太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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2018年07月17日

ビアヘロ 056 四国の高良神社“見えてきた大宝元年の神社再編”( 高知市 別役政光 )

ビアヘロ 056 四国の高良神社“見えてきた大宝元年の神社再編”( 高知市 別役政光 )

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太宰府地名研究会 古川 清久


 本稿は古田史学の会の会報(20182月)に掲載されたものですが、全国の高良神社(これに加えて若宮神社…なども)を追い求める当方の立場に近接するものであり、今般、特にお願いして掲載頂いたものです。

 書かれた別役氏は高知市在住の若手研究者ですが、今後も掲載の機会が増えて来るものと考えています。

 僭越ながら、四国の高良神社に関しては私も現地を踏んで15社を確認しており、ひぼろぎ逍遥(跡宮)にブログとして15本を掲載しています(以下のものはその一部です)。


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四国の高良神社調査(徳島‐高知編)E “徳島県四万十市蕨岡の高良神社” 

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四国の高良神社調査(徳島‐高知編)D “吾北村の若宮神社”

184

四国の高良神社調査(徳島‐高知編)C “徳島市内 飯谷町 高良の高良神社”

183

四国の高良神社調査(徳島‐高知編)B “徳島市内 応神町 古川 の高良神社” 

182

四国の高良神社調査(徳島‐高知編)A “阿波の山上集落に佐連の高良神社を探る”

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四国の高良神社調査(徳島‐高知編)@ “阿波の山上集落に末貞の高良神社を探る”


 別役氏は正統派らしく軸足を文献史学に重点を置いたフィールド・ワークを行っておられますので。

このため、当方などに比して寄り緻密、稠密、細密なリポートを書かれています。

 本稿は元々縦書きで作成されたものを掲載上の都合で横書きにしていますので、不具合があるかも知れません。その場合は、改訂版を出させて頂く事として、読みやすく理解しやすくするために地図、写真等についてはこちらの責任で添付させて頂きました。

 まずは、簡潔明瞭な「四国の高良神社」をお読み頂きたいと思います。

 なお、今回はグーグル・アースから地図と画像を採らせて頂きました。それは、読者ご自身でも検索され地番からストリート・ビュー等で周辺検索を試みて頂きたいと思った次第です。


四国の高良神社 見えてきた大宝元年の神社再編                 201821

高知市 別役政光


福岡県久留米市御井町の高良大社(筑後国の一宮)の祭神は高良玉垂命といい、倭の五王との深いつながりがあることを古田史学会の代表・古賀達也氏が指摘(『新・古代学』古田武彦とともに 第四集、一九九九年)している。高良神社の分布を見ると筑後地方に最も集中しているが、西日本を中心に広がり、遠くは青森県を含む東日本にも所々に散見される。インターネットの検索にかかるものに関しては、ホームページ「検索で調べた高良大社の分祀」の地図が分かりやすいが、境内社や小さいところなど、漏れているものも多いと思われる。倭国・九州王朝の勢力圏と関連があるかどうかは多方面からの検証が必要であるが、四国における高良神社の存在を追ってみて、明らかになったことを報告しておきたい。


愛媛・徳島・香川の高良神社

久留米地名研究会・古川清久氏が四国へも足を運び、高良神社を訪れたことが、ブログ『ひぼろぎ逍遥』の中で紹介されているが、愛媛県の高良神社は西条市の石岡八幡宮の摂社としてかろうじて残されていた。他に松山市北斎院町の高家八幡神社、同市高岡町の生石八幡神社、南宇和郡愛南町の八幡神社等いずれも境内社ではあるが、探すほどに数が増え、単立の神社として存在していないことがかえって、九州王朝との関係性の深さを象徴しているようでもある。それに対して、徳島県の高良神社四社は比較的よく残されているという印象を受けた。所在地には「高良」という地名も残っている。香川県では四国八十八か所の案内などにも名前が出る七十番札所・本山寺に隣接する三豊市豊中町の高良神社(祭神・玉垂命)が有名であり、その近辺の財田川水系に数社集中しているが、大半は八幡宮境内社となっている。他に高松市香西南町の高良神社(祭神・武内宿禰命)は香西本町の宇佐八幡神社のお旅所(境外末社)とされており、同社境内の白峰神社には高良神社を含む境内神社五社が大正十二年に合祀されたと記録されている。他にも二〇一四年に一社が廃社になったと聞く。

