太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年11月07日

133 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 A “福岡県うきは市 賀茂神社から” (再考)

133 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 A “福岡県うきは市 賀茂神社から” (再考)

20150630

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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福岡県うきは市 賀茂神社


前ブログ ひぼろぎ逍遥 132 葵の紋章のルーツ立ち葵の神社 “福岡県うきは市 賀茂神社から”

おいて、久留米市と日田市の中間にヤタガラスの神社が存在することをお知らせしましたが、実は、まだ十分に納得できないままでいます。

 一応はヤタガラス(豊玉彦)の神社としたのですが、本来はそうだったが、今は、藤原が第10代と大幅に格上げした贈)崇神系の神社に半分近く変えられている(乗り取られている?)という意味なのです。

 良く考えるとそのことがようやく分かってきたもので、今回は、これに関する補足作業になります。

 神社が誰を祀っているかを考える時、注意しなければならないのは、何を主たる指標にするかです。

まず、郷土史家、史談会、教育委員会…といった通説に尾を振る方々は、概して「記紀」「風土記」「神社誌」「神社庁見解」「市町村誌」「縁起書、由緒書」「社伝」…の順に説明される事でしょう。

 ところが、九州王朝論者でも、そのまた少数派である神社考古学(百嶋神社考古学)の者は、本当の神代の舞台であった九州の現場と「記紀」、社伝と「風土記」「神社庁見解」とに多くの齟齬、食い違いがあることを知っているのです(つまり「記紀」による古代史の偽装)。

 この点、「記紀」に併せてテーマ・パークとして整合性があるように創られた畿内、出雲…などとは全く異なる話になるのです。

 何度も言っている事ですが、まず、祭神は時代の動きに合わせ変えられます。

本来の祭神は、残されるとしても摂社に移されることがありますし、隠され、新たに入れ替えられ、加えられ、社伝(縁起、由緒)も改竄されます。

ここで、前述した何を主軸に探るかですが、@祭神の組合せ A祭神の表記 B夫婦神の場合の妃の名 C親子神の場合の子神の名 D神紋 E縁起 F宮司などの伝承 …といったものになります。

そろそろ本題に入りますが、うきは市の賀茂神社に限定して言えば、百嶋由一郎先生が講演中にうきは市の隣、久留米市に田主丸町に「豊城というところがありますが、贈)崇神天皇の子である豊城入彦が宇佐から入って来ています…」と言われていました。

ここで重要になるのがこの賀茂神社の神紋の二つ葵です。そして贈)崇神天皇もこの神紋を使っているのです(葵神紋参照)。

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元々、この筑後川左岸の田主丸、旧うきは町に掛けては、大幡主とその子ヤタガラスの領域だったようですが、後に(開化天皇=高良玉垂命と神功皇后)の時代に贈)崇神天皇の子である豊城入彦が宇佐から入って来ているようでもあるのです。

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久留米市田主丸町豊城


豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は、記紀に伝わる古代日本皇族

10崇神天皇皇子である。『日本書紀』では「豊城入彦命」「豊城命」、『古事記』では「豊木入日子命」と表記される。

東国の治定にあたったとされ、上毛野君下毛野君の始祖とされる。

「ウィキペディア」20150630 1830より


しばらく前から、宇佐市安心院の妻垣神社=足一騰宮=一柱騰宮に入った神武天皇とは、贈)崇神天皇のことであることが分かってきていました。

してみると、前ブログで引用した“宇佐から入ったとする賀茂御神”という行直大宮司の慶安4年(1651年) の旧記(後段)の話は、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)と、随行した本物の豊玉彦(ヤタガラス)の話が基礎にあり(両者が同社に同時に居た可能性 も含めて)、それが神武僭称贈)崇神とその子豊城入彦の話と重なり、本来の祭神の本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)と本物の豊玉彦=賀茂建角身命に 神武僭称崇神とその母親である鴨玉依姫=神直日が挿入され本物の神武であるように描こうと


※画像クリックで拡大表示されます

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百嶋由一郎 神代系譜(葵の神紋)


しているように見えるのです。

現在、同社の祭神はこのように書かれていますが、

神日本磐余彦尊 カムヤマトイワレヒコ(神武天皇 はOK。

賀茂建角身命 カモタケツノミコト(賀茂下上大神) は京都の意味で書かれているようですが、下賀茂神社のみOK。上賀茂神社は、神武僭称崇神天皇と考えており誤りだと考えます。 従って半分OK。

