太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年08月22日

368 以前、鳥居の前まで来て引き返した御手洗神社 “大分県豊後大野市三重町上田原の御手洗神社”

368 以前、鳥居の前まで来て引き返した御手洗神社 “大分県豊後大野市三重町上田原の御手洗神社”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 無題.png既に、大分県下での神社トレッキングを始めてしまった感があるのですが、百嶋神社考古学の内容を受入れた四人のメンバーの内、三名が豊後大野市の三重町に集まり、現地に集まった他の地元の研究者と併せ、二日間にわたる五〜六名での神社トレッキングを行いました。

 今後もこのようなイベントが増えてくるものと考えています。

10時に集まった場所は、数年前に付近の牟礼神社に訪問したついでに鳥居の前まで進んだものの、結局、そのまま引き返した事のある御手洗神社でした。

このため、その時以来の初見の神社となります。

 湯立神楽は実見していませんので触れませんが、山岳修験の匂いがしますね。鳥居の神額も火炎を表しており、金山彦系の製鉄神が祀られている事をそれだけで示しています。

事解之男神=火之迦具土(追祀)が祀られている事と符合しています。

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 御手洗神社とは湧水池の意味で間違ってもトイレットの意味ではないのですが、小丘陵の縁から湧きだす水源の傍に建てられた神社である訳です。

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 上田原の集落は、古来、この湧水池の潤いに支えられて成立した集落であった事が分かります。

 まず、南には物部を思わせる吉井山があり(西にも同系統の山田が…)、裾野には松尾川が注いでいます。

 松尾は醸造の神である松尾大神=日枝山王権現=日吉大社=大山咋(オオヤマクイ)=佐田大神(阿蘇草部吉見と宗像の市杵島姫の御子であり猿田彦ではない)を奉斎する氏族の集落です。

製鉄と思わせる内田、鬼塚という集落の上に秋葉山=秋葉権現(火之夜藝速男神=火之R毘古神=火之迦具土神=加具土命)があり、当然、金山彦を祀っているはずです(未確認)。

 また、大無礼、中津無礼と言う豊後に多い牟礼地名が拾え(ムル、ムレはモンゴル高原の集落、城塞都市を意味する地名で「群」とも書かれるもので、列島の「村」の語源とも言われる)トルコ系匈奴を思わせます。北の川向うの緒方町には室屋、牟礼があり、直ぐ南隣には牟礼と言う集落があり牟礼神社があります(モンゴル人という意味ではないので誤解がないように)。

 奥畑川沿いに板屋がありますが、佐賀県の物部神社の鎮座地が板部ですが、板屋、板部は製材の部の民がいた土地で、経津主=ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦が祀られている事が多いのです。

 西の川向うには玉田と言う地名があり、忌部(大幡主の子である豊玉彦)の系統が住み着いた事が読み取れます。また、原田という集落も拾え、ペルシャ・アーリア系の人々が住み着いた事を思わせます。

 東には菅生があり、菅原系(スサノウ系と言うより長脛彦系と豊玉彦=ヤタガラス系により成立したと思われる)氏族が住み着いたものと思われます。

 竹田、緒方、三重…に掛けての一帯は、正に民族の坩堝と言った様相を見せています。

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同社御由緒


 では、御手洗神社の神々を読み解きましょう。「古事記」系統の書き方がされており、伊邪那美(イザナミ)、速玉之男神(ハヤタマノオ)、事解之男神(コトサカノオ)の三神が祀られています。

 熊野からとされてはいますが、熊野三神(熊野本宮、熊野速玉、熊野那智)をそのまま勧請したものではありません。

 まず、伊邪那美(イザナミ)が祀られているものの、伊邪那岐(イザナギ)が祀られていませんね。

 そうです、百嶋神社考古学では、イザナギとイザナミは分かれており(神話でも黄泉の国から追われますね)、博多の櫛田神社の大幡主と夫婦神となられているのです。

 後に大山積、大国主、宇迦賀御魂、火之迦具土、大雀命が祀られていますが、火之迦具土は事解之男神=金山彦ですので重複が生じています。

宇迦之御魂は豊受大神=伏見稲荷=伊勢外宮とは辛國息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト)であり香春神社の主神ですね、辛國息長大姫大目命の「大目」が、「ウヅメ」と読めれば(O音とU音の入れ替わりで古代九州標準語はU音で読まれていた)、猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒのお妃がアメノウヅメであり、豊受大神が「宇迦之御魂」と呼ばれている事も分かって来ると思います。

