太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年11月20日

136 朝倉市杷木町の志波宝満宮

136 朝倉市杷木町の志波宝満宮

20150703

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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北部九州に於いて宝満宮といえば、太宰府の宝満宮を思い浮かべる方がほとんどでしょう。

ただ、百嶋神社考古学ではそれを認めません。

百嶋先生からは、“太宰府の宝満宮は、元は修験の「宝満寺」でしかなく、本当の宝満宮は筑前山家にあります“と聴いているからです。

以下、牛島稔太さんの牛島稔太のblog民俗・古代史及び地名研究の愛好家から


宝満宮さんというのは、太宰府の北谷のもの及び現在の宝満山の宝満宮は明らかに修験道の一派の山です。そして、筑前山家に宝満宮が二つあります。ひとつは筑 紫野市に入っています。もう、ひとつは筑前町の方にあります。どちらも本物です。そして、筑前町のほうには筑紫野市のほうにないものがあります。筑前町の ほうにはこの方のことをはっきり記しています。筑紫野市にあるほうは誤魔化しています。筑前町のほうにはこの方、カム(神)玉依姫、時代が下がってカモ (鴨)玉依姫、さらに時代が下がって、そのお子さんであるハエ(活)玉依姫の3人の玉依姫が登場されます。ここで、下克上派が、この一派、この人(春日の 大神?)がそうしようと思わなくともこの人を取り巻く一派、即ち、ヘブライ人たちが偉くなりたくてしかたがなくて、嘘を書いて書いて書きまくって、オオミ ワ(大神)神社を作り上げた。さっき申し上げましたが、オオガ(大神)神社は格が高いが、オオミワ(大神)神社はぺしゃんこですよということです。筑紫野 市の宝満宮では遠慮しているこの方が筑前町の宝満宮では堂々とお出しになっている。カモ(鴨)玉依姫の最初の旦那は自分のおい、うがやふきあえずです。つ い仲良くなって自分の年下のおいの子供を生んでしまった。そしたら、周囲から反対されて、いくらなんでもまずいよということで、奈良の糸巻き神話、京都の 朱塗りの矢神話が生まれた。内容は糸巻き神話のほうは、何か変な神様がついてくるが、周囲のものはそれを心配して、神様の尻尾に紐(長い長い糸)をつけた ら神様の家がわかった。片方は、朱塗りの矢が上から流れてきた、京都の上鴨、下鴨、流れている川はなんだこれはこれでも川かというくらい、どちらも些細な 川が流れている。とにかく、いろんなことがありまして、糸巻き神話、朱塗りの矢神話が生まれました。とにかく最初の旦那であるウガヤフキアエズと別れさせ られて、あと何年か経ったあとに佐田大神というすばらしい天才が現れたのです。佐田大神はどこにおられたかというと、現在の朝倉市佐田村、その前は、宇佐 市佐田(宇佐郡佐田村)、朝倉市の次は、佐賀県の小城、そして、小城では現在の出雲の国と連絡を取り合いながら、そのあとがとてつもない働きをなさる全国 的な神様に出世されます。そして、一番若い時、まるっきり子供の時は阿蘇の国造(コクゾウ)をなさっていました。国造をクニノミヤッコなんて読んだらぺけ ですよ。コクゾウです。国造神社は阿蘇のお宮として別派をなしていらっしゃいます。本当は阿蘇の健磐龍よりもこちらのほうが上なんです。阿蘇の健磐龍はず ばりいって悪いことばっかりやっているんです。桁違いに阿蘇家よりも格式が高いのは国造神社のほうです。ところがそっちは秘密の秘密、完全に秘密化され て、その秘密化されている代表が阿蘇小国神社です。小国杉、日田杉、八女杉、とにかく小国神社は完全にフタをされています。表に出ては困る、ということで 尻尾出しておられる場所はオオミワ神社ですよ。さっきの下克上屋さんが、即ち、恵比寿さんが、全部下克上するわけにはいかんと、小国の神様は、小国両神社 は堂々たるお宮ですが、向こうのオオミワ神社では、ちょこっと真似ばかりの姿で祠ばかり作ってらっしゃいます。そんなに落ちぶれていらっしゃいます。しか し、落ちぶれたりとはいえ、日本有数の本当は有名な神です。悪いことばかりした恵比寿さんもたまにはいいことをしてらっしゃいます。ということは、自分達 の技術をその系統の佐田大神及びそのお子様に伝えて、その方々の繁栄を願っています。それは酒造法です。従って、現在のお酒の神様、たどりたどると京都の 松尾大社にたどり着きます。ところが松尾の場合、本家は佐賀です。小城の松尾山コウショウ寺というのがあります。日蓮宗の九州最高のお寺です。さて、小城 にはどえらい隠されたことがいろいろ隠れていますが、現在の筑前町に鎮座している宝満宮さんはこういうことを秘めておられます。従って、そこにいかれて、 この方に挨拶されたら喜ばれます。

