太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年03月22日

308 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡

308 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡

20160919

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

本渡瀬戸ループ橋を渡って北に向かうと30分を要せず五和町御領に入ります。

 古くは繁盛したと思われる街並みのを通り抜け探し回りますが、一向にそれらしき神社に出くわしませんでしたが、再度、カーナビに御領5587を入力し直しようやくたどり着いた小丘に塩谷神社ならぬ塩屋大明神が鎮座していました。

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今回の調査探訪では、有名な神社でも豪華な社殿の大社でもないただの無格社級の神社ばかりを探査してきました。

 しかし、猿田彦を正面に立てた神社群の中に、その父親である大幡主(実は第3代安寧天皇)が封印されており、その正体が塩土老翁であり製塩の支配者、交易者=大船団の支配者だった姿が見えてきたのでした。

 その仮説の検証のための探訪でしたが、これほどはっきりとした半ば証拠のようなものに遭遇できるとは考えていませんでした。

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この手の無格社クラスの小社、祠に関してはほとんどまともな取り扱いがされておらず、社名さえも判読できないものが殆どと考えていたからです。

 この神社の正面には以下の由来がはっきりと書かれていたのです。

 恐らく、何らかの伝承が残されていたものでしょう。この塩田地帯が古代まで遡るものであっただろうことは疑い得ないように思います。

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ここでも、御神体は二体でした。

 もはや、猿田彦大神一神とされている「熊本県神社誌」に疑いを向けるのは致し方ないように思います。

 ただ、祭神が猿田彦一神とされた理由は分かりません。

 相当古い時代から猿田彦だけが許されたものの、大幡主は許されなかった、しかし、地元では祀られていた。

 つまり、海幸彦との関係が濃厚な阿蘇氏による大幡主隠しと山幸彦の猿田彦との貶めが考えられるのですが、あくまでも仮説でしかありません。

 藤原氏、そして阿蘇氏もともに阿蘇高森の草部吉見神社の主神=ヒコヤイミミの流れを持っているのです。

 この辺りの事情については既に伝承を探る時期を越えていると言う気がしますが、再度訪問し聴き取りを行ってみたいと考えています。

 次の写真はこの塩屋大明神正面に広がる水田を写したものです。

 江戸時代の塩田はもっと海に近い所にあるのですが、古代の水田はこちらだったと思います。

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それは、大明神の小字がこの水田に潮を入れ、吐き出す水門の管理できる場所に置かれている様に見えるからです。

ただ、現地のフィールド・ワーク、ヒヤリングが完全ではないため、ここまでで留めておきたいと思います。

 次の目的地である津奈木、水俣に大返しする事になりましたが、帰る途中に、別路を通ると、近くに江戸期からの塩田地跡との教育委員会の看板を見つけました。

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教育委員会ではなく御領まちづくり振興会によるものです

もはや、学会通通説に阿る教育委員会とか学芸員といった方々には、全く期待できない時代になっているようです。

 このような傾向は全国で認められます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 15:08| Comment(0) | 日記

2017年03月18日

307 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! B 天草市志柿の中之塩屋大明神

307 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! B 天草市志柿の中之塩屋大明神

20160919

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 次に向かったのは本土の瀬戸に近い天草上島の有明海側の志柿でした。

 五キロも走れば本土の瀬戸のループ橋に着く場所ですが、手前の島子地区を通り抜け、旧道に入れば仲之塩屋大明神に着きます。

 今回のテーマは、塩土老翁が実は第3代安寧天皇であり、博多の櫛田神社の主神である大幡主であり、浦島太郎であり、猿田彦=ニギハヤヒ=山幸彦の父神であるという仮説の検証作業です。

 その浦島太郎ではないかと思いを巡らしている大幡主の子かも知れない猿田彦の探索中に島子という集落に出くわすと、思わず反応してしまいます。

何故ならば、浦島太郎を祀る浦島神社の主神の一人は浦の島子だからです。


 …安寧天皇は、日本の第3代天皇。 和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇」、『古事記』では「師木津日子玉手見命…