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高知の高良神社

さて、高知県ではどうだろうか。東の端、安芸郡東洋町に甲浦八幡宮摂社としての高良神社(祭神・高良玉垂命)と、県西部の四万十市蕨岡に高良神社(祭神・武内宿禰命)の二社がすぐに確認できた。前者は京都府の石清水八幡宮摂社・高良神社(『徒然草』五二段に登場)と同型の祀られ方のように思える。逆に言うと、八幡神社の摂社や境内社を探すことによって高良神社が見つかることが多いということが経験則として分かってきた。他県で調査される場合にも参考にしてほしい。

後者については、いくつかの謎がある。まずは鳥居横の案内板を見ると「上分字天皇山にあり、祭神は大夫天皇、武内宿弥命である。〜(中略)〜天皇という小字や、瓦が菊の紋であることや、周辺の状況などから、承久の変(一二二一年)によって土佐に配流された土御門上皇の御住所ではなかったかという説があり、研究が進められている」とある。

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大夫天皇(大武天皇)とは何者か

この大夫天皇とは何者なのか。『中村市史 続編』(中村市史編纂委員会、一九八四年)を見ると「高良神社 村社 蕨岡字天皇山 祭神 武内宿禰命。上分沖組の産土神でもと大武天皇。明治元年改称 神社牒には大夫天皇とあり。土佐州郡志には天皇 南路志では大夫権現」といった内容が書かれており、かつては「大武天皇」とも呼ばれていたことが分かる。倭→大倭の変化と同じように尊称を込めて倭の五王・武が大武と呼ばれるようになったのではとの想像も浮かんだが、他に類例はないか探してみた。すると大阪府豊能郡豊能町に天武天皇宮と呼ばれる場所があり、同町観光ボランティアの会のホームページには「遊仙寺の墓地奥に続く森の奥に残された祠。ここに宮があったとされる。神祭は天武天皇で、創立年代は不明。柏尾宮とか大武(ダイブ)天王宮とも呼んでいたという。明治四十年に走落神社へ合併された。『大婦天皇御宝前、正徳元年九月吉日』と刻された石灯籠が走落神社の境内へ移されている」と紹介されている。

天武→大武→大婦と変化したというのだ。しかしこの説は受け入れがたい。尊称の付加や好字への変化はありうるかもしれないが、大和朝廷の天皇その人に対して公式的な呼称以外の表現をあえて用いるであろうか。多元史観に立ってみれば、天皇家とは関係のない偉大な人物が天皇と結び付けられて祀られているという可能性が見えてくる。漢字表記は変化しているが「だいぶ」という音に意味があるのではないだろうか。そう考えると、福岡県飯塚市の大分(だいぶ)八幡宮との関わりが感じられてくる。

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八幡宮のはじまりは大分八幡宮とされ、そこから宇佐八幡宮や筥崎宮が分霊されていった。『八幡宇佐宮託宣集』にも筥崎宮の神託を引いて「我が宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていたという。中国では、周代に太師・太傅(たいふ)・太保が三公と呼ばれ、天子を助け導き国政に参与する職であったとされる。その太傅、すなわち天子の養育に携わる府が置かれていた場所が大分宮であるとの説もあるくらいだ。「大夫」「大婦」をどう読むかは定かではないが、「たいふ」の音に通じる。「大夫天皇」が天子を補佐した人物というイメージが浮き上がってくる。それゆえに高良神社の祭神が武内宿禰(神宮皇后の後見)と結び付けられることが多いのも一理あるかもしれない。


県下に残る高良神社の痕跡

いずれにしても、一つの事例だけで結論を下すのはデータ不足である。高知県内の他の場所には高良神社はないのだろうか。長岡郡大豊町に高羅大夫社が見えるが、祭神は不明である。高良神社としては、八幡神社の摂社または末社として数社見つかった。安芸郡東洋町野根の野根八幡宮(九州宇佐神宮の分社で鎌倉時代の創建と伝承される)の脇宮二社として左側が高良玉垂神社、右側が若宮神社。四万十市不破の不破八幡宮の境内社。また『皆山集1』(松野尾章行、一八三六〜一九〇二年)には、南国市岡豊山にあった豊岡八幡宮の末社として、高良・若宮社など十数社が記されている。

