2025年05月12日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1065 宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか? ❹

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1065

宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか?

20240907


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


再掲載


新ひぼろぎ逍遥 781 モンゴル高原から東に向かった日本人と西に向かったトルコ人     20191010


 これは良く知られたとも言える…かなり手垢のついた話なのですが、ネット上で検索すると直ぐに拾い出しができます。少しですがご紹介したいと思います。


トルコ人と日本人は兄弟である

トルコ人と日本人は兄弟である。2002年、私はトルコを旅しました。

そのときトルコ人たちから、突拍子もないことを言われました。

「トルコ人と日本人は兄弟だってこと、知っているかい?」

何を言い出すのでしょう!そんなわけがない!私は怪訝な顔をして「NO!」と答えました。

すると、彼らはこう力説するのです。

昔々、その昔、トルコ人と日本人はモンゴルに住んでいた。西に向かって移動して、混血を繰り返し、トルコにたどり着いたのが今のトルコ人。東に向かって移動して、日本にたどり着いたのが今の日本人。だから我々は兄弟である。

その証拠に、トルコ語と日本語は同じウラル・アルタイ語族に属しているのだ。


トルコ 「見〜つけた、日本!」

 広さは日本の国土の約2倍。人口は日本の約2分の1というトルコは、日本から約9,000q離れており、アジアの西の端に位置しています。(日本は東の端)そんなに遠く離れた国ですが、意外にも日本とつながっている点が多くあることに驚かされます。そんな視点でトルコを見てみましょう。

1 国 旗

 トルコ人にとって日本はとても親しみがあり、好意的にとらえている国です。その気持ちは国旗の見方にも表れています。『トルコ人と日本人は、元々中央アジアに住む一つの民族でした。それが砂漠の進行とともに二手に別れて、一つは太陽を携えて東に、もう一つは月と星を携えて西に移動しました。それが国旗となったのです。』

2 言 葉

 トルコ語は文法的に日本と同じ言葉の並び方であることは知られています。言葉そのものにも、日本と同じ意味があるものがいくつかあります。

 iyi(イイ)  → いい。よい。(「こりゃいい!」)

 tepe(テペ)  → てっぺん、頂上

moruk(モロク)→ もうろく、おいぼれ

 トルコのお年寄りの方に向かって「もうろく」と言ってはいけませんよ。意味が通じますから

3 生活スタイル

 昔ながらの家へ行くとこんな共通点があります。

 (1)靴を脱いで家に上がります。

 (2)ちゃぶ台を出してきてご飯を食べます。

 (3)押し入れから布団を出して、床にしいて寝ます。

 しかし生活の西洋化が進み、この生活習慣は見られなくなってきました。

4 楽 器

 日本に伝統的な楽器があるように、トルコにも多くの伝統的な楽器があります。それらの形状はどことなく日本の楽器を思い起こさせます。今回出展した「サズ」は三味線や琵琶に、「ダルブカ」は鼓に似ていると思いませんか。

5 狛犬(こまいぬ)

 実は、トルコがルーツだったのです。ヒッタイト時代、街の入口に守り神としてまつられていたライオンが、シルクロードを経て日本に来たのです。  (川上 二郎)

とても驚きました。トルコ人と日本人が兄弟だなんて考えたこともありません。

しかし、まんざら嘘でもなさそうな話だったので、気になってその後調べてみました。

すると、トルコ人と日本人の「モンゴルからの移動説」は存在しました。

しかも驚かされたのは、その説ではハンガリー人やフィンランド人までもが、「モンゴル出身」だというのです。フン族ですね。


トルコ、キルギス、ウクライナが超親日国である真の理由とは? 3国に残る「日本人は兄弟」伝説を徹底解説

かつて中央アジアから東ヨーロッパにかけて発達した交易路「シルクロード」周辺には、日本ではあまり知られていないが、実は“超”がつくほどの親日国家が3つある。それはトルコ、キルギス、ウクライナだ。というのも、これら3国には「自分たちと日本人が同じルーツを持つ“兄弟”だ」という古くからの言い伝えが存在するのだ。しかし、それが単なる伝説とも言い切れず、実際に日本人と彼らには共通の起源があるようなのだ――。

【その他の画像はコチラ→http://tocana.jp/2017/02/post_12346.html

■「日本人に謝りたい……」“隠れ親日国家”ウクライナ

 まずはウクライナを見てみよう。東ヨーロッパに位置するウクライナは、今回紹介する他の2国とは異なり、地理的にシルクロードから若干離れている。かつては旧ソビエト連邦の構成国であり、人口の約8割をウクライナ人が占める。美しい女性が多い「美女の国」としても知られている。

 今回紹介する3国のうち、「親日国」としては、日本人の間でもっとも知られていない国だろう。だが、ウクライナの国民は実によく日本の事情を知っている。それもそのはず、この国の教育現場では、日本との友好を深めるために教科書で松尾芭蕉や川端康成が紹介されたりもしている。

 ウクライナに住むユダヤ人の間には、ある不思議な言い伝えがある。元帝京大学教授の高山正之氏が、自身の体験を『週刊新潮』の連載「変見自在」に綴っている。それによると、かつて高山氏は米国でタクシーに乗っていた時、いきなり運転手から「日本人に申し訳ないことをした」と謝られた。彼はウクライナ出身のユダヤ人だが、母国のユダヤ人社会では、『旧約聖書』にある「古代イスラエルの失われた10支族」のうち1つが日本に渡り、日本人になったとする伝説があるという。それなのに、「ユダヤ人のオッペンハイマーはその日本に落とす原爆を作った」から、謝りたいというのだ。

 このような“兄弟伝説”が、ユダヤ人以外のウクライナ人の間にも一般に浸透しているかどうかは定かではない。しかし少なくとも、日本ではほとんど知られていない“隠れ親日国家”であるとはいえそうだ。

顔立ちも言葉も日本人ソックリ!? キルギス人

 キルギスは、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共和制国家だ。人口の70%以上を占めるキルギス人(キルギス族)は、後述するトルコと同じテュルク系民族だ。このキルギス共和国にも、ウクライナ同様の言い伝えがある。『日本の中のユダヤ文化』(久保有政著、学研)によると、昔むかし2人の兄弟がいて、1人は山の方へ向かってキルギス人の祖先となり、もう1人は海の方へ向かって日本人となったのだという。