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志波宝満宮縁起


志波の宝満宮の祭神である玉依姫、神功皇后、八幡宮は明らかに後で着け足したものであり、主神扱いの祭神は玉依姫ですが、これも通説に於いて神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)育ての親とされている玉依姫とすることを持ってあやかろうとしたもののようです。

問 題はこの玉依姫です。ヘブライ系白族の大幡主の子である豊玉彦=ヤタガラスと、同じくヘブライ系瀛氏の金山彦の子である櫛稲田姫(スサノウの妃)の名門同 士の間に産まれたのが大山咋(佐田大神=松尾大神=日吉神社=日枝神社=山王社)であり、そのお妃となるのが鴨玉依姫です。

その間に産まれたのが崇神天皇であり、その母親が鴨玉依姫であることから、通説の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の育ての母である所謂玉依姫に(百嶋 説では実母を神玉依姫とする)肖り、あくまでも自称ですが神武天皇(ハツクニシラススメラミコト)が神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)を僭称、偽装してい るのです。

 従って、三神を書いたこの縁起書では真相は全く分からないのであり、この宝満宮の右手の上段に祀られている金毘羅神こそが本来の祭神=大山咋であり(その証拠に上に祀られている)、その子である贈)崇神によって支配されているのがこの宝満宮の本質と言えるでしょう。

 では金毘羅宮をご覧いただきましょう。

 面白い事に、賽銭箱にはクマカブトアラカジヒコ(大山咋)→ツヌガノアラシト(崇神)と2代続けて舵取りだった事を表すように、舵(舵輪)の様な輪宝が描かれています。

 阿羅伽耶に居た舵取りが大山咋の名の意味であり、敦賀(ツノガ)に入って来た阿羅伽耶の人(シト)が贈)崇神の意味なのです。

 さて、大山咋命は父を海幸彦(阿蘇草部吉見)、母を市杵島姫(宗像)として産まれています。

この二人は間違いなく阿羅伽耶にいたのですが、半島と列島とを頻繁に行き来していたはずであり、その基盤には恐らく宗像の海人族が関係していたはずなのです。

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日鷲神社はヤタガラスで良いでしょう。

宇賀神社の宇賀御魂は少し難しいのですが、「古事記」ではスサノオがクシナダヒメの次に娶った神大市姫=罔象女神(「古事記」で弥都波能売神「日本書紀」)で罔象女神(ミツハノメ)=カムオオイチヒメとの間に生まれている事が正しいとすれば、百嶋神代系譜では豊受大神(伊勢神宮外宮)辛国息長大姫大目命=香春神社主祭神となります。

稲荷とされる事とも符合します。

と、ここまでは何とか分析できそうです。

宝満宮の本質は捩じ曲げられていますが、大山咋(佐田大神=松尾大神=日吉神社=日枝神社=山王社)と妃となる鴨玉依姫でなければなりません。

それが玉依姫、八幡神、神功皇后に変更されたのは宇佐神宮の威光なのでしょう。

従って、この志波の宝満宮の本質は金毘羅宮にありそうです。

金毘羅宮は何なのか分かりにくい神社で色々な神様があてられているのですが、百嶋先生は、結局、大山咋(日吉神社、日枝神社、佐田大神、松尾神社…)が祀られていると言われていました。

その方向で考えると、現地にそう遠くない場所=甘木に佐田川が流れ、松尾神社も置かれ、山田という地名まで揃っているのですから、納得が行くのです。

再度、朝倉市の佐田町(旧佐田村)へのトレッキングを計画しなければならないと考えているところです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:23| Comment(0) | 日記

