太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年09月13日

114 霧島東神社初見 “鹿児島県高原町の霧島東神社は島津の先祖神を祀る神社か?”

114 霧島東神社初見 “鹿児島県高原町の霧島東神社は島津の先祖神を祀る神社か?”  

20150513

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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霧島東麓のカルデラ湖「御池」


カルデラ湖御池を望む霧島東麓に霧島東神宮があります。

概して、鹿児島、宮崎の神社は、明治維新後に大規模に祭神が弄られているようで、あまり関心を維持できずに、主としてさほど重視されてない小社や民俗を中心に見て回っていた事から、この神社も初見と言う情けない有様です。

とは言え、霧島東神宮の見聞はそれなりに得るものがありました。

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霧島東神宮 カーナビ検索 宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田6437 :0984-42-3838


今回、図らずも霊能者グループの提案を受けて気が向かないまま同社を見せて頂きましたが、今まで悩んできた島津氏の問題、出自、先祖神の問題が一気に解決を見た気がしています。

 この点、グループのキャップのF女史に感謝致します。

 以前から「宮崎神宮、霧島神宮は格式から言えば下の下…」という百嶋由一郎先生の云いに従い、無視とは言わないまでも触れずにいただけだったのですが、百聞は一見にしかずの云いのとおり、一瞬にして島津氏のルーツが見えた思いがしました。

 島津は平家追討の恩賞として下向した渋谷氏などと同様の関東武士団の一派であり、一部には東北地方にも島津氏は展開しているとも聞きます。

 島津氏は西郷のイメージが強すぎて、なにやら南方系ポリネシアンのようなイメージがあるのですが(西郷は島津に潜り込んだ菊池一族の流れなのです)、それは一般の民衆の話であって、支配層は関東から下向した渡来系氏族だったのです。

 その話に入る前に、一応、同社の祭神を確認しておきましょう。

 あくまでも、島津が祀っている=彼らが重視している神々が何なのかが理解できれば、島津のルーツが見えて来るのです。


御祭神
伊弉諾尊伊弉冉尊
配祀
天照大神瓊瓊杵尊天忍穗耳尊彦火火出見尊
鸕鷀草葺不合尊神日本磐余彦尊


先ず神武天皇が最後尾に扱われている事自体が、天照=神武の系統、つまり、呉の太伯の流れと無関係であることが見て取れます。

配祀神を見ても高木大神の息子であるニニギに、阿蘇系の海幸彦、新羅系の山幸彦、その子のウガヤフキアエズと新羅系が濃厚です。例外が海幸彦ですが、海幸系、山幸系共に後には合体し、物部を形成しますので、簡単に言えば蘇った物部氏の再来を思わせます。

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輪宝      丸に十の字の島津の家紋     輪宝  

ここで、島津氏が何なのかを概括してみたいのですが、中近世は疎いため、その筋の方に頼るしかありません。ただ、幾つものファクターを押さえてさえおけば、あながち酷い外れはないため、その上で主なものを引用させて頂いています。


 初代島津忠久薩摩国大隅国日向国3国(初期には越前国守護にも任じられた)の守護職に任じられて以降、南九州の雄族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。また江戸時代には外様大薩摩藩主として存続し、幕末期には雄藩の一つとなって、明治維新の原動力となった。尚武の家風として知られ、歴代当主に有能な人物が多かったことから、俗に「島津に暗君なし」と称えられる。これにより鎌倉以来明治に至るまでその社稷を守り通すことに成功した。また、越前、信濃駿河若狭近江に支流としての島津氏が派生し、それぞれ越前島津氏信濃島津氏河州島津氏若狭島津氏江州島津氏と呼ばれている。

…中略…

島津氏は、秦氏の子孫惟宗氏の流れを汲む惟宗基言の子の惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津荘荘官(下司)として九州に下り勢力を拡大、その子の惟宗忠久が、新興勢力である源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされ、のちに薩摩国出水平野に城を築き、拠点を移している。しかし、現在では同じ惟宗氏でも広言ではなく惟宗忠康の子孫とする説が最も有力である。