 さらに、この言い伝えには次のような別パターンもある。かつて、キルギス族がバイカル湖の近くに住んでいた頃、とある兄弟がいた。魚が好きな兄は東へと旅立ち日本人の祖となり、肉が好きな弟は西へと進んでキルギス族の祖となった――。これはまるで、日本の神話「海幸彦と山幸彦」のようではないか。古事記では、兄の火照命(ほでりのみこと)は海佐知毘古(うみさちびこ)として大小の魚を捕り、火遠理命(ほおりのみこと)は山佐知毘古(やまさちびこ)として獣を獲っていたという。歌手の加藤登紀子氏も、かつてシルクロードを旅した際にキルギスで同様の言い伝えを聞かされたという。

 また、キルギスに伝わる『マナス叙事詩』という長編の口承叙事詩があるのだが、ここに登場する英雄のマナスという人物は、『旧約聖書』に登場するマナセ族の父祖・マナセと共通する部分が多い。こうしたことから、キルギス族のルーツについて「古代イスラエルの失われた10支族」の末裔だとする説もあるのだ。

 今回紹介する3国のうち、外貌からすると日本人と同じルーツをもつ可能性がもっとも高そうに思えるのが、このキルギス人だ。後述するトルコ人と同じくテュルク系民族とされるが、実際はとても東アジア人的な顔立ちをしているのだ。日本社会に混じって生活しても、外国人であると見抜かれないような容貌をした人が非常に多い。実際、日本人がキルギスへ行くと、キルギス人と間違われてキルギス語で話しかけられたりすることも多いそうだ。

 キルギス語には、日本語と共通する単語が数千もあるといわれる。言葉も顔立ちも日本人とそう変わらないとなれば、やはり、日本人のルーツの一部がキルギス族と同じだとしても不思議ではないかもしれない。

■国旗でわかる日本とトルコが兄弟である証拠

 さて、最後のトルコだが、この国は“世界一の親日国家”だという指摘も多い。トルコで「世界で一番好きな国は?」という世論調査をすると、常に日本が1位になるという。その理由はさまざまだが、1つには、やはりウクライナやキルギスと同様の“兄弟伝説”があるようなのだ。筆者の友人から聞いた話では、以前トルコ旅行に行った際、多くのトルコ人が「トルコと日本は兄弟だ、西へ来たのが僕たち、東へ行ったのが君たち」と言っていたという。

 さらに両国の国旗が、ちょうど明け方の白い空に昇る太陽をモチーフとする“日の丸”と、夕暮れの赤い空に傾く月をモチーフとする“新月旗”であることを対比して、「仲の良い兄弟がモンゴル高原で別れ、太陽を追いかけて東に行った方は日本を建国し、月を追いかけて西に行った方はトルコを建国した」という話もあるようだ。つまり、トルコ人の多くは、中央アジアの草原を駆け回っていた騎馬遊牧民族こそ自らと日本人に共通する祖先だと信じているのだ。そして、トルコ人とキルギス人のルーツも一部共通するといわれている。これは、ますます真実味が増してくるではないか。

 それにしてもトルコ人たちは、本当にそこまで日本と日本人が好きなのだろうか? ある日、その疑問を確かめるために筆者はフェイスブック上の友達である美女、スメイイエ・トパロールさんに取材してみた。

――トルコ人と日本人のルーツがどこかで繋がっているという話に興味があります。

スメイイエ  私の知り合いの日本人のおじさんは、そういうことをよく知っていましたけど、亡くなりました。おじさんから、日本人のルーツは3つのルートがあると聞きました。そのうち1つは、トルコ人のルーツと同じだと。

――シルクロードの他の国にも、とある兄弟が東と西に分かれ、東に行った者が日本人になったという、よく似た伝説があるようです。

スメイイエ  イヌイットたちも同じルートから枝分かれしたそうです。寒いところに行った兄弟だと。それにトルコ語には、日本語と同じような言葉もありますよ。

――同じ言葉? 私は以前、トルコ人と一緒にシステムエンジニアとして仕事をしていました。そういえば彼は、外国人訛りのない美しい日本語を話していたのですが、トルコ語と似ているから簡単だと言っていました。

スメイイエ  同じ単語がたくさんあります。文法も似ています。

 日本語とトルコ語によく似た単語が多いことは、あるトルコ人の論文でも指摘されている。たとえば、トルコ語の「アチ(aci)」は日本語の「味」、「ワル(var)」は「在る」、「ジジク(cicik)」は「乳」、「ハラ(hara)」は「原」、「ナシ(nas)」は「無し」、「ヤマチ(yamac)」は「山」というように、音も意味も類似する単語が非常に多いという。

 スメイイエさん自身も日本文化に非常に造詣が深く、以前から日本語を勉強してきた。前述のインタビューも、チャットを通して彼女がひらがなで入力する形で行ったものだ。とりわけ日本で過去に流行した歌が好きなようで、いつかは日本へ行きたいと語っていた。

(文=百瀬直也)


 まだまだありますが、もう十分でしょう。ここからは画像でご確認下さい。

 特に注目すべきはキルギス人です。


キルギス人

キルギス人(Кыргыз、Kyrgyz)は、主にキルギス共和国を中心として中央アジアに分布するテュルク系民族。自称はクルグズ。キルギス共和国の約260万人のほか、周辺の旧ソビエト連邦諸国や中国の新疆ウイグル自治区などにも数十万人が住み、中国55少数民族のひとつに数えられる。

日本語で一般的に用いられる民族名キルギスは、ロシア語による民族名Киргиз(Kirgiz)に由来する。これに対し、キルギス語による自称はクルグズ(Кыргыз、Kyrgyz)という。帝政時代のロシア人はカザフ人のことを誤ってキルギスと呼んでいたため、本来のキルギスはカラ・キルギス(「黒いキルギス人」の意)と呼ばれていた。

ソ連時代にキルギスと他称されるようになり、対外的には“Kirghiz”と表記された。1990年にキルギス共和国が主権宣言をしたのち、キルギス語に準じた“Kyrgyz”の表記が国際的に使われるようになる。日本の学界でも、「キルギス」は他称あるいは誤称であり、「クルグズ」と表記するのが正当とされている。

