太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年12月01日

140 由布盆地の椎根津彦  

140由布盆地の椎根津彦  

20150809

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宇奈岐日女神社を前の道路を南に数百メートルも降るとオウゴウ(大 禾+午)社なる奇妙な神社に遭遇します。

 目立たない神社で奇妙な名の神社だけに非常に興味をそそられますが、何とか祀られている神様の見当が付きました。

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同社の由緒を読むと、神武天皇が東征の際航路を御案内した功臣椎根、多賀社、祭神は天照大神の父伊邪那岐命 母は伊邪那美命の両親…と書かれています。

一般的にも多賀神社とは、伊邪那岐命 伊邪那美命の両神を祀るものであり、付け足したものと考えれば、この神社の祭神は「椎根」になるでしょう。

当然にも椎根津彦の事であり、この神の性格が把握できれば同社の性格が見えて来るでしょう。

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軒下の壁板をそのまま由緒書きにしたところは珍しいですが書いてあるだけでもありがたいです


椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津彦(さおねつひこ、『古事記』)、または珍彦(うずひこ)は、記紀に登場する国つ神神武東征において登場する。倭国造(倭直部)の祖。

神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では天皇がの棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では甲羅の上に乗っていたのを、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。

その後、神武天皇に献策し、兄磯城を挟み撃ちにより破る。

速吸門については諸説ある。『日本書紀』では豊予海峡を指すと考えられており、大分県大分市佐賀関には、椎根津彦を祀る椎根津彦神社がある。『古事記』では吉備国児島湾口を指すと考えられる。岡山県岡山市東区水門町には、珍彦(宇豆毘古命、うづひこのみこと)の乗った大亀の化身とされる亀岩を祀る亀石神社(かめいわじんじゃ)がある。

20150809 1630 「ウィキペディア」による


豊予海峡が出てきますので、豊後に関係のある神様として創立した可能姓は否定できませんが、この一族がこの地にいた可能性は十分にあるかも知れません。

 ただ、それほど古い神様ではないのです。

 百嶋神社考古学では、神武天皇(カムヤマトレヒコイワ)による神武巡行は確かに行われたのですが、九州を越えた東征は行われていない…と考えます。

 ただし、筑豊、豊への東征は存在した可能性があり、それについては福永晋三氏が追求されています。

 その東征(日向の耳川から)は神武を僭称した藤原によって格上げされた贈)崇神天皇の事であり、その関係者(親族)が椎根津彦ではなかったかと考えるのです。

 当然ながら、贈)崇神が渡海する時に役割を果たした海士族がいたはずであり、事実、豊後には現在でも海部郡があるのです。


海部郡(あまべぐん、あまのこおり)は、かつて豊後国、大分県の中部から南部にあった郡である。現在の大分市の一部(旧佐賀関町、坂ノ市町、大在村、川添村)、臼杵市の一部(旧野津町との合併前の旧臼杵市)、津久見市の全域、佐伯市の全域に相当する。

20150809 1730 「ウィキペディア」による


阿蘇系の草部吉見と白族のお姫様の市杵島姫の間に産まれた大山咋=佐田大神と白族の豊玉彦(ヤタガラス)の子である鴨玉依姫の間に産まれたのが贈)崇神(ツヌガノアラシト)であり、その弟が倭彦=椎根津彦なのです。

神武と聞いて直ちにカムヤマトイワレヒコと考えるのは要注意ですので、皆さんも、この神武は贈)崇神ではないかと疑うようにして頂きたいと思います。

勿論、宇佐の妻垣に迎えられた神武も、贈)崇神(ツヌガノアラシト)なのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:18| Comment(0) | 日記

2015年12月02日

141 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々 抄録“トレッキング直前手持ち資料から”

141 「遠賀川の神々探訪ツアー」の神々 抄録“トレッキング直前手持ち資料から”

