太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2015年08月02日

101 宇佐神宮とは何か? J “安心院の妻垣神社は自称神武こと贈)崇神天皇を供応したか?”

101 宇佐神宮とは何か? J “安心院の妻垣神社は自称神武こと贈)崇神天皇を供応したか?

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

201504014

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


さて、宇佐神宮を考える上で、最も重要な妻垣神社(宇佐市安心院)に踏み入りましょう。

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今より2600年も遥か昔、日向を発し東国へ向かわれる途中、神武天皇は宇佐の地に立ち寄られました。
その際、宇佐国造の祖であるウサツヒコ・ウサツヒメの兄妹は一行を迎え入れ、宮を造り盛大にもてなしました。
翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地をご覧になり、いたくお気に召されました。

天皇は連なる山々よりひと際輝く共鑰山に御母玉依姫命の御霊をお祀りする社をお造りになり、自ら祭主となって、玉依姫命の御霊を共鑰山にお迎えし、社を「足一騰宮」と名付けられました。このことより当社の歴史が始まりました。

妻垣神社HP 由緒 「妻垣神社の始まり」より


言うまでもなく「日本書紀」で一柱騰宮(ヒトツハシラ アガリノミヤ)、「古事記」で足一謄宮(阿斯毘苔徒鞅餓離能瀰椰 アシヒトツ アガリノミヤ)とされる重要な古社です。

ここで先回りした議論を優先させて頂きます。

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百 嶋神社考古学においては、これも初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)を僭称した九州王朝の臣下としての第十代贈)崇神天皇(ハツクニシラススメラミコ ト)に関わる神社であり、ここに言う玉依姫も初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の御母君=神玉依姫ではなく、大山咋命の妃で贈)崇神天皇の母君、鴨玉 依姫の事と考えています(これについては百嶋由一郎最終神代系譜を参照して下さい)。

私がこの神社を意識したのは五年ほど前だったと思いますが、その時は、百嶋先生から頂いた資料に「一柱騰宮」と書かれていた様に記憶しています。

当然にも冒頭に挙げたこの神社の案内標識塔も「一柱騰宮」と書かれていたようでしたし主祭神も比売大神だったと理解しています。現在でもその痕跡が石塔の案内板に残されています。

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ところが、現在の由緒は「古事記」に沿って、足一騰宮とされ、主祭神も比淘蜷_(玉依姫命)とされているのです。

まず、神社を参拝する者にとって、縁起、由緒…が動く事は不安を感じますし、一体如何なる神様が祀られているのだろうかと疑うわけで、不安は不信へと発展する切っ掛けになりかねません。

勿論、神社のご判断で正しい表記を目指されるのは当然の権利であり、氏子でさえもない人間がとやかく申し上げるべきものではない事は重々承知しているつもりですが、迷い惑わされる事にはなるでしょう。

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さらに言えば、これは現在の御由緒ですが、数年前に訪問した時は、また違う由緒があったのです。


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これは、現在の御由緒と基本的には同じなのですが、ご覧になって分かるように、恐らく「比淘蜷_」が「比淘蜷_(玉依姫)」に、「一柱騰宮」が「足一騰宮」へと修正された跡が見て取れるのです(シートが上から張られていますね)。

こだわり過ぎていると言われそうですが、只でさえ謎の多い宇佐神宮について考えている訳であり、その元宮が妻垣(共鑰)神社ではないかと考える者にとっては、おいそれと避けて通ることはできないかなり大きな問題なのです。

と、ここまで見てきて、再度、考え直してみたのですが、この修正はそれほど古い時代に行われたものではないようですので、恐らく、現在の宮司にお尋ねすればそれで済む事なのでしょう。

  多分、宇佐神宮の祭神問題同様、比淘蜷_と九世紀に追祀された神功皇后とのバランスが悪く、こちらでも神功皇后を祀っているのに「姫」(比唐ェ女性で姫な らばですが…)大神とは?という問題があり、ましては主祭神が「比淘蜷_」では一体誰なのかに苦心されておられるのだと思うのです。

