2025年06月21日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ250 新ひぼろぎ逍遥1107大山祇は月読命なのかを考える ❶“天津司舞の天津司神社の再掲載”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ250

新ひぼろぎ逍遥1107大山祇は月読命なのかを考える ❶“天津司舞の天津司神社の再掲載

20250413 

太宰府地名研究会 古川 清久


以下は、通説派の御用学者にとって都合が悪い話だったと見え、ネット上で公開〜流布されることを嫌がったと思われます。恐らくプロバイダーにダミー(恐らく文科省の天下り関連団体)を使い除去するか、検索で上位に上がらないように本質を隠そうとしたようです。このため、再度、掲載しますのでご理解ください。


国により1970(昭和45年)68日に記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択された[3]。さらに、1976(昭和51年)54日には、文化財保護法の改正によって前年1975(昭和50年)に制定された重要無形民俗文化財1回指定(初回指定)を受けた。文化庁による指定種別は、民俗芸能・渡来芸・舞台芸である。                「天津司舞」で検索した「ウィキペディア」20250413 08:34


ひぼろぎ逍遥(跡宮)再掲載

565 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た” 20180501


神社に関心を持ち相当に詳しい方でも、同地の方は別としてこの神社を知る方はほとんどおられないのではないかと思います。

村の鎮守様といった神社と言うよりも、もっと小規模な同族集団の非常に小さな神社ですが、恐らく山梨県でも最も古く最も重要な神社がこの天津司神社ではないかと考えています。

勿論、初見の神社であり、最も大切な祭礼も見ず、関係者へのヒアリングさえも行ってもいないのにどうしてそんなことが言えるのかと言われるかも知れませんが、まずはネット上から祭礼の異様さを知って頂こうと思います。


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古来よりの申伝へには此の地未だ開けず、草沼にありしころ、天津神十二神天降りまして、舞楽を為し給ふ。其の後に、二神は天上に昇り、一神は西油川村の古井戸に没し給ふ(此の井戸、祭日には神形影るを以て鏡の井と云ふ)。其の後も九神猶舞楽を為す。此地漸く開け人里となりて。その舞楽を見た人後、其の神形を模写して、神像九像九体を造り、神紋を九曜の星とし、毎年七月十九日(現在は四月十日に近い日曜日)神官等小瀬村古来の十七戸のもとに、諏訪神社に九神像御幸して、社前の御船囲にて、神舞楽(天津司の舞)祭祀を修行す。天津司の舞は大永二年以前から伝承されて今日に至る。因に、大永二年八月、武田民部少輔信乗、社殿修造の棟札、今に存す。

天津司の舞   

昭和三十五年 山梨県の無形文化財 指定   昭和五十一年 国の重要無形民俗文化財 指定

                           山梨県神社庁による


 カーナビとは便利なもので、もしもこれが無ければ遠来の者にはなかなかの辿り着けないような場所にひっそりと鎮座する神社です。

 しかし、これが重要無形民俗文化財の第一号と言うのですから、それなりにと言うよりも、内部では密かにその重要性は認識されているような印象を受けます。

 ただし、その重要性は国体に関わるものであることからあくまでも「民衆芸能扱い」として半ば貶めた形で存続だけはさせておこうと言った意図さえも感じられるのです。

 それは、これが初代神武天皇(神武僭称贈る崇神ではないと言う意味での)絡みの重要この上ない国家伝承である可能性があるからなのですが、初見の者が何を惚けた事を言われる事は承知の上でお伝えだけはしておこうと思うものです。

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訪れたのはGW前日の29日の午前中だったのですが感慨はひとしおでした


まず重要なのは、祭礼に際して「神官を迎えに行く」のではなく諏訪神社(諏訪大社などではない)の宮司が天津司神社(収蔵庫)の神像をお迎えに上がることです(偉いのはどちらか言わずもがなですね)。