ウィキペディア(20160919 13:50による

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 ここでも御神体は二つでしたが、「大幡主はあまり表にお出にならない…」とは百嶋由一郎氏の弁でした。

 どうやら、天照大御神に変えられているようですが、本来は大幡主だったとの確信を強めたのは、この背後地を見た時でした。

 古い時代の締切堤防としか思えない湾曲した道路に車を止めていますが、その内側には塩が引き込める浅い浜が広がっており、製塩が営まれていたのではないかと思うばかりの形状だったのです。

 当然、移動用の道路は、尾根伝いか、山裾の曲がりくねった浜野辺の道だったはずで、浅い海浜に塩水が入れられ、濃度の濃い塩水が付近の火力のある海岸性樹木で焚き揚げられ有力な交換物資としての塩阿が作られていたのだと思うのです。

 ここまで、考えてくると、不知火海に出たとされる不知火とは製塩のための炎だったかも知れないとも思いを馳せるのです。

 不知火を不知火海だけで出ていたものと考えてはいけません。

 戦前まで、島原でも不知火を見る事が出来たとの証言もありますし、東京オリンピックが行われた1964年(昭和三九年)に作られた島原市の盆踊り歌「本丸踊り」(向島しのぶ、ビクター少年民謡会:唄)「・・・沖の不知火沖の不知火ヨー、誰故燃える・・・」や、「島原の子守唄」(森山良子:唄)「沖の不知火、沖の不知火消えては燃える・・・」などの歌詞の中に“不知火”が歌い込まれているのです。

島原から不知火海が見えるはずはないことから、この不知火とは有明海(宇土半島北)の不知火の事なのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:58| Comment(0) | 日記

2017年03月15日

306 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! A 上天草市阿村の塩釜神社

306 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! A 上天草市阿村の塩釜神社

20160919

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 台風が接近する17日、天ケ瀬温泉五馬高原研修所を出発し天草に向かいました。

 途中、熊本の益城町を通過するルートを選びましたが、まだ、倒壊した家屋が再建どころか撤去もできないで放置された状態になっています。

被災者の無念を考えると我慢がなりません。

 益城町で頻繁に訪れている神社に津守神社があります。

 社名のとおり、想定古代熊本湾の汀線といった場所に鎮座しているのが同社ですが、畿内の津守と併せ、まだ、正体が掴めずにいますのでここでは触れません。

 この神社を見たかったのは何故かこの神社だけはほとんど被害らしきものが無かったという話を聴いていたからでしたが、一部の石塔に被害が出てはいるものの、通常の修復で対応できるレベルのもので、周りの惨状を考えれば奇跡的に災害を免れたといったところなのです。

 以前から存じ上げている宮司がおられたことから半時間も話をしましたが、この地は岩盤がしっかりしておりその岩を削って社務所も造っているとの事、してみると、沖積地が揺れていて岩盤そのものは揺れてないといった事にもなるのですが、真偽のほどはともかくも、熊本人工地震の裏面の一部を見た思いがした瞬間でした。

 その日は宇城市の不知火海側で車中泊し、朝から天草の松島、上島、下島の三社+津奈木町、水俣市の二社の猿田彦を祀る塩○地名、社名を持つ五社の実見に入りました。


@  阿村神社摂社    塩釜神社    上天草市(旧松島町)阿村4208  祭神 猿田彦

A  志柿八幡宮摂社   中之塩屋大神宮 天草市(旧本渡市)志柿326    祭神 天照大神 猿田彦

B  御領神社摂社    塩谷神社    天草市(旧五和町)御領5587   祭神 猿田彦

C  津奈木阿蘇神社摂社 塩釜神社    熊本県津奈木町岩城2032     祭神 猿田彦

D  浜八幡宮摂社    塩浜神社    水俣市八幡町2630(当時)    祭神 猿田彦命


「熊本県神社誌」による


最初に向かったのは阿村神社でした。その境外摂社に塩釜神社が在るのです。

この阿村はかつて天草観光の中心地であった大矢野島から上天草島の松島の中心部から東の不知火海側の龍ヶ岳町、倉岳町、姫戸町に入る手前の大戸ノ瀬戸に面した静かな集落です。