なお中国では、「キルギス」を音写した吉爾吉斯をキルギス共和国のキルギスを指すのに用い、「クルグズ」を音写した柯爾克孜を中国の少数民族としてのキルギスを指す民族名として使い分ける。

イェニセイ・キルギス[編集]

詳細は「堅昆」を参照

『史記』などの古代中国の歴史書に名前が見られる堅昆(けんこん)が、キルギスの名で記録された最初の民族集団と考えられている。彼らは南シベリアのイェニセイ川上流域で遊牧生活を行い、匈奴に服属していた。その後、同じ地域にいた民族として記録される契骨(けいこつ)もやはりキルギスの名を記録したものである。当初彼らの風貌は、背が高く、白い肌を持ち、青い目を持つと記されていた。これらのことから、キルギス人の祖先は、コーカソイドであると言われている(ただし、現在のキルギス人とは関連性があるかどうかは不詳である)。

唐代には黠戛斯(かつかつし)として記録され、はじめ突厥(テュルク)、のち回鶻(ウイグル)に服属していたが、840年に決起してイェニセイ川から南下し、回鶻を滅ぼした。しかし、回鶻に代わってモンゴル高原を支配することはできず、その後もキルギスの名を持つ集団はイェニセイ上流域に留まったようである。13世紀にチンギス・カンがモンゴル帝国を建てるとこれに服属した。

フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia20191010 0808


カラコル旅行1                            2008 05 30

325日 首都ビシュケクから東へ、車で2時間半ほど、イシククル湖の西端につきます。

無題.pngそこから3時間、東へさらに進むとイシククルの東端の地方都市、カラコル。

カラコルは中国に近く、ドゥンガン人(ムスリムの中国人)やロシア人が多く住んでいます。45日の旅をしました。

ビシュケクからカラコルに向かう途中のイシククル湖沿いに、ちょうどビシュケクから東へ車で2時間半ほど進むと、タムチという村に到着します。

このタムチ村では同期が学校に勤務しています。

これまで何度も訪問したので、ホストファミリーもご近所さんも先生達もみんな知り合い。

写真を撮ってみて改めて思いました。

誰が日本人で、誰がキルギス人か、わかりますか?
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故)百嶋由一郎氏は“日本にはトルコ系匈奴(熊襲の一部大山祗系を念頭に)がごっそり入っているが日本の歴史では消されている”と言われていました。


匈奴はモンゴル高原にあって漢民族の農耕社会を脅かした遊牧騎馬民族。前3世紀末、強大な匈奴帝国を建設し、漢を圧迫した。漢の武帝に制圧され、紀元後1世紀頃東西に分裂する。その後も分裂を繰り返したが、そのうちの南匈奴は五胡の一つとして勢力を回復し、4世紀には華北を支配したが、次第に漢民族に同化した。なお西方に移動した北匈奴は、フン人となったとの説もある。

 中国の北方民族のなかで、モンゴル高原で遊牧生活を送っていた匈奴は、秦の始皇帝が中国を統一した前3世紀の終わりごろ、部族統一をなしとげ強力な国家を形成していた。彼らは騎馬遊牧民で馬上から弓を射ながらの攻撃は農耕民である漢民族の脅威となっていた。始皇帝は前215年、将軍蒙恬を派遣し、匈奴の勢力をオルドス地方から追い払い、またその南下に備えて万里の長城を建設した。また、都の咸陽から黄河の北岸の九原の近くまで軍用道路として「直道」を開通させた。

匈奴帝国

 匈奴はいったん勢力が衰えたが、中国本土で項羽と劉邦が争っている間に勢力を盛り返し、冒頓単于のもとで強大な遊牧国家を形成、東の「東胡」と西の「月氏」を征服して「匈奴帝国」を実現させた。 前200年、漢の高祖(劉邦)は匈奴帝国の冒頓単于と平城で戦って敗れ、漢宗室の女性を公主(天子の娘)として単于の妻とし、毎年一定の贈り物を匈奴の王に贈るという屈辱的な和を結んでいる。それ以降漢と匈奴帝国は対等な外交関係をとることとなった。

漢の武帝の匈奴制圧

 一転して武帝は対匈奴強攻策に出て、前129年以来、衛青、霍去病(かくきょへい)らの諸将軍に大軍をつけて討伐軍を送り、匈奴を圧迫し、西域に進出した。また匈奴を挟撃する目的で張騫を大月氏国に派遣した。この武帝によるたび重なる討伐を受けたため、匈奴は次第に衰退し、紀元後1世紀頃には東西に分裂する。

匈奴の東西分裂

 匈奴は前3世紀末から前漢と戦ってたびたび勝利し、全盛期を迎えたが、漢の武帝に西域を抑えられたことによって次第に衰えることとなった。漢は前59年に西域都護を置き、匈奴討伐を強めた。その前の前60年ごろ、虚閭権渠(きょりょけんきょ)単于が没すると内紛が生じ、一時は五人の単于が並立するという分裂状態となった。一般にこの時を匈奴の東西分裂としている。その中で最も有力だった呼韓邪(こかんや)単于に対して兄の郅支(しっし)単于が反発、勢力を二分するようになり、激しく対立した。そのうち劣勢となった呼韓邪単于が、前54年ごろ、漢に助けを求め、降伏した。このとき呼韓邪単于に従って漢に降伏した匈奴を東匈奴といい、漢に服従しなかった匈奴を西匈奴といっている。東匈奴は内モンゴルに残り、漢と同盟して西匈奴を攻撃した。そのため西匈奴は中央アジアのタラス川流域に移動したが、前36年、漢と東匈奴によって滅ぼされた。

Episode 王昭君の悲話

 漢王朝は匈奴の離反をさけ、懐柔するために王家か後宮から女性を選び匈奴王に嫁がせる通婚政策をとった。これは唐では「和蕃公主」と呼ばれた。国家の犠牲となって強制的に異朝の宮廷に送られる女性の悲劇だった。有名な話に漢の元帝の時に匈奴の呼韓邪単于の求めに応じて贈られた王昭君の話がある。

