太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



無題.png

無題.png

無題.png

o0198005613264565002.png o0199005613260936971.png 無題.png

2015年09月13日

114 霧島東神社初見 “鹿児島県高原町の霧島東神社は島津の先祖神を祀る神社か?”

114 霧島東神社初見 “鹿児島県高原町の霧島東神社は島津の先祖神を祀る神社か?”  

20150513

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

無題.png

霧島東麓のカルデラ湖「御池」


カルデラ湖御池を望む霧島東麓に霧島東神宮があります。

概して、鹿児島、宮崎の神社は、明治維新後に大規模に祭神が弄られているようで、あまり関心を維持できずに、主としてさほど重視されてない小社や民俗を中心に見て回っていた事から、この神社も初見と言う情けない有様です。

とは言え、霧島東神宮の見聞はそれなりに得るものがありました。

無題.png

霧島東神宮 カーナビ検索 宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田6437 :0984-42-3838


今回、図らずも霊能者グループの提案を受けて気が向かないまま同社を見せて頂きましたが、今まで悩んできた島津氏の問題、出自、先祖神の問題が一気に解決を見た気がしています。

 この点、グループのキャップのF女史に感謝致します。

 以前から「宮崎神宮、霧島神宮は格式から言えば下の下…」という百嶋由一郎先生の云いに従い、無視とは言わないまでも触れずにいただけだったのですが、百聞は一見にしかずの云いのとおり、一瞬にして島津氏のルーツが見えた思いがしました。

 島津は平家追討の恩賞として下向した渋谷氏などと同様の関東武士団の一派であり、一部には東北地方にも島津氏は展開しているとも聞きます。

 島津氏は西郷のイメージが強すぎて、なにやら南方系ポリネシアンのようなイメージがあるのですが(西郷は島津に潜り込んだ菊池一族の流れなのです)、それは一般の民衆の話であって、支配層は関東から下向した渡来系氏族だったのです。

 その話に入る前に、一応、同社の祭神を確認しておきましょう。

 あくまでも、島津が祀っている=彼らが重視している神々が何なのかが理解できれば、島津のルーツが見えて来るのです。


御祭神
伊弉諾尊伊弉冉尊
配祀
天照大神瓊瓊杵尊天忍穗耳尊彦火火出見尊
鸕鷀草葺不合尊神日本磐余彦尊


先ず神武天皇が最後尾に扱われている事自体が、天照=神武の系統、つまり、呉の太伯の流れと無関係であることが見て取れます。

配祀神を見ても高木大神の息子であるニニギに、阿蘇系の海幸彦、新羅系の山幸彦、その子のウガヤフキアエズと新羅系が濃厚です。例外が海幸彦ですが、海幸系、山幸系共に後には合体し、物部を形成しますので、簡単に言えば蘇った物部氏の再来を思わせます。

無題.png
輪宝      丸に十の字の島津の家紋     輪宝  

ここで、島津氏が何なのかを概括してみたいのですが、中近世は疎いため、その筋の方に頼るしかありません。ただ、幾つものファクターを押さえてさえおけば、あながち酷い外れはないため、その上で主なものを引用させて頂いています。


 初代島津忠久薩摩国大隅国日向国3国(初期には越前国守護にも任じられた)の守護職に任じられて以降、南九州の雄族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。また江戸時代には外様大薩摩藩主として存続し、幕末期には雄藩の一つとなって、明治維新の原動力となった。尚武の家風として知られ、歴代当主に有能な人物が多かったことから、俗に「島津に暗君なし」と称えられる。これにより鎌倉以来明治に至るまでその社稷を守り通すことに成功した。また、越前、信濃駿河若狭近江に支流としての島津氏が派生し、それぞれ越前島津氏信濃島津氏河州島津氏若狭島津氏江州島津氏と呼ばれている。

…中略…

島津氏は、秦氏の子孫惟宗氏の流れを汲む惟宗基言の子の惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津荘荘官(下司)として九州に下り勢力を拡大、その子の惟宗忠久が、新興勢力である源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされ、のちに薩摩国出水平野に城を築き、拠点を移している。しかし、現在では同じ惟宗氏でも広言ではなく惟宗忠康の子孫とする説が最も有力である。

