太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年11月22日

137 「豊後安倍氏の伝承」を手に入れた

137 「豊後安倍氏の伝承」を手に入れた

20150804

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 「ひぼろぎ逍遥」 223 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について  224 雨に濡れながらの6.27太宰府地名研究会トレッキンング “長田大塚古墳=継体陵説を探る”  225 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について A をお読みになった方はお分かりになると思いますが、長田大塚古墳継体陵説と安倍一族に何らかの関係が見出せないかと考え、朝倉市のabe一族との会合を持つなど下調べを続けています。

 そうした中、接触した朝倉市の安部家から一冊の本の存在を知りました。


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それは、安部 丞が20154月に出された「豊後安倍氏の伝承」です。

 自家製本ながら560ページ立ての大著で読み始めたばかりですが、冒頭の24pでは“…宮地嶽神社があり、「筑前国続風土記拾遺」によれば、主祭神を阿倍丞相とし、三韓征伐の軍功により祀られた。…”と書かれるなど、突っ込んだかなり正確な知識を持っておられる事が分かります。

 これに関しては、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮) 078 宮地嶽神社と安曇磯羅 J “宮地嶽神社について現在分かる範囲で”でも触れていますが、 昭和11年版「福岡県史」のコピーと併せ確認して下さい。


078 宮地嶽神社と安曇磯羅 J “宮地嶽神社について現在分かる範囲で”から 以下参照

「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 069 宮地嶽神社と安曇磯羅 A “安曇磯羅が祀られているのか? 否!!において、同社の祭神が神功皇后ではなく 阿部相凾(恐らくアヘorアベノショウカン)、藤高麿麻勝村大明神、藤助麿麻勝頼大明神であった事は述べましたが、ネット上でも「筑前國續風土記拾遺」によるとして、HP「古代妄想」氏が以下のように書かれています。


 古文書や古い縁起によるとこの宮地嶽神社の祭神は、「阿部丞相(宮地嶽大明神)、藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)」となっている。
 筑前國續風土記拾遺によると「

中 殿に阿部亟相、左右は藤高麿、藤助麿。此三神は神功皇后の韓国言伏給ひし時、功有し神也といふ。勝村、勝頼両神は三韓征伐で常に先頭を承はり、勝鬨を挙げ られたりと祀る。」とある。藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)とは神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の「安倍高丸」「安倍助丸」であるという。 「塵輪」とは軍術にたけた悪鬼が異国より攻めてきたとき、第14代天皇「仲哀天皇」が安倍高丸、安倍助丸を従えて、神変不測の弓矢をもって退治するという物語である。
 塵輪には翼があり、天空を自在に駆けめぐることができたという。羽白熊鷲のこととも。
 津屋崎の北部に「勝浦」がある。ここには「勝部氏」が在したと伝わる。勝部氏は秦氏の一族で宇佐の辛嶋勝氏に繋がる。阿部の勝村、勝頼の両神とはこの勝部氏に拘わるという。


では、阿部相凾 阿部丞相とは誰の事なのでしょうか?

 神功皇后の夫である第14代仲哀天皇とすれば都合が良さそうですが、それならそう書いたはずで、そうではないはずなのです。

 ここから先については故百嶋由一郎氏の話になりますが、後の高良玉垂命=ワカヤマトネコヒコは、当時、津屋崎一帯にいたようで、若宮、猫峠、猫塚に名を残している。

「高良玉垂宮神秘書」に書かれるように太宰府四王子山でウガヤフキアエズから三種神器の返還を受けている(これが第二期の本物の住吉神の誕生)。

その後、高良山に登り、「記」「紀」が第9代とする九州王朝の天皇(開化)となった。

つまり、高良玉垂命の誕生です。

ただ、当時の情勢の中で、一時的に母違いの兄である大彦命の阿部姓を使用されていた。それが、「阿部相凾」「阿部丞相」(総理大臣より上)であり、藤大臣(トウノオトド)とも呼ばれていた(玉垂命は藤を好んでおられたことから九州王朝系の神社や仏閣に藤棚が多いのはそれが理由である)。

その高良玉垂命は、仲哀死後の神功皇后と夫婦となられ、以後、死ぬまで(何十年と)共に過ごされた。

では、なぜ、その高良玉垂命が消されているのかですが、白村江の戦いに負けた事によって九州王朝が消滅へと向かい、最終的に九州の宗廟を宇佐八幡宮へと渡す(天平勝宝元年=749年)事により百年を掛けて九州王朝の存在そのものが消されたのだと考えられます。

恐らくそれは唐を意識した「日本国」による「倭国」隠しでしょう。

勿論、現在の高良大社には表向きには神功皇后は祀られていません。

 ただ、高良大社にも、一部に高良の神とは女神だったとの伝承が残っており、恐らくこれも、一時期、第9代開化天皇を消し、夫婦であった神功皇后をも消す必要性があったからだと考えられますが、最終的には高良玉垂命を武内宿禰とすることを持って解決が図られた(全国的には武内宿禰説が多数派、直近には有馬藩の判断)のです。

 福岡県みやま市の旧山川町の山中には、山の神宮と呼ばれる神社があり、表から入ると高良神社だが中に入ると宮地嶽神社いう奇妙な構造になっていると言う話を百嶋先生から聴いています。

 以下は、先行ブログをお読みください。

 今のところ宮地嶽神社の本来の祭神である阿部丞相 阿部相凾とは高良玉垂命=第9代開化天皇であり、一時的に腹違いの兄と関係がある「阿部」を名乗られていたものと考えています。

また、この本では、abe氏を単に東北からの下向(前九年、後三年の役)以降の安倍宗任の配流に止まらず、貞任の遺児も流され貞任の血統も残されていると言った興味深い話も回収されています。

さらに言えば、安倍氏を単に東北の夷起源とせずに、孝元天皇の第一皇子(長男)である大彦(意冨比危)の流れを組む一族が四道将軍として東北まで進出している可能姓を見据えておられ、単なる通説に基づく地元伝承の回収ではない事が直ぐに分かります。

通常、武内宿禰(タケノウチノスクネ)と呼ばれているものも、武(タケシ)内宿禰(ウチノスクネ)と見抜いておられる点など、単なる郷土史家レベルを遥かに超えている様に見受けられます。

地名研究会のメンバーもこの本には関心を寄せ注目していますが、早急に読み揚げ九州の皇別氏族abe氏の一族の解明作業に入りたいと考えています。

 abe氏には全国で、阿倍(38件)、安倍(2298件)、安部(15835件)、阿部(86833件)、それに安陪(コザトヘンのあべ135件)があり、それぞれ特徴的な分布を示しています。

 特に、安陪(135件)の大半の86件が福岡県に集中しており(朝倉市佐田町がピーク)、貞任の遺児の末裔ではないかとのお話をお聴きしています。

今回、安部 丞氏との接触によって、貞任の遺児の下向によって、九州には元々のabe氏の末裔、宗任、貞任の一族がおられる事が分かってきました。

問題は継体天皇との関係ですが、今のところ見当が着きません。

ただ、abe氏が孝元天皇の大彦の流れに端を発し、日子坐王(ヒコニイマスオウ)とも関係がありそうで、彦山との関係が無視できないだけに、朝倉市山田の長田大塚古墳との関係が全く無いとは言えない様に思います。

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昭和11年版「福岡県史」には宮地嶽神社の主神は神功皇后とはされていないのです

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:31| Comment(0) | 日記