大雀命は藤原により第14代とされた九州王朝の最後の天皇仁徳ですが、国東半島の石清水八幡宮系の摂社として高良神社とこの「大雀命」が若宮神社として祀られている例がかなりの数拾えます。

天下の宇佐神宮の上宮の一段下(私達は中宮と呼びますが)に若宮神社があり、大雀命外4神が祀られている事に気付かれている方は少ないと思います。

高良神社と大雀命とは、第9代開化天皇と第14代仁徳天皇になるのです。

そのお妃(大雀にとっては母神)が、実は、神功皇后なのですが(久留米高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」)、仲哀との間に応神が産まれたなどと喜んでおられる方が大半なのです。

この地区には、豊後大野市朝地町駅付近の若宮、豊後大野市朝地町宮生若宮、豊後大野市大野町田中若宮が拾えることから、距離から考えて大野町田中若宮辺りから大雀命は合祀されているとまでは言わないまでも何らかの関係があるのではと思うのです。

特に、田中は父神の一族第9代開化天皇に繋がる一族が住み着いた土地と考えていますので、今後ともその線で探究を進めます。

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


 それが、熊野三神の一つである熊野速玉大社の速玉之男神なのであり、まず、この夫婦神が祀られている事になるのです。

 最後の事解之男神ですが、イザナミの兄神である金鎖大神=金山彦で、そのお妃が大山祗の姉であるエンジ姫=燕脂姫(大布姫)になるのです。

 この一帯の氏族とある程度対応している事が多少ともお分かり頂けたのではないでしょうか?

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最後になりましたが社殿をご覧ください


 全体としてこの神社の性格を表現すれば、イザナギが排除された(つまり、ニニギの父である高木大神=天孫族を排除した)熊野系神社と表現でき、忌部の集落に置かれた忌部の神社と言う事は可能かも知れません。

 その代わりに、事解之男神=金山彦という秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ瀛部(宗像族)+秦の羸臣民もしくは秦の一族の要素がより強く打ち出された神社といった評価の神社になりそうです。

 ある意味で、豊後でも特異な性格を持たされた神社とまでは言えるような気がします。

 まだ、詳しい資料を手にしていないため初見での評価としてお許し頂きたいと思います。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:59| Comment(0) | 日記

2017年08月18日

367 健男霜凝彦を祀る神社が久住町にもあった “大分県竹田市久住町久住神社”

367 健男霜凝彦を祀る神社が久住町にもあった “大分県竹田市久住町久住神社”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


久住山と言えば祖母山と並び称せられる北部九州の登山のメッカです(でした)が、この久住山(登山者にこの表現で良いかは不明ですが)の東南に竹田市久住町があり久住山に向かって久住神社が鎮座しています。初見の神社でしたが、誰が祀られているかは参拝する瞬間まで知りませんでした。

 この点、地名を冠した神社とは○○八幡宮とか○○天満宮といったもののように参拝する直前まで祭神を含めて分からないのです。

 勿論、「神社誌」といった物を見れば分かるのですが、大分県の場合はこれが無い事から、貧弱ながらも他の資料に依る事になります。

 大分県の場合、これもあまり頼りになる物ではないため、明治に作成された「神名帳」に頼る事になります。

 これは後で見て頂くことにしますが、始めは大分の事だからどうせ八幡宮絡みのどこにでもある神社だろうと思いながらも、少しずつ潰していくしかないため、一応、見ておこう、仮に、神名帳に書いてあったとしても、実際に見れば面白い摂社、分社が発見できるかもしれないから…といった感覚だったのです。

 ところが、由緒書を見て驚きました。

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なんと、健男霜凝彦を祀る神社だったのです。

この驚きが直ぐにはお分かり頂けないと思いますが、この祭神こそ百嶋神社考古学でも最先端の最も難解な問題で、同じ竹田市の大分県竹田市神原(1822)に鎮座する「健男霜凝日子神社」の祭神だからなのです。

 しかも、参拝殿最上部には久留米の高良大社の奥に隠された本物の門光の神文紋が打たれていたのです。

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さて、同社由緒筆頭に書かれた祭神 彦五瀬命、健男霜凝彦神、姫神が誰なのかです。