また、この天津司が行われる舞台が「御船囲」と呼ばれている事が、彼らが遥か遠くから船に乗ってやってきた事を今に伝えているように思えるのです。

勿論、「天津司」が「傀儡(テヅシ)」舞の民衆芸能であるとされている(笑ってしまいますね)事は承知の上ですが、小瀬の17家(恐らく血盟的な同族集団)で伝承されていると言う事やただの民衆が傀儡舞を継承すると言うこと自体があり得ない話なのです(何故ならば傀儡は商業的な芸能集団なのであって、その元を辿れば大いなる主人持ちの宮廷芸能の継承者だった可能性もあるのであり、一般民衆に伝えるなどありえないのです。

 ここで、神社考古学の立場から故)百嶋由一郎氏が残された天津司舞に関する手書き資料をご紹介する事にしたいと思います。

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昇天の二神とは阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)=海幸彦を婿神とした市杵島姫(奴奈川姫)

百嶋メモに依れば、舞に登場する9人の神とは、大日孁貴(オオヒルメムチ)=天照大御神、経津主命とは山幸彦=ニギハヤヒ、黄幡神=博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神、月弓命は大山祗命、根裂神は金山彦、磐裂神は埴安姫=黄幡神の妹神、磐筒男命=八重(速)思兼(ヤタガラス)、磐筒女命=罔象女(大国主の姉)、豹尾神は本物の神武天皇になり、消えた一神とは神沼河耳(草部吉見の父神)、市杵島姫(奴奈川姫)とは神沼河耳の息子の草部吉見のお妃となったことから呼ばれた様なのです。

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百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

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百嶋最終神代系譜(部分)この上段の神々こそが天津司神社の9人の神々に対応するのです


祭神は異なりますが、糸魚川市の奴奈川神社と天津神社が日本海ルートで信濃、甲斐の天井楽園への進入路を握る神社(事実上の行政機関)であり、その終点が甲府の天津司神社だったと考えられるのです。

 この底流に存在するのが、神武東征(これを行なったのは第9代開化天皇の臣下でしかなかった贈る崇神でしかなく)とは別の、神武巡行と言われる神武、天照、大山祗、金山彦、大幡主、海幸(草部吉見)、山幸(ニギハヤヒ=猿田彦)…なのであり、天津司神社が如何に重要で如何に古い列島王権成立に関わる神社であるかが理解できるのです。

 所謂「神武東征」(耳川河口からあくまで東征しただろう…程度の話)はやたら大袈裟に描かれていますが、この「神武巡行」はそれに遡る事数世代前に行なわれたもので、北九州の筑豊や瀬戸内海の尾道〜福山周辺などに薄いながらも今なお痕跡があり(筑豊、広島、福山…は一部ブログで公開しています)、その先端は男鹿半島にまで延びていたのです。

 これは大国主命の「国譲り」やそれに伴う建御名方命の抵抗と屈服などと描かれた「古事記」の偽装(国譲りの現場は九州でありその移動先が現出雲でしかない)よりも前に行なわれた「神武巡行」に関わる神社であり、その物証の一つがこの天津司神社になるのです。

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最後に、この神社の標柱正面上部には九法星が打たれています。これも天御中主命=白山姫=北辰=妙見を意味しており、その民族の後裔としてのプリンセスが市杵島姫(奴奈川姫)でもあったのです。


百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

573

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 L “金山彦を祀る岐阜県大垣市の

南宮大社”

572

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 K “琵琶湖の北端の鹽津神社”

571

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 J “諏訪大社(春宮)には呉橋がある”

570

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から

入った人々が開発した”

569

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 H “身延の若宮八幡神社は単独で

仁徳を祀る神社であった”

568

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 G “身延の賀茂神社への疑問”

567

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 F “諏訪大社(秋宮)再訪”

566

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 E “思えば遠くへ来たもんだ…”

565

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社に

やって来た”

564

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 C “天津神社にも奴奈川神社が

置かれていた”(下)

563

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 B “天津神社にも奴奈川神社が

置かれていた”(上)

562

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は

市杵島姫を祀る”

561

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 @ “甲府ィお参り願ほどき”

560

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 で考えさせられた甲信越の山上楽園の人々

612

続)徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの

歴史教科書問題」氏による近稿からの転載”

