太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年12月08日

143 湯布院温泉と言えば宇奈岐日女神社 B  “宇奈岐日女は高木大神の孫娘だった”

143 湯布院温泉と言えば宇奈岐日女神社 B  “宇奈岐日女は高木大神の孫娘だった

20150826

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

先に「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)として、139 湯布院温泉と言えば宇奈岐日女神社 @、A を書きました。

以下Aの一部を再掲します。

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宇奈岐日女神社正面鳥居

宇奈岐日女神社の祭神配置に阿蘇系が半数を占めると言うと「何を馬鹿な!」と言われそうですが、まず、六神の最後尾に配された神渟名川耳尊(藤原が造った第2代贈)綏靖天皇)が阿蘇神社の正殿奥に祀られている金凝彦=贈)綏靖天皇であることは「ひぼろぎ逍遥」178金凝彦=贈)綏靖天皇を確認“遅れ馳せながらも阿蘇神社に金凝彦を認識した”でお話をしています。

 問題は山幸彦に相当する彦火火出見尊彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の親子です。

  一般的に物部の祖ともいうべき山幸彦は、素性が不明で父親も母親も分からない人物ですが、最近、百嶋神社考古学勉強会の中枢メンバーのお一人であるU女史 から、“先生も山幸の素姓については分からないが見当は着くけどね…と言われていましたが、「阿蘇氏ご一家系譜」を良く見ると、父親については手掛りが残 されている…という文字通り耳寄りな話が入ってきました。

記紀の名称表記

山幸彦 - 火遠理命(古事記)・彦火火出見尊(日本書紀)

海幸彦 - 火照命(古事記)・火闌降命(日本書紀)

名前のごとく、の猟が得意な山幸彦(弟)と、の漁が得意な海幸彦(兄)の話である。兄弟はある日猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに出掛けたが、兄に借りた釣針を失くしてしまう。困り果てていた所、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」(又は綿津見の宮、海神の宮殿の意味)に赴く。

海神(大綿津見神)に歓迎され、豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結婚し、綿津見神宮で楽しく暮らすうち既に3年もの月日が経っていた。山幸彦は地上へ帰らねばならず、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」を貰い、その玉を使って海幸彦をこらしめ、忠誠を誓わせたという。この海幸彦は隼人族の祖である。

その後、妻の豊玉姫は子供を産み、それが鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)であり、山幸彦は神武天皇祖父にあたる。

20150809 0800 ウィキペディアによる


あくまでも百嶋由一郎系譜に基づく解釈ですが、阿蘇ご一家系譜には、神沼河耳の義理の子といった意味と思われる点線が引かれ山幸彦(大伊乃伎神)の傍に贈)安寧天皇(玉手看)の子と小さく書かれていたのです。…

詳細については前ブログをお読みください。


 さて、@、Aにおいて、宇奈岐日女神社(別名)六所神社の六柱の神々の中には肝心の宇奈岐日女(ウナギヒメ)は祀られておらず、阿蘇系の神が多く祀られていた事と、古くはウナゴヒメ神社と呼ばれ、それが「うなぎ」ではなく古代九州系標準語のウナグ=オナゴ(女子)を意味する、ウナゴとヒメという女性を表す二つの言葉の合成語である可能姓を考えていました。

実は、南方系(江南系)の言語であるウナゴが阿蘇系を表し、北方系=半島系の言語であるヒメを想定もしていたのですが、自信がなく踏み込めないで、単に木綿(ユフ)を織る在地神ではないかというところにとどめていました。


※画像クリックで拡大表示されます
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しかし、進展とはあるものです。@、Aを書いた後、百嶋由一郎氏が残された文字データ(百嶋神社考古学初期02)のスキャンニング作業を進めていたのですが、データ処理を済ませた後、読み直していると宇奈岐日女神社についてのメモが書き込まれていたのです。