ウィキペディア(20150513 17:30)による


この惟宗氏のルーツは秦氏(秦忌寸・秦公)であり、秦氏は応神天皇の時代に朝鮮半島から移住したとされる弓月君(ゆづきのきみ)を始祖とし、815年に編纂された『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」によれば、弓月君は「融通王」のことで、融通王とは実は「秦の始皇帝」の子孫なのだ。

 となると島津氏のルーツは大陸王朝の秦帝国につながることになる。つまり、わが南九州の地は13世紀から19世紀の半ば過ぎまでの6世紀半を、大陸系の王朝の末裔の支配下にあったことになる。厳密に男系をたどればそういうことになる。

HP「鴨着く島」による

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古代の仏教では、法(真理)をもってこの世を治める王を転輪聖王といった。輪宝は、この転輪聖王の感得する七宝のひとつで、聖王は巨大な車輪を武器とし、 人間の迷いや悪の根を断ち、世の中に平和と幸いをもたらすことを願いとした。輪宝は法輪ともいわれるが、仏の教えは一つところに止まることなく、あらゆる 方向に転回してゆくことをあらわしたものであった。それが、輪宝は「真理を回らすもの」であることに意味が抽象化され、仏教のシンボルとなり広まっていっ た。インドの国旗の中央に描かれているのも輪宝である。

無題.png輪宝は、仏教伝来とともに日本にも伝来した。日本で最も古いものは、薬師寺の仏足石に刻まれた輪宝といわれている。平安時代に描かれた国宝の『信貴山縁起絵巻』「延喜加持ノ巻」には、たくさんの剣を鎧にした童子が輪宝を廻しつつ天を懸ける情景が描かれている。すでに輪宝が文様として、寺院などに広まっていたことが知られる。

や がて、仏具として重んじられるとともに、護身用の武器として用いられて修験者の間に広まった。修験道は役の行者が開祖という山岳信仰に発した古神道の一つ で、その実践者は修験者または山伏とよばれた。かれらは仏教に帰依するとともに武力集団としての側面も有し、のちには山から里におりて神官になった例も多 い。このようなことから、輪宝は寺院の印となり、とくに天台系の聖護院ではこの紋を大切にした。やがて神仏混淆の時代になると、神部神社や六所神社などで も神紋に輪宝が用いられるようになった。いまも、修験道系の寺院や神社で輪宝の紋を見ることが多い。輪宝紋は車のカタチをしているのが特徴で、剣のカタチ をした矢が数本ついている。その矢の数によって「三つ剣輪宝」「八剣輪宝」などと称された。

無題.png『見聞諸家紋』には、讃岐の三宅氏が使用と書かれている。江戸時代には、大名の三宅、加納、津軽の三家が用 いた。三宅氏の祖は、南北朝時代に南朝方で活躍した備前の武士児島高徳であるという。その子孫が備前はもとより三河へも移住したことで、輪宝紋は三宅氏の 代表的家紋して広まった。一方、三宅氏は三宅連の子孫で、備前国児島郡三宅庄から起こったともいう。三宅庄は聖護院との関係も深く、修験道五流のあるとこ ろであった。当然、修験者も多く、みな輪宝を所持していた。それが、のちにシンボル化されて三宅氏の輪宝紋が生まれたようだ。そして、佐々竹・漆戸・塩 入・根本など三宅一族と思われる諸氏が輪宝を家紋としている。
  戦国時代に摂津の国人として活躍した三宅氏は藤原姓を称したが、家紋は「重折敷輪宝」を用いた。輪宝紋は、出自に関わらず三宅氏が好んで用いたことが知ら れる。津軽氏のものは「菊輪宝」と呼ばれるものだが、他に「卍」を用いており、旗印は「錫杖」で、仏教に関わる標を好んで用いているのが面白い。