地名遺称として高良神社に関連がありそうなのは、「白皇神社:山奈村山田字宮ノコウラ」「天王:枝川村コウラカ峯」「天王社:梅木村カウラ」など。山奈村(現・宿毛市)の白皇神社は弘仁(八一〇〜八二四)年中の勧請とも言われる。他は「〜天王」が祭られている旧地名が「コウラ」となっていることは、それ以前において高良神社があったか、ある時点で名称変更がなされたといった可能性が見えてくる。神社の社地がある場所の地名として、神社名あるいは祭神名がつけられていることが多いことは、『長宗我部地検帳』(十六世紀末)などでも確認できる。よって四万十市蕨岡の「字天皇山」も大夫天皇が祭られていたことによる地名と考える方が順当で、土御門上皇の御住所云々という可能性は低いであろう。

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先出の「天王社:梅木村カウラ」は、現在は高知市鏡梅ノ木の八坂神社(祭神:素盞鳴命)が建っている場所である。秋の大祭(十一月五日)で神社に集っておられた地元のご婦人に聞いたところ、神社の川向を指して「その辺りをコウラと言っていました」とのこと。明治以前は大宝天王宮、大坊天王社、天王とも称していた。天正五年(一五七七)の棟札の記録もあり、その歴史は古く、『神社明細帳』には「神体記云、天王社神躰木工神九躰」とある。まさか高良御子神社(久留米市山川町)の九躰皇子(高良玉垂命の九人の皇子)を祭っていたのではないかとさえ思えてきた。かつては隣村との村境の峠、ホウテン(宝殿か?)という場所に祭られていたとも伝えられており、高良御子神社における古宝殿との相似性が見えてくる。近くの小浜神社は明治元年まで大房天王、大房天皇であり、八社河内神社についても、「神体記云」として「神躰木工神九躰」とある。


大宝元年の神社再編

この「大宝天王」についても滋賀県に類例が見られる。栗東市の大宝神社(旧:大宝天王宮)の由緒として「当神社は、七〇一年疫病流行の時、小平井村信濃堂(シナンド)(現在の栗東市小平井)に鎮座された素盞鳴命(スサノヲノミコト)と稲田姫命を霊仙寺村(栗東市霊仙寺)経由綣村(栗東市綣)の地先、追来神社境内に四月八日にご鎮座。これにより疫病が鎮まったと伝えられる。同年五月一日社名を大宝天王宮と勧請、正一位とされた」とある。一方、追来(オフキ)神社(祭神:多々美彦命)の由緒には「地主の神として大宝年間以前よりこの綣の地に鎮座されている。〜(中略)〜中世には、若宮権現とも呼ばれ現在も通称その名で呼んでいる。〜(中略)〜地主神でありながら大宝神社本殿が主祭神となっているため、無理に境内社としての位置付けになり、若宮でありまた、社名変更を余儀なくされていると推測される」とある。

関東最古の八幡様とされる茨城県下妻市の大宝八幡宮は七〇一年の勧請、三重県尾鷲市の尾鷲神社(大宝天王社)も大宝年間(七〇一〜七〇三年)の勧請とされ、神社名鑑によると大宝天王社、大宝社、あるいは大宝神社は全国に九社のみとされるが、明治元年の名称変更以前は高知県の例(いの町:大宝天皇→大森神社、高知市:大宝神社と日吉神社の合祀→大日神社など)から推し量っても、かなり多かったのではないかと予想される。

明治維新の折に、神仏分離令(太政官布告一九六号)で神社の名称変更の達しがなされたように、九州王朝から大和朝廷への政権交代の節目である七〇一年の大宝律令が出された際にも大きな改変があったと推測される。実際に大宝元年の勧請と伝えられる神社は、八坂神社(滋賀県甲賀市)、松尾大社(京都市)、白鳥神社(長崎県上五島町)、久麻久神社(愛知県西尾市、旧:荒川大宝天王宮)など数多く見られる。大和朝廷と無縁の神々を祭る神社に対して名称変更のみならず、主祭神の交替等の再編成がなされていったのではないだろうか。


