ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1065
宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか? ❹
20240907
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
再掲載
新ひぼろぎ逍遥 781 モンゴル高原から東に向かった日本人と西に向かったトルコ人 20191010
これは良く知られたとも言える…かなり手垢のついた話なのですが、ネット上で検索すると直ぐに拾い出しができます。少しですがご紹介したいと思います。
トルコ人と日本人は兄弟である
トルコ人と日本人は兄弟である。2002年、私はトルコを旅しました。
そのときトルコ人たちから、突拍子もないことを言われました。
「トルコ人と日本人は兄弟だってこと、知っているかい?」
何を言い出すのでしょう!そんなわけがない!私は怪訝な顔をして「NO!」と答えました。
すると、彼らはこう力説するのです。
昔々、その昔、トルコ人と日本人はモンゴルに住んでいた。西に向かって移動して、混血を繰り返し、トルコにたどり着いたのが今のトルコ人。東に向かって移動して、日本にたどり着いたのが今の日本人。だから我々は兄弟である。
その証拠に、トルコ語と日本語は同じウラル・アルタイ語族に属しているのだ。
トルコ 「見〜つけた、日本!」
広さは日本の国土の約2倍。人口は日本の約2分の1というトルコは、日本から約9,000q離れており、アジアの西の端に位置しています。(日本は東の端)そんなに遠く離れた国ですが、意外にも日本とつながっている点が多くあることに驚かされます。そんな視点でトルコを見てみましょう。
1 国 旗
トルコ人にとって日本はとても親しみがあり、好意的にとらえている国です。その気持ちは国旗の見方にも表れています。『トルコ人と日本人は、元々中央アジアに住む一つの民族でした。それが砂漠の進行とともに二手に別れて、一つは太陽を携えて東に、もう一つは月と星を携えて西に移動しました。それが国旗となったのです。』
2 言 葉
トルコ語は文法的に日本と同じ言葉の並び方であることは知られています。言葉そのものにも、日本と同じ意味があるものがいくつかあります。
iyi(イイ) → いい。よい。(「こりゃいい!」)
tepe(テペ) → てっぺん、頂上
moruk(モロク)→ もうろく、おいぼれ
トルコのお年寄りの方に向かって「もうろく」と言ってはいけませんよ。意味が通じますから。
3 生活スタイル
昔ながらの家へ行くとこんな共通点があります。
(1)靴を脱いで家に上がります。
(2)ちゃぶ台を出してきてご飯を食べます。
(3)押し入れから布団を出して、床にしいて寝ます。
しかし生活の西洋化が進み、この生活習慣は見られなくなってきました。
4 楽 器
日本に伝統的な楽器があるように、トルコにも多くの伝統的な楽器があります。それらの形状はどことなく日本の楽器を思い起こさせます。今回出展した「サズ」は三味線や琵琶に、「ダルブカ」は鼓に似ていると思いませんか。
5 狛犬(こまいぬ)
実は、トルコがルーツだったのです。ヒッタイト時代、街の入口に守り神としてまつられていたライオンが、シルクロードを経て日本に来たのです。 (川上 二郎)
とても驚きました。トルコ人と日本人が兄弟だなんて考えたこともありません。
しかし、まんざら嘘でもなさそうな話だったので、気になってその後調べてみました。
すると、トルコ人と日本人の「モンゴルからの移動説」は存在しました。
しかも驚かされたのは、その説ではハンガリー人やフィンランド人までもが、「モンゴル出身」だというのです。フン族ですね。
トルコ、キルギス、ウクライナが超親日国である真の理由とは? 3国に残る「日本人は兄弟」伝説を徹底解説
