太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年12月12日

145 宮地嶽神社と安曇磯羅 L “宮地嶽古墳の被葬者藤 高麻呂、藤 助麻呂とは誰か?”

145宮地嶽神社と安曇磯羅 L “宮地嶽古墳の被葬者藤 高麻呂、藤 助麻呂とは誰か?

20150911

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今年も宮地嶽神社に継承された謎の九州王朝宮廷舞「筑紫舞」の奉納の季節(例年10/22)が近づいてきましたが、同社の奥の院とも言うべき場所に日本最大級の石室を持つ円墳の宮地嶽古墳があります。

ただ、この古墳に葬られた被葬者については、何でも近畿大和朝廷と結びつけたがる利権集団ともいうべき京都学派系(もっとも国学院出身だそうですが)の□ダニとかいう方が言いだした「宗像の君徳善とかその一族」といったにわか仕立ての説が横行しています。

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宮地嶽神社については当ブログに於いても過去12回に亘って宮地嶽神社と安曇磯羅」として書いてきました。

特にこの古墳の被葬者については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)078 宮地嶽神社と安曇磯羅 J “宮地嶽神社について現在分かる範囲で”として、同社の祭神が昭和11年当時には「阿部相亟」(アヘノショウカン)=宮地嶽大明神、藤 勝村大明神、藤 助麿勝頼大明神とされている事をお知らせしました。

被葬者が三者であった可能性も指摘されていますが、昭和11年当時の祭神とも対応する関係にある事から、最低でも被葬者の二者は藤 高麿勝村大明神、藤 助麿勝頼大明神であろうと考えています。

昭和11年当時に於ける宮地嶽神社の祭神に関しては津屋崎一帯における世情にも適合し、正しくも阿部の名が出てきます。

欠史(第2代から第9代開化)8代を公言して憚らない通説に思いっきり尾を振る御用学者に於いてさえも、多くの皇別氏族の中に阿部氏があり、その阿部氏が8代孝元天皇の大彦の流れを組む事は知らないはずはないでしょう。

ど のように考えても安曇族が跳梁した地域を見渡せる場所に造られた大王級古墳の被葬者を、山を背にする宗像族の一主首長に過ぎない宗像族の徳善の君とその関 係者と考える甘い思いつきは置くとしても、その背後に古代沖ノ島祭祀に関してはそれを司ってはいなかった宗像族(これについては小田富士夫報告が否定して いる)による世界遺産登録と連動させたいとするさもしい利権構造を見るのは私だけでしょうか?


「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)041 沖ノ島祭祀は宗像一族のものだったのか?小田富士夫説から

「ひぼろぎ逍遥」    115 宗像大社の本来の祭神とは何か? 他をご参照下さい。


神功皇后に従い新羅で大功をたて、帰還後この地を支配したとされる高麿勝村大明神、藤 助麿勝頼大明神ですが、「勝村」「勝頼」…が中近世のような印象を与える名で後代の人物ではないかなどと短絡される素朴で皮相な向きもともかくとして、この人物が誰なのかに付いては、以前から注目していました。

ただ、現在、祭神とされる 神功皇后に関係する直接の縁続きの人物なのか、その後代の一族なのかについての確信が持てなかったために、多分、通説で欠史8代と併せ架空とする神功皇后の子ではないかと考えてはいたのですが、これまで保留していたものでした。

勿論、百嶋由一郎先生は、「神功皇后の一族などトンデモない…お子さんです」とハッキリ仰っておられたのですが、その意味でも誰なのかが分からなかったために踏み切れないでいたのでした。

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30人以上も入る宮地嶽古墳の大王級巨大玄室


今回、百嶋先生が残された多くの手書き資料を整理していたところ、これに直接関係する部分が出てきたことから、ようやく百嶋先生が言われていた意味が分かり公開する事にしたものです。

百嶋神社考古学に関しては40時間を超える音声データと多くの手書きデータが残されています。

私が確保したものに関しては全てデジタル化作業が終了したことから、フィールド・ワークと併せ、その解読作業に入りたいと考えています。

今回収録した手書きデータの一つに宮地嶽神社の御祭神である藤 高麿勝村大明神が誰であるかに関する百嶋先生の見解が書き込まれていたのです。

下、右側の神社縁起はご覧の通りですが、久留米高良大社の麓(久留米市山川町にある旧参道)に鎮座する高良皇子神社(王子宮)高良皇子神社 カーナビ検索久留米市山川町王子山596-1 の祭神の一人である「朝日豊盛ノ命」こそ宮地嶽神社の祭神のお一人である藤 高麿勝村大明神と百嶋先生はお考えだったのです。

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無題.png斯礼賀志ノ命神(シレガシ)
朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)
暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)  
渕志ノ命神(フチシ)
谿上ノ命神(タニガミ)、
那男美ノ命神(ナオミ)
坂本ノ命神(サカモト)  
安志奇ノ命神(アシキ)  
安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)

 この皇子たちの名が書かれていた境内の由緒書をもう一度読んでみましょう。

「起建」高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇二十代允恭天皇の御宇(412453)、高良の神の御託宣(おぼしめし)により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司孝成造立す。(古宝殿) 四八代称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。(後略) 平成八年春弥生 山川区郷土研究会

九躰皇子は「高良玉垂命の御子」と書かれています。

blog「ひもろぎ逍遥」より


綾杉るな女史のブログから引用させて頂きました。「斯礼賀志ノ命」神は、当方のブログでも取り上げましたが、宇佐神宮の中宮にも祀られ、藤原によって第14代とされた仁徳天皇です。

その次男 朝日豊盛ノ命(アサヒトヨサカリ)こそ 宮地嶽神社の祭神のお一人と考えておられた事になるのです。では、もうお一人の藤 助麿勝頼大明神はどうなるのでしょうか?

普通に考えれば、神功皇后の三男である暮日豊盛ノ命(ユウヒトヨサカリ)であっても良さそうですが、それで良いか?…は今後の調査を待ちたいと思います。

以前のブログをお読みでない方のために再度申上げておきますが、この高良皇子の母は当然にも神功皇后であり、父は高良玉垂命=第9代開化天皇なのです。

とんでもない!神功皇后の御子は応神天皇であり、仲哀天皇の御子のはずである!…という方は、宮地嶽神社と安曇磯羅」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)とダブル検索を試みて下さい。ここにこそ、古代倭国最大の謎が存在するのです。

古代を本気で探査しようと思われる方は、高良大社の「高良玉垂宮神秘書」を是非、お読みください。

なお、百嶋メモ左側に書かれた神社が、この朝日豊盛ノ命を祀る神社であることは間違いないのですが、百嶋先生の御指示もありますので、この神社がどこにあるかを含め、当面の間封印したいと考えています。

神社を巡る情勢も政治情勢と絡んで風雲急を告げています。真実の倭国の古代を探る研究に御支援と御理解をお願いします。今後、経済的御支援も含め必要になりお願いする事になるかも知れません。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:25| Comment(0) | 日記