玉依姫命 タマヨリヒメノミコト は神武の育ての母とする通説に沿った意味で書かれているようです。

これは、本物の神武天皇の母である神(カム)玉依姫の事か賀茂別雷命=神武僭称贈)崇神天皇の母である鴨(カモ)玉依姫の事か判読できません。 従って保留します。

賀茂別雷命 カモワケイカヅチノミコト は、当然、神武僭称贈)崇神天皇=豊城入彦の父 でしょう。

 無題.pngただ、これも上の玉依姫が神武の母であれば、この賀茂別雷命だけが追加挿入されたものであり、鴨玉依姫であるならば、本来の祭神は神日本磐余彦尊賀茂建角身命の二神であった事になります。結論としては、各々、京都の下賀茂神社、上賀茂神社の元宮の可能性があります。

 ただ、そのルーツは熊本市、それ以前は天草市苓北、海南島の加茂(現存地名)、雲南省昆明…になるはずです。


当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。

「ウィキペディア」20150630 1900による

今回はかなり難しい解析になりました。まだ良く分からない部分がありますが、うきは市の賀茂神社の



神紋は、無題.pngであり、ウィキペディア氏は現物を見ておられないのかも知れません。

葵の紋章は百嶋由一郎 神代系譜(葵の神紋)のように、立ち葵でも右割れ、左割れと多岐に分かれ、ウィキペディア氏が示されたものは滋賀県の日吉大社の神紋です。

当然にも大山咋=大直日=佐田大神の神紋のようです。

 崇神は、その母親が豊玉彦(ヤタガラス)の実の娘である事から、自らをヤタガラスの正統直系とでも考えたのでしょうか。

 いずれにせよ、ヤタガラスは旧浮羽町から日田市に掛けて多くの痕跡を残しています。

 一方、神武僭称贈)崇神の父親である大山咋=大直日=佐田大神は鴨玉依姫とこの一帯で出会い、旧甘木市佐田(現朝倉市)佐田町(と言っても山の中ですが)に住み、現在の佐田川流域(筑後川右岸)で活動した事だけは間違いがないのです。

そして、その痕跡の一つがうきは市の賀茂神社になるのです。

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 と、ここまで書いてきましたが、ヤタガラス(豊玉彦)は大幡主の子であり、博多で産まれたはずです(博多の櫛田神社は熊野からの出戻り本山であり、紀州の熊野は後の本拠地です)。

 では、父親の大幡主が博多に移動して来る前はどこに居たのでしょうか?

 それについても、故百嶋由一郎氏は、“隈地名のルーツは熊本であり、現在、熊本城が置かれている熊本市の千葉城町こそ隈本(加藤清正により熊本と変えられた)であり、そこが肥後における本拠地だったと”されていたようです。

 この点、大幡主の父は白川伯王であり、当然の事として、熊本市を貫流する白川(中国風には白水)が白川伯王から付されたものである事とも符合するのです。

 しかし、その前にも辿るべき故地があります。

天草下島の苓北町、中国海南省の海南島の加茂、雲南省の省都昆明まで辿る事ができる事はこれまで草部吉見神社との関係で繰り返し述べて来たところです。

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2015年11月12日

134 合所ダムの上に物部氏の本家がある “福岡県うきは市新川の高御魂神社”

134 合所ダムの上に物部氏の本家がある “福岡県うきは市新川の高御魂神社”

20150703

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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うきは市 新川 姫治の高御魂神社 カーナビ検索福岡県うきは市浮羽町新川4426


太宰府地名研究会は、2015627日、降りしきる雨の中、福岡県朝倉市杷木町の長田大塚古墳からうきは市浮羽町の高御魂神社まで1古墳+4社を巡る30人規模のトレッキングを行いました。

当初、この神社には縁起、由緒書も無いことから、初参加の方などに何のことだか見当もつかないだろうことから、雨でもあり場合によってはコースから外すつもりでした。

ただ、賀茂神社を見て解散、終了のつもりでいたのですが、皆さん(特に綾杉女史)の熱意が強く、結局はご案内することにしました。

もちろん、旧浮羽町の山中の顔の無い神社ですから、仮に皆さんが行かれたとしても、何の発見もできないことでしょう。

しかし、そのような神社だからこそ古代史を考える上では極めて重要なのです。

このうきは市一帯には、千束、千足(チツカ、センゾク…)、姫治(ヒメハル:紀氏が治めるの意味かも)、内ケ原(ウチノシコオ?)、白土(もちろん白川伯王=の系統の方々が住む土地の意味)という物部氏、白族系統の地名が拾えます。

