太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年12月16日

146 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 @ 馬見神社を考える前に

146 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 @ 馬見神社を考える前に

201509016

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


既に、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)141「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々 抄録“トレッキング直前手持ち資料から” において久留米地名研究会の提携連携団体である「豊の国古代史研究会」のメンバーを中心とする遠賀川流域の神社探訪トレッキング(バスツアー)が行われる事はお知らせしています。

Blog 141そのものは、実際のトレッキングを前にした軽い下調べで書いていたものです。

当然、初見の神社もありますし、何度も足を運んでいる神社もあるのですが、二度目、三度目となっても新たな発見はあるものです。

しかも、30人もの目で見ればそれなりに違うものは見えてくるもので、今回も色々な新たな知見が得られ非常に有意義なフィールド・ワークになりました。

このようなイベント関連の話は通常「ひぼろぎ逍遥」で書いてきたものですが、かなり重要なヒントが得られた神社もあったことから、今回探訪トレッキングの対象とされた7社について各々コメントを加える事としたものです。

141「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々 抄録“トレッキング直前手持ち資料から”で書いた内容は、軽い下調べ程度のものでしたが、事前の推定と実見後の評価がどのように異なってくるかも関心があるところです。

ともあれ、トレッキングにはもってこいの天候に恵まれ、朝8時半にはバス・ハイクの申込み者25人に随伴者(車)併せ30人規模の探訪ツアーが始りました。以下、Blog 141を一部再掲載します。


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このような神社ツアーは概して神社丸抱えで行われ、型通りの参拝ツアーになることが多いのですが、自由に遠賀川流域の神社を観察し自らのルーツを考察するというものは、百嶋神社考古学研究班にとっては願っても無い有難いイベントと言えるものです。

 今回訪れる神社は次の67(立岩神社は熊野神社の境内社とも言える事から)社です。

 当初は通説と異なるお話をせざるを得なくなることから解説者の方々にご迷惑ではないかと考え、参加を控えていたつもりだったのですが、そのような異端的な話であってもぜひお聴きしたいと言うお誘いから参加する事にしたものです。

 今回の探訪エリアは筑豊地方でもハート・ランドと言うべき旧嘉麻郡から遠賀川中流域の直方市辺りまでの主な神社を巡るものです。

 当方も少しずつ探訪を進めていますが、まだまだ取りかかった程度で個人的にも有難い企画です。

 今後、国東半島、宇佐〜安心院、彦山へと探訪のエリアは広がるものと思います。

  神社研究者にとって、フィールド・ワークは、他人や時間配分を気にせずにフレキシブルに行う事が鉄則と考えますが、このような大人数によるツアーは、多く 人から多くの知識、知見が得られ、過去数世代に亘る記憶によって思わぬ謎解きができることから、早くも心がざわめいています。

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嘉麻市馬見神社参道正面


まず、事前資料には馬見神社について以下のように書いていました。


@  馬見神社=伊弉諾尊(イザナギ)天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギ)

外に賀茂大明神・荒穂大明神 多分、木花咲哉姫命(コノハナノサクヤ)も昔の名前で残されている

A  馬見神社

東隣の白髭神社や北斗宮と並び嘉麻郡では非常に重要な古社


カーナビ検索福岡県嘉麻市馬見(高木大神、海人族、一部金山彦、秦氏のエリアです)


この話に入る前に、複数に言う馬見大明神なるものが何なのかが非常に気になるのです。

まずは、太宰府地名研究会メンバーで「ひもろぎ逍遥」の綾杉るな女史もこの点には注目され、別の神社になりますが、馬見山直下の嘉麻市大隈町の荒穂神社について触れておられます。