 これは宇佐神宮とて同様であり、“比淘蜷_とはきっと女性だろうから…”と宗像三女神とされているのかも知れないのです。

 妻垣にしても、まさか応神天皇のお妃でもないでしょうし、きっと神武天皇のお妃か母神様とでも考えられたのだろうと勝手に考えているところです。

 整理しましょう。宇 佐国造(コクゾウ=クニノミヤツコなどとは読まないように…)については、「日本書紀」「古事記」に初見があり、「神武紀」には天皇が筑紫国菟狭に至り、 後に菟狭國造の祖ともなる菟狭津彦と菟狭津媛から出迎えを受け、菟狭川の上流に造られた「一柱騰宮」で饗応を受けた。また、菟狭津媛を妻とした侍臣天種子 が後に中臣(藤原)氏の祖ともなったことが記されているのです。

こ の記述だけからも、宇佐神宮の原形が宇佐市安心院町の妻垣(ともがき)神社に端を発したことが見えるのですが、何故かこの神社は、現在「日本書紀」の「一 柱騰宮」(アシヒトツアガリノミヤ)から「古事記」の「足一騰宮」(アシヒトツアガリノミヤ)へと変えておられるのです。

実 際、混乱はここにも及んでいるようで、宇佐神宮の二の御殿の祭神も元はこの妻垣神社にあったのではないかとも考えるのですが、いつしか「比淘蜷_」から 「比淘蜷_(玉依姫)」に変わっているようなのです。もちろん玉依姫(カムタマヨリヒメ)は神武天皇の母神(一応育ての)の意味でしょう。

当然にも、安心院、院内、山香の一帯こそが宇佐のまほろば=ハートランドに思えるのですが、この安心院の地には、現在、公式に二の御殿の祭神とされている宗像三女神が三女神社として鎮座しています(二女神社かも?)。

ところが、この三女神社の縁起には、今も堂々と芦原の中国の宇佐嶋とは宇佐郡安心院邑のことで、その地を支配していたのは筑紫君であるとしているのです(縁起を参照のこと)。

 筑紫君とは、当然、筑前、筑後に分国される以前の話となりますが、九州王朝論者の中では常識に近い、久留米市三潴町の三沼の君のことであり、高々一三〇〇年の歴史しかない近畿朝廷などのことではないのです。



 無題.png当方とても悩みは同様で、実際に共鑰山中まで「一柱騰宮」=「足一騰宮」を確認に行きましたし、社報「ともがき」も読んだりもしたのですが、徐々に考えが纏まってきました。

 ここで、当方の試案を提出したいと思います。

 問題は比淘蜷_です。九州王朝論者にとって、豊玉姫とか玉依姫といったものにこだわる必要は一切ありません。それが柔軟に考えることができる鍵なのです。比唐ニ言えば頭に浮かぶものは、まず、呉の太伯の裔(周王朝)としての倭人であり、倭国の大王が姫(紀)氏であることを知っているのです。そうです、呉の太伯の一族は姓を「姫」としていたのです。


太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国王朝の古公亶父の子で兄弟。后稷を始祖とすることから、宗家と同じ姫(き)紀元前12世紀紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄、文王の伯父に当たる。太伯は長男で、(句呉,)の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は次男。仲雍、仲とも。

「ウィキペディア」20150414 23:20 による

これは作業仮説として理解して頂きたいのですが、倭国の大王としての神武(仮に)が祖神としての姫大神(比淘蜷_)を祀ったと考えるのです。

九州王朝の時代が終わり、宇佐神宮の前身である九州王朝の神宮も、749年に九州の総廟を現高良大社から宇佐神宮に奪う過程でこの九州王朝の祖神が応神天皇に替わったのですが、直ぐに比淘蜷_が呼び戻され、一社二殿二神の時代が続いたのです。その後九世紀になり、何故か神功皇后が追祀され現在の一社三殿三神形式が成立したのです。

してみると、この比淘蜷_とは高良玉垂命=第9代開化天皇だったことにもなりそうです。何故ならば、神功皇后と高良玉垂命とは夫婦だったからです(「高良玉垂宮神秘書」)。