かつて中央アジアから東ヨーロッパにかけて発達した交易路「シルクロード」周辺には、日本ではあまり知られていないが、実は“超”がつくほどの親日国家が3つある。それはトルコ、キルギス、ウクライナだ。というのも、これら3国には「自分たちと日本人が同じルーツを持つ“兄弟”だ」という古くからの言い伝えが存在するのだ。しかし、それが単なる伝説とも言い切れず、実際に日本人と彼らには共通の起源があるようなのだ――。
【その他の画像はコチラ→http://tocana.jp/2017/02/post_12346.html】
■「日本人に謝りたい……」“隠れ親日国家”ウクライナ
まずはウクライナを見てみよう。東ヨーロッパに位置するウクライナは、今回紹介する他の2国とは異なり、地理的にシルクロードから若干離れている。かつては旧ソビエト連邦の構成国であり、人口の約8割をウクライナ人が占める。美しい女性が多い「美女の国」としても知られている。
今回紹介する3国のうち、「親日国」としては、日本人の間でもっとも知られていない国だろう。だが、ウクライナの国民は実によく日本の事情を知っている。それもそのはず、この国の教育現場では、日本との友好を深めるために教科書で松尾芭蕉や川端康成が紹介されたりもしている。
ウクライナに住むユダヤ人の間には、ある不思議な言い伝えがある。元帝京大学教授の高山正之氏が、自身の体験を『週刊新潮』の連載「変見自在」に綴っている。それによると、かつて高山氏は米国でタクシーに乗っていた時、いきなり運転手から「日本人に申し訳ないことをした」と謝られた。彼はウクライナ出身のユダヤ人だが、母国のユダヤ人社会では、『旧約聖書』にある「古代イスラエルの失われた10支族」のうち1つが日本に渡り、日本人になったとする伝説があるという。それなのに、「ユダヤ人のオッペンハイマーはその日本に落とす原爆を作った」から、謝りたいというのだ。
このような“兄弟伝説”が、ユダヤ人以外のウクライナ人の間にも一般に浸透しているかどうかは定かではない。しかし少なくとも、日本ではほとんど知られていない“隠れ親日国家”であるとはいえそうだ。
■顔立ちも言葉も日本人ソックリ!? キルギス人
キルギスは、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共和制国家だ。人口の70%以上を占めるキルギス人(キルギス族)は、後述するトルコと同じテュルク系民族だ。このキルギス共和国にも、ウクライナ同様の言い伝えがある。『日本の中のユダヤ文化』(久保有政著、学研)によると、昔むかし2人の兄弟がいて、1人は山の方へ向かってキルギス人の祖先となり、もう1人は海の方へ向かって日本人となったのだという。
さらに、この言い伝えには次のような別パターンもある。かつて、キルギス族がバイカル湖の近くに住んでいた頃、とある兄弟がいた。魚が好きな兄は東へと旅立ち日本人の祖となり、肉が好きな弟は西へと進んでキルギス族の祖となった――。これはまるで、日本の神話「海幸彦と山幸彦」のようではないか。古事記では、兄の火照命(ほでりのみこと)は海佐知毘古(うみさちびこ)として大小の魚を捕り、火遠理命(ほおりのみこと)は山佐知毘古(やまさちびこ)として獣を獲っていたという。歌手の加藤登紀子氏も、かつてシルクロードを旅した際にキルギスで同様の言い伝えを聞かされたという。
また、キルギスに伝わる『マナス叙事詩』という長編の口承叙事詩があるのだが、ここに登場する英雄のマナスという人物は、『旧約聖書』に登場するマナセ族の父祖・マナセと共通する部分が多い。こうしたことから、キルギス族のルーツについて「古代イスラエルの失われた10支族」の末裔だとする説もあるのだ。
