太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年11月01日

130 吾 平(アイラ) B

130 吾 平(アイラ) B

20150613

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


熊本県山都町斗塩の神武の生誕地伝承

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前述の「九州王朝の周辺」の『ウガヤフキアエズノ尊の陵を訪ねて』には、神武天皇の生誕地についても書かれています。


矢部(やべ)町の東二十五キロの地点に阿蘇郡蘇陽(そよう) 町(現山都町:古川注)がある。・・・中略・・・その町の西端「手塩」(ママ 「斗塩」の誤植:古川注)という部落には、神武天皇はここで誕生されたとの言い伝えがあって、その「ヘソ(・・)の緒」を埋めたという「天皇さん」と呼ば れる塚では、毎年四月三日に、地区民による祭典が行なわれるという。

この塚の一キロ程南方に、第二十六代を称する旧家の原田藤幸さんの家があり、天皇はここで誕生され、近くにある神生須(そうず)ヶ池(別名双頭の池)で産湯を使わされたそうであるが、この池は今も尚、豊な水が湧き、田畑を潤している。

天皇塚は直径二メートル余りの土盛りで、上には榊の古木が繁り、丘全体としては、長さ百メートル余りの古墳とも見えるが、此の地で逝()くなった母の田間菜比賣(たまなひめ)命も、この塚に葬られているということである。

こ の伝承からすると、ウ尊と五ヶ瀬命以下四人の子たちは、この辺りで年少時代を過ごし、更に後年に至って阿蘇・菊池を経て鹿本郡(現山鹿市:古川注)の吾平 (あいら)あたりへ移り住んだとも想像されよう。従って、神武東征の出発地も、案外ここの日向(ひむき)部落だったかもしれない。・・・


平野さんはこれを昭和六十年に出版されていますが、四半世紀を経て現地を訪ねました。

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手掛かりとなるは本だけです。バス停の付近で農作業をされていた御夫婦に神武天皇の塚についてお尋ねすると、原田さんという元学校の先生をされていた方が御存知とのこと、ご自宅はバス停から百メートルほどのところで直ぐに見つかりました。

早々にお訪ねすると、御案内頂けるとのこと、距離があるので私の車で一緒に行くことになりました。

案内して頂いたのは、塚への入口付近にお住まいの大正十三年うまれという元気なおばあさんでした(上益城郡山都町塩原359 原田由紀子先生 0967-83-0618)。

普通車がぎりぎり通る山道を登り、一キロ弱走ると眼前に塚とも丘とも言えないようなものに突き当たりました。この道自体も作り直されたようで、脇には車が入らない古い道も通じていました。

明らかに、車道はこの塚を目標にして作られたようです。

道はまだ延びてはいますが先には人家もないとのことでした。

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塚にはブロックが残され、階段が作られていたことが分ります。

二メートル登ると、正面に榊の木を植えた高まりがありました。

始めは良く分りませんでしたが、どうやらこれが神武の養母(生んだのは実家に戻った豊玉姫ですから、養育のために送られた育ての親で後に妃となる)の玉依姫の墓だと言うのです。

ところが塚に登ると、「昔は神武天皇さんの祠はここにあったが、直ぐ下にあるお稲荷さんの隣に移された」とおっしゃるのです。そちらも見に行くと、道を挟んで直ぐ下に階段があり、そこを登ると、お稲荷さんの赤い木製の鳥居が幾つも並んでいました。

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最初の鳥居の傍には木の案内札が置かれていました(後述)。

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お稲荷さんの祠から数メートル離れた左側に神武天皇の臍の緒(エナ)塚がありました。