 彦五瀬命は「神武皇兄五瀬命」と知られる本物の神武天皇である神武(カムヤマトイワレヒコ)の本物のお妃である吾平津姫(アイラツヒメ)の兄であることから神武兄五瀬命と呼ばれるその人ですが、健男霜凝彦神が問題なのです。

今のところ、この神名で鎮座している神社で承知しているのは前述の祖母山直下の大分県竹田市神原の健男霜凝彦神社外数社なのです。

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竹田市神原。

 健男霜凝日子(たけおしもこりひこ)神社は実は複数あり、神原には3つある。1つは祖母山頂(1756m)の石祠の上宮、2つめは神原集落にある遥拝所、そして3つめがここ下宮、もうひとつ穴森神社もこのグループに入る。 現在は遥拝所を普通本社とよんでいる。

うたひめロード 奥の奥豊後 による


 竹田市ではなく豊後大野市の緒方町上畑にも健男社がありますので(以下)、竹田市久住町と併せ5社が確認できたことになります。

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数多い大蛇伝説

 大蛇伝説はこの「姥嶽(うばだけ)伝説」だけでなく,日本各地,いや,アジア各地に存在している。

 『古事記・崇神天皇の条』には次のような伝説が書かれている。

 活玉依毘売(陶津耳命の子)のもとに、正体不明の麗しい男が夜ごとに訪れ、やがて娘は懐妊する。

 怪しんだ両親は「赤い土を床に散らし、へそ(麻の糸巻)の紡麻(つむいだ麻の糸)を男の衣の裾に刺しなさい」と教える。

 夜が明けてみると、糸は戸の鍵穴を通って三輪山の社の所で終わっていた。そこで初めて、娘は男が大物主神であることを知る。その時、戸の内には麻糸が3巻残っていた。そこで、その付近を「三輪」と呼ぶようになった。姥嶽伝説というのは,蛇体の神と人間の娘が交わり子を産むという「神婚説話」を借用して,姥嶽大明神の化身である大蛇と人間の娘が交わり子を産み,その子惟基が大神氏を名乗り,さらに緒方氏の祖となるという筋書きである。この奇異な話は豊後中南部に勢力を張った豊後大神氏の独自性と神秘性を示すための最高の伝説であったことは間違いない。

 そして,この伝説を裏付けるような洞窟や御神木がきちんと存在するところがこの姥嶽伝説のすごいところである。そこで,これからこの伝説と物証?を検証していきたい。

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  活(ハエ)玉依姫とは通常言われるところの玉依姫ではないので注意を要します。

  藤原が格上げした神武僭称贈)崇神天皇や椎根ツ彦の姉が活玉依姫なのです。

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お分かりでしょうか?祭神の健男霜凝彦神と五瀬命は同一人物であり、重複している事になります。

 ただ、三神の内の姫神が良く分かりません。

 一応、健男霜凝彦神=五瀬命の妹で本物の神武天皇のお妃アイラツヒメならば順当で、特に根拠はありませんが無難な解釈となりそうです。

 ただ、祖母岳は別名姫岳とされていることから、祖母岳は姥岳でもあり、百嶋神代系譜に於いてウガヤフキアエズの母である豊玉姫を姫神としている可能性もあるのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:45| Comment(0) | 日記

2017年08月15日

366 熊本県産山村で遭遇した神社探訪者から問われた玉祖神社と八女津媛神社について B

366 熊本県産山村で遭遇した神社探訪者から問われた玉祖神社と八女津媛神社について B

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 残されたもう一つの課題に入ります。

 勿論、玉祖神社と八女津媛神社に直接的な関係があるという意味ではありません。

 八女津媛神社と言っても「景行紀」にその名が登場する程度で、女神様であっても、通常、山奥の神社が注目される事はありませんし、実際に現地に足を運ばれる方はほとんどおられないと言っても過言ではないでしょう。

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八女津媛(やめつひめ)神社

大和朝廷の時代、景行天皇が八女の地に巡幸の折、水沼の県主猿大海が「この地方に女神あり。その名を八女津媛といい、常に山中におる」と奉上したことから八女の地名が起こったといわれ、その女神を祀った1300年の歴史があるとされる神社。

八女市HPによる


丁酉 到八女縣 則越藤山 以南望粟岬 詔之曰 其山峯岫重疊 且美麗之甚 若~有其山乎 時水沼縣主猿大海 奏言 有女~ 名曰八女津媛 常居山中 故八女國之名 由此而起也