今回紹介する3国のうち、外貌からすると日本人と同じルーツをもつ可能性がもっとも高そうに思えるのが、このキルギス人だ。後述するトルコ人と同じくテュルク系民族とされるが、実際はとても東アジア人的な顔立ちをしているのだ。日本社会に混じって生活しても、外国人であると見抜かれないような容貌をした人が非常に多い。実際、日本人がキルギスへ行くと、キルギス人と間違われてキルギス語で話しかけられたりすることも多いそうだ。
キルギス語には、日本語と共通する単語が数千もあるといわれる。言葉も顔立ちも日本人とそう変わらないとなれば、やはり、日本人のルーツの一部がキルギス族と同じだとしても不思議ではないかもしれない。
■国旗でわかる日本とトルコが兄弟である証拠
さて、最後のトルコだが、この国は“世界一の親日国家”だという指摘も多い。トルコで「世界で一番好きな国は?」という世論調査をすると、常に日本が1位になるという。その理由はさまざまだが、1つには、やはりウクライナやキルギスと同様の“兄弟伝説”があるようなのだ。筆者の友人から聞いた話では、以前トルコ旅行に行った際、多くのトルコ人が「トルコと日本は兄弟だ、西へ来たのが僕たち、東へ行ったのが君たち」と言っていたという。
さらに両国の国旗が、ちょうど明け方の白い空に昇る太陽をモチーフとする“日の丸”と、夕暮れの赤い空に傾く月をモチーフとする“新月旗”であることを対比して、「仲の良い兄弟がモンゴル高原で別れ、太陽を追いかけて東に行った方は日本を建国し、月を追いかけて西に行った方はトルコを建国した」という話もあるようだ。つまり、トルコ人の多くは、中央アジアの草原を駆け回っていた騎馬遊牧民族こそ自らと日本人に共通する祖先だと信じているのだ。そして、トルコ人とキルギス人のルーツも一部共通するといわれている。これは、ますます真実味が増してくるではないか。
それにしてもトルコ人たちは、本当にそこまで日本と日本人が好きなのだろうか? ある日、その疑問を確かめるために筆者はフェイスブック上の友達である美女、スメイイエ・トパロールさんに取材してみた。
――トルコ人と日本人のルーツがどこかで繋がっているという話に興味があります。
スメイイエ 私の知り合いの日本人のおじさんは、そういうことをよく知っていましたけど、亡くなりました。おじさんから、日本人のルーツは3つのルートがあると聞きました。そのうち1つは、トルコ人のルーツと同じだと。
――シルクロードの他の国にも、とある兄弟が東と西に分かれ、東に行った者が日本人になったという、よく似た伝説があるようです。
スメイイエ イヌイットたちも同じルートから枝分かれしたそうです。寒いところに行った兄弟だと。それにトルコ語には、日本語と同じような言葉もありますよ。
――同じ言葉? 私は以前、トルコ人と一緒にシステムエンジニアとして仕事をしていました。そういえば彼は、外国人訛りのない美しい日本語を話していたのですが、トルコ語と似ているから簡単だと言っていました。
スメイイエ 同じ単語がたくさんあります。文法も似ています。
日本語とトルコ語によく似た単語が多いことは、あるトルコ人の論文でも指摘されている。たとえば、トルコ語の「アチ(aci)」は日本語の「味」、「ワル(var)」は「在る」、「ジジク(cicik)」は「乳」、「ハラ(hara)」は「原」、「ナシ(nas)」は「無し」、「ヤマチ(yamac)」は「山」というように、音も意味も類似する単語が非常に多いという。
スメイイエさん自身も日本文化に非常に造詣が深く、以前から日本語を勉強してきた。前述のインタビューも、チャットを通して彼女がひらがなで入力する形で行ったものだ。とりわけ日本で過去に流行した歌が好きなようで、いつかは日本へ行きたいと語っていた。
(文=百瀬直也)
まだまだありますが、もう十分でしょう。ここからは画像でご確認下さい。
特に注目すべきはキルギス人です。
キルギス人
