太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年09月24日

117 ブログNo117は保留とさせていただきます

ブログNo117は保留とさせていただきます
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:13| Comment(0) | 日記

2015年09月29日

118 川崎町(福岡県田川郡)大石神社の「石」の字には何故「、」が付いているのか?

118 川崎町(福岡県田川郡)大石神社の「石」の字には何故「、」が付いているのか?  

20150521

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

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何故か「、」が付された大石神社神額              同社正面

福岡県田川郡川崎町川尻に大石神社があります。何の変哲もない普通の鎮守の神様といった面持ちなのですが、地元では、何故石に「、」が付されているのかが分からず謎とされています。

百年程度の話ならば何らかの伝承(うちのじいさんが、そのじいさんのじいさんから聴いた話といった具合で)が継承されているはずであり、かなり古い時代に淵源しているのではないかと思われます。


カーナビ検索 福岡県田川郡川崎町川尻1482-2

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参拝殿内部の神額も文面が異なるにも関わらず、明らかに「、」付きの「石」が刻まれていることから、単に元の書体を尊重しそのまま書き写したといったものでない事は明らかです。

普通は地元の「田川郡誌」などから当たるのが一般的ですが、元々の話が、滋賀県近江八幡市在住の森山宣昭氏が1997年に出版された「豊前國田河郡池尻村今昔」に「かぐめ山」の事が書かれているという話からこの神社の探訪探査が始まった事から、まずはそちらからご紹介しましょう。

この「かぐめ山」については当方にとっても重要な関心事でもあり、別稿に廻します。

その「かぐめ山」の麓に鎮座するのが大石神社であり、話がここからスタートしたのです。

当初、「、」付き「大石」についての問題は気になっていましたが、同じ「、」付き白土の問題の謎が解けた事と、地元古墳をウォッチャーのN氏から山上に巨石があるとの話を聴いた事から、多少、勘が働き、急遽、取上げる事にしたものです。

まず、川崎町の隣町大任町大字大行事に東、西「白土」と言う小字があります。

これは、白川伯王家の所領地であった可能性が高く、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ瀛氏の一族(大幡主、金山彦…)の一族が住んでいた場所であった可能姓を「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)054 秦の始皇帝と市杵島姫 106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”で書いています。

そこでもふれたように、明治の維新政府は白川神道から吉田神道に切り替え、白川伯王なる千数百年以上前まで遡る「白川伯王」(天皇家より古い姓)という姓を変えさせたのです。

その際「白王」の横一棒を外し、「白土」とした際に痕跡を留めて「土」+「、」と表記した事が分かっていました。

してみると、今回の大石も「石」に「、」が付されている事から、元は「石」ではなく「右」「百」だったかなどと考えては見たのですが、しっくりこず棚上げにしていたのでした。

しかし、今回、山上に大岩塊があるという話を聴いた瞬間、「大」は「天」だったのではないかと考えたのでした。その痕跡を留めるとしても、「大」に「、」を付すと、「犬」になるため、「石」に「、」

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を振ったのではないかと考えて見たのです。

 当然、何がしかの当てがあったからですが、一つは「天石神社」です。


天石門別神
アメノイワトワケノカミ

別称:天岩間別神、天石戸別神、櫛石窓神(クシイワマドノカミ)、豊石窓神(トヨイワマドノカミ)性別:系譜:天孫降臨に随伴する神々の一柱。天太玉神から生まれた子神格:山の神、石の神、門の神神社:櫛岩窓神社、天之石立(イワタチ)神社、天岩門別神社、大祭天石門彦神社
 神話には、「この神は御門を護る神さまなり」とある。