20150906

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


連携団体の「豊の国古代史研究会」の盛会から一月が経過しましたが、913日には、同会メンバーを中心に神社探訪トレッキング(バスツアー)が行われる事になりました。

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このような神社ツアーは概して神社丸抱えで行われ、型通りの参拝ツアーになることが多いのですが、自由に遠賀川流域の神社を観察し自らのルーツを考察するというものは、百嶋神社考古学研究班にとっては願っても無い有難いイベントと言えるものです。

 今回訪れる神社は次の67(立岩神社は熊野神社の境内社とも言える事から)社です。

 当初は通説と異なるお話をせざるを得なくなることから解説者の方々にご迷惑ではないかと考え、参加を控えていたつもりだったのですが、そのような異端的な話であってもお聴きしたいのでぜひ参加して欲しいというお誘いから参加する事にしたものです。

 今回の探訪エリアは、筑豊地方でもハート・ランドと言うべき旧嘉麻郡から遠賀川中流域の直方市辺りまでの主な神社を巡るものです。

 当方も少しずつ探訪を進めていますが、まだまだ、取りかかった程度で個人的にも有難い企画です。

 今後、国東半島、宇佐〜安心院、彦山へと探訪のエリアは広がるものと思います。

  神社研究者にとって、フィールド・ワークは、他人や時間配分を気にせずにフレキシブルに行う事が鉄則と考えますが、このような大人数によるツアーは、多く 人からの知識、知見が得られ、過去数世代に亘る記憶によって思わぬ謎解きができることから、早くも心がざわめいています。


@  馬見神社=伊弉諾尊(イザナギ)天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギ)

外に賀茂大明神・荒穂大明神 多分、木花咲哉姫命(コノハナノサクヤ)も昔の名前で残されている

A  日天宮  =神仏混淆のなごり…日天子+月天子+明星天子?

B  熊野神社=熊野と言えば熊野三山 熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社 各々祭神が異なるが、ここの配神は興味津津 果たして如何なる神の痕跡が… 

C  立岩神社御祭神 伊弉諸尊・伊弉册尊・手力男神・大己貴神・少彦名神

D  天照宮  概して筑豊の天照神社はアマテラスオオミカミではなくニギハヤヒの場合がほとんど  

E  六嶽神社=別の降臨伝承

F  多賀神社=イザナギノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉冉尊)

多賀と言えば、行橋市の白山多賀神社、青龍大権現が日本の総本山


画像はトレッキング終了後に添付するとし、その知見、発見(あればですが)を加え再度書く事にしたいと思っています。ここでは手持ち資料をそのまま公開する事としました。

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A馬見神社

東隣の白髭神社や北斗宮と並び嘉麻郡では非常に重要な古社


カーナビ検索福岡県嘉麻市馬見(高木大神、海人族、一部金山彦、秦氏のエリアです)


まずは、太宰府地名研究会メンバーの綾杉るな女史の「ひもろぎ逍遥」から見て頂きましょう。


由緒については他の本にも載っていたので書いてみます。
『筑前国続風土記附録』から抜き出します。

馬見大明神社 産土神である。御祭神は天津彦ホホデミの尊・ニニギノ命であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。
馬 見山が東にそびえ、渓水が西に流れて、人里離れて潔浄の宮所である。馬見山の山上に社があって、白馬山大明神ともいう。どんな神を祀っているか分からない という。ここでは、御祭神に、イザナギの命の名はありません。その代りに、ホホデミの命が出て来ました。ニニギノ命の子供です。山幸彦の名の方が有名で す。また、山頂の神は白馬大明神だと言っています。どんな神なのかは分かっていません。
二つに共通するのはニニギノ命でした。そろそろ系図なしには理解が出来ませんねえ。
(
と言って、パッと出てくる。親切ですねえ。)

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三つの由緒書の祭神を色分けして囲みました。これで分かるように、共通するのはニニギノ命でした。
江戸時代のガイドブック『筑前名所図会』にも、白馬大明神について書いてあります。

馬 見大明神 古宮は馬見山上にあり。御神域という大岩の辺に石の祠あり。今の社は山下にあり。白馬大明神とも申して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり。この 神、葦毛の馬を忌むという。この里に飼うを忌むのみならず、他のことろから来ても、村の方で留めて置くという。ここでははっきりとニニギノ命が白馬大明神 だと書いています。