物部氏系統の集落は意識しながら神社を廻り続けていると経験的に分かるようになってきます。

その中で付随して地域特有の地名も徐々に分かるようになってくるのですが、最近、千束も八束も銅系統の地名ではないかと考えるようになってきました。

ひもろぎ逍遥の綾杉女史と久留米地名研究会のK氏とのやりとりにも「ヒッタイトはハッティーとも言い、それがハチマンとなったという事です。」…といった風に出てきます。

“ヒッタイトはハッティー“も、それはそれで良いのですが、その八幡とは、宇佐神宮の応神天皇(ホンダワケ)の事などでは全くなく、本物の最初の八幡たる大幡主(オオハタヌシ)=櫛田神社の主祭神の事なのです。

 確かに、ハッティーとはヒッタイトの都ハッティシェリのハチであり、蜂谷、蜂矢、矢嶋、矢田…といった名の方は、元は製鉄関係ではなかったかなどと一回は考える価値があるのではないでしょうか。



Commented by くじら at 2010-10-04 07:14 x

  るなさま、いつも貴重な情報、示唆を与えてくださり、ありがとうございます。古代物部郷のひとつ浮羽物部氏の末裔の方のはなしによれば、中近東で栄華を極 めていたソロモン王国を支えていた氏族が物部氏とのことを伺いました。彼らはインド洋から東南アジアまでの海域で、ある特定の砂浜から採取した砂鉄から鉄 の精錬を行い、現地人と交易をおこない、見返りとして膨大な量の胡椒を積み込み、王国に富をもたらしたということです。これをソロモンの知恵というそうで す。糸島の弥生中期の製鉄遺跡 元岡遺跡群や、出雲の斐伊川流域 製鉄遺跡群も、あるいはそのなごりかもしれないと現在調査中です。また、世界ではじめて鉄の生産を行ったヒッタイト以前は、隕鉄を原料と為し鉄器の製造に あたっていました。そのため当時(シュメール)は鉄の価格は金の5倍、銀の40倍だったそうです。日本の古代史にオリエント文明の名残が残されている可能性は、否定できない事実かもしれないとわたしは最近では考えています。

Commented by lunabura at 2010-10-04 11:22

くじらさん、はじめまして。浮羽物部氏の情報をありがとうございます。先日くるま座さんから浮羽に物部氏の末裔がいると聞いたばかりです。もしかしたら、一緒に行かれたのですか?お話がとても分かりやすくてありがたいです。
この話と那珂川町に伝わる暦法の眞鍋家と補完し合います。ヒッタイトはハッティーとも言い、それがハチマンとなったという事です。宇佐八幡と関連します。いよいよ、古代鉄を頑張んないといけないかなあ。
宮地嶽古墳の近くの丘は鉄を採った後のカナクソで山になっているそうです。名島神社に書いていますが、三笠宮もオリエント研究に向かわれました。

「ひもろぎ逍遥」関連メールから



旧姫治村のこの神社の社家は物部の本家であることをほんの五年ほど前まで隠し続けてきました。

久留米地名研究会が活動を開始した当初、メールでのやりとりをしていたこの物部本家のS氏と研究会の事務局次長のO氏の協議の結果、双方三十人ほどで会合を持ち、千数百年の長きに亘って隠されて来た物部氏の本家である事が公開されたのでした。

その会合に参加したメンバーの一人には内倉武久氏もおられまた。私も少し遅れて参加しましたが、それ以来の訪問でした。

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「梶の葉」は、梶紋の一種で特にカジノキの葉を図案化したものをいい、梶紋にはカジノキの花を図案化した「梶の花(かじのはな)」もある。元は、コウゾの葉を図案化した「楮紋(こうぞもん)」とに区別されていたが、同様の形状のため後にまとめて梶紋とされた。

梶の葉は、の葉と同じように食器として用いられ、後に神前の供物を供えるための器として用いられたことから、神職に用いられるようになった。 文様としては、『吾妻鏡』に見る、武田信義の諏訪上宮で見たという夢の話に登場する「…梶葉文の直垂を着し、葦毛の馬に駕すの勇士一騎、…」が初見とされている。