   論理が指し示す結論

十分に調べ尽くしたわけではないが、高良神社は決して少なくはなかったと思われる。四国を見渡すと半数以上が八幡宮の境内社となっているものの、かつては高良神社が広く分布していた可能性が見えてきた。明治時代末から大正時代にかけて全国の神社の統廃合が進められ、神社数は六割程度に減少したとされる。高良神社をはじめ存続が困難になった小社は、この段階で境内社となったり、合祀されたものもあるだろう。高知県に関しては一社を除き、それ以前すでに境内社となっていることが確認できる。古くは、大宝年間にその存在を消されてしまったものがあったのではないかとの仮説も浮かび上がってきた。「コウラ」という場所に建つ八坂神社――以前は大宝天王と呼ばれており、『神社明細帳』には「神社牒云カウラ、天王社 一ニコウラ天王」との記述も見つかった。本来は高良神社であったかもしれないものが、伝承が不明確なため、名称変更の時点で牛頭天皇→八坂神社の例に倣い、大宝天王も八坂神社となったと考えられる。

四万十市の高良神社の祭神問題に立ち返ると、「大夫天皇」というのは元来「大宝天皇」であったと考える方が最もつじつまが合うような気がしてきた。「大宝」の漢字表記は「大房」「大坊」などいくつかの変化が見られる。「大夫」「大武」もその一変形ではないだろうか。『神社明細帳』によると、「元ト大武天皇ト称ス明治元年辰三月改称ノ達ニヨリ高良神社ト改称ス」とあり、それまでは主祭神が大夫天皇(大宝天皇)に置き換えられてきたが、伝承に基づき、本来の高良神社(祭神・武内宿禰命)に戻ったと解釈するべきではないだろうか。改称のルールに従えば天皇→八坂神社に名称変更されていたかも知れないと思うと、高良神社が復活したことは真に幸運だったと言えよう。

多元史観による神社再考が望まれる。日本全土には『日本書紀』や『古事記』に登場しない神々が数多く存在したはずである。その原初的な姿を明らかにしてこそ、生きた歴史が見えてくるのではないだろうか。


力作でしたが、今後とも掲載をお願いしたいと考えています。

併せて「四国の高良神社一覧」と「四国の高良神社分布図」を頂きましたので併せて掲載させて頂きます。当方は二〜三回に分けて15社を確認しましたが、さすがに現地の在住者は詳細に調べておられます。

これで、また、調査に行かなければならなくなったようです。

それとも、四国は別役さんにお任せし、他のエリアを優先すべきでしょうか?今年中に、秋田の赤神社と文中にも出てきた青森の高良神社を確認する作業に入ろうと思っています。協力頂ける方、情報を頂ける方はご連絡ください。09062983254まで。(古川)

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:28| Comment(0) | 日記

2018年07月16日

ビアヘロ 055 「 天 皇 」 と 「 元 号 」〜自立王朝の創始宣言〜

ビアヘロ 055 「 天 皇 」 と 「 元 号 」〜自立王朝の創始宣言〜

金澤 弘毅(札幌市)


 二〇一九年四月に現在の天皇が退位され、翌五月に皇太子が新しい天皇に即位されることになりました。これに伴いこれまでの「平成」の元号も改められ、新しい元号(年号)となります。

 長い年月に培われ継続されてきたことゆえ、それでよしとするとしても、「天皇」という称号と地位や「元号」の始まりなど、その成りたちが全くわかりません。いつの時代に、どんな事情で、なにに由来して、誰が決めたのか、公式記録もなく公式見解もないまま定着してしまったようです。既成事実≠セけが何となく居座ってしまうこの国特有の風土なのでしょうか。昨今の政治問題にもみられる決定と進行の不透明さとよく似ています。

 この「天皇」と「元号」の出自の曖昧さにも、私は大和王朝に先行する王朝が存在した影≠感じとることができます。

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▼王者の称号としての「天皇」

 中国の神話では、天地開闢には盤古という神が、人間創生には女媧という神が登場します。そして『十八史略』には、この天地開闢と人間創生の時代に人間世界を治める帝王として、天皇氏・地皇氏・人皇氏がいて、住居を作った有巣氏と火を使って食事をすることを発明した燧人氏が人間生活を進化させたと書いています。このあと帝王は三皇(伏羲・神農・黄帝)から五帝(少昊・顓頊・帝嚳・帝堯・帝舜)へと神話伝説の時代が続きます。