当方の悩みというか疑問は明確です。佐賀県、福岡県の境界領域である基山直下や、天拝山直下に鎮座する荒穂神社から馬見神社など、ニニギが祀られているとする神社の祭神はどうも怪しいと考えています。

それは、天孫族に先行する天神族の排除が見て取れるからですが、これらの神社をじっくり見て回れば多少とも解明の手掛かりが拾えると思うものです。ただ、古代の謎解きでもあり時間が掛りそうです。

馬見神社の場合は賀茂大明神、荒穂大明神(基山の荒穂の場合は随神とされた鴨大神、八幡大神、宝満大神、春日大明神、住吉大明神、五十猛命)は敗散の結果排斥された神々に思えるのです。

木花咲哉姫命も百嶋神社考古学ではニニギを袖にして前玉姫と名を変え、豊玉彦(ヤタガラス)と一緒になり、鹿児島県溝部町に南下の後、富士浅間神社を経由し、埼玉県行田市の前玉神社に移動している…とします。これについては、


「ひぼろぎ逍遥」    067 霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る

「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)023 コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪


をご参照下さい。 もちろん、通説の「その代りに、ホホデミの命が出て来ました。ニニギノ命の子供です。山幸彦の名の方が有名です。などは大ウソでしょう。山幸彦はニニギの子ではありません。

 結論的には、本来の祭神であるニギハヤヒ=山幸彦がニニギに入れ替えられているものと考えます。

B  日天宮  =神仏混淆のなごり…日天子+月天子+明星天子?


カーナビ検索福岡県嘉麻市牛隈(大幡主、大山咋、天御中主命のエリアです)


 この神社を神社として扱うべきかどうかも疑問ですが、佐賀でも日天さん、日天社として有名で、仏教(神仏混淆)の匂いがします。

 十年ほど前、「天子宮」という謎の神社群を調べていて、日天子、月天子に遭遇する事がありました。

 鹿児島県曽於市大隅町の日天子神社などもその一つですが、山陰の天台密教系が神仏混淆の結果生み出されたものと理解しています。

 現在、これは「天子宮」とは異なるものとの思いを深めています。今のところ、日天子、月天子については神社考古学の対象ではないと考えています。


C  熊野神社=熊野と言えば熊野三山 熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社 各々祭神が異なる。

ここの配神は興味津津 果たして如何なる神の痕跡が… 


カーナビ検索福岡県飯塚市立岩1380(スサノウ、天御中主、崇神天皇、宮地嶽様のエリアです


熊野三山でも熊野夫須美命を祀るとする熊野那智大社は実はイザナミ命を祀る神社です。

ちなみに、熊野速玉大社は速玉大神と熊野夫須美大神を主祭神としますが、大幡主とイザナミ命の夫婦神を祀る神社と考えられます。

熊野本宮大社ですが、実は前者の間に産まれた細石神社のイワナガヒメを祀る神社なのです。

では、飯塚の熊野神社はどうでしょうか?