611

徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの

歴史教科書問題」氏による近稿からの転載”


ここで、百嶋由一郎が残した話の断片から、橘氏=大幡主(カミムスビ)〜八咫烏の直系氏族のシンボルは左の橘紋ですが、これに似たデザインで猿田彦(実は伊勢の外宮様=豊受大神の夫神)のシンボルとなっているのが右の椿紋です。

それは猿田彦=物部25部族の筆頭ニギハヤヒ(天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊)が対藤原戦に於いて、あまりにも過激であったために、カミムスビ系とタカミムスビ系の間に位置し勢力を温存しようとする八咫烏系後裔氏族も困り果てた結果、猿田彦=ニギハヤヒ系を切り捨て、橘紋の使用を禁じた結果…と言ったニュアンスの話をしているのです。

従って、東京水天宮、久留米水天宮は橘紋を使用していないと…いった話をしていたのです。

実際、猿田彦のお妃とされて、天岩戸で裸踊りをしたなどとアメノウヅメ(=実は伊勢神宮の主神)を実にとんでもない神話に仕立て貶めているのが後の藤原=阿蘇氏であることから(福岡市早良区野芥の櫛田神社はそれを頑として否定しています)、物部25部族は阿蘇氏に対して非常に強い敵愾心を隠していなかったのです。それを抑え鎌倉政権の実現を掴みその後の武家による千年大国を打ち立てたのはやはり橘一族であった事を思えば、仕方がない戦略であったとは言えるかもしれません。

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これも関連してお考え頂きたいのですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に386 国東半島のただならぬ天満宮 “大分県国東市向田天満宮”を書いています。

そこに引用した以下…

参考「菅原道真の先祖神は何か」百嶋由一郎先生2012121日講演 牛島稔太のHPより


この赤城神社と、同じ群馬県内に金山彦を祀った榛名神社がございます。これが喧嘩を始めたのです。それで、赤城神社のお嬢さん、そして榛名神社のお嬢さん、両方とも引退ですよ。スサノオのところから逃げ出して、そしてすぐに、それを助けたのが、両方の危機を救ってくれたのが、天皇家と豊玉彦です。そういう関係で、ここには豊玉彦に回ってきた姫たちが、一家の生活を助けてくださいということで嫁いでいらしたのです。豊玉彦の御きさき様たちには、豊秋津姫、ミズハノメ、イカコヤヒメ、杉山大神、前玉姫、武内足尼という方々があります。菅原道真公のご先祖は、一番お若い武夷鳥(タケヒナドリ)〔母、武内足尼 × 父、豊玉彦〕となります。このことを証明するにはどのようなところをお話すればよいか? それは溢れるほど、お話しする材料が多すぎます。多すぎますので、思い出し思い出しお話します。それから、この途中において、一番最初、豊玉彦の京都における紋章をどうすればよいか、ということで頭に浮かんだのが葵の紋章です。土に這っている葵です。これがですね、天下分け目の大喧嘩の結果、豊玉彦に頼ってきた人々も葵の紋章にあやかって、ヤタノカラスが使っている葵の紋章にあやかって、立ち葵の紋章に切り替えられました。そしてそのときの場所はどこであったか?即ち、豊玉彦に助けられて、住まわせてもらった場所は、一番最初に住んでいた場所は、鹿児島空港の近くの鹿児島県溝辺町の界隈に、この人たちの秘密の隠れ家があります。この人たちとは大山ズミの神の一族です。大山ズミの故郷は朝鮮半島の金海(向こうの発音では、キメ)です。従って、そのお嬢さん方もここの出身ということになります。そして今度は、その後がまた複雑になりましてですね、また、その天下分け目で非常に困った時期があった。各豪族がその豪族の座を維持するのに困った時期があった。その代表的なひとつと申し上げていいのが、物部、奈良天理に住んでいた天下の物部、現在、石上神宮がございます。この物部を打ち破ろうとしたのが、ヘブライ系の棟梁、金山彦の系統です。そして、物部もヘブライ系なのです。すなわち、ヘブライ対ヘブライ、判り易くいうとユダヤ人対ユダヤ人の対決です。その人たちが喧嘩を始めたので、この立ち葵の紋章も使えなくなりました。使えなくなったけれども、まだまだ勝った方はこれを維持してあります。負けたほうは、さあ、どうなったか?久留米の古いお宮さん、水天宮の御紋章は橘です(百嶋先生は、別の講演では、久留米水天宮の紋章は少し、橘紋を修飾しているとおっしゃっています:牛島注記)。負けたほうは葵の紋章はだめ、橘の紋章に切り替えたのです。その名残が久留米水天宮の橘です。そして、橘紋章の大本山とも申すべき、伊勢の国の一宮、山幸彦を祀ってある物部神社です。そこも天下の一宮といってもあやかった紋章はだめと言うことで、橘に切り替えてらっしゃいます。そういう大事なカラクリが何回かあっています。


