太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年09月03日

111 旧犀川町伊良原の大行事神社に痕跡をとどめた天野一族とは何か?

111 旧犀川町伊良原の大行事神社に痕跡をとどめた天野一族とは何か?

201504020

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥(跡宮)110 ダムに沈む神社 “みやこ町(犀川町)伊良原の大行事神社”において、ちょっとだけふれた天野一族が気になって調べてみると、かなり面白い事が分かってきました。

以下、前ブログで書いた最後の部分を再度掲載します。


天野氏の家紋「下り藤に三階松」

三日月に三階松も使うのですが、「下り藤に三階松」は天野氏の家紋の様です。

天野遠景 あまのとおかげ 鎌倉時代初期の御家人。藤原景光の子。通称藤内。伊豆田方郡天野に住み,天野を氏とした。民部丞。法名蓮景。治承41180)年8月,源頼朝に従って石橋山の戦いに加わった。元暦11184)年6月,命によって一条忠頼を殺し,同年 8月,源範頼に従って西海に赴き,翌年正月,豊後に渡った。                   ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

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大行事神社の神紋  天野氏の家紋


始めは宮地嶽神社の三階松に驚き、“藤原に庇護された九州王朝”は冗談としても「藤」も「三階松」も高良玉垂命のシンボルでもあったことからにわかに色めき立ったのですが、どうやら、鎌倉以降に平家追討で九州に入って来た一族の家紋だったようです。

 ただ、その組合せを家紋にしている天野一族とは何者でしょう。金の蛾〜藤松〜藤と松〜九州王朝紋

天は海士族のアマであり、倭五王のアメノタリシヒコのアメであり、三つも重なるとなると、無視できなくなります。確かLEDのノーベル賞受賞者も天野さんでしたが、三つ葉の意味は依然不明です。 


まず、天野氏の全国分布を確認しましょう。これからだけでも同氏族のある程度の出自が推定できます。

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これを最も集中する愛知県において天野姓の分布を見ると、岡崎市468件、安城市209件、豊田市203件、豊橋市133件、蒲郡市100件、豊川市85件…に集中するのです。

ブリタニカは、鎌倉以降送り込まれた平氏追討により豊前に入ってきた氏族との説明をしていますが、どうもそれだけではないようです。

ちなみに福岡県下では、北九州市若松区56件、福岡市東区32件、久留米市27件、福津市26件、宗像市26件…京都郡みやこ町1件(まさか犀川の天野さんが御本家という訳ではないでしょうね)となっているのです。

筑前、筑後から筑豊、豊前にかけて多くの高木神社が分布しています。

この、旧犀川町伊良原の大行事神社(高木神社)も英彦山山岳修験の48大行事職の一つと考えて良いでしょう。


天忍穂耳尊を祀る英彦山神宮 奉幣殿。

(同社)が、筑前から豊前域に展開する「英彦山神領四十八大行事社(高木神社群)」と呼ばれる末社群が、何故か高木神(高御産巣日神、高皇産霊尊)を祭神としている。

 そして、英彦山の山頂域が、高木神祭祀の旧地とされ、山頂直下に高木神を祀る産霊神社(むすび)が鎮座することで、英彦山の本来の祭神は高木神であったともされる。

blog天神地祇」より

この伊良原地区が英彦山山岳修験の影響下にあった地域である事は明らかでしょう。

では、この神紋を使用する「天野」氏との関係はどのようなものなのでしょうか?