@  賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。

A  御祭神に、イザナギの命の名はありません。その代りに、ホホデミの命が出て来ました。ニニギノ命の子供です。山幸彦の名の方が有名です。

B  また、山頂の神は白馬大明神だと言っています。どんな神なのかは分かっていません。

C  ここでははっきりとニニギノ命が白馬大明神だと書いています。


『筑前国続風土記附録』から抜き出します。

馬見大明神社 産土神である。御祭神は天津彦ホホデミの尊・ニニギノ命であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。
  馬見山が東にそびえ、渓水が西に流れて、人里離れて潔浄の宮所である。馬見山の山上に社があって、白馬山大明神ともいう。どんな神を祀っているか分からな いという。ここでは、御祭神に、イザナギの命の名はありません。その代りに、ホホデミの命が出て来ました。ニニギノ命の子供です。山幸彦の名の方が有名で す。また、山頂の神は白馬大明神だと言っています。どんな神なのかは分かっていません。
二つに共通するのはニニギノ命でした。そろそろ系図なしには理解が出来ませんねえ。
(
と言って、パッと出てくる。親切ですねえ。)

三つの由緒書の祭神を色分けして囲みました。これで分かるように、共通するのはニニギノ命でした。
江戸時代のガイドブック『筑前名所図会』にも、白馬大明神について書いてあります。

馬 見大明神 古宮は馬見山上にあり。御神域という大岩の辺に石の祠あり。今の社は山下にあり。白馬大明神とも申して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり。この 神、葦毛の馬を忌むという。この里に飼うを忌むのみならず、他のことろから来ても、村の方で留めて置くという。ここでははっきりとニニギノ命が白馬大明神 だと書いています。

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当方の悩みというか疑問は明確です。佐賀県、福岡県の境界領域である基山直下や、天拝山直下に鎮座する荒穂神社から馬見神社など、ニニギが祀られている神社の祭神はどうも怪しいと考えています。

それは、天孫族に先行する天神族の排除が見て取れるからですが、これらの神社をじっくり見て回れば多少とも解明の手掛かりが拾えると思うものです。ただ、古代の謎解きでもあり時間が掛りそうです。

馬見神社の場合は賀茂大明神、荒穂大明神(基山の荒穂の場合は随神とされた鴨大神、八幡大神、宝満大神、春日大明神、住吉大明神、五十猛命)は敗散の結果排斥された神々に思えるのです。

百嶋神社考古学では木花咲哉姫命もニニギを袖にして前玉姫と名を変え、豊玉彦(ヤタガラス)と一緒になり、鹿児島県溝部町に南下の後、富士浅間神社を経由し、埼玉県行田市の前玉神社に移動している…とします。これについては、


「ひぼろぎ逍遥」    067 霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る

「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)023 コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪


をご参照下さい。 もちろん、通説に言う「その代りに、ホホデミの命が出て来ました。ニニギノ命の子供です。山幸彦の名の方が有名です。」などは大ウソでしょう。山幸彦はニニギの子ではありません。

 結論的には、本来の祭神であるニギハヤヒ=山幸彦がニニギに入れ替えられているものと考えます。

(以上事前資料より再掲)

馬見神社を考える上で、まず、重要なのは白馬大明神です。


白馬大明神について


江戸時代のガイドブック『筑前名所図会』にも、白馬大明神について書いてあります。

馬見大明神 古宮は馬見山上にあり。御神域という大岩の辺に石の祠あり。今の社は山下にあり。白馬大明神とも申して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり。この神、葦毛の馬を忌むという。この里に飼うを忌むのみならず、他のことろから来ても、村の方で留めて置くという。ここでははっきりとニニギノ命が白馬大明神だと書いています。                     (ひもろぎ逍遥)再掲


では、白馬大明神とは何でしょうか?馬見神社の主神がニニギではないと考えた理由は、まず、馬見山直下の地が「大隈」という大幡主の領域を示す「隈」地名の土地だからでした(牛隈も…)。

 この「隈」地名は大幡主が熊本から移動する際に持ってきたもので、佐賀県の東から朝倉市、日田市、福岡市周辺に多く見られる○○隈とするものであり、「大隈」もその一つなのです。