ウィキペディア(20150513 17:30)による


この惟宗氏のルーツは秦氏(秦忌寸・秦公)であり、秦氏は応神天皇の時代に朝鮮半島から移住したとされる弓月君(ゆづきのきみ)を始祖とし、815年に編纂された『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」によれば、弓月君は「融通王」のことで、融通王とは実は「秦の始皇帝」の子孫なのだ。

 となると島津氏のルーツは大陸王朝の秦帝国につながることになる。つまり、わが南九州の地は13世紀から19世紀の半ば過ぎまでの6世紀半を、大陸系の王朝の末裔の支配下にあったことになる。厳密に男系をたどればそういうことになる。

HP「鴨着く島」による

無題.png

古代の仏教では、法(真理)をもってこの世を治める王を転輪聖王といった。輪宝は、この転輪聖王の感得する七宝のひとつで、聖王は巨大な車輪を武器とし、 人間の迷いや悪の根を断ち、世の中に平和と幸いをもたらすことを願いとした。輪宝は法輪ともいわれるが、仏の教えは一つところに止まることなく、あらゆる 方向に転回してゆくことをあらわしたものであった。それが、輪宝は「真理を回らすもの」であることに意味が抽象化され、仏教のシンボルとなり広まっていっ た。インドの国旗の中央に描かれているのも輪宝である。

無題.png輪宝は、仏教伝来とともに日本にも伝来した。日本で最も古いものは、薬師寺の仏足石に刻まれた輪宝といわれている。平安時代に描かれた国宝の『信貴山縁起絵巻』「延喜加持ノ巻」には、たくさんの剣を鎧にした童子が輪宝を廻しつつ天を懸ける情景が描かれている。すでに輪宝が文様として、寺院などに広まっていたことが知られる。

や がて、仏具として重んじられるとともに、護身用の武器として用いられて修験者の間に広まった。修験道は役の行者が開祖という山岳信仰に発した古神道の一つ で、その実践者は修験者または山伏とよばれた。かれらは仏教に帰依するとともに武力集団としての側面も有し、のちには山から里におりて神官になった例も多 い。このようなことから、輪宝は寺院の印となり、とくに天台系の聖護院ではこの紋を大切にした。やがて神仏混淆の時代になると、神部神社や六所神社などで も神紋に輪宝が用いられるようになった。いまも、修験道系の寺院や神社で輪宝の紋を見ることが多い。輪宝紋は車のカタチをしているのが特徴で、剣のカタチ をした矢が数本ついている。その矢の数によって「三つ剣輪宝」「八剣輪宝」などと称された。

無題.png『見聞諸家紋』には、讃岐の三宅氏が使用と書かれている。江戸時代には、大名の三宅、加納、津軽の三家が用 いた。三宅氏の祖は、南北朝時代に南朝方で活躍した備前の武士児島高徳であるという。その子孫が備前はもとより三河へも移住したことで、輪宝紋は三宅氏の 代表的家紋して広まった。一方、三宅氏は三宅連の子孫で、備前国児島郡三宅庄から起こったともいう。三宅庄は聖護院との関係も深く、修験道五流のあるとこ ろであった。当然、修験者も多く、みな輪宝を所持していた。それが、のちにシンボル化されて三宅氏の輪宝紋が生まれたようだ。そして、佐々竹・漆戸・塩 入・根本など三宅一族と思われる諸氏が輪宝を家紋としている。
  戦国時代に摂津の国人として活躍した三宅氏は藤原姓を称したが、家紋は「重折敷輪宝」を用いた。輪宝紋は、出自に関わらず三宅氏が好んで用いたことが知ら れる。津軽氏のものは「菊輪宝」と呼ばれるものだが、他に「卍」を用いており、旗印は「錫杖」で、仏教に関わる標を好んで用いているのが面白い。