杉山 様、杉山 姫、杉山神社…とは馴染みがない方も多いかと思いますが、九州でも何社(佐賀県佐賀市富士町杉山 杉山神社…)か見掛けています。


杉山神社は周辺地域に住む民衆の信仰の中心として鶴見川水系沿いを中心に拡大したとされるが、謎の多い神社である。鶴見川の他に帷子川および大岡川水系、多摩川の右岸(川崎市・稲城市)に存在するが、多摩川を超えた領域には存在しない。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』では杉山神社が全部で72社あると記されているが、その後の合祀や社名変更などにより現状で宗教法人登録されている「杉山」(椙山も含む)が付く神社の合計は44社となっている。

…中略…

名称の由来については、杉山に祀られていたという説や樹木の神である五十猛命と杉林に因むという説、船舶材として使用されていたの木に因むという説など諸説ある。また当社の由緒についても不明な点が多いが、出雲民族の末裔(五十猛命)が紀州熊野より海人族を引き連れて伊豆半島三浦半島に辿り着き、後者を経由して鶴見川水系に住み着いた一族の頭領が杉山神社を創建したという説がある。なお、三浦半島の三浦郡葉山町上山口には旧相模国で唯一の杉山神社があり、さらに同神社の「元宮」と呼ばれる社も周辺の山中に鎮座しているが、旧武蔵国における杉山神社との関係は不明である。この他、茅ケ崎中央の杉山神社に伝わる由緒では「天武天皇白鳳3年、安房神社神主の忌部勝麻呂(紀州忌部氏)によって武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命)3柱が祀られ、同氏の麻穀栽培地開墾の拡大とともに神社も広まった」とされている。当時の都筑郡は開拓者である忌部氏の勢力が強く、多くの古墳や環濠集落が作られるなど武蔵国府の支配外にある一つの小国を形成しており、古東海道も横断する物資の集散地であった。ただし、杉山神社の始まりが忌部勝麻呂によるものとされることについては『新編武蔵風土記稿』で記載されているものの、他に文献資料などが残っておらず根拠としては乏しいとされる。

「ウィキペディア」201508262030による

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百嶋先生が残された手書きメモには宇奈岐日女の正体を明らかにする十分過ぎる情報が残されていました。

@  多摩川=玉川沿いに集中して居ります。

A  固有名詞杉山の始発点は、現由布市の杉山サマこと宇奈岐ヒメ神社です。

B  ウナギ姫は、杉山サマの伯母神萬幡豊秋ツ姫の事です。

C  伊勢のうなぎサマです(うな=采女=高格式巫女)。

ウナゴがオナゴ=女子の意味とは暴走の末のお粗末でしたが、采女(斎女)妓=ウナギの意味とは改めて百嶋神社考古学の奥行きの深さに驚かされます。

百嶋神代基本系譜を見て頂ければお分かりになりますが、百嶋先生は、湯布院温泉の宇奈岐日女とは第4天皇のお妃=杉山大神=アソツヒメ=天豊ツ姫の伯母である萬幡豊秋ツ姫の事だったのです。

この女神も「幡」の文字が充てられているように、拷幡千々姫同様に木綿(ユフ)=実は苧麻に関わりあいのある方のようです。

以 前、阿蘇氏の前身の黎族、大幡主の一族=白族が九州に入って来た時、既に、高木大神が広範囲に支配権を確立しており、そこへの入り婿として黎族、白族の有 力者が受け容れられたと書きましたが、このニニギの姉の宇奈岐日女=萬幡豊秋ツ姫が黎族=阿蘇の一族と一緒に六所神社に祀られているのは納得できる事でも あったのです。

消された湯布院温泉の宇奈岐日女神社の女神は高木大神の長女だったのでした。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:11| Comment(0) | 日記

2015年12月10日

144 「日負い鶴の神紋」をご存知ですか?“百嶋由一郎手書き資料から”

144 「日負い鶴の神紋」をご存知ですか?“百嶋由一郎手書き資料から”

20150909

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

「太陽を背にした鶴」というこの印象的なデザインの神紋をご覧になったことがあるでしょうか?