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赤い鳥居のトンネル

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これはどうも丸石神のようです(別稿)。

無題.png始めに、申し上げますが、この板碑を立てられたのは日子八井命末裔とする幣立神宮の先代の春木秀映氏のようです(現宮司に確認)。

ただ、何故、ウガヤフキアエズの正妃の墓に置かれていた神武の臍の緒(エナ)をこの地に移されたのかは不明です。  

もしかしたら、それが、本来の場所だったのかも知れません。

明 治期、北方系の天皇家に尾を振る神道は、臍の緒を自宅玄関下に埋めるというような南方系の習俗(梅原 猛氏等の説)を嫌い、墓に埋めろと指示した形跡があ り、本来、母系的な母方の実家で産湯を使い出産し、母方の実家の玄関先の土間などに甕に入れて収めるという習俗が否定された可能性を否定できないのです。

 また、痛んでいる板碑を直すにも、エナ塚を整備するにも、現在の場所が私有地のため、手を出せないとの話を聞きました。

板碑は直せると思うのですが、奇妙な話です。

 既に痛みが激しく数年を待たずして消えてしまいそうです。


神 武天皇塚(忌名は彦火火出)・・・・・・上(?)陸、ご神火燃ゆる阿蘇の日の宮の斗塩で、その名の如く・・・・・・産みになった・・・依ってその分身のえ な(胞衣)を、向かって左方の小丘・・・愛から玉依姫・・・守り塚となられた。更に日の宮に七たびご参宮の聖天子磐余彦の尊品を、この奥の丘に鎮め祭った ので神武天皇塚が残ったのである・・・までしか読めない。



無題.png春木前宮司によると玉依姫とあります。


平野さんの著書では「神生須(そうず)ヶ池(別名双頭の池)で産湯を使わされた。」とあります。

 これも、原田由紀子先生に尋ねると案内していただけました。

 天皇塚に登る道の脇に、今でも水田が残っていました。ほ場整備は行なわれていたようですが、この谷の最高部の水田があります。

 大変残念なことに、数年前には耕作放棄地となり、ここに供給される水も需要が減ったために肝心の池も管理が放棄され、溜め池に通じる畦道は通れなくなっていますし、池自体も堆積が進み機能を失っているようでした。


 ただし、百嶋神社考古学では、神武の母は神玉依姫であり、混同される鴨玉依姫とは別人のため頭の中では、この神武がアイラツヒメをお妃とした神武かどうかは内々には保留しています。



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無題.pngなお、平野先生の著書に「この塚の一キロ程南方に、第二十六代を称する旧家の原田藤幸さんの家があり、天皇はここで誕生され・・・」とあります。

この原田家の建物は今も残されていますが、既に佐賀の人に売却され、現所有者もお住まいになっていないことから、今のところ「天皇はここで誕生され・・・」については確認できませんが、連絡は取ることが出来るようですのでいずれ試みてみたいと考えています。

何か家伝のようなものがあり、平野さんが把握されていなかったことが分るかも知れません。

もう一つ、平野さんの書かれていることで重要な問題があります。

それは、「此の地で逝(な)くなった母の(たまなひめ)も、この塚に葬られているということである」です。

これを掘り下げるには、他の資料にもあたる必要があると考え、「蘇陽町町史」(付属資料)を調べてみました。予想した通り、やはり「田間菜比売命」とありました。

地元の伝承では玉依姫ではないようです。立札は玉依姫とあり、春木前宮司が「記」「紀」に元づき修正されたようです。





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さらに、本田留蔵氏による「上古代史の再考」(県立図書館所蔵)も調べる必要が出てきました(調査中)。

それは、「記」「紀」が神武の母を豊玉姫⇒玉依姫としていることです。では、この玉依姫の別名が「田間菜比賣(たまなひめ)」なのか、もしも、別人とすると神武は正妃の子ではなかったから「記」「紀」はそれを隠したのか謎は残ります。

ただ、奇跡的ながらも、かろうじて、阿蘇外輪山南麓の僻陬の地に実物を伴う伝承が残ったのです。

現在でも出産に際しては、仮に産科で行なうとしても母方の実家に近い病院が選択されるという慣行が生きています。

してみると、ウガヤフキアエズの妻が誰であったとしても、神武は実の母親の里で生まれ産湯を使ったはずであり、当然、エナも近くで保管されていたはずです。

そして、ウガヤフキアエズの陵がある菊鹿町辺で育ったはずで、そこでアイラツ姫と出会ったのではないでしょうか?