HP名字と家紋より


島津が祀る神々を見れば、彼らが新羅系の出自を持っている事が解ります。

冒頭に「一瞬にして島津氏のルーツが見えた思いがしました」と書きましたが、輪宝は映画「ベンハー」でご存知の、ローマの戦車の車輪をシンボル化したものであり、実戦的には車輪に刀、薙刀を付けて走り回った騎馬軍団の末裔であり、巨大な車輪を武器とし、たくさんの剣を鎧にした童子が輪宝を廻しつつ天を懸ける情景が描かれている。” HP名字と家紋)とあるように、こ の当時の最新兵器で他民族を圧倒し勝利してきた事を誇りとする民族であり、それを記念して自らのシンボルとしていたのです。そして、平坦地の少ない列島で は戦車の使用はできなくなったものの過去の栄光を輪宝として残し、現在の丸に十文字は薙刀を落としたのではなく単に簡素化したものだったのでしょう。

そして、「秦の始皇帝」の子孫HP「鴨着く島」)とあるように、彼らはイザナギ、イザナミを祀っているのです。

しかし、実は妻であるイザナミの血統が重要なのです(最終百嶋神代系譜参照)。

何故ならば、イザナミの兄である金山彦こそ秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ瀛(イン)氏であり、イザナミが秦帝国の末裔と言えるからです。

この点については、非常に重要なためダブル掲載した ひぼろぎ逍遥159、ひぼろぎ逍遥(跡宮)054秦の始皇帝と市杵島姫 をお読みください。

従って、HP「鴨着く島」が、つまり、わが南九州の地は13世紀から19世紀の半ば過ぎまでの6世紀半を、大陸系の王朝の末裔の支配下にあったことになる。」とされた事は至当と言うべきでしょう。

ただ、イザナギはただの有力な種馬だったに過ぎないのであって、女性のイザナミの系統こそが尊といものだったのです。

この点、厳密に男系をたどればそういうことになる。はイザナミ以前については例外となりそうです。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜


秦の始皇帝は、姓は嬴(エイ)、諱は政(セイ)で「羸」こそが、東アジアに轟いた姓だったのです。

始皇帝と姻戚関係を結んだイザナミの一族を先祖神として誇りとした氏族こそが島津氏だったのです。

金 山彦の一族が、三水偏を加えたのは、渡海し列島に移動した事を意味していると思われますが、その瀛(イン)氏でも、イザナギ、イザナミを祖先神として島津 が祀っている事は象徴的であり、実質的にはその流れから生まれた勇猛な新羅の王子であるスサノウの系統だった事を意味しているのです。

ただ、スサノウを前面に出さないのは、ある意味で逆賊であったからであり、平安末期から歴史の主役として政治の舞台に躍り出た騎馬軍団の大半が、半島経由で入って来た大陸系(トルコ系、匈奴系、ツングース系、蒙古系)氏族だったのではないかと考えています。

多少の例外は、平氏であり、彼らは、新羅と言うより百済であり、半島と言うより江南の匂いがするのです。

霧島東神社の話をするつもりでしたが、結局、不得意な、中近世の話に終始し、怪しげな島津のルーツの話をしてしまいました。

言 いわけの様になりますが、都城周辺になると、どうしても通常のフィールド・ワークのエリアから外れ、遠方から頓珍漢な話をしているような気がしますが、そ れについては暖かくお許し頂きたいと思います。結論としては、霧島東神宮(神社)とは、島津氏の先祖神を投影したものであったという事になりそうです。

 いずれにせよ、宮崎県では都農神社こそが古代には重要であり、その主神が大国主とされている事をどのように理解するべきか、島津が入って来る以前にも大陸系氏族の大山祇神=月読命(トルコ系)、実はその子である大国主命の一族が大量に入っていると考えているのですが、まだ、実体を掴めないでいます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:41| Comment(0) | 日記

2015年09月16日

115 霧島岑神社初見 “鹿児島県小林市の岑(ミネ)神社とは何か?”

115 霧島神社初見 “鹿児島県小林市の(ミネ)神社とは何か?”           