「立岩別府跡」「立岩神社参道入口」とあり、立岩という地名を今も留めている様に、立岩神社がより古い神社であり、より古い神々が奉祭されていると考えられます。

その証として秋祭には、この様なのぼりが掲げられ、立岩熊野神社と書かれています


御 祭神 伊弉諾神 伊弉册神 筑前續風土記ニ曰ク 其昔 立岩、柏森 二村の産神なりし 昔は伊弉諾神 伊弉册神 手力男神 大己貴神 少彦名神 以上 立 岩権現 五神三座を祀る 社記ニ曰ク神武天皇御東征の砌り 雷雨俄に起り山嶽鳴動天地咫尺を辨ぜず 時に巨岩疾風の如く飛来して此の山頂に落下す 其状恰 も屏風を立てたるが如し 雷光赫々の中 岩上に神現れて曰く 我ワ天之岩戸神名を手力男神と言う 此の処に自ら住める悪鬼あり 其状熊に似て熊に非ず蜘蛛 に似て左に非ず 手足八ツありて神通力自在 空中を飛行して其妙術は風を起し雨を降らす 彼今怪力を恃みて恣に天皇を惑はさんとす 最も憎む可きなり 我 巨岩を擲て其賊を誅す 自今吾が和魂は此の岩上に留って 筑紫の守護神たらん 又荒魂は天皇の御前に立ちて 玉體を守護すべきなりと 爰天皇駒主命として 厚く祭らせ給う 三十六代清和天皇の御宇 大己貴神 少彦名神を別殿に 斎き奉りて遷宮大明神と号す 三十七代斉明天皇の御代諾册二神を 今の熊崎に移し 奉る 熊崎祠後熊野宮と言う 宇佐神宮大宮司到津公立岩別符入符 以来祭政を司る 敬白 昭和五十年十月吉日 宮司 時枝 満定 寄贈 花村 禧子  全国熊野神社参詣記より


伊弉諾神 伊弉册神 手力男神 大己貴神 少彦名神 という配神が正しければ、熊野に相当する神はお一人だけ伊弉册神となり、博多の櫛田神社の大幡主のお妃その人となります。

この辺りは、通説では全く解釈できない部分です。従って、この熊野系神社は熊野那智大社と同じと言えそうです。

(参考)

熊野神社(嘉麻市)= カーナビ検索福岡県嘉麻市平1035(大幡主、大山咋命、一部高木大神のエリアです


祭神は伊弉冊(ミ)尊、事解男命、速玉男命とされています。

夫婦神としての伊耶那岐命が祀られていません。このことからも、この神社の性格が透けて見えます。

イザナミはイザナギと別れ、大幡主一緒になっています。その別名が熊野夫須美命で、新しい夫の大幡主別名が事解男命なのです。そして、豊玉彦=熊野速玉男命が産まれたのです。ここは離婚後のお二人とその新しい子を祀る神社なのです。


D  立岩神社御祭神 伊弉諸尊・伊弉册尊・手力男神・大己貴神・少彦名神


天孫族に亡ぼされた天神族の痕跡…手力男神はスサノウを意味しています。


E  天照宮  概して筑豊の天照神社はアマテラスオオミカミではなくニギハヤヒの場合がほとんど… 


カーナビ検索福岡県宮若市宮田町大字磯光字儀長大幡主、大山咋、スサノウのエリアです


祭神 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 (アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)八幡大神、春日大神、応神天皇、天児屋根根命(アメノコヤネノミコト)

饒速日は、山幸彦=ニギハヤヒ=卑弥呼宗女壱与やウマシマジの父で後の物部氏の中核的氏族が奉祭する神であり、小倉南区の神理教(明治期に佐野 某により造られた教派神道系新興物部教団)の神でもある。


F  六嶽神社=別の降臨伝承


カーナビ検索福岡県宮若市鞍手町室木大幡主、大山咋、スサノウのエリアです

<六嶽神社由緒> 鞍手町誌による

宗像三女神は最初に六ヶ岳に降臨し、孝霊天皇のとき宗像三所に遷幸され宗像大神となった。その後、成務天皇七年室木里長長田彦が六ヶ岳崎戸山に神籬を営んだのが当社の始まりであると伝えられている。
延喜七年(907)菊花を社殿の御紋に定められ、応安七年(1374)足利義満が社殿を造営した。宝永二年(1705)社殿再建のとき黒田長清が材木を寄進した。なお、宗像大社の本当の祭神は大国主の命です。これについては
「ひぼろぎ逍遥」115 宗像大社の本来の祭神とは何か? を参照して下さい。

明治四十三年(1910)、六ヶ岳上宮・八幡神社・貴船神社(森の上)・同社(下方)の四社を合祀した。

祭神 田心姫之神・湍津姫之神・市杵島姫之神


G  多賀神社=イザナギノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉冉尊)