(引用)有名な物語のひとつによると、元帝の後宮には女性が多かったので、画家に絵を描かせて、皇帝が召し出す女性を決めていたそうです。今ならさしずめ写真を見て決めるということになるのでしょう。それで女性たちはみな画家に賄賂を送って美しく描いてもらおうとしたのですが、王昭君は賄賂を出さなかったので醜く描かれたといいます。呼韓邪単于に女性を贈ることになって、元帝はいちばん醜い女性を選ぼうとして、画家の絵を見て王昭君を召し出してみたところ、これがまたたいへんな美人だったので惜しくなりましたが、単于との信頼関係を重視してそのままになったといいます。しかし他の説によると、王昭君は一度も皇帝に召し出されたことがないので、いささかデスペレートになっており、自ら志願したともいわれます。<堀敏一『中国通史』2000 講談社学術文庫 p.137

 この話は元の時代になって元曲の『漢宮秋』となって広く知られている。漢宮秋では王昭君は国境の黒河で投身自殺することになっている。 → 東匈奴の項参照

匈奴の南北分裂

 漢王朝は冊封体制をとり、周辺国の君主の王号を認め、それぞれ印綬を与えていたが、前漢に代わって新王朝を建てた王莽は異民族の君主をすべて王から侯に格下げした。匈奴の単于に対しては、それまで「匈奴単于璽」の印綬を与え、単于の号を王よりも上位としていたのが、王莽は「新匈奴単于章」と改め、国号の新を加え、国璽ではなく単なる印章としてしまった。匈奴の単于は強く反発してそれまでの和親を破り、西域諸国に侵攻するようになり、西域諸国の中にもそれに同調するものもあらわれた。

 王莽の新に代わった後漢の光武帝は和親の回復を求めたが、匈奴は応じようとせず、対立は深まった。ところが、匈奴側に内部分裂が起こり、後漢に有利に展開することとなった。呼韓邪単于の孫の代の単于の時、単于位をめぐる争いが生じ、日逐王比という者が単于になれないことを不満として48年に後漢王朝に降伏してきたのだった。これによって匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢の庇護を受け、北匈奴は対立することとなる。<西嶋定生『秦漢帝国』1997 講談社学術文庫 p.403,484-486

匈奴帝国の崩壊とその後のモンゴル高原

 北匈奴はモンゴル高原に残ったが、後漢と結んだ南匈奴が、モンゴル高原東方にいた烏桓(うがん。烏丸とも書くモンゴル系遊牧民)、鮮卑、南方の丁零などの遊牧民とともに北匈奴を攻撃し、87年には単于が鮮卑に殺害され、91年にはその本拠も奪われた。匈奴帝国は実質的に姿を消した。その一部がさらに西進し、ヨーロッパに現れてフン人となった、という説が有力であるが、まだ確定していない。 → 北匈奴の項を参照。

 匈奴帝国が崩壊した1世紀末以後のモンゴル高原には、東部を本拠とした鮮卑(トルコ系またはモンゴル系)が有力となり、後漢末の混乱で亡命してきた漢人を受け容れて漢化しながら、しばしば中国本土に侵攻するようになる。一方、南匈奴は後漢に服属して以来、中国の北辺に移動して定住し、五胡の一つとされ、晋の八王の乱に乗じて、華北に進出し、五胡十六国時代の趙、北涼、漢、夏などを建国した。華北が鮮卑族の北魏によって統一されるとそれに服属し、同化していった。

五胡十六国時代の匈奴

 南匈奴は後漢の支配のもと山西省各地で部族ごとに生活していたが、魏の曹操がこの地を制圧すると、地域ごとに左・右・南・北・中の五部に分割して統治された。実際には奴隷として人身売買される境遇にあった。3世紀末、晋で八王の乱が起こると匈奴はその軍事力を利用されるようになった。匈奴の自主性回復の好機と捉えた劉淵は匈奴の兵5万を結集して、304年、漢王を称して独立し(漢王を称したのは、東晋に奪われた漢王朝を復活させることを標榜したため)、山西で建国、漢の高祖を名乗った。これが五胡十六国時代の幕開けとなった。その弟の劉聡は316年、洛陽を陥れ西晋を滅ぼす(永嘉の乱)。この漢は、319年に国号を趙に代える(前趙)。前趙は、後に羯人の石勒が建てた後趙に併合される。

南匈奴こそ熊襲の中心的勢力

南匈奴

48年、匈奴が南北に分裂した後、後漢に服属した方を南匈奴という。五胡の一つとして華北に進出。

 東西分裂によって生まれた東匈奴は、漢と協力して西匈奴を滅ぼしたので、後漢時代には東匈奴だけが匈奴といわれるようになった。彼らは後漢に服属していたが、後継者争いとイナゴの害によって危機を迎えた。後漢からの独立を志向する蒲奴単于が北匈奴として分離したのに対して、後漢との和親を求めるグループは呼韓邪単于(東匈奴初代の単于)の孫を擁して、48年にふたたび呼韓邪を名乗らせた。これが南匈奴である。

五胡の一つとしての匈奴

 南匈奴は五胡の一つの「匈奴」として傭兵となり、中国の各王朝との関わりを深めて行く。
 南匈奴の単于の後裔である
劉淵の部将であったが八王の乱の混乱に乗じて304年に独立し、(前趙)を建国した。劉淵は匈奴の系統であったが、漢王室を再興すると称して劉氏を名乗った。これが、五胡十六国の始まりであった。


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 故)百嶋由一郎氏はこの王昭君の一派が朝鮮半島の金官伽耶を経由し九州に大量に入っているとしているのです。大山祗、大国主命、コノハナノサクヤヒメ、神大市姫(ミヅハノメ)=熊襲なのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2025年05月09日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1064 宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか? ❸ “菊池氏は大山祇系=トルコ系匈奴(王照君 系南匈奴=東西分裂後の東匈奴の南北分裂による南匈奴)”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1064

宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか?