2015年11月22日

137 「豊後安倍氏の伝承」を手に入れた

137 「豊後安倍氏の伝承」を手に入れた

20150804

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 「ひぼろぎ逍遥」 223 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について  224 雨に濡れながらの6.27太宰府地名研究会トレッキンング “長田大塚古墳=継体陵説を探る”  225 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について A をお読みになった方はお分かりになると思いますが、長田大塚古墳継体陵説と安倍一族に何らかの関係が見出せないかと考え、朝倉市のabe一族との会合を持つなど下調べを続けています。

 そうした中、接触した朝倉市の安部家から一冊の本の存在を知りました。


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それは、安部 丞が20154月に出された「豊後安倍氏の伝承」です。

 自家製本ながら560ページ立ての大著で読み始めたばかりですが、冒頭の24pでは“…宮地嶽神社があり、「筑前国続風土記拾遺」によれば、主祭神を阿倍丞相とし、三韓征伐の軍功により祀られた。…”と書かれるなど、突っ込んだかなり正確な知識を持っておられる事が分かります。

 これに関しては、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮) 078 宮地嶽神社と安曇磯羅 J “宮地嶽神社について現在分かる範囲で”でも触れていますが、 昭和11年版「福岡県史」のコピーと併せ確認して下さい。


078 宮地嶽神社と安曇磯羅 J “宮地嶽神社について現在分かる範囲で”から 以下参照

「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 069 宮地嶽神社と安曇磯羅 A “安曇磯羅が祀られているのか? 否!!において、同社の祭神が神功皇后ではなく 阿部相凾(恐らくアヘorアベノショウカン)、藤高麿麻勝村大明神、藤助麿麻勝頼大明神であった事は述べましたが、ネット上でも「筑前國續風土記拾遺」によるとして、HP「古代妄想」氏が以下のように書かれています。


 古文書や古い縁起によるとこの宮地嶽神社の祭神は、「阿部丞相(宮地嶽大明神)、藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)」となっている。
 筑前國續風土記拾遺によると「

中 殿に阿部亟相、左右は藤高麿、藤助麿。此三神は神功皇后の韓国言伏給ひし時、功有し神也といふ。勝村、勝頼両神は三韓征伐で常に先頭を承はり、勝鬨を挙げ られたりと祀る。」とある。藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)とは神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の「安倍高丸」「安倍助丸」であるという。 「塵輪」とは軍術にたけた悪鬼が異国より攻めてきたとき、第14代天皇「仲哀天皇」が安倍高丸、安倍助丸を従えて、神変不測の弓矢をもって退治するという物語である。
 塵輪には翼があり、天空を自在に駆けめぐることができたという。羽白熊鷲のこととも。
 津屋崎の北部に「勝浦」がある。ここには「勝部氏」が在したと伝わる。勝部氏は秦氏の一族で宇佐の辛嶋勝氏に繋がる。阿部の勝村、勝頼の両神とはこの勝部氏に拘わるという。


では、阿部相凾 阿部丞相とは誰の事なのでしょうか?

 神功皇后の夫である第14代仲哀天皇とすれば都合が良さそうですが、それならそう書いたはずで、そうではないはずなのです。

 ここから先については故百嶋由一郎氏の話になりますが、後の高良玉垂命=ワカヤマトネコヒコは、当時、津屋崎一帯にいたようで、若宮、猫峠、猫塚に名を残している。

「高良玉垂宮神秘書」に書かれるように太宰府四王子山でウガヤフキアエズから三種神器の返還を受けている(これが第二期の本物の住吉神の誕生)。

その後、高良山に登り、「記」「紀」が第9代とする九州王朝の天皇(開化)となった。

つまり、高良玉垂命の誕生です。

ただ、当時の情勢の中で、一時的に母違いの兄である大彦命の阿部姓を使用されていた。それが、「阿部相凾」「阿部丞相」(総理大臣より上)であり、藤大臣(トウノオトド)とも呼ばれていた(玉垂命は藤を好んでおられたことから九州王朝系の神社や仏閣に藤棚が多いのはそれが理由である)。

その高良玉垂命は、仲哀死後の神功皇后と夫婦となられ、以後、死ぬまで(何十年と)共に過ごされた。

では、なぜ、その高良玉垂命が消されているのかですが、白村江の戦いに負けた事によって九州王朝が消滅へと向かい、最終的に九州の宗廟を宇佐八幡宮へと渡す(天平勝宝元年=749年)事により百年を掛けて九州王朝の存在そのものが消されたのだと考えられます。