福岡県の天野姓の分布は一目海岸部の玄界灘沿岸に集中していることから、海士族=(天族)との関係は考えられそうです。

愛知県内の分布を考える時、非常に単純かつ安直に過ぎますが、上位5市に「豊」の文字が3件、「岡」の文字が1件ある事からだけでも、天野氏が遠い古代に玄界灘東部沿岸(豊前、岡=遠賀の湊)から移住した人々の中から派生したのではないかとの考えが浮かんできます。

してみると、その中枢領域を支配していた宮地嶽神社の神紋の三階松が天野氏の三階松が反映されているのではないかとする事にも理由はあるように思います。

中世の天野氏については全く知識を持たないためネット検索で知り得たものだけで判断する事になりますが、その範囲で理解して下さい。

その前に、物部のルーツは筑後川流域の久留米、浮羽、朝倉一体と考えていますが、その後、北に展開したのが筑豊の32神、物部25部族(先代旧事本紀)であり、さらに東の播磨や尾張や美濃に展開している事を知っているのです。

そのため、天野姓が最も集中するのが愛知県の岡崎と知った時も、始めにその事が頭に過ったのでした。

さらに見て見ましょう。


天野氏は藤原南家工藤氏の一族で、代々伊豆国天野郷に住して天野氏と 称した。景光の子・遠景に至っておおいに名があがった。遠景は内舎人に任官していたことから通称天野藤内を称した。本領である天野郷が「平治の乱」の流人 であった源頼朝の配所蛭ケ小島に近かったことから、たびたび頼朝のもとに参じてその信用を得、頼朝の旗揚げに際しては当初よりその軍門に参じた。以降、平氏追討軍として源範頼に従って、中国地方から九州まで転戦して活躍した。
 平家滅亡後、頼朝との対立が決定的となった義経が、九州惣追捕使に補任され、これに豊後国の緒方・臼 杵・佐賀など有力在地武士が呼応する動きを見せたため、頼朝は院の態度のあいまいさを追及し、義経追討の院宣下付を求め、その探索のため全国に守護・地頭 を設置することを承認させたのであった。結果、義経は奥州へ落ちていくはめとなった。そして頼朝は義経に変えて九州惣追捕使として天野遠景を起用したのであった。遠景は肥前国神崎荘に対する武士の乱行停止や、南九州の鬼界ケ島に宇都宮信房とともに平家の残党を討つなど、幕府の命を受けて活動している。こうして十年近くにわたり九州で在勤したが、荘園領主などの反発もあって、遠景は鎌倉へ帰っていった。
 遠景の子政景は「承久の乱」に戦功があり、長門国の守護職に補任され、また遠江国山香荘の地頭職も得ている。そして父譲りのものを入れると、その所領は明確なところで武蔵・上野・遠江・美濃・河内・安芸・長門の各国に及んでいた。
 政景の曽孫・景広の子遠政は足利尊氏に従って能登国東部の地頭になり、その長子頼景の子孫は同国に居住し能登天野氏となった。また、頼景の弟景高は遠江国秋葉城に拠って、宗良親王の令旨を奉じて、南朝のために力を尽くし、その子孫は遠江天野し(ママ)となった。
  政景の子景経の系統は安芸守や周防守を歴任して、その子孫は安芸国や出雲国および石見国・周防国などに広がっていった。このうち景経の曽孫経顕は遠江国犬 居郷の地頭として、犬居城主になったといわれている。この系統が遠江犬居の天野氏である。後裔は今川義元の重臣として仕え、義元滅亡後は武田氏に通じ徳川 家康の攻撃を受け、敗れて甲州へ走った。
  以上のほかに、景貫の兄正貫の系統が三河に栄え、その支流は尾張国にも広がっていたようだ。さらに正貫や景貫の祖父景康の弟に定景というものがあり、その 後裔に康景が出た。康景は家康に仕え、駿河興国寺城主として大名となった。ところが部下が盗賊を働いた天領の民を斬ったことから駿河代官井出正次と確執 し、ついに部下をかばって城と大名という身分を棄てた話は有名である。 

HP「武家家伝」より


もう一つの可能姓を考えてみました。もしかしたら、天野氏は四道将軍として東海地方に派遣された武渟川別の後裔に当たるのではないかという意味です。


武渟川別(たけぬなかわわけ、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本皇族

日本書紀』では「武渟川別」「武渟河別」、『古事記』では「建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)」と表記される。