直接的には、参考「菅原道真の先祖神は何か」百嶋由一郎先生2012121日講演 音声CDをお聴き頂ければ、百嶋先生が大山祇をどのような存在として理解していたかが分かります。

先生は、大山祇は天御中主命=白川伯王の姉と朝鮮半島の金海金氏=ウマシアシカビヒコヂとの間に生じた、つまり、南匈奴=王昭君の一族(東西分裂後の南北分裂よって生じたトルコ系氏族=従って大月氏とも通底する民族だったとお考えだった様なのです。

また、天津司舞調査の関連で、市杵島と草部吉見が薩摩の阿多に入り村長さんをしていましたと言う話の現場を探し、書いたものが以下の小稿です。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

461

南さつま市の辺境に市杵島姫と草部吉見の故地を

発見した? 阿多の白川の日枝神社

1047

南さつま市 阿多・白川の日枝神社について 補足(577の再掲載)

1046

南さつま市 阿多・白川の日枝神社について再び…

   

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 これが、淡路島の神社調査の帰りに偶然発見した二つの天津司神社(天都賀佐彦神社)です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2025年06月20日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ249 新ひぼろぎ逍遥 1100 七面大神とは何か?(下)の転載

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ249

新ひぼろぎ逍遥 1100 七面大神とは何か?(下)の転載

20250306 

太宰府地名研究会 古川 清久


七面大神(上)に於いて、取り急ぎ分かる範囲で七面天女 様 がどなたであったかを書いてみました。私どもは神社研究者の端くれに過ぎず、何を惚けた話をしているかとのお𠮟りを受けることは重々承知の上で尚も拘り、僅かな知恵を絞りだし、神社研究の延長からこの不慣れな仏教系の女神を描いたものです。しかし補足も必要でそろそろ神仏混交時代の仏神にも考察すべき時期が来ている事を考える中、明治に至り排斥された山岳修験によっても神々への考えを深めて見ようと思うのです。

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何分、念仏宗でも西本願寺の信州門徒ではあっても、法華経など知る由もない門外漢であり、この七面大神、七面天女様についても多少想像が及ぶものであったことから考察を進めて見た訳です。

この女神様については、その実体が掴めないものと思われ、多くの説が出されネット上で展開されているようです。各々、魅力的な説ではあるのですが、神社の世界でもその時々の政情の影響から無縁では在りえず、多くの事が隠されそれが重層的に積み上げられている事から、一般には見えなくなり安定している状態にあるのです。

それは、「古事記」「日本書紀」を筆頭に多くの偽装、改竄がまかり通っている事から、そこから真実を探ることが非常に難しいのです。従って通説に拘らない立場から多少の考察を加えたいのです。