 神名の石門は文字通り岩でできた扉を意味し、これに天がつくと、天上界の入り口にある堅固な門というふうに解釈される。 天孫邇邇芸命が地上に降臨するときに、天照大神は、まず随伴する主立った神々を指名したあとで、知恵の神である思兼神、天岩戸の扉を怪力で開けた天手力男神とともに天石門別神を加えた。 その役割は、天孫が地上で政治を行うときに、その宮殿の出入り口に在って天孫に奉仕し、悪霊の進入を防ぐというものであった。
  実際に天石門別神は、古来、天皇の宮殿の四方の門に祀られていた。 天皇が住む宮殿、宮中、内裏の中には、天皇家の始祖に関する神をはじめ、御膳の神や託宣の神といった様々な神が祀られていた。 そうした主だった神とは別に、宮殿に付属する井戸の神や竈の神なども祀られていたが、その中で御門の神として祀られていたのが天石門別神と同一神とされる 櫛石窓神・豊石窓神であった。
 この神の原像は、神名にもあるように岩と関係が深いようである。 日本のみならず、世界各地でも石に神霊が宿るという信仰がある。 各地の石神信仰や巨石信仰は今も生き続けている。 当然、神社にも巨石、巨岩を御神体として神霊を祀っているところが多くある。 天石門別神を祀る神社もそうしたもののひとつである。 「石座(イワクラ)」ともいわれるように、神秘を感じさせる巨石や御神体山の上にある石などは、神の依り憑くところと考えられたのである。 山の上にいる石の神、それは普段は気配しか感じられない山の神が、人間に見えるような形をとった依り代でもある。
 万葉集に「河内王を豊前国(=大分県)の鏡山に葬る時」という題のつけられた「豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし」という歌がある。 河内王が鏡山を墓として埋葬されたという歌だが、このときの岩戸とは死者が他界に行く入口を指している。 古来から日本では他界に去った死者の霊は山の神となって生者の守り神となると考えられていた。 つまり、このときの岩戸は生と死の境目を意味しているといえる。

  天石門別神は、そういった理由で家の門、村の境など、あらゆる境界を司る神と考えられ、さらに他界から進入しようとするあらゆる災厄を防ぎ、人間の平穏な 生活を守護する神とされたのである。 石造りかどうかに関わらず、どこの門にでも宿っているという点で、マイナーな名前にも関わらず、身近な神であるといえるだろう。

「天石門別神」www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/iwatowake.html による 


天石門別神あめのいわとわけのかみ 

別名櫛石窓神:くしいわまどのかみ 奇石窓神:くしいわまどのかみ 豊石窓神:とよいわまどのかみ 豊磐間戸命:とよいわまどのみこと 櫛磐間戸命:くしいわまどのみこと……

*       『古事記』によると、邇邇芸命は天降りされた折、三種の神器(玉・鏡・剣)を与えられ、 五伴緒神とともに思兼神手力男神・天石門別神を従えた。
 天石門別神の亦の名を櫛石窓神、豊石窓神といい、御門の神である。『古語拾遺』によると、豊磐間戸命と櫛磐間戸命は
太玉命の御子神と ある。櫛は奇で、豊と同じく美称。窓は真門の意味。『延喜式神名帳』宮中神の条に「御門巫祭神八座」とあって、 「櫛石窓神 四面門各一座」と「豊石窓神 四面門各一座」の神名を掲げている。 御殿の四面の窓、あるいは門の神で、外敵侵入を防塞する機能をもつ。この神を祭祀するのは御門の巫である。天石門別神は、天照大御神がお隠れになった天石屋戸が神格化したものとする説がある。『古事記』によると、天石門別神と手力男神は別の神だが、天石屋戸を開けた手力男神を天石門別神と同神とする神社もある。門守の神として、各神社の参道の脇や、神門などに祀られている場合が多い。

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敬愛する「玄松子」による


「玄松子」による貴重なリストから主なものを拾い出すと、以下の様になります。


天戸八坂神社(高皇産靈神豊磐間戸神櫛磐間戸神素盞嗚神

天乃石立神社豊磐間戸命櫛石間戸天磐門別命天照大姫命

天太玉命神社(天太玉命大宮賣命豊石窗命櫛石窗命

石門別神社(天津石門別命

天石門別神社(天手力男神天石門別神

八剱神社(八剱神社 櫛岩窗神稲荷神社 倉稻魂神

大祭天石門彦神社(天石門別命手力男命

天岩戸神社(櫛御毛奴命あるいは櫛岩窓戸命豊岩窓戸命

天石門別安國玉主天神社天石門別神(天津羽々命の父、天児屋根命の外祖父)