8孝元天皇皇子大彦命の子で、阿倍臣(阿倍氏)の祖。四道将軍1人として東海に派遣されたほか、垂仁天皇朝では五大夫の1人に数えられる。

ウィキペディア(20150422 2030)による


 「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の全てを読まれた方の中にはもうお分かりになった方もおられるでしょう。


一応、崇神紀で、四道将軍として東海に入った武渟川別命は孝元天皇の子なのですから、その兄弟(実は腹違い)が、実は神功皇后を妃とする第9代開化天皇(高良玉垂命)であり、三階松を神紋とする宮地嶽神社の本来の祭神であることは、既に何度も書いてきました。

さらに言えば、宮地嶽神社の四代前までの宮司家は阿部家なのです(現在は神社庁によって博多の櫛田神社の宮司とされています)。

もしも、東海地方に広く展開した天野一族が、四道将軍として派遣された武渟川別の流れを汲むものであれば、開化天皇その人の神紋(百嶋先生は、開化天皇の神紋とも、孝霊、孝元、開化の三代を表す九州王朝の正統皇統を表すものとも言われていました)である三階松を使った可能性は十分すぎるほど考えられるのです。

実は天野姓を考える上で、重要な要素があります。三階松を使う神社は宮地嶽神社の他には、老松神社がある程度で非常に少なく、それを使ったとするとその流れは全て宮地嶽神社に関係している可能性を否定できないのです。

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古代安倍氏の系図』参考例

上記の系図では、大彦命の娘「御間城姫命(祟神天皇の妃)」が欠落している。


系譜はHP堀貞雄の古代史・探訪館から借用し加工したもの

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では、英彦山北麓の高木神社に打たれた三階松紋はいわゆる出戻り氏族によるものなのでしょうか?それとも逆に、元々この地から出発しているのでしょうか?

その事を探るのに役に立ちそうなものがもう一つあるのです。それは彦坐王」のことです。

この彦坐王は開化天皇の第3子として知られる人物なのですが、彦坐(ヒコにいます)王とされる人なのです。彦坐(ヒコにいます)王とは山岳修験の彦(英彦)山に鎮座する王の意味で、開化天皇の皇子が派遣されていた可能性があるのです。

とすると、彦(英彦)山北麓の大行事社に三階松の一族の痕跡が留められている事になり、その居留地であったとも言えそうなのです。


彦坐王(ひこいますのみこ/ひこいますのおう、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本皇族

日本書紀』では「彦坐王」、『古事記』では「日子坐王」、他文献では「彦坐命」「彦今簀命」とも表記される。

9開化天皇の第三皇子で、第12景行天皇の曾祖父である。事績に関する記載は少ないが、『古事記』では詳細な系譜が記される人物である。

ウィキペディア(20150422 2300)による


それは、浅井朝倉の朝倉氏の出自が但馬であり、そのまた起源が福岡県の甘木朝倉だったのではないかという探索(未公開の「但馬」)をした時に気付いていたのですが、朝倉氏の出自が彦坐王」同様、開化天皇に端を発している(なお疑問があり探査中ですが)のではないかという事でした。

以下「ひぼろぎ逍遥」バック・ナンバー


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この彦坐王(ひこいますのみこ)について気付いて書いておられる九州王朝論者をご紹介します。


日子坐王、神大根王、長幡部、結城紬

彦坐王

日本書紀では「詳細」は全く触れておらず、古事記だけの記述であります。是には何か、述べたくない意図的なものを感じます。彦坐王は第9代開花ママ天皇の第3子。九州から近畿に渡り、陸耳御笠(くがみみのみうけ)と匹女(ひきめ)退治で有名で、四道将軍として有名な「丹波道主命」。

彦 坐王は「美濃」を領地として、子の八瓜入日子とともに治山治水開発に努めたとも伝えられるが、その後裔氏族は「美濃」のみならず、常陸・甲斐・三河・伊 勢・近江・山城・河内・大和・但馬・播磨・丹波・吉備・若狭・因幡など広汎に分布している。時代は下るが、戦国時代に大名となった越前朝倉氏は本姓日下部氏で、彦坐王の子孫と称する但馬国造家の流れを汲んでいる。

彦坐王は香春町から大任町秋永(息長)周辺にて生まれ(此処は遠賀川の田主丸〜吉井に当る地域)、その後耳納平野に来て河川・治山工事等を行った?