「七面大神」との無骨な名を選んだのは、神ならば私達にも考察を加えられるとの意味を込めたものでそれ以上の思いはありません。

ただ、全ての説を取り上げコメントを加えることは不可能ですので、有力に見える説やご提案についても幾つかの考察を加えようと思います。

まず、八面神とか八面神社、八面大王…なるものが在ることは私も多少は承知していました。

そこで、七面大神、七面天女…もその周辺の方であろうと考えるのも自然で、ある程度の推定が浮かび上がってきたのでした。

一つは八面山が大分県中津市三光村に在り、この一帯が元々秦氏が住み着いている事がありました。


秦氏については秦の始皇帝(しこうてい)の後裔(こうえい)でその祖弓月君(ゆづきのきみ)が「己が国の人夫廿県」を率いて渡来したという伝承を持った豪族であるが、実際の渡来は五世紀末ごろではないかとされており、渡来の背景には当時の朝鮮半島での政治情勢とのかかわりがあった。秦氏の故地とされる新羅(しらぎ)は五世紀後半には北方の高句麗(こうくり)の集中した攻撃を受けており、このような戦火を避けて倭国へ渡来したのではなかろうかと考えられている。 無題.png                  より


これは始皇帝の後裔氏族であり、始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族はそれに先行して列島に移動しているのです。

それは、列島が火山国であり、鉄、銅、金、銀…が取れる事を知っており、燃料の豊富な森林国としての倭国に移動しているからなのです。ここで、その証拠と思えるものをご紹介しておきます。

秦帝国が滅亡するのは実にあっという間で、BC 221年に史上初めて全土を統一するも、BC 206年にはんでいるのです。

秦の滅亡前から、万里の長城の建設作業に徴発されるのを嫌い逃げた秦の臣民、敗残した氏族、そして遂には、秦の滅亡から、秦の王族、官僚・・・までもが半島を経由し列島に移動しているのです。

始皇帝の姓は嬴(エイ)諱は政(セイ)、つまり嬴 政(インチョン)ですが、同族として姻戚関係を結んだのが金山彦の一族だったのです。以下でも、宗像三女神の筆頭として知られる市杵島姫も正しい漢字表記をすれば、ツ島姫であり、嬴 政の嬴にサンズイを付しているのです。

それは、鉱物資源と燃料に満ちた列島に渡海し金属生産を始めたかったからだと思うのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


このことから、山国川一帯から豊前に掛けてある時代の初期の統計では人口の9割がこの渡来系氏族が住み、その後もかなりの数の後裔が尚も住み着いている事を承知していた訳です。

また、我が百嶋神社考古学に於いても、関東で金鎖大神(東金砂神社、西金砂神社…)と呼ばれる、イスラエル系製鉄神=金山彦をある一枚の神代系譜で、「面足尊」としている事から八面神自体が金山彦であり、その震源地のはずだと考えると、その関係者以外には考えられないと思ったのでした。

当の宗像大社も現在はこの字を使いませんが、私も一度だけ、現場で出くわしたことがあります。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)888 市杵島姫が秦の始皇帝の贏政の「贏」が瀛津嶋姫と書かれる“朝倉市佐田町高木神社の境内摂社”を検索してご覧頂ければその実例が分かります。

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先行(上)ブログでも書きましたが、伊弉諾と伊弉冉は早い段階で別れています。それが「日本書紀」にも垣間見れます。イザナミは別れ、熊野那智大社のクマノフスミと名を改めているのです。


第五段一書(十)書き下し現代文)
ある書によると……イザナギイザナミを追いかけて辿りついて、言いました。「わたしは、お前を失って悲しいから来たのだ」するとイザナミは答えました。「つながる者よ(=夫)。わたしを見ないでおくれ」イザナギは従わずに、イザナミを見てしまいました。イザナミはそれを恨み、恥じて「あなたはわたしの心を見た。わたしもあなたの心を見てしまった」と言いました。それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず「別れましょう」と言いました。イザナギは「負けない!」と言いました。その時吐いた唾が神となったのが速玉之男(ハヤタマノオ)といいます。次に穢れを払うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)といいます。二つの神が生まれました。イザナミと泉平坂(ヨモツヒラサカ)で言い争ったときにイザナギは「はじめは妻を失った悲しみから、恋しいと思っていたが、それは自分の心が弱いだけだった!」と言いました。黄泉の道の番をしている泉守道者(ヨモツモリビト)がイザナミに向かって言葉を促すと「わたしは、あなた(=イザナギ)とともに国を生みました。どうしてこれ以上、子を産むことを求めるのですか……わたしはこの国にとどまります。一緒に行くことは出来ません」このとき菊理媛神(ククリヒメカミ)が言葉を漏らしました。
イザナギはそれを聞いて褒め称え、
黄泉の国を去りました。      古事記(現代語訳・口語訳の全文)