キルギス人(Кыргыз、Kyrgyz)は、主にキルギス共和国を中心として中央アジアに分布するテュルク系民族。自称はクルグズ。キルギス共和国の約260万人のほか、周辺の旧ソビエト連邦諸国や中国の新疆ウイグル自治区などにも数十万人が住み、中国55少数民族のひとつに数えられる。
日本語で一般的に用いられる民族名キルギスは、ロシア語による民族名Киргиз(Kirgiz)に由来する。これに対し、キルギス語による自称はクルグズ(Кыргыз、Kyrgyz)という。帝政時代のロシア人はカザフ人のことを誤ってキルギスと呼んでいたため、本来のキルギスはカラ・キルギス(「黒いキルギス人」の意)と呼ばれていた。
ソ連時代にキルギスと他称されるようになり、対外的には“Kirghiz”と表記された。1990年にキルギス共和国が主権宣言をしたのち、キルギス語に準じた“Kyrgyz”の表記が国際的に使われるようになる。日本の学界でも、「キルギス」は他称あるいは誤称であり、「クルグズ」と表記するのが正当とされている。
なお中国では、「キルギス」を音写した吉爾吉斯をキルギス共和国のキルギスを指すのに用い、「クルグズ」を音写した柯爾克孜を中国の少数民族としてのキルギスを指す民族名として使い分ける。
イェニセイ・キルギス[編集]
詳細は「堅昆」を参照
『史記』などの古代中国の歴史書に名前が見られる堅昆(けんこん)が、キルギスの名で記録された最初の民族集団と考えられている。彼らは南シベリアのイェニセイ川上流域で遊牧生活を行い、匈奴に服属していた。その後、同じ地域にいた民族として記録される契骨(けいこつ)もやはりキルギスの名を記録したものである。当初彼らの風貌は、背が高く、白い肌を持ち、青い目を持つと記されていた。これらのことから、キルギス人の祖先は、コーカソイドであると言われている(ただし、現在のキルギス人とは関連性があるかどうかは不詳である)。
唐代には黠戛斯(かつかつし)として記録され、はじめ突厥(テュルク)、のち回鶻(ウイグル)に服属していたが、840年に決起してイェニセイ川から南下し、回鶻を滅ぼした。しかし、回鶻に代わってモンゴル高原を支配することはできず、その後もキルギスの名を持つ集団はイェニセイ上流域に留まったようである。13世紀にチンギス・カンがモンゴル帝国を建てるとこれに服属した。
フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)20191010 08:08
カラコル旅行1 2008年 05月 30日
3月25日 首都ビシュケクから東へ、車で2時間半ほど、イシククル湖の西端につきます。
そこから3時間、東へさらに進むとイシククルの東端の地方都市、カラコル。
カラコルは中国に近く、ドゥンガン人(ムスリムの中国人)やロシア人が多く住んでいます。4泊5日の旅をしました。
ビシュケクからカラコルに向かう途中のイシククル湖沿いに、ちょうどビシュケクから東へ車で2時間半ほど進むと、タムチという村に到着します。
このタムチ村では同期が学校に勤務しています。
これまで何度も訪問したので、ホストファミリーもご近所さんも先生達もみんな知り合い。
写真を撮ってみて改めて思いました。
誰が日本人で、誰がキルギス人か、わかりますか?

故)百嶋由一郎氏は“日本にはトルコ系匈奴(熊襲の一部大山祗系を念頭に)がごっそり入っているが日本の歴史では消されている”と言われていました。
匈奴はモンゴル高原にあって漢民族の農耕社会を脅かした遊牧騎馬民族。前3世紀末、強大な匈奴帝国を建設し、漢を圧迫した。漢の武帝に制圧され、紀元後1世紀頃東西に分裂する。その後も分裂を繰り返したが、そのうちの南匈奴は五胡の一つとして勢力を回復し、4世紀には華北を支配したが、次第に漢民族に同化した。なお西方に移動した北匈奴は、フン人となったとの説もある。