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盤古            神農           舜帝


 歴史時代に入って「夏」「商(殷)」「周」の各王朝の王者は、権力の象徴である鉞(まさかり)の象形文字「王」を名のります。そしてこれらの王者は、天帝から地上を治める使命を与えられた者として「天子」と呼ばれます。

 最初に「皇帝」の称号を創造した秦の政王は、自ら三皇五帝を超えるものとして「始皇帝」と称しました。紀元前三世紀晩期のことです。

 「天皇」という日本列島での最高位の称号は、その漢風な字態からして出典が中国に由縁すると推測できますが、その動機も意義も始めた時期も全くわかりません。天皇家の大和王朝史である『古事記』『日本書紀』『続日本紀』も、この件については何も語ってくれません。この列島を代表する王者の称号なのにです。

 恐らく天地と人間の創生期の帝王のひとり、天皇氏に因んだものではないかと推測できますが、あるいは倭国の王者が阿毎(あま=天)氏を名のっていることにも関係するのかもしれません。いずれにしても中国の皇帝(天子)に対等を主張するに等しい「天皇」を称することは、内外に波紋を投ずる重大な国家意思の表明です。自立王朝の創始を宣言する行事が催されて当然のことで、天神地袛を祀る国家祭祀が行われ盛大な典礼が挙行されて、正史に記録されるべきことです。それが大和朝廷の記録にないのです。

 もし「天皇」の称号が、近畿ヤマト政権の創造で大和朝廷だけの固有の称号だとするならば、その意義と由来、創始の時期の記録がないことなど考えられず、不思議でおかしな現象というべきことです。当家に記録がないということは、その発祥創成に関与しておらず他からの継承か奪取によるものではないか、と疑われもしかたがないことです。ということは、大和王朝の王者の称号として「天皇」が定着する前に、既に別な権力者が「天皇」を称していた可能性は排除できないことになります。

 私はここにも、前王朝(九州王朝・倭国)が存在した影≠認めることができるのです。これは多元的史観による複眼的観察者としては当然の帰結で、最近の政権が質問封じに使う印象操作≠ネどという言葉では片づけられるものではありません。


▼「天子」ということ

 私が軍国教育を受けた小学校(国民学校初等科)三年までの幼少期、天皇陛下は「天子さま」でした。敗戦とともに昭和天皇が「人間宣言」をされ、新しい憲法で「象徴天皇」という位置づけになりました。戦中戦前の天皇は神さま同然だったのです。

「天子」とは「天帝の子」の意味で、天帝から地上を治める使命(天命)を授けられた王者のことです。王者に徳がなく治政が乱れると天命が革(か)えられ、王者は別な王者に変えられて王朝も交代します。これが「革命」の語源です。

 六〇七年に隋王朝に遣使をした倭国王の多利思比孤は、自分のことを「日出ずる処の天子」と称し隋の皇帝を「日没する処の天子」と表現して、隋の煬帝の機嫌を損ねました。しかしこれは倭王の単なる強がりなどではなく、立派に理由のあることだったのです。この時の倭国は既に自立して中国王朝の支配下になかったからです。

 三一六年に晋王朝は北方の異族に侵入され亡びます。王族が南遷して東晋を建国しますが、中原から北部一帯は五胡十六国の乱世を経て北朝が形成され、六世紀末まで南北朝時代が続きます。倭国は南朝を正統として六世紀初頭まで臣属してきますが、五一七年に独自の元号を建てて自立します。五八九年に北朝の隋が南朝を亡ぼして中国の統一王朝となりますが、倭国は南朝の帝業を継ぐ者としての大義名分の立場から、隋王朝に対等の地位を主張したのが「日出ずる処の天子…」の国書(外交文書)だったのです。

 こうした歴史の流れをみると、「天子」を自称した倭国の王者が中国の皇帝に対抗できる「天皇」を公称していた可能性があります。ところで「天子」を称したこの倭王が妻妾をもつ男性であるのに、この時の近畿ヤマト王権の王者は豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ=推古)という女性でした。ここから隋に使臣を遣わした倭国王が近畿ヤマト王権の王者ではないことが明らかになります。同時に何世紀も日本列島を代表してきた倭国がヤマト政権とは別な権力中枢であったことにもなります。従って「遣隋使は小野妹子」としてヤマト政権の実績としてきた史学界の定説≠ネど吹き飛んでしまいます。


