太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年10月01日

120 宇佐神宮とは何か? O “勅使来訪により呉橋が一般公開された”そこで見たものは!

120 宇佐神宮とは何か? O “勅使来訪により呉橋が一般公開された”そこで見たものは!

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150529

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宇佐神宮の呉橋が一般公開されるとの耳寄りな情報が入りました。

始めは行かないつもりだったのですが、後悔しそうな気がして急遽予定を変更し、丁度久留米大学の公開講座の講演で九州に来られていた内倉武久氏と川崎町在住のN氏と三人で宇佐に乗り込むことにしました。

呉橋は普段は渡ることが出来ません。この中がどうなっているのかは以前から気にしていました。

まさか柵を越えて勝手に入るわけにも行かず(恐らく不法侵入罪に相当)、問題を棚上げにしていたのですが、いい機会が巡ってきたものです。

8億円を掛けた上宮の大改装に伴う勅使の来訪に伴い一般公開となった次第のようですが、ちょと奇妙な感じはします。

勅使来訪だからこそ、一般の者は一切通行させないとするのが普通のような気がするのですが、まあ、それはどうでも良いことです。

呉橋公開となれば多くの方が押し掛けるのではないかと考えていたのですが、平日とあってか、いたって参詣者も少なく、ゆっくり落ち着いて見学することが出来ました。

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当 方は、内部に装飾や、文字などが残されていないか?何故、宇佐神宮に呉橋が置かれているかが推察できる何らかの情報が残されているのではないか…と、色め き立っていたのですが、中に入ると意外とシンプルで、装飾と言っても、一つ巴の神紋が一定の間隔で彫られていただけでした。

 勿論、入口には公式の宇佐神宮の神紋とされている左三つ巴(足長)紋が打たれていますが、内部には何故か一つ巴が打たれていたのです。

 一つ巴紋となると、直ぐに思いつくのが、お隣の中津市の薦神社であり、ここには神殿の方々に、一つ巴、二つ巴、三つ巴紋が付され、確か御賽銭箱が一つ巴だったように記憶しています。

 薦神社は到津家が追放される前までの宇佐神宮宮司代行を出していた神社であり、同じく呉橋が置かれている事で知られていますが、この神社については第10代とされる贈)崇神天皇の関係した神社であるといった趣旨で、故百嶋由一郎先生も話しておられました。

 その第10代贈)崇神天皇の神紋こそ一つ巴であり、薦神社の呉橋の内側にも同様の神紋が打たれている可能性が急浮上してきました。

 やはり、現地は自分の目で確認すべしと思うばかりです。

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恐らく!久留米市大善寺玉垂宮――西に向かう――(呉橋)薦神社――(呉橋)宇佐神宮


まず、呉橋については、宇佐神宮が何故「呉橋」を残しているのかという問題が横たわっています。

宇佐神宮自体でも答えに窮してか、「呉の工人によって掛けられたから呉橋と呼ばれている…」といったほとんど回答にならないもので済ませてあります。

呉の工人とは「三国志」の呉ではなく、春秋戦国の呉のはずですから、直接、宇佐神宮と結びつくとは考えようがないのです。

 私自身も宇佐神宮の性格からどう考えても結びつかない事から、ずっと疑問だったのですが、百嶋由一郎先生の答えは明確でした。


@  宇佐神宮も元は九州王朝の神宮だった。

A  九州王朝の正統皇統は呉の太伯(従って中国ナンバー・ワン周王朝)の末裔であったから呉橋を使っていた。

B  応神天皇など正統皇統の天皇ではない(別王)=ワケオウ ため呉橋を渡る資格はなかった。

以下は古川による推測

C  宇佐神宮は九州王朝の神宮を簒奪した証拠、若しくは、戦利品として呉橋を残している。

D  薦神社から大富神社、大分八幡宮、太宰府を経由し、高良大社、大善寺玉垂宮へと古代の勅使道は延びていた。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:18| Comment(0) | 日記

2015年10月05日

121 ブログNo121は保留とさせていただきます

ブログNo121は保留とさせていただきます
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:29| Comment(0) | 日記

122 宇佐神宮とは何か? P “宇佐神宮の上宮に鎮座する三摂社を確認した?”

122 宇佐神宮とは何か? P “宇佐神宮の上宮に鎮座する三摂社を確認した?