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 この阿村神社の摂社として、阿村トンネルのそばある阿村保育園の傍らに鎮座しているのが塩釜神社です。

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集落の中心部に鎮座する阿村神社は阿蘇12神+天照以下3神=15社ですが、馬を使う阿蘇の神々が天草の神様に祭り上げられていること自体が異常であり、この古来船を操る海人族が住み着いていたとしか考えられない阿村の人々が崇めていた本来の神々は阿蘇の十五神などではなかったはずなのです。


宮地嶽神社の近くに鎮座していた塩釜神社

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阿村トンネルができてから龍ヶ岳、姫戸、倉岳など不知火海側の町に入るのが非常に便利になりました。

 それまでは、まさに陸の孤島と言った表現が正しく、船で移動していたのが天草の人々だったのです。

 その天草が文明化された切っ掛けとなったのが天草五橋の建設でした。

 この天草五橋(天草パール・ライン)の開通は1964年の東京オリンピックから二年後の1966年でした。

 この前後で、全島の車の保有台数が10倍に増えたと言われるのですから、その変化が分かると思います。

ただ、それでも上島、下島の不知火海沿岸は開発が遅れていたのですが、その入口とも言うべき場所にあるのが静かな入浜の泊地だったと考えられる阿村の集落だったのです。

 阿村神社の宮司から教えて頂いた塩釜神社への入口を少し違えて最初に辿り着いたのは宮地嶽神社でした。

 これは違うと少し移動すると直ぐに見つかりました。

 しかし、社殿を見せて頂き、愕くとも、案の定とも言えぬ感想を抱きました。御神体が二つ有るのです。

 経験的に分かるのですが、小さな鳥居が置かれたのが猿田彦で本当の神様が向かって左に置かれているようなのです。

 蝋燭立ても置かれ半ば仏様扱いにはなっていますが、恐らく、宮崎市の野島神社と同様の塩筒命と猿田彦の組み合わせと考えられそうです。

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左が想定大幡主=塩土老翁、右が猿田彦=ニギハヤヒ=山幸彦=ヒコホホデミ

 さて、この阿村集落は小さなエリアながら阿村神社を筆頭に多くの境外摂社が置かれています。

 このことは、それだけでも多くの民族、氏族が入り乱れた繁栄した港町だった事を思わせるのですが、非常に面白い組み合わせになっています。


阿村神社     阿蘇十二神+三神(十五柱神E)

※「熊本県神社誌」E型は天照大神・阿蘇12神・神武天皇を祀る五社とされています 

金刀比羅神社   金山毘古命 

一般的には大国主命、百嶋神社考古学では大山咋と考えますが、ここでは金山彦とされています。

鹿島神社     経津主命 これも鹿島が香取神社の経津主命となっていますが、明らかに間違っており、と言うのは簡単ですが、阿蘇氏が阿蘇の神様を押し付けてきた際に、猿田彦=経津主を祀る神社だったものを鹿島神社と改めた名残と見るべきで、実は猿田彦を祀る神社だったのではないかとも考えられそうです。 

住吉神社     三筒男神 当然ながら、底、中、表の住吉三神

塩釜神社     猿田彦

八坂神社     素盞鳴尊

菅原神社     菅公

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古代、江南から入ってきた船が、関門海峡の田ノ浦港と同様に、不知火海に抜けほっとできる安全な泊地が阿村一帯でした。

 恐らく、南や西から入ってきた人々が闊歩する国際貿易港の様相も持っていたのがこの一帯ではなかったかと思うのですが、再度訪問しゆっくり見せて頂こうと思っています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:16| Comment(0) | 日記