恐らくそれは唐を意識した「日本国」による「倭国」隠しでしょう。

勿論、現在の高良大社には表向きには神功皇后は祀られていません。

 ただ、高良大社にも、一部に高良の神とは女神だったとの伝承が残っており、恐らくこれも、一時期、第9代開化天皇を消し、夫婦であった神功皇后をも消す必要性があったからだと考えられますが、最終的には高良玉垂命を武内宿禰とすることを持って解決が図られた(全国的には武内宿禰説が多数派、直近には有馬藩の判断)のです。

 福岡県みやま市の旧山川町の山中には、山の神宮と呼ばれる神社があり、表から入ると高良神社だが中に入ると宮地嶽神社いう奇妙な構造になっていると言う話を百嶋先生から聴いています。

 以下は、先行ブログをお読みください。

 今のところ宮地嶽神社の本来の祭神である阿部丞相 阿部相凾とは高良玉垂命=第9代開化天皇であり、一時的に腹違いの兄と関係がある「阿部」を名乗られていたものと考えています。

また、この本では、abe氏を単に東北からの下向(前九年、後三年の役)以降の安倍宗任の配流に止まらず、貞任の遺児も流され貞任の血統も残されていると言った興味深い話も回収されています。

さらに言えば、安倍氏を単に東北の夷起源とせずに、孝元天皇の第一皇子(長男)である大彦(意冨比危)の流れを組む一族が四道将軍として東北まで進出している可能姓を見据えておられ、単なる通説に基づく地元伝承の回収ではない事が直ぐに分かります。

通常、武内宿禰(タケノウチノスクネ)と呼ばれているものも、武(タケシ)内宿禰(ウチノスクネ)と見抜いておられる点など、単なる郷土史家レベルを遥かに超えている様に見受けられます。

地名研究会のメンバーもこの本には関心を寄せ注目していますが、早急に読み揚げ九州の皇別氏族abe氏の一族の解明作業に入りたいと考えています。

 abe氏には全国で、阿倍(38件)、安倍(2298件)、安部(15835件)、阿部(86833件)、それに安陪(コザトヘンのあべ135件)があり、それぞれ特徴的な分布を示しています。

 特に、安陪(135件)の大半の86件が福岡県に集中しており(朝倉市佐田町がピーク)、貞任の遺児の末裔ではないかとのお話をお聴きしています。

今回、安部 丞氏との接触によって、貞任の遺児の下向によって、九州には元々のabe氏の末裔、宗任、貞任の一族がおられる事が分かってきました。

問題は継体天皇との関係ですが、今のところ見当が着きません。

ただ、abe氏が孝元天皇の大彦の流れに端を発し、日子坐王(ヒコニイマスオウ)とも関係がありそうで、彦山との関係が無視できないだけに、朝倉市山田の長田大塚古墳との関係が全く無いとは言えない様に思います。

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昭和11年版「福岡県史」には宮地嶽神社の主神は神功皇后とはされていないのです

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2015年11月25日

138 湯布院温泉と言えば宇奈岐日女神社 @  “宇奈岐日女は隠された!”

138 湯布院温泉と言えば宇奈岐日女神社 @  “宇奈岐日女は隠された!”

20150808

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


車中泊覚悟で神社のトレッキングを続けていますが、安部氏 丞 氏が書かれた「豊後安倍氏の伝承」を手に入れるために大分市野津原に向かっていると湯布院温泉(由布市)を通過しますが、二時間弱の余裕があったため湯布院の神社を見る事にしました。

と、いうのも、blog「ひぼろぎ逍遥」でご紹介した豊の国古代史研究会の第1回、第2回研究会に参加された秋永氏は神功皇后の研究者でもあり湯布院温泉の某高級ホテルのマネージャーでもあったからです。


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blog


ご迷惑が掛ると申し訳がありませんので、詳しい話はここまでにしますが、車中泊ばかりではなく、たまには由布岳が眼前に見える巨大露天風呂のホテルに泊まり湯布院の神社トレッキングを企画したいと考えたからでした。

 湯布院と言えば直ぐに、俗に言う「ウナギ姫神社」が頭に浮かんできます。

 以前、同社の前の道を通過した事はあったのですが、境内に足を踏み入れるのは今回が初めてになります。

宇奈岐日女神社

宇奈岐日女神社(うなぐひめじんじゃ/うなきひめ-/うなぎひめ-)は、大分県由布市にある神社式内社で、旧社格県社。「六所宮」とも呼ばれるほか、「木綿神社(ゆふじんじゃ)」「木綿山神社(ゆふさん-)」の通称もある。