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2015年夏の終わりの「山陰土産」神社探訪においては足を延ばしませんでしたが、この神紋「日負鶴」を使う神社が言うまでも無くその名も高き「物部神社」です。

過去何度か足を運んでいますが、その神社こそ、出雲の市の西隣の島根県太田市にある石見の国の一の宮、文字通りの物部神社です。物部の祖ニギハヤヒが五十猛であることが地図にも明らかですね。


カーナビ検索 島根県大田市川合町川合1545 物部神社

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ただ今回は同社ではなく、この神紋についてのお話です。

この神紋は日ノ丸と鶴と言う日本的なデザインですが、石見を中心とする瓦製造業者が好まれたためか九州の一般住宅でもたまに見掛けることもあるようです。

ただ、神社の神紋として見掛ける事はめったになく、九州でも一、二度見た事があるだけです。

家紋としても鶴丸(旧デザイン)の日本航空はともかくとして、幾つかの類型があるのですが、真っ赤太陽を背にした白い鶴が際立ったものである事は言うまでもありません。

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画像は「玄松子」経由 参考文献 日本「家紋由来」総覧


実は、この神紋を使うものこそ物部氏であり、ニギハヤヒ〜ウマシマジと繋がる物部氏の本流である可能性があるのです。

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石見物部神社
(同社HPより)
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御祭神については、敬愛する「玄松子の記憶」より


現在、百嶋先生から頂いていた文字データのデジタル化作業が最終局面を迎えています。

協力者も現れていますので、あと一回、三人が掛りで半日程度の作業が終われば、少なくとも先生とお会いして五年間ほどの間に頂いた貴重この上ない資料に関する作業が終了します。

実際、そのまま公表してはもったいないような非常に重要な研究内容も含まれており、取扱いに関しては神社考古学研究班のメンバーとも協議したいと考えています。

その中には、多くの神代系譜も含まれていますが、一つにこの日負鶴について簡単なコメントが含まれていましたので、ご紹介したいと思います。

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ニギハヤヒからウマシマジについては説明を省きますが、ウマシマジが何者であるかが良く分かるメモでしょう。

 後で百嶋最終神代系譜と照合しますが、スサノウと龍神姫の間に産まれたのが外宮様=豊受大神で、山幸彦=ニギハヤヒとの間にウマシマジと卑弥呼宗女壱与を産み、高霊天皇との間に高良玉垂命=開化天皇を産んでいるのです。

 分かりにくいのは龍神姫ですが、百嶋由一郎最終神代系譜によれば、大山祗と埴安姫の間の子である神大市姫=罔象女ミズハノメ)と考えられそうです。

 なお、百嶋最終神代系譜でイヨの父をサルタ彦=赤米研究田=四公六民サマとしているのは、当然にも山幸彦=ニギハヤヒの事です。

 これについては ひぼろぎ逍遥 65「四公(シコウ)神社とは何か?」をお読みください。

 では、何故赤い太陽を背にした鶴が描かれているのでしょうか?

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 ヒマラヤを越える何十万羽ものツルの話は良く知られています。

  想像に想像を重ねることを許していただければですが、後に武士(モノノフ)と呼ばれ戦国武将となっていた物部(モノノヘ)氏とは、シルクロードを通って 入って来た馬を使う人々草原の民(であり)だったのであり、この鶴の事を知っていたのではないかと思うのです(百嶋メモにも武部と書いてありますね)。

 もう一つの可能性も考えられそうです。

  飛天、天女に加え、かくが【×駕】というのイメージもあります、


《周の霊王の太子晋(しん)が仙人となり、白い鶴に乗って去ったという「列仙伝」の故事から》

皇太子の乗る車。 仙人の乗り物。 による。


いずれにせよ、赤い太陽を背負った鶴の「日負鶴(ひおいづる)」の具体的な例を一つご紹介して終りにしましょう


 五年ほど前、「九州王朝は但馬に避退した」というテーマで、数回に亘り兵庫県の日本海側の調査を続けていた事がありました。

その二回目でしたか、陸上自衛隊のパイロット出身で元航空管制官の地名研究会メンバーと餘部周辺の神社を調べていた事がありました。

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兵庫県香美町香住御崎


山陰本線の列車転落事故でご存知の餘部大鉄橋の餘部駅からそう遠くない御崎という平家の落人集落に行ったことがありました。

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山陰本線旧餘部鉄橋


 目的は兵庫県養父市大屋町を中心とする御井神社の類型神社を同地に発見したからでしたが、御崎集落から少し登った御崎灯台まで進むと山上に御崎灯台があり、美井神社への参道が延びていました。