中国の北方民族のなかで、モンゴル高原で遊牧生活を送っていた匈奴は、秦の始皇帝が中国を統一した前3世紀の終わりごろ、部族統一をなしとげ強力な国家を形成していた。彼らは騎馬遊牧民で馬上から弓を射ながらの攻撃は農耕民である漢民族の脅威となっていた。始皇帝は前215年、将軍蒙恬を派遣し、匈奴の勢力をオルドス地方から追い払い、またその南下に備えて万里の長城を建設した。また、都の咸陽から黄河の北岸の九原の近くまで軍用道路として「直道」を開通させた。
匈奴帝国
匈奴はいったん勢力が衰えたが、中国本土で項羽と劉邦が争っている間に勢力を盛り返し、冒頓単于のもとで強大な遊牧国家を形成、東の「東胡」と西の「月氏」を征服して「匈奴帝国」を実現させた。 前200年、漢の高祖(劉邦)は匈奴帝国の冒頓単于と平城で戦って敗れ、漢宗室の女性を公主(天子の娘)として単于の妻とし、毎年一定の贈り物を匈奴の王に贈るという屈辱的な和を結んでいる。それ以降漢と匈奴帝国は対等な外交関係をとることとなった。
漢の武帝の匈奴制圧
一転して武帝は対匈奴強攻策に出て、前129年以来、衛青、霍去病(かくきょへい)らの諸将軍に大軍をつけて討伐軍を送り、匈奴を圧迫し、西域に進出した。また匈奴を挟撃する目的で張騫を大月氏国に派遣した。この武帝によるたび重なる討伐を受けたため、匈奴は次第に衰退し、紀元後1世紀頃には東西に分裂する。
匈奴の東西分裂
匈奴は前3世紀末から前漢と戦ってたびたび勝利し、全盛期を迎えたが、漢の武帝に西域を抑えられたことによって次第に衰えることとなった。漢は前59年に西域都護を置き、匈奴討伐を強めた。その前の前60年ごろ、虚閭権渠(きょりょけんきょ)単于が没すると内紛が生じ、一時は五人の単于が並立するという分裂状態となった。一般にこの時を匈奴の東西分裂としている。その中で最も有力だった呼韓邪(こかんや)単于に対して兄の郅支(しっし)単于が反発、勢力を二分するようになり、激しく対立した。そのうち劣勢となった呼韓邪単于が、前54年ごろ、漢に助けを求め、降伏した。このとき呼韓邪単于に従って漢に降伏した匈奴を東匈奴といい、漢に服従しなかった匈奴を西匈奴といっている。東匈奴は内モンゴルに残り、漢と同盟して西匈奴を攻撃した。そのため西匈奴は中央アジアのタラス川流域に移動したが、前36年、漢と東匈奴によって滅ぼされた。
Episode 王昭君の悲話
漢王朝は匈奴の離反をさけ、懐柔するために王家か後宮から女性を選び匈奴王に嫁がせる通婚政策をとった。これは唐では「和蕃公主」と呼ばれた。国家の犠牲となって強制的に異朝の宮廷に送られる女性の悲劇だった。有名な話に漢の元帝の時に匈奴の呼韓邪単于の求めに応じて贈られた王昭君の話がある。
(引用)有名な物語のひとつによると、元帝の後宮には女性が多かったので、画家に絵を描かせて、皇帝が召し出す女性を決めていたそうです。今ならさしずめ写真を見て決めるということになるのでしょう。それで女性たちはみな画家に賄賂を送って美しく描いてもらおうとしたのですが、王昭君は賄賂を出さなかったので醜く描かれたといいます。呼韓邪単于に女性を贈ることになって、元帝はいちばん醜い女性を選ぼうとして、画家の絵を見て王昭君を召し出してみたところ、これがまたたいへんな美人だったので惜しくなりましたが、単于との信頼関係を重視してそのままになったといいます。しかし他の説によると、王昭君は一度も皇帝に召し出されたことがないので、いささかデスペレートになっており、自ら志願したともいわれます。<堀敏一『中国通史』2000 講談社学術文庫 p.137>
この話は元の時代になって元曲の『漢宮秋』となって広く知られている。漢宮秋では王昭君は国境の黒河で投身自殺することになっている。 → 東匈奴の項参照
匈奴の南北分裂
漢王朝は冊封体制をとり、周辺国の君主の王号を認め、それぞれ印綬を与えていたが、前漢に代わって新王朝を建てた王莽は異民族の君主をすべて王から侯に格下げした。匈奴の単于に対しては、それまで「匈奴単于璽」の印綬を与え、単于の号を王よりも上位としていたのが、王莽は「新匈奴単于章」と改め、国号の新を加え、国璽ではなく単なる印章としてしまった。匈奴の単于は強く反発してそれまでの和親を破り、西域諸国に侵攻するようになり、西域諸国の中にもそれに同調するものもあらわれた。