20150513

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回は初見の神社から数社を取り上げます。新たに五社ほど訪問させて頂きましたが、小林ICからもほど近い霧島神社(延喜式内社)をご紹介します。

無題.png

霧島神社正面参道(上) 同社参拝殿(下)

無題.png

霧島神宮 カーナビ検索 宮崎県小林市細野夷守: 0984-23-0855


島津らしい質実剛健さが感じられる簡素な造りですが、参拝殿に入ると龍と象をあしらった驚くほど精密な彫刻の装飾が目に飛び込んできました。

象が入るのは山岳修験の影響…と短絡した理解をしてしまいますが、近くにクルソン渓谷、そして峰山、がある土地柄ですからまずは無難な解釈とは言えそうです。

それに触れたついでに申上げますが、表参道階段の下に仏像が二体置かれている事だけで、山岳修験が入っていると考える事ができますので、祭神が何であるかを考える際にもヒントになってきます。

そもそも、「霧島神宮」という呼称からも山岳修験の匂いを感じているのです。

ともあれ、ご覧いただきましょう。

無題.png

勿論あわせですが、立派な彫刻であり、これに匹敵する者は菊池市の海神神社で見たものぐらいです

さて、祭神です。

霧島岑神社祭神


瓊々杵命(ににぎのみこと)と木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)

鸕鷀草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)と玉依姫命(たまよりひめのみこと)

瓊々杵命、彦火々出見命、鸕鷀草葺不合命は皇室の祖先として日向三代と称せられ、木花咲耶姫命、豊玉姫命、玉依姫命はそれぞれの配偶神である。

ウィキペディア(201505140915

                                                                        

勿論、百嶋神社考古学では異なる見解を採りますが、鸕鷀草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)と玉依姫命(たまよりひめのみこと)について、この玉依姫はヤタガラスと櫛稲田姫の間に生まれ、大山咋の妃となった鴨)玉依姫の事と考えます。

この日向三代がそのまま社務所の祭神として掲示されています。

ところが、参拝殿横に置かれた「霧島岑神社祭神」(多分こちらが古いはずです)を見ると明らかに異なっています。

無題.png

社務所上:タマヨリヒメ+ウガヤフキアエズ、トヨタマヒメ+山幸、木ノ花咲クヤ+ニニギ

無題.png

参拝殿:神武、タマヨリヒメ、ウガヤ、トヨタマヒメ、山幸、海幸、木ノ花咲クヤ、正勝吾勝(太子)、天照


左右に神武、天照が配されています。この格下の最左端に神武天皇が置かれるのは異例で、ひいては日向全体の神武の位置付けを疑い、狭野神社の神武も(神武僭称)第10代崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)ではなかったかと瞬間考えたほどだったのです。

そして、旧霧島岑神社御祭神」と社務所の公式見解との明確な違いは、中央に火照命(海幸彦)が置かれ、右端筆頭に何故か正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(太子)が置かれている事です。

つまり、彦山山岳修験の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が、しかも、太子(皇位継承者)として掲載されている事自体が、山岳修験の影響を強く受けた神社であったことが解るのです。

社務所の掲示神は、それを修正し薄めようとしている事が見て取れます。宮司は良くご説明される方の様ですからこの点(神仏分離による祭神の変更)を聴いて見られてはいかがでしょう。

言うまでも無い事ですが、百嶋神社考古学では中央に書かれた火照命(海幸彦)と彦山山岳修験の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(太子)は同一神と考えており、祭神としてはダブっていると理解しています。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 20:58| Comment(1) | 日記

2015年09月21日

116 千木について “男千木と女千木、そして千木は日本だけのものなのか?”

116 千木について “男千木と女千木、そして千木は日本だけのものなのか?”   

20150516

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


神社を見て回っておられる方で、千木の男女を云々される方をお見かけします。

 ところが、神職側には「男千木、女千木にはほとんど根拠が無い」と言われる方が多いように見受けられます。

 というよりも、“そう言っておく方が実情に通じている”とでも言いたげに話される方が多いようにさえ思います(多分、神官養成の過程での影響によるところが大きいのでしょう)。

 中には、“あんなものは全くあてにならない! そんな話は素人の戯言で聴くに値しない…”といった扱いをして軽くあしらっておられる御神職の方の話も何度か傍で聴いております(具体的には伊勢神宮の内宮の方 他でしたが)。