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久留米高良大社直下の味水(ウマシミズ)御井神社との関係が考えられる美伊神社


一キロほどの断崖の参道を往復一時間掛けて歩くと、この日負鶴に出会ったのでした。

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美伊神社は高良大社の表紋と物部の「日負鶴」


当時、九州から同行して頂いた地名研究会メンバーはU氏でしたが、時間を気にして参道を歩くのを躊躇したところ、「もう二度と来ることはないと思うので行きましょう」と言ってくれました。

この日負鶴の瓦が、ただの瓦職人の趣味で選ばれたものであれば別ですが、兵庫県養父市大屋町を中心とする多くの御井神社同様に、この神社も、久留米市御井町という地名にその痕跡を残す御井の神(恐らく物部氏)を祀るものと思われます。

この但馬の御井神社については「但馬」として長文を書いています(ネット上には未公開)。

いずれ、皆さんにも再編集の上お読み頂くつもりでいます。

今回は、日負鶴の神紋を残す神社の一つの例をご紹介したまでとします。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 19:56| Comment(0) | 日記

2015年12月12日

145 宮地嶽神社と安曇磯羅 L “宮地嶽古墳の被葬者藤 高麻呂、藤 助麻呂とは誰か?”

145宮地嶽神社と安曇磯羅 L “宮地嶽古墳の被葬者藤 高麻呂、藤 助麻呂とは誰か?

20150911

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今年も宮地嶽神社に継承された謎の九州王朝宮廷舞「筑紫舞」の奉納の季節(例年10/22)が近づいてきましたが、同社の奥の院とも言うべき場所に日本最大級の石室を持つ円墳の宮地嶽古墳があります。

ただ、この古墳に葬られた被葬者については、何でも近畿大和朝廷と結びつけたがる利権集団ともいうべき京都学派系(もっとも国学院出身だそうですが)の□ダニとかいう方が言いだした「宗像の君徳善とかその一族」といったにわか仕立ての説が横行しています。

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宮地嶽神社については当ブログに於いても過去12回に亘って宮地嶽神社と安曇磯羅」として書いてきました。

特にこの古墳の被葬者については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)078 宮地嶽神社と安曇磯羅 J “宮地嶽神社について現在分かる範囲で”として、同社の祭神が昭和11年当時には「阿部相亟」(アヘノショウカン)=宮地嶽大明神、藤 勝村大明神、藤 助麿勝頼大明神とされている事をお知らせしました。

被葬者が三者であった可能性も指摘されていますが、昭和11年当時の祭神とも対応する関係にある事から、最低でも被葬者の二者は藤 高麿勝村大明神、藤 助麿勝頼大明神であろうと考えています。

昭和11年当時に於ける宮地嶽神社の祭神に関しては津屋崎一帯における世情にも適合し、正しくも阿部の名が出てきます。

欠史(第2代から第9代開化)8代を公言して憚らない通説に思いっきり尾を振る御用学者に於いてさえも、多くの皇別氏族の中に阿部氏があり、その阿部氏が8代孝元天皇の大彦の流れを組む事は知らないはずはないでしょう。

ど のように考えても安曇族が跳梁した地域を見渡せる場所に造られた大王級古墳の被葬者を、山を背にする宗像族の一主首長に過ぎない宗像族の徳善の君とその関 係者と考える甘い思いつきは置くとしても、その背後に古代沖ノ島祭祀に関してはそれを司ってはいなかった宗像族(これについては小田富士夫報告が否定して いる)による世界遺産登録と連動させたいとするさもしい利権構造を見るのは私だけでしょうか?