“菊池氏は大山祇系=トルコ系匈奴(王照君 系南匈奴=東西分裂後の東匈奴の南北分裂による南匈奴)”

20240907

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


再掲載


新ひぼろぎ逍遥 723 菊池氏とは熊襲(トルコ系匈奴)であった“ようやくその尻尾を掴んだ”20190129


 たあいもない邪馬台国九州説論者は可愛いだけですが、ただただ九州王朝論系の本を齧っているだけの古代史ファン(こういった方も所詮は研究者でもなんでもないのです)も殆ど議論されていない問題に熊襲の影が横たわっています。

 まず、九州王朝論者と言われる方でさえ肥後に肥前に対しては殆ど目を注いでおらず、ましてや、さらに南の古代日向の国=鹿児島、宮崎に至っては未知の領域として放置して来たのでした。

 その中で、唯一、存在感を示されたのが熊本市にお住まいだった故)平野 雅曠(ヒラノマサヒロ氏)=孤高の九州王朝研究者であり、もう一人の優秀な研究者の佃 収氏(存命) なのですが、平野先生の著書(「火の国山門」外3著)も真面目に読まれた方はほとんどおられないと思います。

 この辺りからして、九州王朝論を検証可能な場所が目の前に転がっているにも拘わらず、現地に足を運ぼうともせず、伝承を拾おうともせず、痕跡が残る寺社を調べようともしていないのです。

 古田武彦氏も鬼籍に入られ、それを継承せんとする○○古代史の会も自前の研究者を失い、一度も古田の著作を読んだこともないような会員の割合が増大し、今や通説派の教育委員会関係者や学芸員が流す大嘘を真に受け平伏するに至っているのです。

 このあまりにも情けない自称九州王朝論者の実態を見るにつけ、改めて古田の時代にだけに九州王朝論が存在していた事に気付くのですが、さて、愚痴はこの程度にして、前に進む議論を進めます。

 この神社の重要性をメンバーの数名に教えたところ一ケ月を待たずしてこの神社を見たいとの話が持ち上がり、福岡から大分から熊本から6名の参加者が集まり、車二台で参拝する事になりました。

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この狭上稲荷神社は西米良村という宮崎県でも辺境中の辺境の地なのですが、その中心地の村所地区からも7キロ登りさらに3キロ谷底に降りるとようやく辿り着く正しく辺境の地に息づき僅かな小平地に鎮座しているのが狭上稲荷神社なのです。

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既に直接的なリポートは ひぼろぎ逍遥(跡宮)の711712で書いています。


712

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(下)

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亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(上)


この神社の重要度は語り尽くせないほどですが、まずは祭神をご覧頂きましょう。

鹿児島、宮崎については明治期に祭神が入れ替えられているものがあまりにも多く、鹿児島、宮崎に関しては「神社誌」を持たない事から、以下のサイトを利用させて頂くことにします。


宮巡〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜運営:宮崎県神道青年会 による


九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川と板谷川の合流点に位置する。地内には二基の古墳があり、小川の古墳一基とともに西米良古墳として県史跡に指定されている。一基は菊池記念館の裏の山中にあり、一基は当社の南側に位置している。

旧称狭上稲荷大明神と称し、創立年月日は不詳であるが、社蔵の由緒記によれば次のごとくである。

皇御孫尊阿田之長屋にご臨座し、大山祇命の娘、姉の磐長比唐畏れ給い、妹の木花咲哉比東ワ十鈴川上川に去ってしまった。大山祇命は跡を慕いて狭上の深川に跡を垂れ給う。爰に御陵あり、しかし空国にして祭る者がなかった。世降りて当社御陵を知る人も稀になっていた。時に天正年中、山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。西世法師の夢に白髪の老翁が現れ、我は是れ大山祇命なり、我陵を以て稲荷を祭り尊敬せば汝が子孫長久なる事疑う事なし、と言われた。西世法師山谷の狐魅我を犯すとしてそのままにしていた。また夢見があったので此の神を祭り尊敬すると日数を経ずして白狐稗粟大小豆を携えて来て西世法師に与えた。その後米良佐太夫の時に新たに社を建立した。その子孫の米良半右衛門と言う者が球磨表に越したので、その後中武氏神司となりここに居住した。

この由緒によれば、創建は古く菊池氏の入所後、氏の弟米良佐太夫の再興に係り、その子孫によって代々護持されてきたものである。                     ( 児湯郡 / 西米良村 )


大山祇命 倉稲魂命 大宮姫命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先


 同社の由緒記によっても明らかですが、この神社は菊池氏によって造られている事が分かるのです。

 実はこの事が極めて重要で、これまで菊池氏が何者なのかを判別する必要から菊池系氏族の住み着いたと思えるエリアの神社をいくら調べても中々如何なる神を奉斎する氏族なのかが分からなかったのです。

 これまで菊池系の神社をかなり見てきましたが、菊池則隆、武光、武時…といった先祖神は祀られているのですが、神代に繋がる神々が全く見えないのでした。

 ところが西米良村という辺境中の辺境の地のさらに奥地に祀られた神社が大山祗系であった事が今回初めて解明できたのでした。以前気付いていたのは東米良の銀鏡神社の磐長姫程度であって、これだけでは解明ができませんでした。

南北朝動乱期に於いて絶えず宮方として阿蘇氏と共に闘い続けたのは菊池氏でしたが、この氏族が何者であるかは大きな謎でした。

 特に、阿蘇氏の異い鷹羽と同様に並び鷹羽(西郷系は一枚鷹羽)を紋章としてしている事から、阿蘇氏の分流などと間違った解釈をしていた時期もありましたが、どう考えても阿蘇氏とは異なる氏族である事への思いは強く、彼らが祀る神々を何としても着きとめたいと考えて付けてきました。

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ようやくここに至って分かって来たのですが、彼らが宮方として南朝に組して闘う時に自らが熊襲=朝敵である事を隠す必要があったからこそ自らが奉斎する神々を隠してきたことが分かったのでした。


天正年間とは言え生粋の菊池氏が山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師

の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。”が密かに持ち込んだ事実であり、まさに自らの氏族しか入り込まない安全な場所に於いて奉斎していたという事実は菊池氏が本来祀っていた祖神が大山祗系であったことが見えて来たのでした。ここで、百嶋由一郎最終神代系譜(一部)をご覧頂きましょう。

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鹿児島県だけで登場する大宮姫伝承の大宮姫(天智天皇のお妃との話も登場する)でこの女神様の存在だけは不明ですが、銀鏡神社の磐長姫も含めて考えれば、狭上神社に祀られている神々は大山祗系のそれなのであり、菊池氏とは大山祗系のトルコ系匈奴だった事が改めて浮き彫りになったのでした。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

712

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(下)

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亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(上)

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続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu

622

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

621

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)

   