古事記系譜では、日子坐王は開化帝が丸邇臣之祖、日子国意祁都命之妹、意祁都比売命を娶って生んだ御子ということになっている。

古事記に系譜が特記されている日子坐王が「丸邇臣」、「日子国」、「意祁都」との関連があることがわかる。

記紀伝承によると、九代開化の皇子、彦坐(ひこいます)は、母親の妹、袁祁都比売(姥津媛・おけつひめ)を妃にしたとする。すなわち叔母を妃にしたという。ちょっと信じ難い伝承である。ところが和邇氏系譜によれば彦坐の妃は、彦国姥津(ひこくにおけつ)の子、意祁都依比売(おけつよりひめ)で、彦坐と同世代の女性である。こちらの方がよほど信じられる。

HP「古代史&フォーラム」より

甘木朝倉に認められる『斯波氏』。

2013-04-17 | 古代史

応 仁の乱(1467年〜1477年)にて、室町足利幕府が弱体化して戦国時代へと向かい下克上の力の世界になりますが、其の時期に登場する姓氏に、斯波氏が 有ります。一般には、足利泰氏が陸奥斯波郡(岩手県紫波郡)を所領としたのが始まりであろうと解釈されていますが、本当にその様に考えるべきでしょうか。 この足利泰氏の時代は源頼朝前後の12世紀から13世紀であります。それ以前の時代は如何だったのでしょうか。

南 北朝時代は、越前国守護職は斯波氏が任じられており、甲斐氏・織田氏・朝倉氏の三守護代が脇を支えていましたが、室町時代には甲斐氏と朝倉氏が台頭し、斯 波氏と対立し斯波氏の領地三国を甲斐氏・織田氏・朝倉氏三氏で分け、応仁の乱では朝倉氏が甲斐氏を越前から遠江守護代に追い遣り、朝倉氏が越前守護職に就 きますが、戦国時代には朝倉氏も織田氏に滅ぼされています。

わたくしには、此の「斯波氏」と「朝倉氏」の古代での関係を『甘木朝倉』にて認めることが出来ます。

ウィキペディアでは、朝倉氏の出自は、開花(ママ)天皇の皇子「彦坐命」となっており、平成25年3月16日のブログで述べた通り、吉井〜田主丸で生まれたと考えられる「彦坐命」と、場所が合致し、わたくしの考えを裏付けられ、理に適います。

『安(やす)の直(あたい)の祖』(甘木朝倉に夜須の地名があります。)とされる彦坐王の子である水穂之真若王の末裔が朝倉氏や斯波氏(どちらも息長氏の血が混じっている。)とも考える事が出来ます。

朝倉宗高が但馬養父郡朝倉に住したのは、平安時代末期とされ、それ以前は筑前甘木朝倉に居たと考えられます。朝倉の高木邑は天孫族の本貫地であり、優遇されるのは当然です。

「斯波氏」は、斎明天皇が斎明7年(661年)朝倉橘広庭宮の行宮を置いた場所近くに、「志波柿」で有名な「志波」の地名があり、天孫族名門「志波(斯波)氏」も此処から越前〜陸奥に移住したもの。と考える事が出来ます。

実際は、足利泰氏から分かれた子が養子として天孫族名門斯波(志波)家に入り、斯波家氏を名乗り、子孫が後に室町幕府三管領家の筆頭となったものと考えられます。

ま た、甲斐氏も流れが菊池氏と佐野氏がありますが、どちらも九州阿蘇にルーツがあり、この阿蘇にある阿蘇神社は田川の辛國息長大姫大目命を祀っています香春 神社とも関係が認められ(香春神社の元宮である古宮八幡神社は古くは『阿曾隈の社(あそくまのやしろ)』と呼ばれていた。とされ阿蘇神社は香春から阿蘇へ 移動したと考えられています。)、神紋も一緒の『違い鷹羽』であります。(わたくしの家紋も『違い鷹羽』です。)此れも息長氏と関係を考えられ、越前に牧 場騎馬技術者として移住して、斯波氏に重用されたものと考えられます。