祭神は以下の6柱。「六所宮」の別称はこれら6柱を祀ることによる。国常立尊(くにとこたちのみこと)国狭槌尊(くにさつちのみこと)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと、初代神武天皇)神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと、第2代綏靖天皇)


ウナグヒメについて

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由布院盆地由布岳山頂より)


盆地は古くは湖であったが、ウナグヒメが開拓したと伝える。
現在の祭神は、上記のように6柱の神々である。一方『延喜式』神名帳に記される社名は「宇奈岐日女神社」であり、かつ六国史における神階奉叙は「宇奈岐比盗_(宇奈支比盗_)」に対して行なわれていることから、当初の祭神は「ウナグヒメ(ウナギヒメ、ウナキヒメ)」であったと考えられている。「ウナグヒメ」の名について、「うなぐ」とは勾玉などの首飾りを意味するとし、こういった呪具を身につけた女首長の巫女が神に転じたと推測されている。一方、「ウナギ(鰻)」に由来するとする説もある(後述)。
このウナグヒメに関して、古くは由布院盆地が湖であったという伝説(蹴裂伝説)がある。この中で、由布岳の神であるウナグヒメは目の前に広がる湖を見て、力持ちの大男に命じて岸辺を蹴破るよう命じた。男が蹴破った結果湖は盆地となり、その跡を現在の大分川が流れるようになったという。大男は「道臣命」と名付けられたといい、現在も末社の蹴裂権現社に祀られている。また、湖の乾き残りが金鱗湖となったという伝えもある。しかしながら盆地の底にあたる地点から土器が発掘されたこと等もあり、考古学的・地質学的には湖伝説の真偽は明らかとされていない。伝承の考証として、ウナグヒメを『豊後国風土記』にも見える「速津媛」(速見郡の由来)とする説や、ヒメヒコ制の指摘がある。
創建
社伝によれば、創祀は景行天皇12年10月であるという。『神社明細帳』では、景行天皇が征西のおりに当地で祭を営んだといい、同天皇3年に速津姫が勅を奉じて創祀したという伝承を伝える。
当社は由布岳の南西山麓に鎮座している。『太宰管内志』では「木綿山にます神なので木綿ノ神社ともいう」という記述があるほか、『豊後国志』でも宇奈岐日女神は由布山神であると記されており、元々は由布岳を神体山として成立した神社であると見られている。
一方、由布院盆地が古くは湖であったという伝承に基づき、ウナギ(鰻)を精霊として祀ったことに始まって、のちに由布岳の神と習合したという推測もある。
概史
国史の初見は嘉祥2年(849年)に従五位下の神階に叙せられたという記述であり、元慶7年(883年)には正五位下に昇叙された。これらの奉叙は、「宇奈岐比盗_(宇奈支比盗_)」に対して行なわれている。
平安時代中期の『延喜式』神名帳には豊後国速見郡に「宇奈岐日女神社」と記載され、式内社に列している。
江戸時代までは佛山寺と習合していたが、神仏分離により現在の姿となった。明治6年(1873年)には近代社格制度において郷社に列し、大正12年(1923年)には県社に昇格した。
神階
嘉祥2年(849年)6月、従五位下 (『続日本後紀』) - 表記は「宇奈岐比盗_」。元慶7年(883年)9月2日、従五位上から正五位下 (『日本三代実録』) - 表記は「宇奈支比盗_」。

20150808 1100 「ウィキペディア」による

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宇奈岐日女神社(由布市)

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前述の秋永氏からは同社が元は別の場所にあった事を聴いています。

 しかし、湯布院盆地の山野辺の道とも言うべき場所に現在も鎮座していた事を考えるならば、それほど離れた場所から遷宮されたとも思えません。

さて、祭神が気になります。肝心の宇奈岐日女らしき女神が見当たらないのです。

これについては、ウィキペディア氏も“当初の祭神は「ウナグヒメ(ウナギヒメ、ウナキヒメ)」であったと考えられている。”と指摘されているとおりです。

直接的な征服、被征服といった関係にあったかは分かりませんが、征服による祭神の入れ替えは十分に有りうることで、社名にだけ本来の祭神が留められたとも、ほとぼりが冷めた後代に社名だけが本来の姿に戻されたとも考えられそうです。