ビアヘロ075 トルコ系匈奴が持ち込んだ地名について 


 ひぼろぎ逍遥

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人吉盆地 あさぎり町久鹿の天子神社の「クシカ」とは

トルコ系匈奴の地名ではないのか? A

718

人吉盆地 あさぎり町久鹿の天子神社の「クシカ」とは

トルコ系匈奴の地名ではないのか? @


 今回の狭上稲荷神社の発見は極めて重要で、菊池氏の逃城として予め用意されていた東西米良、寒川などに奉斎されている神々を再度丹念に見ていく必要もあるのですが、狭上稲荷神社、児原稲荷神社から児湯郡から西都市に掛けての多くの稲荷神社の解析を行って行けば、西都市を本拠地とした大山祗系氏族の奉斎する神々が何かが浮かび上がって来るのではないかと考えています。

事実、西都市から宮崎市に掛けては異常なほどの稲荷神社の分布が認められます。

今後、我々の作業もこのエリアの稲荷神社の調査を行うことになるでしょう。

 もしかしたら、菊池氏の逃げ込み城、逃げ込み集落と言うよりも、元々菊池氏とは宮崎県西都市から都城市辺りから進出した氏族だったのかも知れません。

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そして、この一帯こそトルコ系匈奴の本拠地だった可能性が高いのです。

 その理由は、このトルコ系匈奴の一派が進出して来たのは少なくとも天孫降臨の前だった事は間違いがなく、天孫ニニギがコノハナノサクヤと出会い、大山祗から磐長姫とともに妃として送られ、妹のコノハナノサクヤだけが残されたという許しがたいふざけた話が残されているのです。

 勿論、百嶋神社考古学ではイワナガヒメ=アカルヒメとコノハナノサクヤヒメ=前玉姫とは姉妹の関係ではないのです。それには神代系譜を詳しく読み解いてもらう事になりますが、恐らく半島の新羅領域の金海伽耶の金 越智の一族が大陸の江南から進出した稲作漁撈の民であった倭人の領域を避け、稲作不適地であり空白地に近かった古代日向に進出した民族だったのです。

 そうすると、多分紀元百年程度の時期に半島から進出した民族だったと考えられそうです。

 その意味では、呉の太白の後裔氏族が列島に移動したのは呉の滅亡(前五世紀=473年)後でしょうからその時期に倭人が列島に移動し、その後も、越も楚も滅び、越人、楚人も入っているでしょう。

恐らく紀元前には雲南省から避退した黎族(阿蘇氏)、白族(天御中主命)が海南島を経由し肥後に入っているようです。

 既に、そこには朝鮮半島の伽耶を基盤にした高木大神系氏族が展開していたのですが、入婿として受け入れられたようです。

 このように多くの民族の進出によって列島の民族が形成されていったのですが、日本の歴史でもかなり重要な菊池氏に象徴される氏族が朝敵ともされた熊襲であり、だからこそ宮崎県都濃町に日向一の宮の都濃神社が鎮座し大国主命が主祭神とされていたのです。

大山祗系氏族をトルコ系匈奴と申し上げると違和感をお持ちの方は多いと思います。この疑問には、ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ075 トルコ系匈奴が持ち込んだ地名について を再掲載したいと思います。

 これまで何度も申し上げてきた事ですが、故)百嶋由一郎氏は大山祗系の人々とは半島の金海金氏であり、金首露王とアユタヤ王国王女(高木大神の同族)から送り込まれた許黄玉との間に産れた金越智氏と白山姫(白族)との間に産れているとお考えだったようです。

 さて、今回はこのトルコ系民族が持ち込んだのではないかと考えている地名の話をします。

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百嶋由一郎015金印神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残された音声CD、手書きデータ、神代系譜を必要とされる方は09062983254まで


始めにお断りしておきますが、これはトルコ語そのものといったものではないものの、この民族が定着した所に付されやすい地名と言った程度のものでしかありません。

吾平(アイラ)のようにハッキリしたトルコ語の音の置換えを意味してはいないものの、地域の祭祀と地名が対応することから、この地区は彼らが住み着いたものではないかと言った程度の話です。

「吾平」は神武僭称偽神武こと崇神(ハツクニシラス…)ではなく、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の本物のお妃となったアイラツヒメ「アイラ」がトルコ語のアイラール(月)と対応する明らかなトルコ語であることは、依然、お話しました。関心をお持ちなら以下をお読み下さい。


再掲載

ひぼろぎ逍遥 スポット055 吾平津姫をご存知ですか? “アイラツヒメとはトルコの月姫だった”


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同様に元百嶋神社考古学グループの関東・ビューロー・メンバーの「宮古の縁側日記」でも本格的に取り上げておられます。

アイラと言う意味2016-08-01 12:41:04 テーマ:自然  前ブログでアイラツ姫について書いたのですが、他に気が付いた事があったので少しまとめておきます。

aylar- 名詞, トルコ語 | sprawk - ウェブ、あなたの道を翻訳 

https://www.sprawk.com/ja/term/トルコ語/aylar

aylar [Noun] 1. , つき (日本語) - one of the twelve divisions of the calendar year; 用語 "aylar"トルコ語翻訳、定義、例と一般的な関連語を持っています。

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そうです、トルコ国旗に描かれる通り、アイラツヒメとはアイラールaylar)姫(月子ちゃん)の事だったのです。

ニニギの墓とされる吾平山陵も良くよく考えれば奇妙な事に思えてくるのです。

ニニギの妃は神武の妃のアイラツヒメではなくコノハナノサクヤなのですから…。

 アイラール問題は一先ずおくとして、星は何かと調べるとユリディズ 「Yıldızでした。

地球:デュニャ 「Dünya月:アユ 「Ay 星:ユリディズ 「Yıldız 木:アアチュ 「Ağaç」(Tree)、タフタ 「Tahta」(Wood) 海:デニズ 「Deniz」 雪:エレクティリック 「Elektrik」 風:ルズガル 「Rüzgar

火:アテシ 「Ateş」 水:ス 「Su

「トルコ語で地球、月、星、木、海、雪、風、火」 から

星は何かと調べるとユリディズ Yıldızが気になりますが、まさか融月王のユーヅーではないでしょうね…。水:ス 「Su」もそのまま気になります。中国の淮水、弱水…といった川名は彼らによるものでしょう。

馬は…まあ、思考の暴走に陥るのでこの辺りでとめますが、神社のフィールド・ワークを続けていると、地名と大山祗、大国主系の領域にある種の対応に気付く様になってきます。