 また、白馬大明神とは言うまでも無く白馬に乗った将軍でしょうが、あまたの神々がいる中で、馬に乗る神様として思い浮かぶものが一つだけあります。

それは、百嶋先生の資料にも入っていますが、歌川豊国による「大社縁結図」に登場する博多の櫛田神社の主祭神である大幡主なのです。

 では、馬にまつわる話があるのでしょうか?同じ系統の神社と考えられる延喜式内櫛田神社(富山県射水市串田6841)に次の様な話があるのです。


延喜式内櫛田神社 富山県射水市串田6841

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櫛田の由来

 古くは百張蘇我國五百枝刺竹田之國(ももはる そがのくに いほえさす たけだのくに)と呼ばれた。垂仁天皇22年、皇女倭姫命に天照大神を鎮座する処を探すように命ぜられ、この地に行幸された時に、斎津爪櫛(ゆつまぐし)を落され、武人の大若子命に早く取揚るように言われ、大若子命は馬で早ぎ、追い着いて櫛を取りもどした。倭姫命は大変喜ばれ、ここに櫛田神社を定めて其の処を櫛田と改称し其の川を櫛田川と名付け、その瀬を早馬瀬とよばれた。

祭神について

 大若子命(おおわくごのみこと)後に大幡主命(おおはたぬしのみこと)


言うまでもなく、子若子は大若子の子=豊玉彦=ヤタガラスになります。

してみると、白馬大明神とは大若子=大幡主の事であり、馬見山も大幡主から付されたものが後にニニギに置き換えられたものの様に見えるのです。

また、イザナギが祀られていながらイザナミが祀られていない事も、大幡主のお妃となったイザナミが隠され、大幡主が隠されている事と符合するのです。

してみると、大隈町の荒穂神社に関しては筑前国続風土記附録」の方が正しく、御祭神は天津彦ホホデミの尊・ニニギノ命であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。としている事が理解できるのです。

まず、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝(ママ)に祭っている。とする押しやられた神の方が本来の神であり、ニニギが接ぎ木されていると見たいのです。

ただ、筑前国続風土記附録」もそのまま受け容れる事はできず、ニニギはヒコホホデミではないのです(あくまでヒコホホデミは山幸彦=ニギハヤヒなのです)。

さらに言えば、数か所で混同されている荒穂大明神も、ニニギとは別に祀られている事からニニギではないのです。

再度、百嶋由一郎最終神代系譜を出しておきますので、ヒコホホデミが山幸彦=ニギハヤヒであることを確認しておいて下さい。


※クリックで拡大表示されます。

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百嶋由一郎神代系譜(一部分)

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 20:47| Comment(0) | 日記

2015年12月19日

147 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 A 馬見神社とは何か?

147 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 A 馬見神社とは何か?

20150918

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回の遠賀川流域の神社探訪トレッキング(バスツアー)で最初に参拝したのは遠賀川源流の高峰馬見山直下の馬見神社でした。

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嘉麻市馬見神社参道正面


まず、事前資料には以下のように書いていました。


@  馬見神社=伊弉諾尊(イザナギ)天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギ)

外に賀茂大明神・荒穂大明神 多分、木花咲哉姫命(コノハナノサクヤ)も昔の名前で残されている


@  馬見神社

東隣の白髭神社や北斗宮と並び嘉麻郡では非常に重要な古社


カーナビ検索福岡県嘉麻市馬見(高木大神、海人族、一部金山彦、秦氏のエリアです)


まずは、太宰府地名研究会メンバーの綾杉るな女史の「ひもろぎ逍遥」から見て頂きましょう。


由緒については他の本にも載っていたので書いてみます。
『筑前国続風土記附録』から抜き出します。

馬見大明神社 産土神である。御祭神は天津彦ホホデミの尊・ニニギノ命であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。
馬 見山が東にそびえ、渓水が西に流れて、人里離れて潔浄の宮所である。馬見山の山上に社があって、白馬山大明神ともいう。どんな神を祀っているか分からない という。ここでは、御祭神に、イザナギの命の名はありません。その代りに、ホホデミの命が出て来ました。ニニギノ命の子供です。山幸彦の名の方が有名で す。また、山頂の神は白馬大明神だと言っています。どんな神なのかは分かっていません。
二つに共通するのはニニギノ命でした。そろそろ系図なしには理解が出来ませんねえ。
(
と言って、パッと出てくる。親切ですねえ。)