この様に、姓氏を考える場合は、天孫族の移動の流れを汲み、関係を探る必要性を感じております。

HP「古代史&フォーラム」より


皆さんも「彦坐王」や「天野氏」をダブル検索も含めに調べて見て下さい。

「記」 「紀」によれば、日子坐王が開化天皇の子で崇神天皇の弟とされる皇族であり、四道将軍「丹波道主命」の父と言った話がかなり出てきますが、まだ疑いを禁じ 得ません。それは「記」「紀」自体が怪しいからであり、かなり近しい関係ではあっても開化(高良玉垂命)にとっては、良くて妾腹、若しくは連子(久留米市 山川町皇子宮の九躰皇子の側室系四人の一人かその子)であっただろうと考えられるのです。

今後の課題です。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:24| Comment(0) | 日記

2015年09月06日

112 少彦名命について勘違いしていましたお詫びします?

112 少彦名命について勘違いしていましたお詫びします?

20150512

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


20150212付けで「066 少彦名命とは何か?」「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載を公開していました(一部再掲載)。

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ここで、少彦名命について確認するために「ひぼろぎ逍遥」176天穂日命(アメノホヒノミコト)とは でも掲載した百嶋最終講演資料の図を、再度、見て下さい。

少彦名命は、客人(マロウド)権現=ウマシアシカビヒコチと書かれているのです。

現在、出雲大社の最上階、「客人(マロウド)の間」に秘かに匿われている神こそ、実は金海伽耶の金越智=ウマシアシカビヒコチ=少彦名命なのです。

  このウマシアシカビヒコチは朝鮮人(実は朝鮮半島に亡命したトルコ系匈奴の王)として隠されたのですが、実は天御中主(白山姫)久留米水天宮様の夫であり (実のところ日本人扱いされている「天御中主」も雲南省から列島に避退したヘブライ系ペイホー族なのですから両方とも渡来神なのですが)、同時に、大山 祇=月読命の父親でもあるのです。

 そして現に春日市に若き大国主=オオヤビコ(幼名)を祀る白玄社があり、小彦名命=須久ノ彦が実際に居たのです。

してみると、何のことはない、出雲大社のある出雲とは国譲りを行って移動した先であり、只のテーマ・パークだったのです。

ここまで踏み込んで良かったかどうか自信はないのですが、今は、なぜ、藤原不比等の「古事記」が、ここまでして嘘を設える必要があったのかを考えているところです。

単に、九州が国譲りの場所だった事を隠したかっただけならば非常に分かりやすいのですが…。


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問題なのは下線を引いた少彦名命は、客人(マロウド)権現=ウマシアシカビヒコチと書かれているのです。現在、出雲大社の最上階、「客人(マロウド)の間」に秘かに匿われている神こそ、実は金海伽耶の金越智=ウマシアシカビヒコチ=少彦名命なのです。 の部分です。


百嶋先生のメモ書きでは、客人権現(ウマシアシカビヒコチ)=少彦名命と重なっているのですが、少彦名命の年齢が書かれていなかったため、奇妙だなあと思いつつも同一人物扱いにしてしまっていました。

 太宰府地名研究会の神社考古学研究班には四六時中百嶋玉音放送を聴き続けておられる百嶋先生オンリーの女性メンバーがおられ、私の解釈を正しくも誤りだと指摘してくれました。

  絵図と見比べれば何でもなかったのですが、思い込みとは恐ろしいもので、現在、大国主命を主神として祀る出雲大社の最上階の客人間に少彦名命が祀られてい るとすると大国主の協力者としてふさわしい事から、また、ウマシアシカビヒコチが「古事記」以外に痕跡を残していない事から実体を掴みたいと早とちりして しまったものでした。