 そうすると、三女神社が“同社は水沼君が祀った”とする縁起を持つ事が氷解するのです。“比淘蜷_とは高良玉垂命=第9代開化天皇”としましたが、“神武天皇がこの地を訪れた時に共鑰山に玉依姫を祀った”のだからおかしいじゃないかと言われそうですが、実はその話にはとんでもない仕掛けがあるのです。

「記」「紀」に言う神武天皇とは“東征の神武”を含め初代の神武(カムヤマトイワレヒコ)ではなく、“自称神武”“神武僭称”第10代崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)だからなのです。

 初代神武の母神は神玉依姫(カムタマヨリヒメ)であり、神武僭称第10代崇神の母神は鴨玉依姫(カモタマヨリヒメ)なのです。

この崇神(ツヌガノアラシト)は同時に、正妃を神功皇后とする高良玉垂命(藤原により第9代とされた九州王朝の大王開化天皇)の年上の臣下であり、妻垣神社の比淘蜷_とは高良玉垂命の事であり、宇佐神宮にも神功皇后が併祀されていた可能性があるのです。それは夫婦神だったからです。


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無題.pngそこで、同社神殿の屋根を見て下さい。はっきりと高良玉垂命の神紋五七桐が打たれていますね。左に在るのは剣唐花です。これが高良大社(が隠している)の本来の神紋であり、現在高良大社が左三巴と共に表に挙げている木瓜紋(右)は臣下の神紋なのです。

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安心院の他の地域にもこのスタイルの五七桐が打たれた貴船神社が数社ありますが、それも九州王朝の臣下としての意味だったのです。


あくまでも百嶋神社考古学の立場からの結論ですが、この妻垣神社も、七世紀までは九州王朝の神宮であったものが、いつしか崇神天皇にすり替わった神社だった事になりそうです。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:34| Comment(0) | 日記

2015年08月04日

102 宇佐神宮とは何か? K “境外摂社鷹居社とは何か?”

102 宇佐神宮とは何か? K “境外摂社鷹居社とは何か?

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

201504015

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


次は、宇佐神宮を考える上では避けて通ることのできないもう一つの視点から考える事にしましょう。

宇佐神宮の境外摂社に鷹居社があります。


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10号線沿いに交差点がありこの鳥居から数百メートル入ると鷹居社があります。


カーナビ検索用大分県宇佐市上田字1435

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仲哀天皇神功皇后応神天皇


本殿は覆殿の中にあって見えないが、流造らしい。中を覗こうとしたが「無線警報装置」があると書いてあったので止めた。 元明天皇和銅五年の創建で、八幡大神の御社を最初に奉建した霊地である。
 宇佐神宮に関する、辛嶋氏伝承では、八幡神は、欽明天皇の御代、宇佐郡辛国宇豆高島(
稲積山?)に天降り、大和国の膽吹嶺に移り、紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現われ、泉社瀬社当社鷹居社小山田社現社地へと移ったとする。拝殿後方に幣殿があり、その後ろに覆殿に覆われた本殿。境内には、駐車場などもあり、「憩いの場」を目的に整備されたようだ。が、雑草が多く、あまり活用されている雰囲気ではない。

敬愛する「玄松子の記憶」より


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読めばお分かりになると思いますが、八幡神に大出世した応神天皇(実は別王)が元々いた場所の一つがこの鷹居社なのです。

逆に言えば、元々、現在の亀山はもとより、安心院にもいなかったという事になるのです。従って、現在の鷹居社自体も抜け殻の神社との印象を持つのですが、お叱りは覚悟の上です。

玄松子氏が引用された宇佐郡馬城嶺(マキボン)こそ大元神社が鎮座する御許山(マキボン)の事でしょうが、それは降臨説話であり、実際にはこの地に駐留していたのだと思うものです。

では、それ以前、実際にはどこにいたのでしょうか?