諏訪神社が神紋として用いるほか、江戸時代には諏訪氏をはじめとして松浦氏安部氏など4家の大名と四十余家の幕臣が用いている。苗字に「梶」の字を用いる家が用いる場合もある。


平安時代末期、源氏平家追討に際して、諏訪神社上社の大祝(おおほうり) 神篤光の妻が、夫 篤光の使者として、甲斐源氏武将一条忠頼の 陣所を訪ね、篤光が源氏の武運を占うため、参籠したところ、梶葉紋をつけた葦毛の馬に乗った武士が源氏方として西を指して鞭を揚げたという夢を見たと告 げ、これひとえに諏訪大明神の示現であると伝えた。 以来、梶の葉紋は諏訪神社をはじめ信仰する氏子に広まり、神紋または家紋として浸透していった。

特に諏訪神社とその大祝である諏訪氏金刺氏は諏訪梶の葉を家紋とし、諏訪氏の庶家や氏子は立ち梶の葉、丸に立ち梶の葉、鬼梶の葉など派生紋を採用したという。鎌倉時代以降、諏訪氏が執権北条氏御内人となり、その威光を背景に諏訪神社が各地に建立され、諏訪信仰が広まる中で、梶の葉紋も広まっていった。

ウィキペディア20150703より


故谷川健一も、筑後川流域に展開していた物部氏が遠賀川流域の物部25部族になったと考えていたようですが、その本拠地が久留米市田主丸からうきは市の一帯であった事は、まず、間違いないでしょう。

まず、筑後川左岸は耳納山系を背後にしており、この姫治の下の合所ダムに沈んだ土地には30近い「ハル」「バル」地名があり、東多々良、北多々良、西多々良(南風は耳納山系により風が遮られるため)といった製鉄地名が存在しており、冬場の風に合わせ効率良く鉄が造られていた事が容易に想像できるのです。

また、物部本家とはそうした製鉄集団の長だったことも疑いようのないことなのです。

さて、同社は元妙見宮ともされていました。


高御魂神社は宇多天皇寛平7895)年、肥後国八代郡大田郷の妙見宮を、熊抱平馬太夫行定がお供してこの地へ勧請。

「文化遺産オンライン」より


八代から浮羽となると、直ぐに八代徳淵への河童渡来、その九千坊の筑後への移動と話が重なってきます。

 事実、うきは市の隣の旧田主丸町には濃厚な河童伝承が残されています。

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JR九大線田主丸駅


この八代の河童についても、故百嶋由一郎氏も最も低い階級のユダヤと考えておられたようですが、今回、この事を示唆するようなものを発見しました。

 トレッキングにおいて、神社考古学研究班のU女史が鍵の掛けられた社殿内部に神輿が置かれ、その屋根に梶の木の神紋を発見してくれたのでした(下左)。

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右は高木神社などで散見される蔦葉(夷の神紋)ですが、いずれもユダヤの燭台を表している事は多くの日ユ同祖論者が言う事であり説明は不要でしょう。

 やはりトレッキングは重要で、30人も行けば何の痕跡も無いような神社でもそれなりの発見が得られるものです。

 これで気づいたのですが、梶の木と鍛冶屋に関係があるはずなのです。

 梶の葉、梶の木が、何故、カジと呼ばれたのかも考えて見る必要があるかも知れません。

 「青銅の神の足跡」において故谷川健一が伊福部、伊福姓について詳細な古文献考察から伊福地名を製鉄地名とした事は有名ですが、姓においても同様の事が言えるのです。

 既に、この田主丸から浮羽に掛けての一帯が巨大な製鉄集団がいた事を話しましたが、この地には伊福姓の方が数多く住んでおられるのです。

  これも久留米地名研究会メンバーで平戸市にお住まいの伊福さんにお聴きした話ですが、知り合いに同姓の伊福さんがおられたことから聴いたところ、出身は 「うきは市で以前は鍛冶屋をやっていた…」とのことで、自分が鉄工所をやっている事と繋がり、自らのルーツが見えた様だと言われていたのです。


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いつもの姓名分布ランキングで確認すると、全国で200件のうち、半数が福岡県と、宮崎県に集中していることが分かります。

 その全国トップの福岡県でもうきは市が県内のトップであることが確認できるのです。

 弥生時代に鉄の欠片も出ない奈良の巻向などではない事が十分にお分かりになるでしょう。

 邪馬台国畿内説論者などという愚か者や、考古学協会の学芸員といった人々は、ほとんど物事を自分の頭で考えないS教授やK教授などに調教された人々なのでしょう。

 今回は話が散漫になりましたが、何故か、まだ、千数百年間物部の本願地である事を隠して来た一族の話を、公開されたとしても軽々に話したくないという気持ちが残っているからかもしれません。