はっきり分かるのが、三日月であり、外にも石垣、柿ノ木、牟礼、群、諸…といったものがあるのですが、一度には片づけられませんので、少しずつ試みて見ようと考えています。

ちなみにトルコ語の三日月は Hilal ay (ayはアイラールですね)であり、馬は atだそうです。

では、第一回目として、気になっている三日月地名を拾うことにしましょう。

下調べのための作業用のノートをそのまま公開するのも申し訳ないのですが、所詮、専門家でもない素人の作業とお笑いください。しかし、三日月は現在のトルコの国旗にも採用されており、彼らにとっても最もシンボリックなものである事は確実です。

このように列島のどこかには必ず痕跡を留めているはずなのです。そして不思議な事に、日本は日の丸として太陽を、彼らは月と星を描いているのです。どちらにせよ、神武天皇のお妃の名がトルコ語だったのですから、外来語として色々な形で取り込まれているはずなのです。

 最低でも、鹿児島県の姶良も人吉の相良もアイラール起源かも知れないのです。        以上

ネットに公開する直前の編集時点での補足 20250424

百嶋最終神代系譜を見て頂くと金山彦自身はイスラエル系ですが、大幡主の妹埴安姫との間に生れたのが櫛稲田姫で、先のお妃の大山祇の姉のオチノ姫との間に生れたのが吾平津姫です。母親がトルコ系であることから、母親が月にちなんでアイラツ姫と名付けたのだと思います。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2025年05月06日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1063 宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか? ❷

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1063

宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか?

20240907

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


熊襲=トルコ系匈奴については、これらの系譜から読み取って下さい。これまで何度も申し上げてきた事ですが、故)百嶋由一郎氏は大山祗系の人々とは半島の金海金氏であり、金首露王とアユタヤ王国王女(高木大神の同族)から送り込まれた許黄玉との間に産れた金越智氏と白山姫(白族)との間に産れているとお考えだったようです。

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百嶋由一郎015金印神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで


以下、補足と言うより蛇足に近いですが、興味がおありならお読みください


再掲載


新ひぼろぎ逍遥 700 白浪五人男も天御中主系の人々ではないのか 20181016


 「白浪五人男も天御中主系の人々ではないのか」と、言っても、元々、創られた架空の話であってこのようなことを考える事には何の意味もない、言わば只の遊びですから気楽に考えて頂きたいと思います。

 一般的に「白浪物」と言えば石川五右衛門とか鼠小僧次郎吉…といった盗人物なのですが、最も人気があるのが、白浪五人男の二幕目第三場「稲瀬川勢揃いの場」での「志らなみ」の傘をもっての揃い踏みになるでしょう。

 この五人衆を見ていると、設定が江戸〜上方が東海地方だったとしても、どうも白族(天御中主〜大幡主〜ヤタガラス)の匂いがしたため、少し探ってみようと思ったのです。

最低でもこの出し物を考えた人々の中にはこの白族の血が継承されているような気がしたからでした。

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ペリーの来航から日も浅い嘉永末年の江戸は、屋台骨が揺らぎ始めた幕府のもと、雄藩の藩士や郷士が日夜気ぜわしく道を行き交う、騒然とした世相にあった。政情の先行きが不透明ななか、人斬り浪人が横行するようになると江戸の治安も乱れはじめ、庶民の不安は募るばかりだった。

そんななか、講釈師・二代目松林伯圓がつとめる盗賊を主人公にした講談が人気を集めるようになる。これに目をつけた二代目河竹新七(のちの黙阿弥)は、盟友・四代目市川小團次のためにこれらの講談を次々に脚色して歌舞伎化した。これが白浪物の興りである。

安政年間から新七は実に次から次へと白浪物を書き連ね、それを小團次が次から次へと演出して舞台で主役をつとめたので、前者は「白浪作者」、後者は「白浪役者」と呼ばれるようになった。小團次にいたっては「白浪役者」がさらに転じて「泥棒小團次」とまで呼ばれるようになり、この人聞きの悪いあだ名にはさすがの小團次も閉口したという。


ただ、何故「白波」「白浪」が盗賊に通じるのかが分からないのです。

まさか、白族が倭人や倭寇の海賊行為に繋がるとの意識が働いているのではないかとも思わないではないのですが。以下で少し謎が解けました。


「白浪」の由来 「白浪」の名称は、かつて中国で「盗賊」を意味した「白波賊」(はくはぞく)という語に由来する。後漢末に黄巾の乱を起こした盗賊・張角の残党が、のちに河西(現在の山西省)の白波谷(はくはこく)に立てこもったことから白波賊と呼ばれるようになったが、後になるとこれが盗賊を意味する語として定着した。日本では近世にこの「白波」が訓読みされて「しらなみ」となり、さらにこれに当て字した「白浪」が義賊を表す語として定着した。

ウィッキペディア(20181016 1403による


日本 駄右衛門 にっぽん だえもん    変名 玉島逸当(たましま いっとう) 玉」も八咫烏

問われて名乗るも おこがましいが産まれは遠州 浜松在十四の年から 親に放れ身の生業(なりわい)も 白浪の沖を越えたる 夜働き盗みはすれど 非道はせず人に情けを 掛川から金谷をかけて 宿々(しゅくじゅく)で義賊と噂 高札に廻る配符の 盥越し(たらいごし)危ねぇその身の 境界(きょうがい)も最早(もはや)四十に 人間の定めは僅か 五十年六十余州に 隠れのねぇ賊徒の首領 日本駄右衛門


掛川から金谷の金谷とは 三重県伊賀市川西金谷のことですし、伊賀氏は伊賀伊予守(大山祇を暗示)


 弁天小僧 菊之助 べんてんこぞう きくのすけ

さて其の次は 江の島の岩本院の 児(ちご)上がり平生(ふだん)着慣れし 振袖から髷(まげ)も島田に 由比ヶ浜打ち込む浪に しっぽりと女に化けた 美人局(つつもたせ)油断のならぬ 小娘も小袋坂(こぶくろざか)に 身の破れ悪い浮名も 竜の口土の牢へも 二度三度だんだん越える 鳥居数八幡様の 氏子(うじこ)にて鎌倉無宿と 肩書も島に育って 其の名さえ弁天小僧 菊之助(菊池の「菊」ですね)