▼「元号(年号)」のこと

 二〇一九年五月に新天皇の即位に伴い改元され、年号も新しくなります。

 これに関連する報道や解説・論評の全てが、わが国の最初の年号は六四五年の「大化」であるとしています。『日本書紀』に最初に登場した年号というだけが根拠のようです。そこには他の文献との照合・検証・公開論議の跡がみられません。

 年号には次のような意味があります。

(1)建元(元号を建てること)は中国の帝王(天子)の専権でした。時間と暦を支配統御することを意味します。

(2)臣属国や縁辺国が独自の年号をもつと、討伐の理由にされる恐れがありました。

(3)独自の年号をもつことは、その国が中国王朝の支配を離れ、自立して独自の王朝体制となったことを宣言したものとみなされます。

(4)王朝創始により建元された年号が断絶することなく続くことで、その王朝の継続が確認されます。

 もし六四五年の「大化」が本当に最初の年号であるならば、次の三点の疑問に納得できる解答ができなければなりません。

@  その前後に、王朝創始と建元の詔勅やその儀式典礼の記録が全くないこと。

A  七〇一年の「大宝」までの間に無年号の時代が長期間あること。

B  六〇七年に倭国王は既に「日出ずる処の天子」を自称していますが、自立王朝の証しである年号がヤマト政権の記録にはなかったこと。

 鎌倉時代編纂の古文書『二中歴(掌中歴・懐中歴)』に「九州年号」と呼ばれる年代歴があります。五一七年の「継体」から六九五〜七〇〇年の「大化」までの間、31個の年号が切れ目なく続き、七〇一年の大和王朝の年号「大宝」へとつながります。

 「九州年号」が九州王朝倭国が施行したものとするならば、前の三点の疑問も解けてきます。@は、倭国での記録が滅亡に際して亡佚したか、後継の大和王朝により抹殺(七〇八年の禁書刈り=jされた可能性があります。Aは、倭国滅亡による政権交代≠ワで切れ目なく年号が続いています。Bの六〇七年は九州年号の「光元」年間で、『書紀』の六四五年からの「大化」は九州年号の「命長」から「常色」年間に当たります。「天子」に対応する年号は、九州倭国では施行されていたことになります。

 日本列島で最初に施行された年号は五一七年の「継体」です。中国南朝の帝業を引き継ぐ自負と誇りが伝わります。史学界の定説≠謔閧煦齠〇年以上も昔です。

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九州年号 二中歴(掌中歴と懐中歴)


▼「天皇」という称号も「元号(年号)」も中国王朝との関係から理解しなければなりません。いずれも中国王朝の支配から自立して、独自の王朝体制を宣言する用語であったのです。当時の東アジアの国際情勢の中で、とても重要な意味をもつ政治的用語でもあったわけです。

 こうして考察を進めると、「天皇」も「元号(年号)」も大和王朝の創造ではないことが推断されます。別なところの別な王者の創造と施行、と考えられるのです。倭国(九州王朝)は、七世紀後期に介入した朝鮮半島の戦争に大敗して衰弱滅亡します。隠蔽されてきた「九州年号」が真実の歴史≠証言しています。

 「天皇」の称号は六世紀に九州倭国の王者が創始して、七世紀末期か八世紀初頭に大和朝廷が政権交代≠ノよりこれを引き継いだものだろう、と多くの研究者が考えています。私もそのひとりです。従って、長い間地方政権のひとつだった近畿ヤマト王権の始祖王まで遡り、神武天皇、仁徳天皇、雄略天皇などとその時代にはなかった「天皇」号を、全ての王者につけて平気な顔をしている史学界、教育界、言論界の見識の低さに、私は失望しています。