 注目すべきは、建御名方を祀る諏訪神社が神紋として用いる事です。

建御名方は、大国主の子として軍神春日大神=健御甕槌に闘い最後まで抵抗し諏訪から出ない事を持って許された神とされます。


古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神御子神として登場する。『延喜式神名帳』などには南方刀美神の表記も見られる。長野県諏訪市諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する。

神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に残る。妃神は八坂刀売神とされている。

建御名方神は神(じん)氏の祖神とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏保科氏など諏訪神党の氏神でもある。           ウィキペディア」20150703 2130による

これは大国主系を叩くために創られた話と考えていますが、百嶋神社考古学においても、弟の建御名方も兄の事代主も大国主とは遠い姻族でしかないのです。

建御名方はどう考えても伊勢外宮(豊受大神)に近いニギハヤヒ、ウマシマジの系統なのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜より(一部)


さて、散漫ついでに、筑後川の対岸を見て見ましょう。

  甘木、朝倉、杷木の一帯も地名から判断すれば、基本的には大幡主のエリアなのですが、神武僭称贈)崇神の父親である大山咋=大直日=佐田大神は鴨玉依姫と この一帯で出会い、旧甘木市佐田(現朝倉市)佐田町(と言っても山の中ですが)に住み、現在の佐田川流域(筑後川右岸)で活動した事だけは間違いがないの です。

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物部とは何かを考える時、民族とは無関係の職能集団と考えれば、物部の本家と称する所から伊勢外宮系の建御名方が拾えたのですが、神武僭称贈)崇神の父親である大山咋=大直日=佐田大神と併せ考えなければならない様にも思っているところです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:04| Comment(0) | 日記

2015年11月16日

135 モンゴル高原のユダヤ人

135 モンゴル高原のユダヤ人

20150703

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


百嶋神社考古学勉強会は順調に滑り出しましたし、熊本の神社研究グループとの連携も進んでいます。

また、遠方の百嶋神社考古学研究者も徐々に増え始めているようです。

百嶋先生は多くの手書き資料を残しておられますが、一方では(片手間ですが)そのスキャンニング作業を続けています。

百嶋先生の話には日ユ同祖論でもかなり深部に向かった調査をされていたようです。

このため、私達もユダヤ・イスラエル系、ヘブライ系、アーリヤ系、トルコ系…といった表現を余儀なくされています。

このため学者風の話をされる方達や一般の方達からも色眼鏡で見られる事を甘受しなければならないのですが、それはどうでも良いとしても、この壁をなんとか食い破る方法はないものかと考えていました。

そうした中で、百嶋先生の文字データの中に分かりやすい例がありましたのでご紹介する事にしました。

現地の写真やパンフレットや地図といったものが僅かなコメントを加えて送られています。

これもその断片のようなものですが、きっと現地を踏まれ、現地の人から聴き取りをされていたのでしょう。

ナンダデヴィのユダヤ系モンゴル人、モンゴル系ユダヤ人?もその一つです。ガンジス川源流の彼らは六芒星を使っているのです。
これも、百嶋先生が現地で撮られた多少ピンボケの写真です。
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この辺りまでユダヤ人が入っているのならば、中国、朝鮮半島を経て列島にユダヤ系、イスラエル系の人々が入って来ていても一向におかしくはないのですが、この話に持ち込むと皆さんが顔をしかめることになるのです。

 中国には今もユダヤ人街=ゲットーがあると言いますし、大量のユダヤ、イスラエル系の人々が入っているはずなのです。

 2012年公開の映画ピラミッドでも中国には巨大なピラミッドが存在している事が明らかになりましたし、少しは偏見を取り除いてもらいたいものです。

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百嶋由一郎手書き資料から


「山の娘」というだけありパールヴァティーはヒマラヤ近く標高3500m近い地域の聖なる山ナンダデヴィに住むと言う。ナンダは「祝福された」「デヴィ」は「女神」の意味の語。