 改めて不明を詫びたいと思います。今後も、このような間違いは続くと思いますが、そのつど修正して行くつもりですので、皆さんもそのつもりでお読みください。

 しかし、少彦名命については百嶋先生にも実体が掴めなかったようです。年齢(積年)を最後まで把握できなかったのです。しかたがないとは言え残念です。

 さて、最近、筑豊の田川周辺で正八幡宮にかなり遭遇します。

この事から、訂正修正文だけでは申し訳ないため、この正八幡宮について触れておきたいと思います。

 百嶋先生の解説表の左下に正八幡宮として馬にまたがった貴人がおられるのがお分かりと思います。

 この人物こそ博多の櫛田神社(出戻り本山=和歌山から本家博多に戻って来た)の祭神である大幡主=ヤタガラス(右上二人目)の父親となる人物であり、同時にイザナミの継夫でもあるのです。

 この大幡主については、音声の記録が残っていませんが、百嶋先生は、“大きな船団を率いてインド(インドシナ)方面と頻繁に行き来をしていた。”“多くの大きな幡を揚げて行き来をしていた事から大幡主(主は白族の尊称)と呼ばれた”と直接聴いています。

  播磨の国も大幡主の一族が跋扈していた領域ですが、「八幡神社」と書いてバハン神社ともハバン神社とも呼ばれる幾つかの神社が拾えます。これらも、現在の 祭神がどうであれ、正八幡宮を起源としている事は間違いないようです。この正八幡宮の本体は応神天皇などではさらさらなく大幡主の事だったのです。


バ ハン船=一般には和冦や海賊の船が八幡大菩薩の旗をたてていたので、八幡船をバハン船といったと解釈されているが、確実な史料で見る限りでは倭寇の船団を 直接バハン船と称した用例はない。八幡と書いてバハンとは読めない。バハンは日本の戦国時代以降使用された言葉で、日本側では「ばはん」「八幡船」と記す るほか、「奪販・番船・破帆・破番*・波発・白波」などの文字が海賊・海寇の意味で使用されてい る。語源は外来語と考えられる。江戸中期以後は転じて密貿易を意味するものとなった。江戸中期につくられた『南海通記』には倭寇が八幡宮のノボリを立てて いたので、八幡船と呼ばれたとの記事があり、この考えが明治に至るまでもちいられた。

古田史学会報 200368日 No.56 池田市 山内玲子(古田史学の会)より

ついでに、大幡主の父親は白山姫こと天御中主命の弟となる白川伯王(刺国サシクニ大神)大政大臣(白川伯王家のルーツ)となります。

大陸と行き来する能力を持った正八幡の王こそ明治維新前後まで天皇家の宮廷祭祀を司った白川神道の家元白川伯王家のルーツ刺国大神であり一大率でもあったのです。


「倭人伝」の刺史はあまり注目されませんが、ネット上のさんは非常に正確に描いておられますのでご紹介します。


女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。(諸國)これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。


も ともと、この 「州」 には長官はなく、ただ 司隷 のみは別格で 司隷校尉 という首都圏長官がおかれました。 したがって実質的な行政単位では、もっ とも大きい単位が 「郡」 ということになります。 「郡」 には長官がおかれ、これを 「太守」 と言います。 一つの 「州」 には平均して八つの  「郡」 があり、これら 「州」 に属する複数の 「郡」 の行政を監察する役目の役職があり、それがここにいう 「刺史」 なのです。