王莽の新に代わった後漢の光武帝は和親の回復を求めたが、匈奴は応じようとせず、対立は深まった。ところが、匈奴側に内部分裂が起こり、後漢に有利に展開することとなった。呼韓邪単于の孫の代の単于の時、単于位をめぐる争いが生じ、日逐王比という者が単于になれないことを不満として48年に後漢王朝に降伏してきたのだった。これによって匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢の庇護を受け、北匈奴は対立することとなる。<西嶋定生『秦漢帝国』1997 講談社学術文庫 p.403,484-486>
匈奴帝国の崩壊とその後のモンゴル高原
北匈奴はモンゴル高原に残ったが、後漢と結んだ南匈奴が、モンゴル高原東方にいた烏桓(うがん。烏丸とも書くモンゴル系遊牧民)、鮮卑、南方の丁零などの遊牧民とともに北匈奴を攻撃し、87年には単于が鮮卑に殺害され、91年にはその本拠も奪われた。匈奴帝国は実質的に姿を消した。その一部がさらに西進し、ヨーロッパに現れてフン人となった、という説が有力であるが、まだ確定していない。 → 北匈奴の項を参照。
匈奴帝国が崩壊した1世紀末以後のモンゴル高原には、東部を本拠とした鮮卑(トルコ系またはモンゴル系)が有力となり、後漢末の混乱で亡命してきた漢人を受け容れて漢化しながら、しばしば中国本土に侵攻するようになる。一方、南匈奴は後漢に服属して以来、中国の北辺に移動して定住し、五胡の一つとされ、晋の八王の乱に乗じて、華北に進出し、五胡十六国時代の趙、北涼、漢、夏などを建国した。華北が鮮卑族の北魏によって統一されるとそれに服属し、同化していった。
五胡十六国時代の匈奴
南匈奴は後漢の支配のもと山西省各地で部族ごとに生活していたが、魏の曹操がこの地を制圧すると、地域ごとに左・右・南・北・中の五部に分割して統治された。実際には奴隷として人身売買される境遇にあった。3世紀末、晋で八王の乱が起こると匈奴はその軍事力を利用されるようになった。匈奴の自主性回復の好機と捉えた劉淵は匈奴の兵5万を結集して、304年、漢王を称して独立し(漢王を称したのは、東晋に奪われた漢王朝を復活させることを標榜したため)、山西で建国、漢の高祖を名乗った。これが五胡十六国時代の幕開けとなった。その弟の劉聡は316年、洛陽を陥れ西晋を滅ぼす(永嘉の乱)。この漢は、319年に国号を趙に代える(前趙)。前趙は、後に羯人の石勒が建てた後趙に併合される。
南匈奴こそ熊襲の中心的勢力
南匈奴
48年、匈奴が南北に分裂した後、後漢に服属した方を南匈奴という。五胡の一つとして華北に進出。
東西分裂によって生まれた東匈奴は、漢と協力して西匈奴を滅ぼしたので、後漢時代には東匈奴だけが匈奴といわれるようになった。彼らは後漢に服属していたが、後継者争いとイナゴの害によって危機を迎えた。後漢からの独立を志向する蒲奴単于が北匈奴として分離したのに対して、後漢との和親を求めるグループは呼韓邪単于(東匈奴初代の単于)の孫を擁して、48年にふたたび呼韓邪を名乗らせた。これが南匈奴である。
五胡の一つとしての匈奴
南匈奴は五胡の一つの「匈奴」として傭兵となり、中国の各王朝との関わりを深めて行く。
南匈奴の単于の後裔である劉淵は晋の部将であったが八王の乱の混乱に乗じて304年に独立し、漢(前趙)を建国した。劉淵は匈奴の系統であったが、漢王室を再興すると称して劉氏を名乗った。これが、五胡十六国の始まりであった。
による
故)百嶋由一郎氏はこの王昭君の一派が朝鮮半島の金官伽耶を経由し九州に大量に入っているとしているのです。大山祗、大国主命、コノハナノサクヤヒメ、神大市姫(ミヅハノメ)=熊襲なのです。