三つの由緒書の祭神を色分けして囲みました。これで分かるように、共通するのはニニギノ命でした。
江戸時代のガイドブック『筑前名所図会』にも、白馬大明神について書いてあります。

馬 見大明神 古宮は馬見山上にあり。御神域という大岩の辺に石の祠あり。今の社は山下にあり。白馬大明神とも申して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり。この 神、葦毛の馬を忌むという。この里に飼うを忌むのみならず、他のことろから来ても、村の方で留めて置くという。ここでははっきりとニニギノ命が白馬大明神 だと書いています。

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当方の悩みというか疑問は明確です。佐賀県、福岡県の境界領域である基山直下や、天拝山直下に鎮座する荒穂神社から馬見神社など、ニニギが祀られている神社の祭神はどうも怪しいと考えています。

それは、天孫族に先行する天神族の排除が見て取れるからですが、これらの神社をじっくり見て回れば多少とも解明の手掛かりが拾えると思うものです。ただ、古代の謎解きでもあり時間が掛りそうです。

馬見神社の場合は賀茂大明神、荒穂大明神(基山の荒穂の場合は随神とされた鴨大神、八幡大神、宝満大神、春日大明神、住吉大明神、五十猛命)は敗散の結果排斥された神々に思えるのです。

木花咲哉姫命も百嶋神社考古学ではニニギを袖にして前玉姫と名を変え、豊玉彦(ヤタガラス)と一緒になり、鹿児島県溝部町に南下の後、富士浅間神社を経由し、埼玉県行田市の前玉神社に移動している…とします。これについては、


「ひぼろぎ逍遥」    067 霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る

「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)023 コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪


をご参照下さい。 もちろん、通説の「その代りに、ホホデミの命が出て来ました。ニニギノ命の子供です。山幸彦の名の方が有名です。などは大ウソでしょう。山幸彦はニニギの子ではありません。

 結論的には、本来の祭神であるニギハヤヒ=山幸彦がニニギに入れ替えられているものと考えます。

(以上事前資料より再掲)

まずは、同社由緒をご覧ください。

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神武東征に関わる「足白」「馬見」といった地名説話はともかく、同社西方の谷には「荒谷」という集落があります。

このような要地にこのような地名を見ると、直ぐに朝鮮半島の安羅(慶尚南道咸安郡)を頭に浮かべますが、無論、根拠があってのことではありません。

百嶋神社考古学の立場から、一目、祭神のバランスが悪い事に気付きます。

まず、イザナギは祀られているもののイザナミが祀られていません。

ニニギとコノハナノサクヤは夫婦神で良さそうですが、イザナミがイザナギと別れたのと同様に、コノハナノサクヤもニニギと直ぐに別れてヤタガラスと一緒になるのです。

また、イザナギの子はスサノウであって、ニニギではないのです。

どうも、系統がそぐわない「記」「紀」を写し換えたような配神になっているのです。

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参道(上)参拝殿(下)

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参拝殿右から奥に進むと本殿の形状が見えてきます。

 形状を見て驚きました。神殿を守るように覆いが掛けられているのです。

 これは、多くの神社を見てこられた方ならお分かりになると思うのですが、筑後に多い、鞘(サヤ)殿の形式になっているのです(ただし右半分だけですが)。

この手の神殿様式を採用するのは筑紫(筑後)物部氏であり、物部25部族の筑豊への移動を思わせる痕跡と言えそうです。

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いうまでも無く、この馬見郷一帯も物部25部族の一派、馬見物部の領域なのです。

 ただ、物部氏とは元々の民族も異なる雑多な職能集団、戦闘集団であって、如何なる氏族が中心的な存在であったのかを神社や地名などから探るのが筑豊に於けるフィールド・ワークの中心的な課題になるのです。