アイラツ姫とはどう考えても内田相良氏によって書き換えられたもののアイラ地名が残る日向村の吾平にいたからこそアイラツ姫と呼ばれたはずなのです。

そして、後に、筑前に移動したのでしょう。現在、山都町と名を変えた蘇陽町には幣立神宮が、隣接する高森町にも草壁吉見神社がありヒコヤイミミ、カミヤイミミを祀っています。

その、草壁から東に五ヶ瀬川を渡ると、もうそこは高千穂です。

この五ヶ瀬川も神武(カムヤマトイワレヒコ)の兄、五瀬命と関係なしとはしないでしょう。

平野先生の「九州王朝の周辺」の“祖母山と五ヶ瀬川流域”にも江戸末期の豊後の学者森 春樹の「亀山随筆」を引用し次のように書かれています。


「健男霜凝日子神社は、直入郡入田郷神原村祖母嶽北麓の磐窟の中に在り。彦五瀬ノ命を祭って下宮と云。(比ひめ神社を上宮と云)」此社白薙二年創造の由棟札に明らかなり。又白薙の旧材今も尚残れり。」

また、「直入郡比盗_社は、下宮の御神彦五瀬ノ命の御祖母神豊玉姫を祭る。故神を比盗_と申し、山を祖母嶽と云。」とある。(白薙二年は六五三年)

彦火々出見尊に嫁して、ウガヤフキアエズの尊を生んで早々、竜神の宮へ帰ってしまった豊玉姫は、確かに五瀬ノ命にとっては祖母に近いので、これが九州の高峯祖母山の由来であろうか。

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この一帯には阿蘇の大蛇伝説の穴森社や五ツ瀬命を祀る健男社があるのです。

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草壁吉見神社の東には神原(こうら)、高群があります、高良山は別名高牟礼ですね。

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高良大社の初代宮司家は草壁(日下部)と称していました。


最後に

 まず、一般的な歴史研究の世界では所謂欠史8(9代)代と称せられる神武、錘靖(スイゼイ)から第9代開化天皇までは架空でしかなく、歴史としては取り扱わないという姿勢を維持しています。

ほんの六、七十年前までは全て実在するとして強制しておきながら、敗戦後は時流に乗り反省と称し、手のひらを返したかのように全面的に否定するのです。

利用されたのは、獄中でも信念を曲げなかった魂の学者(?)、早稲田の津田左右吉ですが、今度は、これが無批判に崇め奉られているのです。

凡そこのようなものが学問と称せられること自体お笑い種ですが、現在も戦前と全く同様、師の説、時流に追従するという状態に陥っているのです。

私たちは、師の説を批判すると助手に採用されない、教授になれないといった心配は全く要りませんので悩む必要など一切ありません。

このような中で、吾平山陵を取り上げることにありきたりの批判が投げられることは承知の上で、現在、どこまでのことが分り、また、言えるのかを探ってみた訳です。

念頭にあるのは、福永晋新三氏(神功皇后紀を読む会主宰)による「神武は筑豊に東征した!」(筑前から)であり、その前史です。

いずれにせよ、「日本書紀」、「古事記」を全否定することも、全て正しいとして鵜呑みにする立場からも離れ、今後も作業を進めようではありませんか。

もちろん、私自身は「記」「紀」こそが偽書だとの思いは変わりません。

この点、東日流外三郡誌(ツガルソトサングンシ)を偽書扱いし、自己保身だけを図る連中には軽蔑しかありません。

ましてや、金儲けのために神社を神宮などと僭称し、祭神を入れ替えたり、隠したりするような現実の神社の実態を理解したうえで調べることが必要でしょう。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 09:20| Comment(0) | 日記