この七面大神の解明が必要となった時、最初に考えたのは、金山彦のお妃となったお二人のどちらか、大山祇の姉のオチの姫(大山祇神社の本宮が鎮座する愛媛県大三島に越智姓が多いのはオチの姫の末裔だからです)or博多の櫛田神社の大幡主=熊野速玉大社主神=神産巣日、神皇産霊、神魂の妹、埴安姫の何れかであろう。特に、金属精錬、冶金を行う際の鋳型を造る埴安姫(埴輪の土器生産)を行った(足名鎚と手名鎚の手名鎚)ではないかと思ったのですが、オチの姫では神武皇兄五瀬命が死に娘の吾平津姫(後の蒲池姫=松田聖子の御先祖ではないかと考えていますが)も阿蘇の金凝彦の妃と成り、肥後から出た形跡がないため、また埴安姫も九州から出た形跡がなく、山岳修験でも特に金属精錬と冶金との関わりが薄く金山彦の一族の生業が阿蘇氏に移ったようで、どうも二人のお妃ではないと思ったのです。では、金山彦のもう一人の娘の櫛稲田姫ですが九州外では痕跡が拾えないため(出雲は近畿大和朝廷が九州を消すためにこさえたテーマ・パークと考えていますので)、妹の伊弉冉(イザナミ)以外にはないと思うに至ったのでした。

一方、ネット上には七面天女とは何かという考察が多数流れています。この十日ほどそれらを読んできましたが、実に熱心な考察が加えられ、今更ながら日本人の真面目さには感心するばかりです。

それも法華の凝り固まりの成せる業と言えば失礼になるのでしょうが、折伏講論の演習とも言えそうです。

我々、神社研究に踏み入った者としては、元は神社に詳しい方も居られたのですが、マッカーサーの占領政策の延長上に戦後は神社研究が事実上されなくなり、今や教えを頂くとしても答えを頂ける人が消え、質問を受けるばかりと成りつつあるのです。結局はAIに神々の話を尋ねる以外方法の無くなる時も到来する様で、コンピューターからインターネットの爆発は、最終的に神の存在さえもAIに問わざるを得なくなるかも知れないのです。実際、神社を多少とも調べるにも遠征するよりネット検索の方がよほど成果はある訳で、それはそれで無視はできないのですが、隠された真実を探り出す作業はとなると、やはり現場を踏むべしと思うばかりです。

 神社研究の世界では、この道に非常に精通された「玄松子の記憶」とか「神奈備」といった非常に優れた先行研究が在り、分からないことがあれば、まずは、敬愛する玄松子 様 などを検索するという方法があるのです。

 ところが、さすがの「玄松子…」様も七面大神…様については一言も発信されていませんでした。

やはり、仏教の神は対象外と思われたのかもしれません。こうして、意を決して取り組む事とにし

たのでした。多くのものを全て読み込み理解した上で反論するなど不可能ですが、色々な説を纏めて

論じられている「七面天女伝説の諸説」というサイトがあります。

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無題.pngそこで、門外漢のが入門入門するにはと言うのは失礼ですが、非常に良くまとめられており、今回のテーマには最適ですので、自らの演習の意味もあり、ランダムに多少のコメントを加えたいと思います。

しかも、まことに勝手ながら、系統だって非常に精緻に書かれている秀稿ながら、順を選ばず、思いつくままに書かせて頂きたいのです。

そこで、最初に取り上げるのは、七面天女=市杵島姫説です。

とりあえず、冒頭に書かれている事から取り上げますが、残念ながら、日本書紀の偽装する罠に嵌っておられるようです。


一、『御義口伝』古写本(大石寺・要法寺所蔵)