 この馬見神社〜前述した嘉麻市牛隈の荒穂神社に見られる祭神の混乱については、天孫族降臨に先行する天神降臨に伴う祭神の排除、祭神入替、再合祀が考えられ、一概に“馬見神社の祭神は何か?”といった単純な質問には答える事はできないようなのです。

 これについては、白鳥伝説、「先代旧事本紀」といったものが絡んでくるのですが、簡単に言えば、天神族の上に天孫族が覆い被さってきているため、本来の神は天神系と考える事は一応できるでしょう。

 当然、天孫ニニギ(実は高木大神の息子)は後からの祭神であって、彩杉るな女史が賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。」としているように、賀茂大明神(恐らく博多櫛田神社の主神=大幡主)、荒穂大明神(恐らく山幸彦=ニギハヤヒ)が元の祭神ではないかと考えています。

 今後もある事から、筑紫物部の筑豊への展開について分かり易いサイトがありますのでご紹介したいと思います。


遠賀川の記紀伝承                              <<  作成日時 : 2010/07/31 02:38  >>



『直方歴史ものがたり』 (直方市企画調整課 発行)第26話  

神話のふるさと その3 鞍手郡から東征した物部氏  P6061
  
『日本書紀』には、神武天皇が九州から攻め上って大和地方に入ろうとした時、土地の豪族長髄彦が、「あ なたは天神の子といわれるが、すでにその昔、ニギハヤヒという天神の子が天磐船に乗って天からこの地に降って国をつくっておられます。私はニギハヤヒに奉 (つかえ)る者です。それなのに、あなたは、どうして天神の子と称して人の国を奪おうとするのか。」と、厳しく抵抗したという話があります。

この事は、神武東征の前に、もう一つの集団が東征して大和に国をつくっていたことを物語っています。『旧事本紀』という本には、ニギハヤヒが大和に降った時、同行した人たちの名前が挙げられていますが、北九州(特に鞍手郡)出身者と思われる名前が目立ちます。
 すなわち、十市部首等祖、筑紫弦田物部等祖、二田物部、筑紫贄田物部、嶋戸物部、筑紫聞物部、馬見物部などがそれです。
  十市は古く鞍手郡若宮町にあった地名。筑紫弦田(つるた)は宮田町鶴田、二田(ふつた)は小竹町新多(にいだ)、筑紫贄田は鞍手町新北(にぎた)と考えら れています。また、嶋戸は遠賀郡岡垣町あたりの古名で、そこには新入剣神社の倉師の神と同系と思われる大倉主の神を祀る高倉神社があります。筑紫聞は北九 州市小倉地方の古名。馬見は遠賀川の源流とされる嘉穂郡嘉穂町馬見山の麓です。
 このように見て来ますと、ニギハヤヒが天降った時の軍の中心勢力は、北九州、特に鞍手郡の物部一族であったといえそうです。
  ニギハヤヒや神武の東征は、かって、北九州を中心に稲作が始まり、それを経済基盤とする強力な集団が生まれ、その中心勢力が新しい稲作の天地を求めて東へ 移動していった歴史を反映していると考えることができます。そして、ニギハヤヒの場合はその中心的な勢力が鞍手郡一帯に住んでいた物部一族であったという わけです。
 弦田物部の故郷とされる宮田町鶴田のすぐ近くに、物部の祖ニギハヤヒを祀る 天照神社があり、宮田町の千石の笠置山には、ニギハヤヒが天降ったという伝承があるのも偶然ではないと思われます。六ヶ岳をとりまく剣神社の分布が、物部 氏の出身地と重なるようにあるのも注目に価します。
 このように考えて来る時、鞍手は日本建国の神話のふるさとだと言うことが出来ます。
(三回にわたる「神話のふるさと」は、民俗学者谷川健一氏の『白鳥伝説』に負う所が大きかったことを付記します。)  

※右クリック→画像だけを表示で表示されます。

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百嶋由一郎神代系譜(一部分)


百嶋由一郎神社考古学による最終神代系譜は通説(「記」「紀」)

とは全く異なりますのでくれぐれもご注意を!