それが、香春三山のある田川(鷹羽)郡であり、筑前大分の飯塚市の大分八幡宮だったはずなのです。

これも、贈)応神から見た場合の元宮、元々宮、元々々宮になるのですが、その前はと問われれば、渡辺光敏氏の説に乗り、朝鮮半島の馬韓 目支(マキ)国=沸流百済であり、それこそが崇神→応神朝廷=近畿大和朝廷に成長したと考えています。

従ってこの鷹居社こそ九州王朝の下剋上成り上がり国家=近畿大和朝廷の故地なのです。

次は、この事を考える事にしましょう。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:00| Comment(0) | 日記

2015年08月07日

103 宇佐神宮とは何か? L “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは「三国史記」の目支国のマキ”

103 宇佐神宮とは何か? L “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは「三国史記」の目支国のマキ

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載

201504015

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


101 宇佐神宮とは何か? J “安心院の妻垣神社は自称神武こと贈)崇神天皇を供応したか?において、

「記」「紀」に言う神武天皇とは“東征の神武”を含め初代の神武(カムヤマトイワレヒコ)ではなく、“自称神武”“神武僭称”第10代崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)だからなのです。


と、しましたが、崇神の和風諡号「紀」では御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエ)とも御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)とし、「記」でも御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエ)とします。

してみると、そのマキとは、宇佐神宮上宮の遥拝所から崇める御許山の別名が馬城峰(マキボン)と呼ばれている意味が分かってもらえたと思います。

この、贈)崇神天皇に関わるマキは外にも馬城小学校などとして現地でも確認できます。

ここで、敬愛する渡辺光敏氏の「日本語はなかった」から一部をお読み頂きます。

妻垣神社に現れた神武天皇なるものが、初代神武天皇ではなく、藤原によって第10代と超格上げされた贈)崇神天皇の事である(この事は日向から東征した神武も)としたことが多少とも理解頂けるでしょう。

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無題.pngでは、藤原氏は九州王朝の臣下でしかなかった崇神を贈)崇神天皇とまで格上げしたのでしょうか?

 それは、彼らの出自そのものがそこにあったからなのです。

 事実、妻垣神社の縁起でも、天種子命が藤原氏の遠祖であるとしています。

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妻 垣神社で供応した宇佐津彦、宇佐津姫の一族が藤原の遠祖である天種子と合体しその後の薦神社の社家や宇佐神宮の到津家になっているのですが、だからこそ、 妻垣で供応されたとする贈)崇神を初代神武としたいのであり、九州王朝の痕跡を消す事によって、盤石の近畿大和王権(実質は藤原王朝)を確立しようとした のです。

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どうやら近畿大和朝廷が、何故 宇佐神宮をこれほどまでに重視し贈)崇神を神武であるかのように装ったのかが見えてきました。皆さんも、再度、百嶋神代系譜で確認して下さい。

 ここで「記」「紀」に「一柱騰宮」、「足一騰宮」と書きとめられた時代を考えて見ましょう。

 この神武が藤原によって高下駄を履かされた贈)崇神天皇だったとしましょう。

 では、それを出迎えた(受け容れた)菟狭國造の祖ともなる菟狭津彦と菟狭津媛とは如何なる一族(民族)だったのでしょうか?

 まず、贈)崇神は大山咋の子であり、大山咋は阿蘇の草部吉見の子です。ただ、これは父(男)系として見た場合の話であり、母(女)系として見れば、鴨)玉依姫、活)玉依姫…瀛氏、白族の流れとも言えるでしょう。

 そこまで考えれば、宇佐の安心院で供応した一族も同様(阿蘇系、白族)だったと考える余地は十分にあるわけで、 既に三女神社があることはお知らせしましたし、瀛氏の宗像大社の一族が先住者としていた事が見えてきます。

他に、大神比義の一族、唐(韓)島氏もありえるのですが、後に、各々排斥された事を考えれば、恐らくこの瀛氏、白族の一族が、宇佐神宮の原初的な一族だったことが見えてくるのです。

この点は今後とも探求が続きます。

最後に、百嶋先生は安曇族の故地もここ安心院であり、直接的には温見(ヌクミ)地区で、本来はアツミなのだと言われていました。熱海温泉の「熱海」も渥美半島の「渥美」もこの派生したものなのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:17| Comment(0) | 日記