太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



無題.png

無題.png

無題.png

o0198005613264565002.png o0199005613260936971.png 無題.png

2015年09月06日

112 少彦名命について勘違いしていましたお詫びします?

112 少彦名命について勘違いしていましたお詫びします?

20150512

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


20150212付けで「066 少彦名命とは何か?」「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載を公開していました(一部再掲載)。

0.png

ここで、少彦名命について確認するために「ひぼろぎ逍遥」176天穂日命(アメノホヒノミコト)とは でも掲載した百嶋最終講演資料の図を、再度、見て下さい。

少彦名命は、客人(マロウド)権現=ウマシアシカビヒコチと書かれているのです。

現在、出雲大社の最上階、「客人(マロウド)の間」に秘かに匿われている神こそ、実は金海伽耶の金越智=ウマシアシカビヒコチ=少彦名命なのです。

  このウマシアシカビヒコチは朝鮮人(実は朝鮮半島に亡命したトルコ系匈奴の王)として隠されたのですが、実は天御中主(白山姫)久留米水天宮様の夫であり (実のところ日本人扱いされている「天御中主」も雲南省から列島に避退したヘブライ系ペイホー族なのですから両方とも渡来神なのですが)、同時に、大山 祇=月読命の父親でもあるのです。

 そして現に春日市に若き大国主=オオヤビコ(幼名)を祀る白玄社があり、小彦名命=須久ノ彦が実際に居たのです。

してみると、何のことはない、出雲大社のある出雲とは国譲りを行って移動した先であり、只のテーマ・パークだったのです。

ここまで踏み込んで良かったかどうか自信はないのですが、今は、なぜ、藤原不比等の「古事記」が、ここまでして嘘を設える必要があったのかを考えているところです。

単に、九州が国譲りの場所だった事を隠したかっただけならば非常に分かりやすいのですが…。


0.png
0.png

問題なのは下線を引いた少彦名命は、客人(マロウド)権現=ウマシアシカビヒコチと書かれているのです。現在、出雲大社の最上階、「客人(マロウド)の間」に秘かに匿われている神こそ、実は金海伽耶の金越智=ウマシアシカビヒコチ=少彦名命なのです。 の部分です。


百嶋先生のメモ書きでは、客人権現(ウマシアシカビヒコチ)=少彦名命と重なっているのですが、少彦名命の年齢が書かれていなかったため、奇妙だなあと思いつつも同一人物扱いにしてしまっていました。

 太宰府地名研究会の神社考古学研究班には四六時中百嶋玉音放送を聴き続けておられる百嶋先生オンリーの女性メンバーがおられ、私の解釈を正しくも誤りだと指摘してくれました。

  絵図と見比べれば何でもなかったのですが、思い込みとは恐ろしいもので、現在、大国主命を主神として祀る出雲大社の最上階の客人間に少彦名命が祀られてい るとすると大国主の協力者としてふさわしい事から、また、ウマシアシカビヒコチが「古事記」以外に痕跡を残していない事から実体を掴みたいと早とちりして しまったものでした。

 改めて不明を詫びたいと思います。今後も、このような間違いは続くと思いますが、そのつど修正して行くつもりですので、皆さんもそのつもりでお読みください。

 しかし、少彦名命については百嶋先生にも実体が掴めなかったようです。年齢(積年)を最後まで把握できなかったのです。しかたがないとは言え残念です。

 さて、最近、筑豊の田川周辺で正八幡宮にかなり遭遇します。

この事から、訂正修正文だけでは申し訳ないため、この正八幡宮について触れておきたいと思います。

 百嶋先生の解説表の左下に正八幡宮として馬にまたがった貴人がおられるのがお分かりと思います。

 この人物こそ博多の櫛田神社(出戻り本山=和歌山から本家博多に戻って来た)の祭神である大幡主=ヤタガラス(右上二人目)の父親となる人物であり、同時にイザナミの継夫でもあるのです。