しかし、

国常立尊  国狭槌尊  彦火火出見尊  彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊  神倭磐余彦尊  神渟名川耳尊という組合せは何とも奇妙です。

まず、第一に、神倭磐余彦尊(初代神武天皇)、神渟名川耳尊(第2代綏靖天皇)という通説に基づくある意味で最高位の神が最下位に置かれています。

第二に、最上位に国常立尊  国狭槌尊という造化神が配され、次位に、彦火火出見尊  彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊という物部系の親子神が配されています。

ウガヤフキアエズ(彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊彦)は、通説でも火火出見尊(山幸彦)と、海神の娘である豊玉姫の子とされ、その後代に神武天皇が生まれるとするのです。

百嶋神社考古学では、ウガヤフキアエズが彦火火出見尊(山幸)と豊玉姫(実はタゴリ・ミホ)の子とされることは受け容れますが、初代神武天皇と同時代の臣下でしかないとします。

通説に沿って、造化神二柱、山幸+ウガヤという物部系二柱、神武(初代)+第二代綏靖天皇 が配されている事には成ります。

問題は、国常立尊  国狭槌尊が何者であるかがあまり分かっていない事です。

国常立尊は一般的には男神とされ、事実、「玄松子」氏も男神とされていますが、百嶋神社考古学では、まず、国常立尊は博多櫛田神社の主祭神の大幡主命とします。

今回は関係ありませんが、天御中主命は中性神とか男神とされます。百嶋先生はこれについても、“天御中主命の夫はウマシアシカビヒコチの神であり、実は朝鮮半島(金海伽耶)にいた金越智であり、今も出雲大社の客人(マロウド)の間に鎮座している”とされていました。

国狭槌尊も実体がお分かりでない方が多いようですが、これも百嶋先生はお分かりだったようです。

カグツチとは、火ので、「古事記」では、火之夜藝速男神(ヒノヤギハヤヲノカミ)、火之R毘古神(ヒノカガビコノカミ)、火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ=加具土命)とされ、「日本書紀」では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される製鉄の神の事で、私達は金山彦と呼び習わしています。

それもそのはず、由布岳の東には別府市の鶴見岳があり、火男火売神社(火男火賣神社)という火の神が鎮座し祀られているのです。

 この一帯は別府温泉に象徴されるように、火山噴出物、鉱物、温泉、硫黄、金属…と製鉄神に通じるものが多いのです。

 最後にウナギ姫に関する仮説です。まだ周辺調査を行わないままのいい加減な仮説ですのでその範囲で聴いて欲しいのですが、ウナギ姫はウナグ姫であり、ウィキペディア氏も、「当初の祭神は「ウナグヒメ(ウナギヒメ、ウナキヒメ)」であったと考えられている。「ウナグヒメ」の名について、「うなぐ」とは勾玉などの首飾りを意味するとし、こういった呪具を身につけた女首長の巫女が神に転じたと推測されている。」とされています。

 九州では標準語のO音がU音に対応する事を以前から書いています。これこそが古代の標準語だったはずなのですが、「ウナグ」は「オナゴ」なのです。

 すると、ウナグヒメとは、ただの女+女と女性神を強調した言葉に見えて来るのです。

 また、ヒメは後に別の民族によって持ち込まれた女性を意味する言葉なのかも知れません。

 してみると、女性を神と崇める習俗を持った人々が新たに入って来た人々によって征服された痕跡を留めているように思うのです。

 では、その女性神とは何だったのでしょう。

 それこそが、湯布院のユフである古代の繊維を紡ぎ、織った神、苧麻の神であり、由布岳に象徴されているように思うのです。

日本の木綿の起源は8世紀まで遡るようですが、実際に普及するのは戦国期前後からと言われており、由布岳のユフを木綿(真綿)とするのは無理があり、やはり、苧麻の類だったのではないかと考えています。

 話がドンドンと横滑りしてしまいましたが、布を織る女神を奉祭する人々が由布岳を崇め、祭り由布岳が見える場所に宇奈岐日女神社を奉り(建て祀り)、いつしか金属を使う人々に征服された歴史が留められている様に思うのですが賛同頂ける方は非常に少ないように思います。

トレッキングを行う前に考えた乱暴な仮説中の仮説です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:31| Comment(0) | 日記