元亀二(一五七一)年の写本が、大石寺と要法寺に所蔵されています。日興上人が日蓮聖人の法華経講義を筆録したものと伝えられていますが、現在は後世の偽作とされています。(執行海秀稿「御義口伝の研究」『立正大学論叢』第四・七号所収)。『御義口伝』に、提婆品の沙竭羅竜宮の龍女について、殊此八歳龍女成仏帝王持経先祖タリ。人王始神武天皇也。神武天皇地神五代第五鵜萱葺不合尊御子也。此葺不合尊豊玉姫子也。此豊玉姫沙竭羅龍王女也。八歳龍女姉也。然間先祖法華経行者也」(二六五四頁)と、七面天女の本地は提婆品の龍女という説があります。この龍女の姉は神武天皇の祖母にあたる豊玉姫であると書かれています。『日本書紀』の海幸山幸神話では豊玉姫を玉依姫の姉とします。玉依姫は共に海神(ワタツミ)豊玉彦の娘となります。また、親子とする説もあります。善女龍王は娑伽羅龍王の第三王女です。日本の皇室の先祖は法華経の行者であるとしたことは、龍女本地説に関連します。(室住一妙稿「七面大明神の伝説・縁起とその考証」『七面大明神縁起』所収五二頁)。


そもそも「古事記」は白江戦の大敗北の結果、天武天皇の一族が太宰府占領から逃れ奈良に入って以降作られたもので、「日本書紀」は乙巳の変ご奪権した藤原(阿蘇氏後裔)が作ったものです。

このため、後の藤原氏はその直接的な祖先にあたる神武僭称(贈る)崇神天皇こそが初代神武とするもので、結果、直系でも何でもないウガヤフキアエズの娘の大海姫を妃とした崇神(ハツクニシラススメラミコト)こそが初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)なのだという御伽噺を造ったものなのです。

何故そのような事が起こったかと言えば、

六、「七面大明神縁起」大中孝師


小湊誕生寺二六世の大中院日孝上人が書かれました。延宝八(一六八〇)年ころといいます。(森宮義雄著『七面大明神のお話』三〇頁)。本書に鬼門を閉じて七面を闢(ひら)く、ということから七面山とする説は他と同じです。山上の湖水は藍(あお)く清らかであり、どんな旱(ひでり)にも枯渇することがなく、その所に宝殿を構えて祀ったのが七面大明神であると書いています。この本地は計り知れないが、相伝によると吉祥天の応現であるとのべています。この相伝とは師弟関係からしますと、元政上人の「七面大明神縁起」と思われます。日蓮聖人との出会いについても、おおむね元政上人と同じです。容貌が端厳(きちんと整っていて威厳のあること)で、服飾も綺麗な婦人に水をあたえると龍身に変じます。その驚くほどの怖い姿は、眼光は雷を射るようである。爪と牙は刃を植えたようである。鱗の色は種々の色糸を用いて、華麗な模様を織り出した錦の織物のようである。舌の先端から穂のように激しい炎が湧きだしている。身の大きさは一丈(約三、〇三b)。花瓶のまわりを纏(まとわ)り繞(めぐ)ること二、三匝(めぐり回ること)。そして、首を矯げて(直す)回顧(うしろをふりむく)します。その睨む姿は恐ろしく怖畏(おそれおののく)するほどだったのです。ですから、この様子を見ていた波木井氏は疑うどころか、未曾有のことであると感動したのです。龍身をもとの婦人の姿に変え、霊山にて末法に法華経を持つ者を擁護する誓いを報ずるため、これよりは持経者の七難を除き七福をあたえ、身延山の伽藍を守護するといって沒します。沒(没)とは水に沈むということで、水のなかに隠れ去ったということになります。元政上人の「七面大明神縁起」とくらべますと、婦人が龍身に変わって波木井氏を見つめるところが誇張されています。また、六老僧の口伝として日蓮聖人が提婆達多品を説いていたときに蛇形が来て聴聞していた、日蓮聖人はこの蛇は八才の龍女であると言われた、という口碑をのべています。つまり、場所を草庵として西谷伝説を脚色し、女性は竜身になります。本書に六老僧の口伝がのべられていました。(『身延山史』三九頁)。