以下、 無題.png無題.pngより


 かつて江の島には、岩屋本宮、上之宮(中津宮)、下之宮(辺津宮)の三宮があって、それぞれ、岩本坊、上之坊、下之坊という別当寺があった(いずれも古義真言宗)。

 現在の旅館岩本楼は、岩屋本宮の別当「岩本坊」。岩本坊は、一山の総別当だったといわれ、「江島寺」とも呼ばれていたという。

 中世には間宮氏が経営し、岩本楼には、鎌倉公方足利成氏から間宮氏に送られた感謝状をはじめ、小田原北条氏からの書状が残されている。

 江戸時代には京都仁和寺の末寺となり、江戸幕府からは、1649年(慶安2年)、江の島全山の山林竹木等諸役免除の朱印状が与えられ、1706年(宝永3年)には、片瀬村に社領15石の朱印地が与えられた。また、江戸時代には、院号の使用が許され「岩本院」と称していたという。(仁和も八咫烏系)


忠信 利平 ただのぶ りへい

続いて次に 控えしは月の武蔵の 江戸育ち幼児(がき)の頃から 手癖が悪く抜参りから ぐれ出して旅を稼ぎに 西国を廻って首尾も 吉野山まぶな仕事も 大峰に足をとめたる 奈良の京碁打(ごうち)と云って 寺々や豪家へ入り込み 盗んだる金が御嶽の 罪科(つみとが)は蹴抜(けぬけ)の塔の 二重三重(ふたえみえ)重なる悪事に 高飛びなし後を隠せし 判官の御名前騙り(おなめぇがたり)の 忠信利平


赤星 十三郎 あかぼし じゅうざぶろう

又その次に 連なるは以前は武家の 中小姓(ちゅうごしょう)故主(こしゅう)のために 切取り(きりどり)も鈍き刃(やいば)の 腰越や砥上ヶ原(とがみがわら)に 身の錆を磨ぎ直しても 抜き兼ねる盗み心の 深翠(ふかみどり)柳の都 谷七郷(やつしちごう)花水橋の 切取りから今牛若(いまうしわか)と 名も高く忍ぶ姿も 人の目に月影ヶ谷(つきかげがやつ)神輿ヶ嶽(みこしがたけ)今日ぞ命の 明け方に消ゆる間近き 星月夜其の名も 赤星十三郎

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現在も熊本県山鹿市の中心部に「十三部」(実は久留米市にも)があり偶然ですが赤星歯科まで…


砥上ヶ原は藤沢の地名です。また、谷を「やつ」と呼ぶのは、東日本であり(一部薩摩にも)、月影ヶ谷(つきかげがやつ)神輿ヶ嶽 も鎌倉の地名ではあるのです。

ただ、勝手ながら「赤星」姓の集積と「十三」地名が重なるのは山鹿市になるのです。


南郷 力丸 なんごう りきまる 漁師崩れの早瀬主水家若党 四十八(よそはち)

さてどんじりに 控えしは潮風荒き 小ゆるぎの磯馴(そなれ)の松の 曲りなり人となったる 浜育ち仁義の道も 白川の夜船へ乗り込む 船盗人(ふなぬすびと)波にきらめく 稲妻の白刃に脅す 人殺し背負(しょ)って立たれぬ 罪科(つみとが)はその身に重き 虎ヶ石(とらがいし)悪事千里と いうからはどうで終い(しまい)は 木の空と覚悟はかねて 鴫立沢(しぎたつさわ)しかし哀れは 身に知らぬ念仏嫌ぇな 南郷力丸


鴫立沢(しぎたつさわ)も大磯の地名ですね。この程度の薄い材料でここまでやることに意味はないのですが、まず、弁天小僧吉之助に宗像三女神の影を見出したのが切っ掛けでした。

 勿論、弁天様=弁財天様は江戸期に流行したインドの水の神様ですが、それは神社への信仰の強化を企図したもので、その実体は白族の一派である宗像の市杵島姫に通じるのです。

 市杵島姫も天御中主や罔象女と共に水分神(ミクマリ)の水の神様ですよね。

 そう考えて、キャッチ・コピーに登場する江の島の岩本院を洗うと、京都仁和寺の末寺ですから石清水八幡系であり、宗像大社の岩屋本宮、上之宮(中津宮)、下之宮(辺津宮)の三宮でしたので、まずは、ピッタリと言った訳で、ここでは大幡主系と五人衆の一角がかなり鮮明に繋がったのでした。

 そもそも岩本姓も橘一族と繋がるもので、男山八幡宮48坊にも岩本坊があるのです。

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日本 駄右衛門 もその変名に玉島逸当があり、「玉」が入るのも、豊玉彦、鴨玉依姫…に通じますね。

赤星 十三郎 もどう考えても、九州の橘一族を感じてしまうのです。何故かと言われれば、赤星姓が集中する菊池市の奥には橘一族の直系の橘 諸兄を主神とする天地元水神社までがあるからなのです。

いずれにしても橘一族(白族後裔)の流れを汲む人物が「白浪五人男」の創作に何らかの形で関与しているのではないかと考えていましたが、やはりそうでした。

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青砥稿花紅彩画 石川五右衛門、鼠小僧と並ぶ日本屈指の盗賊「白浪五人男」の活躍を描く。

明治の名優五代目尾上菊五郎の出世芸となった作品。17歳の時から生涯6度演じており、最後の舞台も弁天小僧だった。菊五郎の自伝によれば芝居の関係者の直助と言う男が三代目歌川豊国画の錦絵を見せに来たら、自分自身が弁天小僧の扮装で抜き身の刀を床に突き刺して酒を飲む絵柄だったので早速河竹新七に脚色を依頼したとある。

別の説ではある日新七が両国橋で女物の着物を着た美青年を見かけてみてふと思いつき、そのことを豊国に話すと豊国はそれを錦絵にしてさらに新七がそれをもとに劇化したという。劇の宣伝文である「語り」には「豐國漫畫姿其儘歌舞伎仕組義賊傳」(大意:豊国の下絵に描かれた姿をそのまま歌舞伎に仕立て上げた義賊伝である)とあり、いずれにせよ豊国の作品からヒントを得て作られたことは間違いない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 お分かりでしょうか?豊国なる人物こそ豊玉彦=豊国主=八咫烏の別名、秦氏なり大幡主に関わる人物だったようなのです。以上 さて、ここから本題に入ります。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記