クスムカングルKusum Kanguruクワンデ(コンデリ)KwangdeクーンビラKhumbila

HP「エベレスト街道」より


面白いのは、金毘羅神社の「金毘羅」の意味ですが、ヒマラヤの一峰「KwangdeクーンビラKhumbila

が語源と考えられていたようです。

 つい最近もトレッキングでかなり本格的な朝倉市杷木町の志波の宝満宮(付随金毘羅神社)を30人規模と10人規模で訪問しましたが、コンピラの意味を考えていただけに、何も納得の行く説明がない中では、百嶋先生の金毘羅=クーンビラ説には吸い寄せられてしまいそうです。

 金毘羅神社の祭神については諸説ありますが、百嶋船も金毘羅にも色々なバリエーションがあるものの最終的には崇神天皇を奉祭する一族が大山咋神=佐田大神を祀っているとお考えになっていたようです。

 大山咋神は阿蘇の草部吉見神と宗像の市杵島姫の間に産まれた、いわば、雲南〜海南島コネクション=黎族=白族のシンボル的なものです。

 それが保元の乱の一方の負組のようでもあるのですが、白族がヘブライ系であることを考えれば、彼らが通過して来た故地であるヒマラヤのク―ンビラを奉祭したとしてもおかしくはないと思うものです。

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グゲ王国または古格王国(842 - 1630)は、吐蕃の王族の一部が西チベットで建国した王国。

グゲ王は荒廃した仏教再興の為、当時の仏教先進地域カシミールへ留学僧を派遣。カシミール様式の寺院 建築、壁画などを導入した。

建国期

吐蕃ティソン・デツェン(在位755-797)が没すると、吐蕃は急速に衰えていった。ラン・ダルマ王の息子ウースン中国語版ツァンを支配していたが、ウースンの子ペルコル・ツェン: 貝考贊)が暗殺されるとその子(: 吉コ尼瑪袞)は西チベットに逃れ、ガリーマルユルMaryul of Mnah-ris)、プラン、グゲといった谷に住み着いた。

10世紀、グゲの首都ツァパラン英語版は石灰質の岸壁に守られた要塞都市であり、仏教の中心のひとつとなった。当時の王コレは王位を捨てて仏門に入っている[1]。なおツァパランは要塞都市なので、中心都市は18km東にある道沿いの都市トリン(現ツァンダ)である[3])。

分裂

グゲ王国は11世紀には分裂して衰えるが、1042にインドのヴィクラマシーラ大学の高僧アティーシャを招聘。 アティーシャの教えはカダム派英語版を生み現在のゲルク派の源流となった。こうした活動により、再びチベット仏教が栄え、ピヤントンガ石窟群が築かれた。現在も、グゲ王国の中心的都市として繁栄したツァンダ付近には石窟壁画が残っており、北インドの影響が見てとれる。

14世紀にはマンナン(トリンの南約15km)を都として復興されている。15世紀にはナムギェル・デが王となり、ツァパラン語版に王宮を造って再び首都をこの地に戻した。現在残っているグゲ遺跡のほとんどはこの時のものである。             

ウィキペディア(20150708 8:30

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ピアン遺跡全景

「世界の屋根」と呼ばれるヒマラヤ山脈を有するチベット。その中でも西チベット・ンガリ地区は標高4,000m5,000mの荒涼とした地です。尊い雪山を意味する「カン・リンポチェ」とも呼ばれる聖山カイラース山(6,656m)、11世紀にチベット仏教の復興を果たしたリンチェンサンポやインドからチベットへと渡った高僧アティーシャゆかりのツァンダ近郊に位置するトリン寺、グゲ遺跡(グゲ王国の故城)もこの西チベットに位置しています。


トンガ遺跡

トンガ村から400m離れた岩壁にあり、東西に大きく3区に分かれています。1区には50個の石窟があり、1号窟から3号窟までは極彩色の曼荼羅が描かれています。

トンガ1区1号窟は、正方形の木組みを組み合わせる中央アジア起原のラテルネンデッキ(三角隅持ち送り形式)の建築手法。天井の植物模様や二頭の獅子、向かい合った白い象、そして四方の壁面には多種多様の曼荼羅が描かれています。

曼荼羅の側面には垂直五段の十一面、蓮華、水瓶、数珠を持つ六臂、十一面観音像が描かれています。両脇の二女尊はインドから伝来したターラーなどといわれています。

2号窟は四層からなる円心円状ドーム構造。全体で法界語自在マンダラを表現しているといわれています。四方の壁面は一面、千仏で埋め尽くされています。中央に仏塔の基盤が残りますが、現在上部は破損しています。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:20| Comment(0) | 日記