「刺史」 は給料も安く、地位も低いものであったようですが、「郡太守」 の部下というわけではなく、皇帝に直属していました。 
 「諸国はこれをおそれている。 (一大率は)常に伊都国に駐在して仕事をしている。 中国における刺史のようなものである。」 というにはこうした背景があります。
 さらに 「郡」 の下には 「県」 がおかれ、おおきく重要な 「県」 には 「県令 (けんれい)」、小さな 「県」 には 「県長 (けんちょう)」 という長官が置かれます。
  後漢 の時代までは以上のようであったのですが、やがて 三国時代 になると 「州」 には 「州牧」 という長官が置かれるようになり、まれに格下の  「州刺史」 が任命されることもありました。 しかしこの場合の 「州刺史」 は本来の監察官という性格にくわえ 「州」 の長官であり行政官でもある性 格を濃くしていきます。
  さて、これらの 「県令」 も 「県長」 も 「郡太守」 の部下ではなく皇帝に直属しており、また 「郡太守」 も 「州牧」 の部下ではなく、やはり 皇帝に直属していました。 このように皇帝はすべての行政官を自らに直属させることにより権力の集中をはかっていたのでした。

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最終百嶋神代系譜より切り出し


なお、このブログがオンエアされる9月半ばには既に白川伯王家の神社をご紹介している予定です。

106白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”を参照下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:17| Comment(0) | 日記

2015年09月08日

113 狭野神社初見 “鹿児島県高原町は、はたしてカムヤマトイワレヒコの生育地か?”

113 狭野神社初見 “鹿児島県高原町は、はたしてカムヤマトイワレヒコの生育地か?”

20150512

                                       久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

「今頃になって狭野神社を見たとは…」とお叱りを頂きそうですが、神武天皇の出生地とされる鹿児島県高原町蒲牟田の狭野神社をご紹介します。

まず、神武天皇は幼名をサノノミコトと言います。勿論、お妃はアイラツヒメです。

この狭野神社では、この二つの事が正確に表面に出されていることから、この神社だけで考えれば、まずは疑いようがない神社に見えます。ただ、周辺の島津系の神社の印象からそう思えないのです。

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狭野神社正面中央参道


この事に拘る理由は、崇神天皇も神武天皇を装っていた形跡(ハツクニ…)が見て取れるからです。


神武天皇(じんむてんのう、庚午1月1 - 神武天皇763月11)は、日本神話に登場する人物であり、古事記日本書紀によれば、日本の初代天皇とされている。

日本書紀によると、天皇在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1 - 神武天皇763月11とされる。

古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、『日本書紀』では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)と称される。

…中略…

神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の四男(または三男)である。生まれながらにして明達で、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。

ウィキペディア(20150513 0:40による


百嶋由一郎先生は、一応、狭野神社は本物の初代神武(カムヤマト…)を祀っており、正妃アイラツヒメを配されており本物と言える…とされていました。

ただ、出生地は列島大率の中心地の糸島半島であり、後にこの地に移動し巡行に向かったと言われています。また、百嶋神社考古学では、上記、ウィッキペディアの子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。は、アイラツヒメが正妃(皇后)の座を棄て(結果、名を変え蒲池姫となる)神沼河耳(カミヌナカワミミ)に払い下げられた後で生まれたもので、阿蘇氏もしくは藤原による脚色と考えています。

実は、この手研耳命(タギシミミ)こそ、タケシミミと呼び、阿蘇の主神である健磐龍命になるのです。


崇神天皇(すじんてんのう/すうじんてんのう、開化天皇10 - 崇神天皇6812月5)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10天皇(在位:崇神天皇元年1月13 - 6812月5)であり、現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。

和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。

ウィキペディア(20150512 20:40による


表記は異なるものの、明らかに自分も神武と読ませる和風諡号ハツクニシラスを付し、同等以上の業績を残した(日向からの東征とはこの崇神が行っているのであり、初代神武は九州西回りの瀬戸内海経由の巡行のみ)英雄との触れこみがなされているからです。

これに惑わされ、“初代神武とは崇神であるとか、第2代〜第9代までは架空である…”といった原点となっているものです。

従って、一部に初代神武天皇の正妃と解釈されているヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)は当然にも第10代に格上げされた崇神天皇のお妃である事代主と活玉依姫との間に生まれた五十姫となるのです。従って下の後半部は誤りになります。


ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)は、神武天皇皇后である。

神武天皇は、東征以前の日向ですでに吾平津姫を娶り子供も二人いたが、大和征服後、在地の豪族の娘を正妃とすることで、天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた1つに統合されることになった。

ウィキペディア(20150512 21:10)による


ただ、この東征以前の日向ですでに吾平津姫を娶り子供も二人いたが、は、一人は第4懿徳天皇となるのですが、もう一人は誰だったのかご存知の方はご連絡頂きたいと思います。

最初から一気に本題に入ってしまいましたが、観光客が屯する霧島神宮(これは明治以降の脚色)などを避け、本物の神社を見て回れられる方がよほど良いのではないかと思います。

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狭野神社 カーナビ検索 宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田117  0984-42-1007


なお、鎮座地の高原町蒲牟田は、現在でも33番神楽が奉納され続ける土地ですので、その時期においでになるのも良いかもしれません。

また、「蒲牟田」は「釜蓋」=「永尾」地名と同様のもので、「ひぼろぎ逍遥」211(掲載ペースから考えて半年後)で、「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”G としてご説明したいと考えています。この地は水はけのよい溶岩丘陵であり、決して、蒲の穂が生い茂る湿地(牟田)だったのではありません。

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本殿参拝殿正面


当日は熊本在住の霊能者グループの一行とスケジュールが一致したため51日の正午前後に現地の第4駐車場で待ち合わせしました。

このグループにも百嶋神社考古学はかなりの程度浸透しており、特にキャップのF女史は二十年の神社巡り研究の蓄積もあり、西日本の大半の神社を知りつくされています。

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神殿斜景

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彼女の姓も霧島の峰の一つであり、阿蘇の草部吉見神社の氏子であることから、参拝が済んだあと、境内社として「草部吉見神も祀られていましたよ!」と言ったところ気付かなかったとかで、再度ご案内してお教えしました。

境内右手奥の水神社の祭神の左端(格式としては一番低いのは当然ですが)に大年神(大歳神)として他の五神と共に祀られていました。

無題.png右から、スサノウの妃(神大市姫=ミズハノメ)、月読命(大山祇)、佐田大神(大山咋)、天御中主(白山媛)、伊勢外宮様(豊受姫)…と並ぶのですから、いくら藤原から格上げされた第5代孝昭天皇としても左下に並ぶのは順当と言えます。

してみると、草部吉見もここまで随行していたのでしょうか?

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と、ここまで考えて「狭野神社略記」を見ると、罔象女神、大山祇神、大山咋神、白山媛神と書かれており、残りの二神は本来の祭神ではなかったことに思い至り、急に力が抜けてしまいました。

 特に、大山咋神に至っては「咋」は「昨」と誤植され、真面目に考えたくなくなってしまいましたが、どうも単純にそうとも言えないと後で思い直しました。

 恐らく、豊受媛神も大年神も祀られていたはずなのです。

 ところが、神仏分離令によって神仏混淆の彦山山岳修験の正 勝吾勝勝速日天忍穂耳命(実は草部吉見=大歳神=大年神=実は春日大神=武甕槌…)が排除された結果、その妃(実はこちらの方がはるかに格上なのであり、 そのとおりの並び、序列になっているのですが)が表向きには摂社配神としては外され、実質的には粗末にできずに残されたと考えるべきであることが見て取れ たのです。

 薩摩も廃仏毀釈が吹き荒れた領域でしたが、明治の荒れた時代を生き延びた姿と見るべきだったのです。

 当時の御神職の方々の気持が垣間見えた思いがして、長駆遠征した疲れが吹き飛んだ瞬間でした。

 なお、豊受大神(辛国息長大姫大目命)=伊勢の外宮様には、前夫(海幸=草部)、継夫(山幸=猿田)がおられたことはほとんど知られていません。

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百嶋神社考古学最終神代系譜


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:42| Comment(0) | 日記