日本書紀 卷第七 大足彦忍代別天皇 景行天皇


 そもそも日向神ダムが造られたために急峻な付け替え道路を登り、ダム湖畔として残された町並みからさらに奥まった谷あいの集落からさらに登り込まなければならず、場所が非常に分かり難い上に隘路を抜けなければ届きません。

 このため安易に引用され「日本書記」の記述だけが踊っていると言った印象を拭えません。

 そうした中、“「八女」と「矢部」が同一の地名である”として久留米大学でも講演した永井正憲氏による古代のM音とB音の入れ替わり現象の解析だけが輝いているという個人的な印象は持っているのですが、これとて、著書も持たずHPblogも持たなければ埋もれてしまうだけの事にしかならないのです。

 多少とも関心を持たれる方はyahooでもgoogleでも「八女と矢部」とか「M音B音」などで検索されればユーチューブの講演だけは出てくるものと思います。

 極めて簡略化して言えば、八女市に矢部川が流れ、矢部村に八女津媛が祀られていること自体が非常に印象的であり、本blogの名称である「ひぼろぎ逍遥」も「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」…とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が存在するという日本語の一つの重要な側面から付されているのです。

 この現象も呉音と漢音の問題を胚胎している上に、何らかの民族の進入による権力の交替、言語特性の混在化といった問題と無関係ではなく、この点にスポットを当てない学会の体質と言ったものにまで考えを巡らさざるを得なくなりそうです。

 ともあれ、このようなつまらない国家に於いて、埋もれるものは埋もれるとして放置し、また、「記」「紀」の九割方を嘘と看破した百嶋由一郎氏の説に沿ってこの神社への簡単な解析を試みて見ましょう。

 この八女津姫神社に関する「福岡県神社誌」(中巻277p)の記述は極めて簡素であり、「日本書紀」の仰々しい書きぶりの割には拍子抜けしてしまうほどです。

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 事実上は、全く何も書いてないのと同じであり、この面からは手の出しようがありません。

 勿論、南北朝争乱期に宮方として最後まで抵抗を続けた五条家の拠点であった土地だけに、寄進する有力豪族と言ったものもないでしょうが、古文書としては全17巻に及ぶ「五条家文書」には八女津媛を探る手掛かりはないのか、中近世史には関心がないため、棚上げにしてしまっています。

 一方、神社の解析、神社の祭神を探るには、神紋、縁起、伝承、近隣の神社、地名、遠方でも同名の神社、摂社、末社、分社…といったものを最大限利用するのですが、表面的にはそのほとんどが使えない事から事実上手におえません。

 しかし、百嶋由一郎氏はその解読を行っておられるのです。

 不思議でなりませんが、恐らく百嶋先生が活動を始められた六〜七十年ほど前までは、伝承、神社の賢い宮司間の秘密の研究会が存在していたと言われていましたので、その延長線上に何らかの情報が残されていたのだろうと思います。

 神社庁、教育員会…といったものが本来はそのデータを確保し後世に伝えるべきでしょうが、何の使命感も無く権力に尾を振り年金と天下り先の心配しかしない方々しかいない状況ではとても期待できそうにはありません。

 もし、そうではない、ちゃんとやっていますと言われるのならば、この福岡県にとっても八女市にとっても貴重な文化遺産をただのお伽話として放置するのではなく、僅かであっても真実に近づく為の作業の一端でも出して欲しいものです。そうでない以上は百嶋研究に依存せざるを得なくなるのです。

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お分かりでしょうか?八女津媛とは神武僭称 贈)崇神の子である豊城入彦(久留米市田主丸町豊城にいたと百嶋先生は言われていました)のお妃であり、別名が天種子胤、また、傀儡相撲で有名な福岡県築上郡吉富町小犬丸353-1の八幡古表神社(細男舞・神相撲)の美奴売大神でもあるのです。

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では、八女津媛とはどういう素性の方なのでしょうか?

 百嶋由一郎氏は玉名のご出身で有力な大地主の家系でしたので生のデータが得られる立場にあったのだと思いますが、それによれば、ニニギとコノハナノサクヤの子である古計牟須姫と熊本県玉名市の疋野神社(熊本県玉名市立願寺460)の主祭神の御年神=贈)孝安天皇の間に産れた宇佐ツ姫と景行天皇との間に産れた生目入(ニュー)彦=贈)垂仁天皇の妹が八女津姫になるのです。

また、生目入(ニュー)彦の「入」と豊城入彦の「入」とは恐らく丹生で通底しているのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記