 わが国の歴史認識≠ヘ、近隣国に難癖をつけられるまでもなく、まだまだ未熟なようです。


 「天皇」と「元号」〜自立王朝の創始宣言〜  金澤 弘毅(札幌市)の掲載について


「ひぼろぎ逍遥」編集員 古川清久


今般、北海道の金澤さんから原稿を頂きました。

と、言うよりも、当方からお願いして掲載をお勧めしたのですが、金澤さんとは当方のフィールド・ワークの過程でひょんなことからお知り合いになったのですが、まだ、福津市の宮地嶽神社でお会いしただけの関係でしかありません。

当然ながら、北海道という土地柄から、所謂、文献史学派の研究者のお一人と言う事になるでしょう。

さすがに、北海道から九州王朝の現場の探訪など頻繁に行えるはずはなく、勢い文献史学に向かわざるを得なくなることは必然的で、厳冬期に家の中に閉じこもらざるを得ない北の国の方のこと、それだけ文献に向かい合う情熱は高まり知識を蓄えられている事と思います。

以前、同じく九州王朝を探究する仲間として、ご著書を頂いてもおります。

まだ、通販で手に入れることは可能のようですので興味をお持ちの方は試みて頂きたいと思います。

先方のご意向にもよりますが、今後も論文掲載をお受けできるのではないかと考えています。

今回は、本原稿の縦書きを横書きに変更して掲載する事にしました。

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異説古代史疑 平成私本書紀


金澤さんは札幌市にお住まいです。札幌に於いて九州王朝論の立場から列島の古代史を探るにはそれなりのご苦労があるのではないかと思いますが、冬に雪や氷に閉ざされる北海道のこと、その分研究にとっては拍車がかかるものとも考えております。

今後とも北の大地から九州の古代を探って頂きたいと思うものです。

さて、良く知られた「舜帝」は別にして、「盤古」は犬祖伝説と併せ内倉武久氏が取り上げられ、中国の少数民族地帯と南九州との関係を探求されておられます。

これに対してあまり馴染みがないのが「神農」神です。

中国大陸には今も「神農」神信仰(神農農薬研究所…ほか)があると聞き及んでいますが、実は、しばらく前まで我が列島内でもけっこう見掛けられていたのです。

「神農」は医療と農耕の知識を古代の人々に広めたとされており、それは最古の本草書とされる『神農本草経』に象徴されていると言います。

土地を耕し五穀をまき、農耕を伝え、また、薬となる植物の効用を知らせたとされています。

そして、農具や農薬や薬草などが市場などで取引され、彼らも薬草を売ったそうです。

このためか日本でもお祭りの時に神社の参道などで露天商がこの神農様のお札を屋台の端などに吊るしていたそうです。

的屋の寅さんが吊るしていたかは分かりませんが(的屋と香具師=ヤシとは別なのかも知れません)、縁日の露天商のある種の人々がこの神農様のお札を吊るす風習を持っていた…と言うより、そういった人々が大陸から渡って来て商売をする利権(ある種の特権)を持っていたのではないかと考えています。

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2018年07月15日

476 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… G 京丹後周辺の「口石」類型地名について

476 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… G 京丹後周辺の「口石」類型地名について

20170911

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回のシリーズの冒頭に周枳(スキ)という地名の話をしましたが、ここらで息抜きも兼ねて地名の話をしたいと思います。後半は後置修飾語の問題になってしまうでしょう。

 高速道路を使わない移動は多くの地名、人名、屋号に遭遇します。

 国道9号線で東に向かうと島根県太田市の朝倉神社(ここにも朝山町朝倉があります)を通過して山陰本線のJR田儀(タギ)駅の手前に「口田儀」という地名が拾えます。

 この地名が田儀への入口に当たる地名で通常田儀口などと呼ばれるものであることは疑いありません。

 実は、長崎県佐世保市に口ノ尾町があります。

また、二十年前に、旧佐々町(現佐世保市)に口石免(免は長崎県北部に多数確認できる免租地の意味)がある事に気付き、「石」と表記された臼状地の入口の意味としても口が前に着く日本語としてはあまり存在しない地名である事を強く意識していました。

黒石も臼地名の一つで、付近には臼ノ浦など臼地名が目立つ場所でもあります。

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この「口石」地名を石見の太田に「口田儀」として見出した時はかなり強烈な印象を受けたのでした。

 すると、京丹後市の大宮売神社の鎮座地の付近に口大野というかなり大きな地名に気付き、どうも但馬、丹後、丹波、一帯に多くの口○○型地名が存在する事に気付いたのでした。

