田(つるた)は宮田町鶴田、二田(ふつた)は小竹町新多(にいだ)、筑紫贄田は鞍手町新北(にぎた)と考えら れています。また、嶋戸は遠賀郡岡垣町あたりの古名で、そこには新入剣神社の倉師の神と同系と思われる大倉主の神を祀る高倉神社があります。筑紫聞は北九 州市小倉地方の古名。馬見は遠賀川の源流とされる嘉穂郡嘉穂町馬見山の麓です。
 このように見て来ますと、ニギハヤヒが天降った時の軍の中心勢力は、北九州、特に鞍手郡の物部一族であったといえそうです。
  ニギハヤヒや神武の東征は、かって、北九州を中心に稲作が始まり、それを経済基盤とする強力な集団が生まれ、その中心勢力が新しい稲作の天地を求めて東へ 移動していった歴史を反映していると考えることができます。そして、ニギハヤヒの場合はその中心的な勢力が鞍手郡一帯に住んでいた物部一族であったという わけです。
 弦田物部の故郷とされる宮田町鶴田のすぐ近くに、物部の祖ニギハヤヒを祀る 天照神社があり、宮田町の千石の笠置山には、ニギハヤヒが天降ったという伝承があるのも偶然ではないと思われます。六ヶ岳をとりまく剣神社の分布が、物部 氏の出身地と重なるようにあるのも注目に価します。
 このように考えて来る時、鞍手は日本建国の神話のふるさとだと言うことが出来ます。
(三回にわたる「神話のふるさと」は、民俗学者谷川健一氏の『白鳥伝説』に負う所が大きかったことを付記します。)  

※右クリック→画像だけを表示で表示されます。

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百嶋由一郎神代系譜(一部分)


百嶋由一郎神社考古学による最終神代系譜は通説(「記」「紀」)

とは全く異なりますのでくれぐれもご注意を!


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:16| Comment(0) | 日記