 この大幡主については、音声の記録が残っていませんが、百嶋先生は、“大きな船団を率いてインド(インドシナ)方面と頻繁に行き来をしていた。”“多くの大きな幡を揚げて行き来をしていた事から大幡主(主は白族の尊称)と呼ばれた”と直接聴いています。

  播磨の国も大幡主の一族が跋扈していた領域ですが、「八幡神社」と書いてバハン神社ともハバン神社とも呼ばれる幾つかの神社が拾えます。これらも、現在の 祭神がどうであれ、正八幡宮を起源としている事は間違いないようです。この正八幡宮の本体は応神天皇などではさらさらなく大幡主の事だったのです。


バ ハン船=一般には和冦や海賊の船が八幡大菩薩の旗をたてていたので、八幡船をバハン船といったと解釈されているが、確実な史料で見る限りでは倭寇の船団を 直接バハン船と称した用例はない。八幡と書いてバハンとは読めない。バハンは日本の戦国時代以降使用された言葉で、日本側では「ばはん」「八幡船」と記す るほか、「奪販・番船・破帆・破番*・波発・白波」などの文字が海賊・海寇の意味で使用されてい る。語源は外来語と考えられる。江戸中期以後は転じて密貿易を意味するものとなった。江戸中期につくられた『南海通記』には倭寇が八幡宮のノボリを立てて いたので、八幡船と呼ばれたとの記事があり、この考えが明治に至るまでもちいられた。

古田史学会報 200368日 No.56 池田市 山内玲子(古田史学の会)より

ついでに、大幡主の父親は白山姫こと天御中主命の弟となる白川伯王(刺国サシクニ大神)大政大臣(白川伯王家のルーツ)となります。

大陸と行き来する能力を持った正八幡の王こそ明治維新前後まで天皇家の宮廷祭祀を司った白川神道の家元白川伯王家のルーツ刺国大神であり一大率でもあったのです。


「倭人伝」の刺史はあまり注目されませんが、ネット上のさんは非常に正確に描いておられますのでご紹介します。


女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。(諸國)これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。


も ともと、この 「州」 には長官はなく、ただ 司隷 のみは別格で 司隷校尉 という首都圏長官がおかれました。 したがって実質的な行政単位では、もっ とも大きい単位が 「郡」 ということになります。 「郡」 には長官がおかれ、これを 「太守」 と言います。 一つの 「州」 には平均して八つの  「郡」 があり、これら 「州」 に属する複数の 「郡」 の行政を監察する役目の役職があり、それがここにいう 「刺史」 なのです。

「刺史」 は給料も安く、地位も低いものであったようですが、「郡太守」 の部下というわけではなく、皇帝に直属していました。 
 「諸国はこれをおそれている。 (一大率は)常に伊都国に駐在して仕事をしている。 中国における刺史のようなものである。」 というにはこうした背景があります。
 さらに 「郡」 の下には 「県」 がおかれ、おおきく重要な 「県」 には 「県令 (けんれい)」、小さな 「県」 には 「県長 (けんちょう)」 という長官が置かれます。
  後漢 の時代までは以上のようであったのですが、やがて 三国時代 になると 「州」 には 「州牧」 という長官が置かれるようになり、まれに格下の  「州刺史」 が任命されることもありました。 しかしこの場合の 「州刺史」 は本来の監察官という性格にくわえ 「州」 の長官であり行政官でもある性 格を濃くしていきます。
  さて、これらの 「県令」 も 「県長」 も 「郡太守」 の部下ではなく皇帝に直属しており、また 「郡太守」 も 「州牧」 の部下ではなく、やはり 皇帝に直属していました。 このように皇帝はすべての行政官を自らに直属させることにより権力の集中をはかっていたのでした。

0.pngより

0.png


最終百嶋神代系譜より切り出し


なお、このブログがオンエアされる9月半ばには既に白川伯王家の神社をご紹介している予定です。

106白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”を参照下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:17| Comment(0) | 日記