しかし、大石神社の大国主命+豊磐間戸神櫛磐間戸神という組合せはありません。

今のところ、豊磐間戸神櫛磐間戸神の 二神はあくまでも門衛であり、久留米の高良大社直下の山川町に鎮座する、高良皇子神社(高良玉垂命の九人の皇子を祀る神社)に門衛として祀られた坂本社の 二神でもあり、最近目にしたのは、神武天皇の生誕地とされる鹿児島県高原町狭野の狭野神社にも門衛として二神が祀られている事から、あくまでも門衛の神で あり、その地域の主神が加えられている様に見えるのです。

 このため、大石神社の祭神は大国主命であり、豊磐間戸、櫛磐間戸の二神は門衛でしかなかないのではないかと思えるのです。

 現在、@古代“出雲”は九州本土を中心に、西日本全域にその領域を持っていた。Aその出雲を譲り山陰の一分に限定したのが国譲り神話の本質であり、大 山祇、その子大国主の一族の領域の一部を明渡したのが国譲りであり、出雲神話の舞台は九州であった。Bそのため宗像大社の本来の祭神である大国主は隠され ている。C筑豊地方の神社に大国主の像を奉納する民間習俗が確認できる。D九州各地に現出雲以上の出雲系と言われる多くの神社が大量に存在する。Eこのた め日向国一宮都農神社の主祭神が大国主とされる。F鹿児島県吹上浜、熊本市西里、福岡県筑前町、岡垣町…に大国主を祀る大己貴神社が存在する。…といった 方向で検討していますが、現在の中間報告としては、大石神社とは、本来、巨石信仰と結びついた大国主を祀る神社だったのではなかったかと考えています。

 国譲りを余儀なくされた大国主の領域だったが故に、敗残し隷落させられた神社として、「天石」を「大石」に変えざるを得なかったと見たいのですが、お許し頂けるかどうかは分かりません。


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「かぐめ山の巨石」 中野 貢 撮影による

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:41| Comment(0) | 日記

119 草部吉見と豊玉彦(ヤタガラス)のご先祖が雲南省から入って来たルートについて

119 草部吉見と豊玉彦(ヤタガラス)のご先祖が雲南省から入って来たルートについて  

20150521

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 無題.png考えれば、当ブログも「阿蘇の神々は雲南省麗江からやって来た」と言う故百嶋由一郎氏の衝撃のメッセジによって始まったようなものであり、現在、久留米地名 研究会のサブ研究会として神社考古学勉強会が月例で継続されていることも、全ては百嶋由一郎氏の研究の延長に成立しているのです。勿論、「阿蘇の神々は雲南省麗江からやって来た」というメッセジは先生のほんの一分でしかありません。

ただ、あまりにも明瞭に自らのルーツを描いて見せてくれたところに皆が等しく衝撃を受けたのです。

これについては、「ひぼろぎ逍遥」の初期のブログで公開していますが( 033 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? 支 那)、もう一派の白族の移動ルートと併せ、再度、そのコースについてお話しようと思います。

学会、通説派、教育委員会、それらの権威に尾を振る、既存の郷土史会、史談会の方々は口を揃えて否定されることは火を見るよりも明らかですが、私達には始めから権威などないため自己保身に走り口ごもる事も一切ありません。

 百嶋先生は、草部吉見系(阿蘇氏=耳族=多氏=宇治族=黎族=支那族…)について話しておられましたが、もう一派、列島の民族を形成する重要な一族が同じく肥後に入っている(後に博多湾岸に移動)と考えておられた様です。

 草部吉見系はビルマ・タイ系の黎族ですが、同じく雲南省にいて漢族からの圧迫を受けていたヘブライ系の白族(ペイツー)が、同時期(恐らく紀元前)に海南島に移動し列島に新天地を求めて亡命していると考えられていたのです。