 勿論、訊ねられている方はそれなりに真剣そのもので、少しでも神様や神社の事を知りたいからなのですが、当の神職の方が鼻であしらうといった雰囲気なのです。


千木、鰹木のない神社もありますが、あくまでも一般的にですが、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(楯向きに削る)にし、女神の社は内削ぎ(横向きに削る)にしています。さらに、鰹木の本数も、奇数は男神、偶数は女神とされます。

無題.png

まあ、これが現在の“神社業界”の実態といったところと理解していることから、巷の議員先生同様、こちらもあまり真顔で反論する気にもなれないのですが、ど うも明治期に時流に乗り成り上がった伊勢神宮などが、終戦直後の大恥かきも忘れて、公開講座(九州王朝論)の講演内容に対して口出しをしてきたりするよう になってくると、言うべきことは言っておかなければならないという気にもなってくるのです。

 久留米大学の公開講座の開始早々の頃ですが、某講演者が伊勢神宮について学問的に言及したことに対して、戦前の国体明徴運動期の手痛い反省も忘れて大学側に対してクレームを付けてきたという話があるのです。

 事実、久留米地名研究会の活動開始当初においても、伊勢神宮からの圧力についての話は別の件で何度か耳にしていましたので、個人的には大方想像が着く気がします。

要は九州王朝論そのものが不敬であり許しがたい。少しはお灸を据えてやれ!(神社でお灸はおかしいですが)との皇国史観丸出しの教条的な筋からなのか?個人的パフォーマンスによる点数稼ぎだったのかも知れません。

まさか、大神社(宮)が本気で一大学の講義内容に対して口を挟んでくるなどといった時代錯誤の憲法違反を正面切ってやってくるとは考えられませんので。

最も必要ならばいつでも憲法など破り…というより、一度として憲法を守って来たことない国で憲法を守れ!などと馬鹿騒ぎをするほど愚かではないつもりですから、当方もそのつもりで書いてはいるのですが…。

その実、藤原天皇制成立以降、伊勢は一度として天皇家の公式参拝など存在しなかった(つまり近畿大和朝廷にとっては祖先神などでは全くなかったからなのですが)のです。

このため、高々百数十年前に陽の当たる場所に這い上がって来た自らこそが、千数百年の長きに亘って近畿大和朝廷から排除されてきた九州王朝系の神社(特に上下宮ともに)でしかなかったのです。

その実、自らの出自を忘れて九州王朝論をやり玉にしていること自体が極めてアイロニカルに見えてくるのです。

それは、百嶋神社考古学最終神代系譜の左半分を見れば伊勢神宮が如何なる存在であるかは一目瞭然でしょう!


内宮=天照大御神=神武天皇の腹違いの実の姉=卑弥呼(九州王朝実質第2代天皇)

下宮=豊受大神=辛国息長大姫大目命=卑弥呼(天照)代行 宗女壱与までのアンカー

(百嶋神社考古学最終神代系譜参照)

そもそも、神武、天照(弟、姉)も共々架空のでっち上げだとしてきたのが、近畿大和朝廷一元史観の学者どもなのです。

 これらについては当事者でもなく、クレマーも点数取のための個人的キャンペーンかも知れないことから大人の対応として話を戻すことにしますが、既に特高警察が公演中止の指示を出す時代は目の前まで来ているのではないかと考えているところです。

 さて、千木の話に戻りますが、多くの神社(伊勢内宮下宮も決して例外ではない)は、権力者の交代や世情の移ろいに合せ、自らの祭神を隠し又、神名を変え又、そのものも入れ替え又、追加し又、裏では祀りながら生き延びてきたのです。

 それが多くの神社に境内、境外の摂社(本殿から排除することで許されてきた)が存在する理由でもあるのですが、同時に列島の神には実体があり、妻、夫、側室、前妻、後妻、再婚、複婚、正側室の子もあるのです。

 簡単に言えば、古代の有力者である神々の結婚は大半が政略結婚であり、時代に併せ、特に有力家系の女子には列島に侵入してきた有力民族の男子が取り込まれ、また入れ替えられてきたのです。