多賀と言えば、行橋市の白山多賀神社、青龍大権現が日本の総本山


カーナビ検索福岡県直方市直方701大山咋、スサノウのエリアです


多賀神社は伊邪那岐大神、伊邪那美大神の二柱を祀る

全国的にもこの傾向は変わらない。伊邪那岐、伊邪那美の蜜月は短く、結局、その間に産まれたスサノウ系の人々が奉祭する神社と考えるべき。

ちなみに行橋市の白山多賀神社は、白川伯王、白山姫(天御中主)系(白族)とイザナギ(新羅系昔氏)とが金山彦(瀛氏)を中心に結束した象徴的神社であり、青龍大権現は白山信仰の震源地であり総本山。

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百嶋由一郎神代系譜(一部分)


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:12| Comment(0) | 日記

2015年12月04日

142 香春町の現人神社 “近接する大君様(おおきんさん)は神武と崇神のどちらを祀るのか?”

142 香春町の現人神社 “近接する大君様(おおきんさん)は神武と崇神のどちらを祀るのか?”

201500817

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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福岡県香春町の現人神社


福岡県香春町(田川郡)に現人神社があります。


カーナビ検索豊前 田川 福岡県田川郡香春町大字採銅所


交通
日田彦山線 採銅所駅 線路を北へ300m戻り、左に折れて道なり5分祭神  都怒我阿羅斯等
由緒
 三ノ岳の麓の彩銅所に鎮座する。
 祭神は天日鉾とも呼ばれ、また都怒我阿羅斯等とも呼ばれた、この新羅からの渡来系金属精錬集団の齋祀る神であり、彼らの足跡がここ香春に現人神社として残る。
 更に、国東半島の東に姫島があり、天日鉾の妻とされる比賣許曾神が祭られている。豊の国と日鉾集団の生々しい足跡である。 これは、この金属精錬集団が筑紫は伊都國辺りから豊の国を通過し、豊穣の海である瀬戸内海への拠点を設けているようにも見える。 この集団は漢氏より遅れ来た秦氏の集団に相当する。
 さて、福岡県筑紫郡那珂川町にも同名の神社が鎮座しており、祭神は住吉三神である。 筑紫の住吉神社の発祥の神社との説がある。
  その那珂川町の神社の由緒によれば神功皇后の軍の軍船の舳先に御代を現し玄海の逆巻く波風を鎮め、玉体を護り進路を導き無事凱旋せしめた神である。 すなわち現人神の御鎮座の地を皇后自から神告にてお知りになりいたく畏み奉られ、武内宿禰をして当地に遺し当宮の水田に水を引き、五穀豊穣の誠を捧げら れ、現人明神の尊号を授けたと云う、現人神社の名称の起原である。これが那珂川の明神の由緒である。
 双方の現人神社は天日鉾ー神功皇后ー住吉神との関連を示す重要な生きている遺跡と言えよう。尤も、天日鉾が浪速方面へ展開しようとして、これを遮ったのが住吉神とも伝わる。 筑紫の住吉神と浪速の住吉神は本来違う神であろうか。
 豊の国、天日鉾、住吉神 ここらが、我が国の古代の形成に大きい役割と謎を残したようだ。
たたずまい
 現人神社と鳥居に誇らしげに掲げられている。宮司は鶴賀さんである。
 この辺からは、香春岳の第三岳しか見えないし、さほど特長的ではない。第三岳の北側がら香春岳への登り道があるそうだが、許可が要るそうである。 穴や崖が多く、山中で捻挫など、経験者は語っている。

敬愛する「神奈備」による


 現人(アラヒト)神社という仰々しい神社が、あたかも採銅所の支配者かの如くその傍に置かれています。

 この一事を持ってしてもこの神社の重要性が分かるのですが、付近には、古宮八幡宮、鏡山神社、香春神社もあることから、単に傍にあるから云々との議論は慎重さが必要とされそうです。

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まず、現人神社については、福岡県那珂川町に同名の神社がある事を「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)017 那珂川町に「天御中主神社」が存在する訳 でも紹介しています。