 当初、百嶋先生から聴いた話は僅かでしたが、徐々に受け取った資料などを解読してゆくに連れて、恐るべきことが分かって来たのです。 始めは、皆、あまりにも荒唐無稽な話に圧倒されて反論することもできずに狐に抓まれたままでしたが、多くの神社に対する的確な話を聴くに従い、徐々に引き込まれていったのでした。

雲 南省でも最奥部、ビルマ、ラオス、中国の国境が集中する一帯、玉龍雪山の麓に麗江という美しい都がありますが、ここに支那という地名を携え逃げ込んだ黎族 は、非常時に逃げ込むためのもう一つの支那(密支那)を準備しており(インパール作戦の激戦地ビルマのミッチーナ=ミートキーナ)、その一帯から流れ出す メコン川(中国名瀾滄江)を利用すれば、南ベトナム(コーチシナ)のサイゴン(現ホーチミン)のデルタ地帯に労せずして流れ下ることができたのです。

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一方、雲南省でも省都昆明(クンミン)の滇池(テンチ)周辺にいた白族は紅河(ファンガ)を流れ下り、ベトナムのハノイに流れ下る事ができるのでした。

百嶋先生は、「示し合わせて…」と言われていました。漢族に追われて山上に追いたてられた両派でしたが、そこも決して安住の地とはならず、ある時期、海南島(ハノイのハロン湾沖)に各々集結し、列島を目指したとされていました。

無題.png同じ雲南省であっても、山岳地帯の話であり、麗江から昆明に移動する方がはるかに障害が多く、共に漢族と戦っていた両族は、ある時期、これ以上この地に止まる事が不可能と判断したのでしょう。

麗江からメコン河を下り、サイゴン沖から黒潮を利用して北上し、海南島を目指す黎族と、昆明からファン河を下り、ハノイ沖から海南島を目指す白族の二族が海南島で合流し、大量の木材資源を元に、船を建造し列島を目指したと考えておられたのです。

当然、海南島には巨木が生い茂っていたはずです。白族 右

無題.pngまた、呉橋、鼓楼を造る技術は現在でも雲南省、貴州省を中心に少数民族のトン族などに残されています。

また、滇池周辺に存在した滇王国の青銅冶金の技術の精度の高さ素晴らしさは良く知られています。

その二つの技術をもってすれば、造船用の青銅製の斧などを準備する事は十分に可能だったはずであり、列島渡海への造船を含め非常に現実味を帯びています。

彼らは、青銅冶金、釘なしで高楼閣を建てる技術、水田稲作の技術を持って列島に移動したのです。

実は平坦地よりも水を得やすい山岳地帯の農耕技術の方が早く発達したと考えられます。

真平らな中原では水を引く事はむしろ難しく、陸稲栽培になりがちですが、山岳地帯では、石垣を組み、水路を巡らし、水稲稲作に移行しやすくなります。

対して、平坦な関東平野の台地では、水は川底深く流れ、畑作、雑穀栽培に停滞しやすくなるのです。

事実、関東平野が水田稲作を展開するのが遅れたのですが、大規模な堰堤が建設できるようになるには、鉄の大規模生産を待たなければならなかったからです。

農業土木はアジア・モンスーン地帯特有の技術ですが、それを最初に手に入れた彼らこそ、列島に水田稲作を持ちこんだ人々だったのでであり、新大陸を目指したピルグリム・ファザースにも似て、異なる両民族の移動によって列島の開拓が始ったのです。

黎族は出発地の麗江と天草下島の苓北町に地名の痕跡を残し、列島の重要氏族に成長します。

同じく白族は、当時糸島半島に拠点を置いていた大率家の要請によって、肥後から佐賀の東半分、小郡、朝倉、日田方面に移動し、福岡市周辺に展開することになります。

その際、熊本(市の中心部千葉城町付近に隈本地名があった)から隈地名を持って移動したのではないかと考えておられました。その一族こそ、博多の櫛田神社の主神である白族の神様、大幡主だったのです。


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紅河ハニ族イ族自治州は雲南省東南部に位置します。 昆明市の真南に位置する州で、 南部をベトナムと接しています。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記