「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)041 沖ノ島祭祀は宗像一族のものだったのか?小田富士夫説から

「ひぼろぎ逍遥」    115 宗像大社の本来の祭神とは何か? 他をご参照下さい。


神功皇后に従い新羅で大功をたて、帰還後この地を支配したとされる高麿勝村大明神、藤 助麿勝頼大明神ですが、「勝村」「勝頼」…が中近世のような印象を与える名で後代の人物ではないかなどと短絡される素朴で皮相な向きもともかくとして、この人物が誰なのかに付いては、以前から注目していました。

ただ、現在、祭神とされる 神功皇后に関係する直接の縁続きの人物なのか、その後代の一族なのかについての確信が持てなかったために、多分、通説で欠史8代と併せ架空とする神功皇后の子ではないかと考えてはいたのですが、これまで保留していたものでした。

勿論、百嶋由一郎先生は、「神功皇后の一族などトンデモない…お子さんです」とハッキリ仰っておられたのですが、その意味でも誰なのかが分からなかったために踏み切れないでいたのでした。

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30人以上も入る宮地嶽古墳の大王級巨大玄室


今回、百嶋先生が残された多くの手書き資料を整理していたところ、これに直接関係する部分が出てきたことから、ようやく百嶋先生が言われていた意味が分かり公開する事にしたものです。

百嶋神社考古学に関しては40時間を超える音声データと多くの手書きデータが残されています。

私が確保したものに関しては全てデジタル化作業が終了したことから、フィールド・ワークと併せ、その解読作業に入りたいと考えています。

今回収録した手書きデータの一つに宮地嶽神社の御祭神である藤 高麿勝村大明神が誰であるかに関する百嶋先生の見解が書き込まれていたのです。

下、右側の神社縁起はご覧の通りですが、久留米高良大社の麓(久留米市山川町にある旧参道)に鎮座する高良皇子神社(王子宮)高良皇子神社 カーナビ検索久留米市山川町王子山596-1 の祭神の一人である「朝日豊盛ノ命」こそ宮地嶽神社の祭神のお一人である藤 高麿勝村大明神と百嶋先生はお考えだったのです。

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無題.png斯礼賀志ノ命神(シレガシ)
朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)
暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)  
渕志ノ命神(フチシ)
谿上ノ命神(タニガミ)、
那男美ノ命神(ナオミ)
坂本ノ命神(サカモト)  
安志奇ノ命神(アシキ)  
安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)

 この皇子たちの名が書かれていた境内の由緒書をもう一度読んでみましょう。

「起建」高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇二十代允恭天皇の御宇(412453)、高良の神の御託宣(おぼしめし)により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司孝成造立す。(古宝殿) 四八代称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。(後略) 平成八年春弥生 山川区郷土研究会

九躰皇子は「高良玉垂命の御子」と書かれています。

blog「ひもろぎ逍遥」より


綾杉るな女史のブログから引用させて頂きました。「斯礼賀志ノ命」神は、当方のブログでも取り上げましたが、宇佐神宮の中宮にも祀られ、藤原によって第14代とされた仁徳天皇です。

その次男 朝日豊盛ノ命(アサヒトヨサカリ)こそ 宮地嶽神社の祭神のお一人と考えておられた事になるのです。では、もうお一人の藤 助麿勝頼大明神はどうなるのでしょうか?

普通に考えれば、神功皇后の三男である暮日豊盛ノ命(ユウヒトヨサカリ)であっても良さそうですが、それで良いか?…は今後の調査を待ちたいと思います。

以前のブログをお読みでない方のために再度申上げておきますが、この高良皇子の母は当然にも神功皇后であり、父は高良玉垂命=第9代開化天皇なのです。

とんでもない!神功皇后の御子は応神天皇であり、仲哀天皇の御子のはずである!…という方は、宮地嶽神社と安曇磯羅」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)とダブル検索を試みて下さい。ここにこそ、古代倭国最大の謎が存在するのです。

古代を本気で探査しようと思われる方は、高良大社の「高良玉垂宮神秘書」を是非、お読みください。

なお、百嶋メモ左側に書かれた神社が、この朝日豊盛ノ命を祀る神社であることは間違いないのですが、百嶋先生の御指示もありますので、この神社がどこにあるかを含め、当面の間封印したいと考えています。

神社を巡る情勢も政治情勢と絡んで風雲急を告げています。真実の倭国の古代を探る研究に御支援と御理解をお願いします。今後、経済的御支援も含め必要になりお願いする事になるかも知れません。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:25| Comment(0) | 日記