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:16| Comment(0) | 日記

2015年12月22日

148 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 B 日天宮とは何か?

148 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 B 日天宮とは何か?

20150918

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この日天宮については初見の上に、ほとんど予備知識を持ちません。

知っている事と言えば、「ひもろぎ逍遥」で綾杉るな女史がコメントを加えておられる事と、佐賀市に日天神社(日天さん)と言われる神社がある事を知っている程度です。

ただ、嘉麻市の日天宮は場所も非常に分かり難い所に在り、普通に探しても参拝する事はできないでしょう(ところが、百嶋神社考古学研究班のN氏は、数年前に探し出して実見していたというのです)。

また、神社考古学の対象とすべき神社の範疇に留まるものであるかどうかも分からないのです。

どう見ても仏教の匂いがするもので普通の意味からはそう古いものではないという印象も拭えません。

当方の日天宮に関する予備地知識は乏しく、佐賀市の日天さんから得ている程度の物でしかありません。

トレッキング用のリーフレットには次の様に書いていました。


A  日天宮  =神仏混淆のなごり…日天子+月天子+明星天子?


カーナビ検索福岡県嘉麻市牛隈(大幡主、大山咋、天御中主命のエリアです)現地で産廃処分場を探してそこの従業員にお聴きください!


 この神社を神社として扱うべきかどうかも疑問ですが、佐賀でも日天さん、日天社として有名で、仏教(神仏混淆)の匂いがします。

 十年ほど前、「天子宮」という謎の神社群を調べていて、日天子、月天子に遭遇する事がありました。

 鹿児島県曽於市大隅町の日天子神社などもその一つですが、山陰の天台密教系が神仏混淆の結果生み出されたものと理解しています。

 現在、これは「天子宮」とは異なるものとの思いを深めています。今のところ、日天子、月天子については神社考古学の対象ではないと考えています。                      以上


佐賀市紺屋町、材木町の日天神社


三夜待ち、六夜待ちともいうのは信仰的な講であったが、今では親睦的な寄合いになっている。本来、神のそばにいて共に夜を明かすことと考えられていたのが、月を待つことに変化していったものといわれている。三夜持ちは、毎月23日 の夜、青年組、中老組、老人組に分かれて催す男の人達の講で、女子の二十三夜講は存在していないようである。二十三夜講塔には『二十三夜』と記されたもの が最も普遍的であるが、他に『勢至菩薩』『大勢至菩薩』としたもの、『月読命』『月夜見命』『月弓尊』としたものや、更には『月天』と刻まれたのもある。

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文字塔のほか、尊像や二十三夜月、あるいは瑞雲等を彫顕した『刻像塔』があるが、刻像塔の大部分が勢至菩薩像である。紺屋町の刻像塔は、文久2年(1862)の建立で、材木町の日天神社にあるのは、安政5年(1858)となっている。また、毎月の月待ち行事の他『お日持ち』があるが、これは毎月でなく年に一度行うところが多く、牛島町でもこの風習があり、この他鍋島町の蛎久では715日に、東脊振では、1014日から15日に寄り合いをして酒をのみ、家々で餅つき料理を作ったりするようである。

より


十二天(じゅうにてん)は、仏教護法善神である「天部」の諸尊12種の総称である。密教では四天王とともに重視されている。十二天のうち、特に八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る諸尊を八方天あるいは護世八方天といい、更に天地を護る諸尊を加えて十天ともいう。

…中略…

仏 教における「天」あるいは天部像とは、仏教流布以前の古代インド神話やバラモン教の神々が仏教に取り込まれ、護法善神となったものである。十二天とは、八 方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る八方天に、天地の二天と日月の二天を加えて十二天としたものである。