  その結果、本来は女系の女千木の神が祀られていたものであっても、種馬でしかなかった男神が表に出され千木がそのまま残されるとか、同等民族同士の政略結 婚によって夫婦神として祀られたものであっても、時代が入れ替わると片方の神が隠されると言った具合に(ウマシアシカビヒコチを隠した水天宮など)、祭神 が入れ替えられても初期の祭祀形態が千木に残されたり、逆に密かに祭祀が守られても千木だけが変えられたりという事が繰り返されてきたのです。

 そのうちに、不勉強な神職のいる神社ほど、その神社の歴史を忘れ、いつしか表面だけしか理解できなくなり、冒頭の“あんなものは全くあてにならないもので、そんな話は素人の戯言”といった暴言を吐く間抜けな神職がのさばりだす事になるのです。

  また、政治情勢の変化は絶えず起こるため、戦国乱世の時代同様に敵方同志であっても政略結婚の網を張り巡らし、相互に男系、女系で保険を掛けておく事が当 たり前であって、次世代は生き延びた、男系か女系かの血筋で一族としては生き延びていくという事になったものなのです。

 この結果、夫婦神であっても表向きはある時は夫神を表に出し、ある時は妻神を表に出し生き延びてきたのです。

  中には菅原道真を祀る天満宮においてさえ女千木の神社があり(福岡県内某社)、それは九州に左遷された時に宿された側室(現地妻)家系が守る神社だからそ のようなシンボル(怨念)として女千木が採用されているのであって、冒頭の浅はかな伊勢の某神職の暴言によれば、それこそ何の根拠もない例とされてしまい かねないものなのです。

 そこには、間違いない現地妻との間の血統(道真直系)が残されている可能性が高く、物事の表面しか見えない、見ようともしないつまらない人間が神職になっていることが垣間見えて来る事になるのです。

 死んだことにされた(恐らく双方で納得した)結果、道真は薩摩に落ち延び、薩摩川内市の藤川天神辺りで余生を全うしたのです。

藤川天神については、「ひぼろぎ逍遥」019 「道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!」を参照してください。

  特に、伊勢の下宮の主祭神=豊受大神には、古代の有力民族の若頭同志である海幸彦、山幸彦が入れ替わり立ち代わり夫として(奉仕して)仕えておられ、表向 き海幸彦で祀られる神社が在ったり、山幸彦で祀られる神社が在ったり、豊受大神が表に立たれた神社であったりする色々なケース(従ってその千木もその時々 の事情や、奉斎する氏族の力関係が反映する)が成立する事になるのです。

  この場合でもその勢力の盛衰によって、海幸は傍に控えているが山幸は隠されているとか、その逆もありますし、両方とも別社にされているとか、両方とも境内 摂社になっているとか、全くの下剋上ですが、海幸、山幸が正面に出て豊受大神は隠されている場合すらあるのです(但し千木は女千木)。

 この点を見抜かなければ、その神社の本来の性格は理解できないのであって、全く厄介な事になるのです。

 最後に非常に解り易い例がありますのでご紹介します。宗像三女神を祀る宗像大社(宗像市田島)の辺津宮です。


福岡県の宗像大社は三女神を祀る宮ですが、「辺津宮の千木が外削ぎなのはどうしてだろう」というコメントをいただきました。神社の屋根にある千木は内削ぎが 女神、外削ぎは男神を祀ると言われているからです。辺津宮の写真を見直すと確かに千木は外削ぎです。祭神は女神ではないのでしょうか。

無題.png

…中略… 宗像大社の説明では「男千木・女千木については俗説で、辺津宮が外削ぎだという事について説明する伝承もない」とのです。

「ひもろぎ逍遥」 宗像大社 辺津宮 千木が外削ぎなのは何故? 結末編


ここでもステロタイプの回答で、うんざりしますが、宗像大社だけではなく神社庁全体の云い訳でしかありません。宗像大社辺津宮(高宮)には実は大国主命が祀られているのです。

詳しくは、「ひぼろぎ逍遥」105 宗像大社の本来の祭神とは何か? 同(跡宮)067 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して。僭越ながらも… 。などをお読みください。

無題.png

百嶋神社考古学最終神代系譜(一部)