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

20150608

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


120 宇佐神宮とは何か? O “勅使来訪により呉橋が一般公開された”そこで見たものは! 20150529 おいて、「呉橋」の開放を行なわれた事はお話しましたが、元々、勅使の訪問も上宮の修理完了に伴う本殿遷座祭に対して行われたものでした。

実際の勅使訪問は前日だった様です。今回は呉橋の内部を見ることだけが目的であり、上宮まで足を延ばすことをためらいましたが、上宮については手元に工事中の写真しかなかったこともあり、天気も良い事から改修工事が完了した上宮の写真を撮りに行く事にしました。

期待していないと良い事が起こるのは良くある事ですが、いつもは格子戸により隠されている上宮の内部が、勅使の来訪による完全開放(内側から矢を射掛けるなど敵意を持っていない事を示すための儀礼でしょうが)により全て見通せたのでした。

皆さんも上宮に行かれた方は多いと思いますが、実質的なシールドがあり、勅使門の内側も含め、決して内部は見えない様になっていたはずです。

これが、今回、堂々と見る事が出来たのは幸いでした。

上宮の内部に北辰神社、春日神社、住吉神社の三摂社が納められている事は以前から承知していましたが、過去一度も見た事がなかったため、始めて見る上宮の姿にしばらく興奮が収まりませんでした。

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普段は勅使門と併せ格子窓により内部は一切見えない

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この三つ摂社の存在こそ、一社三殿三神が完成する700800年代初頭の宇佐神宮の勢力配置を示したものと考えられるのですが、研究者も含めほとんどの方はこの三摂社については注意を払われていません。

700年代に応神が祀られ、数年を待たずして比売大神が加わることにより一社二殿二神となり、百年後に新たに神功皇后が加わり現在の一社三殿三神体制が成立するのですが、このことについては、以前公開したブログ「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)097 宇佐神宮とは何か? F“宇佐神宮の向こう側”、098宇佐神宮とは何か? G“神宮の故地か?今も上宮内二摂社が院内町に鎮座する”をお読み頂きたいと思います。

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写真上(左:春日神社、右北辰神社)写真下(住吉神社)

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宇佐神宮庁発行の宇佐神宮社殿配置図について五〜十年程前までは、一般にも広く配付されていましたが、現在ではほとんど知られていません。

何か不都合な事があるのかもしれませんが、この事実を知らないまま議論する事の危うさを、まずは、知るべきでしょう。

何よりも、「高良玉垂宮神秘書」に記載されるように、高良大社が宇佐神宮に対して九州(王朝の直轄領域としての九州)の宗廟を749年に譲った(奪われた)事によって、近畿大和朝廷の神宮として立ちあがった同社の性格を理解すべきであり、あくまでも、この上宮内三摂社の存在は、800年代の神宮皇后が加えられた時の勢力配置を象徴しているものとして考えるべきものと思われます。

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左から一の御殿(応神天皇)、二の御殿(比売大神)、三の御殿(神功皇后)


 応神天皇の後見人 春日大神(実は阿蘇の草部吉見神)

 比売大神の後見人 北辰神社(宇佐神宮の公式見解は宗像三女神だが見解は分かれる)

 神功皇后の後見人 住吉大神(実はウガヤフキアエズから三種神器を返還された第二期住吉大神

=久留米の高良大社の主祭神 高良玉垂命=第9代開化天皇)


従って、そもそも700年以前(九州王朝の時代)までは、藤原氏によって第10代と格上げされた応神天皇が元々祀られていたはずはないのであり、それ以前は、九州王朝の神宮だったと考えるべきなのです。

稀代の神社考古学者百嶋由一郎先生も、「宇佐神宮は九州王朝の神宮だった事は明らか…」「ただし比売大神とは宗像の三女神を表している…」とされていました。

個人的には、当初、九州王朝の神宮として「比売大神」を呉の太伯の裔としての「姫氏」を考えていたのですが、これについては、現在、否定する方向で考え直しています。

そ もそも、当時(七世紀前後)の豊前一帯は、半島から多くの秦の難民(万里の長城建設の労役から逃亡した秦民、秦王朝滅亡に伴い逃げて来た王族を含む大陸系 秦民=現在の中国人とは民族的にも全く異なる)が大量に入って来ており、人口も文化も急速に発展していました。このため、本来は北辰神社(天御中主命他) を奉祭する人々が大量にいたのであり(八王子神社もその一つか?)、そのような人々が九州王朝の下で維持していた神社であったと思われ、秦氏の重要性か ら、九州王朝の勅使道が久留米市の大善寺玉垂宮から高良大社下宮、太宰府、飯塚市の大分宮、香春町の香春神社、豊前市の大富神社、中津市の薦神社を経て宇 佐神宮まで延びていたものでしょう。今回は、その一端が文字通り垣間見えた一瞬でした。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:38| Comment(0) | 日記