その他にも福岡県みやま市(旧瀬高町)の河内地区の荒仁神社が、また、当の香春町にも日田彦山線を挟んだ反対側にも分社と思われる現人神社があります。

この現人神社が何かについては、神奈備氏も福岡県筑紫郡那珂川町にも同名の神社が鎮座しており、祭神は住吉三神である。 筑紫の住吉神社の発祥の神社との説がある。」とされているように、百嶋神社考古学の立場からは、本来の祭神とは異なるものにされているようです。

勿論、住吉三神の中筒男命が贈)崇神天皇=ツヌガノアラシトと考えますので、照応しているのですが。

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ここの神社縁起を読む限りは、祭神をツヌガノアラシトとしていますが、意富伽耶の王子で新羅の姫(アカルヒメ)を追ってこの地に入って来たとしています。

念のためにアカルヒメについて確認してみましょう。


阿加流比売神(あかるひめのかみ)は、日本神話に登場する、日の出の太陽を表す赤い瑪瑙の玉の化身とされる女である。

古事記』では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっている。『日本書紀』では名前の記述がないが、意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が追いかける童女のエピソードと同一である。『記紀』で国や夫や女の名は異なっているが、両者の説話の内容は大変似通っている。

20150818 0900 ウィキペディアによる


同社の縁起では、「日本書紀」に沿って書かれていますが、当方としてはそれ自体を否定しますので、ここにも現人神社がある事だけを確認したいと思います。

下をご覧になればお分かりの通り、天之日矛に追われたアカルヒメとは、縁起では新羅の姫とされていますが、豊玉彦(ヤタガラス)の姉であり、天之日矛も新羅の王子だったスサノウなのです。

簡単に言えば藤原によって天皇扱いにされた贈)崇神天皇がスサノウを装っている事になるのです。

また、その贈)崇神もツヌガにやって来たアラ(安羅伽耶)の人(シト)であり、同社の宮司も、新羅からツヌガ(敦賀)に入って来たとする誇り高き名を留め、宮司は鶴賀さんである。(神奈備)ツヌガとされているのです。

最後に、この神社を再訪した事でやはりと思った事がありましたのでお知らせしておきたいと思います。

それは神殿の背後地に、須佐社と貴船社が置かれていたことです。

先に贈)崇神はスサノウを装っているとしましたが、先住の権力者であったスサノウが追われた結果が残されている様に見えるのです。

これは、百嶋神社考古学でなければ謎解きができない事ですが、日本では前の神を粗末にできない(勿論祟りを恐れるとも言えますが)国民性があり、どうしても痕跡が残されるのです。

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貴船神社 須佐社

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百嶋最終神代系譜(一部)


貴 船神社もある時期には不遇にされた(今もかも…)先住者と思える地区に多く見とめられるのですが、今回、ツヌガノアラシトとは贈)崇神であり、何故かスサ ノウの事績が置き換えられていると言う認識を持って香春の現人神社を見た事により、境内社として須佐神社(恐らくスサノウ)が残されている意味が多少は見 えて来た思いがしています。

もうひとつ、ここには、「臺」の別字を充てる非常に珍しい姓の「ダイ」さんが、多数お住まいになっておられます。

これが、新たな征服者側の家系の方か、それとも被征服者側の先住者側の家系の方なのか関心を持っていますが、そのうち家紋や伝承をお聴きしたいと考えています。

豊の国古代史研究会のBさんからお聴きしたところによると、この神社の裏山には、崇神天皇の子の垂仁天皇の墓があるとの伝承があると聴き、一軒ほどお話をお聴きし裏山に入ったのですが、判然としませんでした。

また、機会を求めたいと思っています。

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かつて「陛下は現人神に在らせられる」などと大袈裟な事が言われたことがありました。

単に朝鮮半島の安羅伽耶からやって来た後に崇神天皇などと格上げされた半島人だったのですが、このあたりが一番難しい部分です。

中途半端でもありますが、ここまでとしておきます。

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ここにも猿田彦が祀られていますね、実は香春神社の主神 辛国息長大姫大目命(アメノウヅメ)をお妃とする山幸彦=ニギハヤヒ命の事なのです


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:23| Comment(2) | 日記