くどいようですが、「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」076 宮地嶽神社と安曇磯羅 H “宮地嶽神社とは如何なる性格を持たされた神社なのか?(中)” においてもこのように書いています。


正確にはスセリ姫=宗像三女神のお一人(瀛津嶋姫命)=市杵島姫は、金山彦と姻戚関係を結んだ大幡主の子である豊玉彦(ヤタガラス)の姉の子であるが故に栄えある瀛津嶋姫命という名を頂いているのです。

宗像大社が「古事記」により天照大神とスサノウの誓約(ウケイ)により生まれたなどと妙に格上げされている背景にはこのような事実が存在したからなのですが、では、私達、百嶋神社考古学の立場から主張する隠された宮地嶽神社の本来の祭神、阿部相凾(恐らくアヘorアベノショウカン)こと高良玉垂命の若き姿を投影したワカヤマトネコヒコとはどのような流れを汲んでいるのでしょうか。

なお、秦の始皇帝と縁組した瀛の一族については「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 069 宮地嶽神社と安曇磯羅 A“安曇磯羅が祀られているのか? 否!!を参照して下さい。

簡単に言えば、孔子が褒めそやし、秦の始皇帝に遡る権威を持つ中国ナンバー・ワン周王朝の末裔とした呉の太伯王の流れを汲む大王だったのです。

無題.pngだからこそ、高良玉垂命に金山彦の流れを汲む瀛(イン)氏も櫛田神社の祭神である白族の大幡主やその子ヤタガラスも阿蘇氏も従ったのであり、宗像族も九州王 朝の忠実なる臣下であった大国主命(瀛津嶋姫命=スセリヒメも田心姫=タゴリヒメも共に妃)を頂き神額には「奉助天孫来而為天孫所祭」(天孫を助け奉り天 孫に祭られる所と為そうではないか)と書いているのです。

宮 地嶽古墳の被葬者が宗像徳善君(天武天皇の妃、尼子娘の父である「胸形君徳善」)と か、それに縁のある豪族などと間の抜けた話をする方(九大=実は国士舘のNなど)などがおられますが、とんでもない酷い誤り(一応意図的ではないとはして おきますが…)であり、宗像族も天孫族(九州王朝)の臣下の一つでしかないのです。なぜならば、「天孫を助け奉り…」と臣下の礼を尽くした天孫こそが呉の 太伯の裔=高良玉垂命の若き姿である第9代開化天皇(ワカヤマトネコヒコ)だからです。

否定されるのは神社の御都合であり、お好きなようにとしか申上げませんが、当方が考える九州王朝の本拠地久留米高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」169pには異国征伐(神功皇后の三韓征伐のこと)時三百七十五人ノ神立が書き留められていますが、中級以下の神として大国主も書かれているのです。

無題.pngこのように、天孫たる九州王朝は大国主も臣下としていたのであり、その大国主を入り婿として受け容れ姻戚関係を結んだ宗像族だからこそ、本殿の千木は男神であることを示しているのです。繰り返しになりますが、宗像大社の巨大な神額に残された「奉助天孫来而為天孫所祭」との十文字は、天孫への帰順と奉仕を宣言し呉の太伯への肖りを高らかに宣言したものだったのです。つまり、宗像は宮地嶽の臣下だったのです。


千木は日本だけのものなのか

 無題.png最後に、千木、鰹木の千木は日本特有のものと考えられている方が多いと思いますが、実はそうではありません。

 以前もご紹介した、敬愛する故渡辺光敏氏の「日本語はなかった」にその事が触れてありますので、少し紹介しておきます。

元々、石ころと砂の砂漠と草原しかない北方系民族が千木や鰹木など使えないのは考えなくても解る事です。

ウダツでも同様ですが、社を競うことが許されるのは木材の豊な中国江南からインドシナに掛けての文化であり、列島に千木があること自体、倭人がどこからやってきているかをしめしているのです。

問題は、明らかに北方系と見られる民族の神社であっても、千木を継承している事は、先住者への入り婿として彼らの文化を受け容れ、いつしか自らが首領であったかのように振る舞いだしているからなのですが、戦利品として理解しているのかも知れません。

無題.png

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 09:35| Comment(0) | 日記