ウィキペディア20130916 2030 より

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現地の実見によって得られるものはやはり大きく、佐賀の日天さんのイメージとはかなり異なるものでした。

 巨大な産廃処分場地の奥にこの聖域は存在していました。

 まず、一目の印象としては縄文信仰、巨石信仰の匂いがするものです。

 仮に日天宮そのものが後世のものだったとしても、それに先行する古代の巨石を崇める神域があった事は明らかで、古代の嘉麻の人々が何らかの宗教儀式を行っていた事は間違いない様に思いました。

 日天宮、月天宮、星岩宮…の七つの巨石が祀られ、後世にはこの七つの神域を巡礼するしきたりが出来上がったのかもしれません。

 最大の日天の頂上に登ると、北側は断崖になっており、最低でも古代の通信手段としての深夜の火焚き、狼煙場であった可能性はあり、日、月、星を崇める古代祭祀が行われていたのかもしれません。

 現地最頂部には水を流す仕組みもあった様で、何やら奈良は飛鳥の酒船石真下に亀型石造物と祭祀用の水路を作らせたペルシャ系の匂いもしてきます。

 鳥居の奉納銘文を読むと文政九…年(江戸時代 末期の文化〜文政年間 180430)…第八代庄屋…とあり、

約二百年前に巡礼地風にこの神域が流行した事が分かります。

 ついつい、「伊勢にゃ七たび熊野にゃ三度…アー・コリャ・コリャ…」(伊勢音頭)や○○四国…巡礼地ツアーを思い出してしまいました。

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日天宮領域の入口に置かれた月読宮と最奥部に置かれた塩釜宮


日天宮の探訪において最も面白いと思ったのは、入口に月読宮が、最奥部に塩釜宮が置かれていたことでした。

これが何かですが、月読は大山祗命であり、塩釜宮は塩鎚翁とも言われるもので博多の櫛田神社の主祭神大幡主の可能性が高いのです。

百嶋神社考古学の立場から見れば、この嘉麻市一帯は「大隈」、「牛隈」「鴨生」…地名に象徴されるように、ヘブライ系の白族である大幡主のエリアであり、トルコ系匈奴の流れを汲む大山祗命は大幡主の門番のような役割を果たしている事が多いのです。


既に、白馬大明神は大幡主を意味しているのではないかという事は「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)blog146 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々の検証 @ 馬見神社を考える前に  で、触れていますのでお読みください。

これを月天宮だから月読命が祀られていると短絡するのは早とちりのような気がします。

現在、この一帯は、産廃処分場や火葬場や施設などが置かれる土地になっています。

そのこと自体が、日天宮の背後にも影を落としていますが、恐らく、この事とblog146で触れた、荒穂神社と馬見神社が祭神を巡って齟齬を来していること、馬見大明神と白馬大明神の入れ替わり、荒穂神社の祭神と考えられるニギハヤヒ=山幸彦と、高木大神(タカミムスビ神)の子である天孫ニニギ命との入替わりの底流を形成している様に見えるのです。

この忘れられた神域、日天宮の解明の作業は端緒に着いたばかりですが、古代九州の天神と天孫の入れ替わり、物部の筑紫から筑豊への展開、初代神武(カムヤマトイワレヒコ)巡行と神武僭称第10代崇神(ハツクニシラススメラミコト)の東征神話が輻輳し古代の深層が見えにくくなっているようです。

嘉麻市の大隈の裏には旧山田市があり多くの日吉神社が確認できますが、大山咋(オオヤマクイ)命(実は崇神天皇の実父なのです)のエリアになっています。

この大山咋命は父を阿蘇の草部吉見神、母を宗像の市杵島姫としており、この地が阿蘇系と宗像系との接点になっているようにも見えるのです。

今後とも筑豊のハートランド旧嘉麻郡から、鞍手、田川郡への探訪を続けなければならないようです。

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怪しげなパワースポットが横行する中、本物の古代神域と最頂部に数か所あるトンネルの入口

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百嶋由一郎神代系譜(一部分)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:05| Comment(0) | 日記