 奥大野という地名が口大野の傍にある訳で、よくよく考えれば、東大野、西大野も同様ではないかと言われてしまいそうです。

 ただ、通常は大野口と言われるものが口大野と呼ばれているだけの事になるのですが、どうもこの背後には前置修飾語と後置修飾語の問題が民族の衝突、共存の中で地名として結晶している事を考えてしまうのです。

 このような微妙な変化を理解できる事こそが文化的な事で、この際少し拾い出して見ることにしましょう。

@  京丹後から但馬の豊岡市へと向かう県道2号線の峠近くに「口藤」があり、中藤があります。

A  与謝野町(宮津市)には「滝」があり、手前に「口滝」があります。以下、地名のみ。

B  京都府京丹後市 「馬地」(マヂ)&「口馬地」これは石見の「馬路」の物部地名移動ですね…。

C  京都府京丹波町 「口八田」

D  京都府京丹波市 「口塩久」(クチシオク)&「奥塩久」

E  京都府福知山市 「小倉」(未確認)&「口小倉」

F  兵庫県豊岡市出石町 「小野」&「口小野」

G  兵庫県蚊香美町 「大谷」&「口大谷」

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H  兵庫県朝来市 「米地」(メイジ)&「口米地」

I  兵庫県朝来市 「田地」(トウジ)&「口田地」

J  兵庫県朝来市 「八代口」(未確認)&「口八代」

K  兵庫県養父市 「大江」(オオエ)&「口大江」

L  兵庫県宍粟市神河町 「宮野」&「口宮野」…

まだまだ続きますが、後は関心をお持ちの方で試みて下さい。

 さて、話はこれからです。

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Mont Blanc


 写真は言うまでもなくヨーロッパ・アルプスのモン・ブランです。

 皆さんご存じの通りモン・ブランは白い山の意味ですが、山(モン=フランス革命のモンターニュ派=山岳党ですね)+ブラン(白 スペイン語「ブランカ」カサブランカ、イタリア語「ビヤンカ」カーザビアンカ)であり、英語で言えばホワイト・マウンテン(White Mountain)であり、「山白い」と思考している事が分かります。

 日本は、勿論、白山姫(天御中主)ですね。「白い山」と考えるか「山白い」と考えるかは、ヨーロッパ系印欧語でも分列があるように、○○口地名と口○○地名を対等に考える価値があるのです。

 つまり、列島の古代に於いて、前置修飾語と後置修飾語は共存した時期があり、結果的に白い山型の前置修飾語が多数派になったのですが、この○○口地名と口○○地名を考えると面白い事が見えて来るのです。

 口は入口の意味ですが、谷口を考えると、谷も口も同じ名詞同志であり、どっちでも良い事になってしまうのです。

 もしも、谷の入口ですよの入口意味を強調した谷口と言いたいか?まだ入口でしかなく谷はずっと奥にあるという意味で口谷と言いたいかの問題もあるように思ってしまいます。

 ここで、ひぼろぎ逍遥(跡宮)350で取り上げた和風諡号から考えてみた をご覧に入れます。


@  神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A  綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B  安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C  懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D  孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E  孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシシヒコクニオシヒトノスメラミコト)玉名半阿蘇系(黎族)

F  孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G  孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H  開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I  崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J  垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K  景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L  成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M  仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N  応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O  仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統


例外なく彦の付く天皇の和風諡号は「彦」を後ろに持っていかれています。

 ところが考えて下さい。

 ウガヤフキアエズ命は日子波限建鵜草葺不合命 彦波瀲武盧茲草葺不合尊と彦が前に置かれているのです。

 今回の丹波、丹後で有名なヒコイマスオウは日子坐王、彦坐王ですね。

今回の「崇神紀」の関係者ですが、一般には神武天皇の皇后であるとされるヒメタタライスズノミコト 比売多多良伊須気余理比売 媛蹈鞴五十鈴媛命も姫が頭に着いています。百嶋神社考古学ではこれは崇神の妃でしかないのです(別名:富登多多良伊須須岐比売命)。

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これは京丹後市大宮町口大野の口大野公民館 奥大野もあります。ついでに口田儀もご覧ください。

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