HP名字と家紋より


島津が祀る神々を見れば、彼らが新羅系の出自を持っている事が解ります。

冒頭に「一瞬にして島津氏のルーツが見えた思いがしました」と書きましたが、輪宝は映画「ベンハー」でご存知の、ローマの戦車の車輪をシンボル化したものであり、実戦的には車輪に刀、薙刀を付けて走り回った騎馬軍団の末裔であり、巨大な車輪を武器とし、たくさんの剣を鎧にした童子が輪宝を廻しつつ天を懸ける情景が描かれている。” HP名字と家紋)とあるように、こ の当時の最新兵器で他民族を圧倒し勝利してきた事を誇りとする民族であり、それを記念して自らのシンボルとしていたのです。そして、平坦地の少ない列島で は戦車の使用はできなくなったものの過去の栄光を輪宝として残し、現在の丸に十文字は薙刀を落としたのではなく単に簡素化したものだったのでしょう。

そして、「秦の始皇帝」の子孫HP「鴨着く島」)とあるように、彼らはイザナギ、イザナミを祀っているのです。

しかし、実は妻であるイザナミの血統が重要なのです(最終百嶋神代系譜参照)。

何故ならば、イザナミの兄である金山彦こそ秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ瀛(イン)氏であり、イザナミが秦帝国の末裔と言えるからです。

この点については、非常に重要なためダブル掲載した ひぼろぎ逍遥159、ひぼろぎ逍遥(跡宮)054秦の始皇帝と市杵島姫 をお読みください。

従って、HP「鴨着く島」が、つまり、わが南九州の地は13世紀から19世紀の半ば過ぎまでの6世紀半を、大陸系の王朝の末裔の支配下にあったことになる。」とされた事は至当と言うべきでしょう。

ただ、イザナギはただの有力な種馬だったに過ぎないのであって、女性のイザナミの系統こそが尊といものだったのです。

この点、厳密に男系をたどればそういうことになる。はイザナミ以前については例外となりそうです。

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百嶋由一郎最終神代系譜


秦の始皇帝は、姓は嬴(エイ)、諱は政(セイ)で「羸」こそが、東アジアに轟いた姓だったのです。

始皇帝と姻戚関係を結んだイザナミの一族を先祖神として誇りとした氏族こそが島津氏だったのです。

金 山彦の一族が、三水偏を加えたのは、渡海し列島に移動した事を意味していると思われますが、その瀛(イン)氏でも、イザナギ、イザナミを祖先神として島津 が祀っている事は象徴的であり、実質的にはその流れから生まれた勇猛な新羅の王子であるスサノウの系統だった事を意味しているのです。

ただ、スサノウを前面に出さないのは、ある意味で逆賊であったからであり、平安末期から歴史の主役として政治の舞台に躍り出た騎馬軍団の大半が、半島経由で入って来た大陸系(トルコ系、匈奴系、ツングース系、蒙古系)氏族だったのではないかと考えています。

多少の例外は、平氏であり、彼らは、新羅と言うより百済であり、半島と言うより江南の匂いがするのです。

霧島東神社の話をするつもりでしたが、結局、不得意な、中近世の話に終始し、怪しげな島津のルーツの話をしてしまいました。

言 いわけの様になりますが、都城周辺になると、どうしても通常のフィールド・ワークのエリアから外れ、遠方から頓珍漢な話をしているような気がしますが、そ れについては暖かくお許し頂きたいと思います。結論としては、霧島東神宮(神社)とは、島津氏の先祖神を投影したものであったという事になりそうです。

 いずれにせよ、宮崎県では都農神社こそが古代には重要であり、その主神が大国主とされている事をどのように理解するべきか、島津が入って来る以前にも大陸系氏族の大山祇神=月読命(トルコ系)、実はその子である大国主命の一族が大量に入っていると考えているのですが、まだ、実体を掴めないでいます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:41| Comment(0) | 日記