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2025年06月18日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)248  新ひぼろぎ逍遥 1099 七面大神とは何か?(上)の転載

ひぼろぎ逍遥(跡宮)248 

新ひぼろぎ逍遥 1099 七面大神とは何か?(上)の転載

20250304 

大宰府地名研究会 古川 清久


七面天女とも言われる神とも仏ともされる神仏を考える必要性が出てきました。

日蓮宗(ここで言うのは「日蓮正宗」ではなく総本山身延久遠寺)の祭神と言うのも妙な話ですが、分かり易いかどうかは別にして、江戸落語で言えば故)三代目 古今亭志ん朝でお馴染み「甲府い」で知られる山梨(南巨摩郡身延町身延3567)は身延山の日蓮宗総本山の七面大神=七面天女の話です。

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日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)とは、宗祖日蓮末法の本仏、三大秘法を宗旨[1][注釈 1]とし、日本静岡県富士宮大石寺を総本山とした富士門流[注釈 2]に位置づけられる仏教宗派である[2]。講員数約86万人。

教義[編集]種脱相対[3][4]日蓮本仏論を唱え[5][6][7][8][9]、大石寺に伝えられる本門戒壇の大御本尊唯授一人の血脈を仏法の根本とする[10]

基本[編集]基本的教義は、宗教の五綱・宗旨の三箇(三大秘法)・血脈相承である[1][11]。宗祖を本仏と仰ぎ、本門戒壇の大御本尊を信じ、題目を唱えるならば、どんな者でも必ず成仏できるとしている[12][13]。また、仏教各宗派によってさまざまな戒律が説かれているが、日蓮正宗における戒とは捨悪[注釈 3]と持善[注釈 4]である[14]。経釈章疏は、法華三部経・宗祖遺文(『日蓮大聖人御書』)・派祖遺文・大石寺第9日有遺文・大石寺第26日寛遺文を正依とし、天台宗系統の摩訶止観10無題.png巻および弘

決・法華玄義10巻および釈籤・法華文句10巻および疏記を傍依としている[15]

仏教の基礎である三宝は、以下のように説いている。「末法の三宝とは、久遠元初自受用報身如来の再誕、法即人の主師親三徳、本因妙の教主日蓮大聖人が仏宝であり、人即法の本地難思の境智冥合、事の一念三千、無作本有の南無妙法蓮華経の大曼荼羅が法宝であり、大白法を正しく継承された日興上人を随一とする歴代の法主上人が僧宝である。」[16][注釈 5]多宝塔や釈迦・多宝如来、等の仏像の制作・崇拝は一切禁止されている[17]


無題.png「日蓮正宗と日蓮宗の違い」日蓮宗と日蓮正宗の違い大きな違いは根本となる仏である「本仏」として何を指しているかです。 日蓮宗では、釈迦を本仏としている一方、日蓮正宗では日蓮聖人を本仏としています。 日蓮正宗では、日蓮聖人をキリストや釈迦と同じように崇拝の対象として考えているため「日蓮大聖人」と呼んでいます。


当会、当方には色々の所から様々な照会がありますが、今回は、大山祇命と月読命or月弓命とは同一神か…との問い合わせが寄せられたからでした。

これは別稿として扱いますが、その前に身延山の日蓮宗の祭神とされる七面天女が気になった都から先に取り上げる事にしました。

七面大王神とは仏教化されているとは言え、どうも「神」扱いされているようで、避けては通れないと思ったからでした。

何よりも、百嶋由一郎が残した神代系譜の一枚に、七面天女に重なるかどうかは別にして、面足尊なるものが存在し、金山彦とされているからです。まずは、そちらからご覧いただきます。

尊称としての「尊」が付されている「日本書紀」系の表現でもあり、無視できないのです。


おもだるのかみ Omodarunokami 上・初発の神々紀 面足(二段本書、三段一書一)旧 面足尊(神代系紀)

 神世七代の第六代で、阿夜訶志古泥神と対偶を為す男神。

 『古事記』における神世七代の意義については、伊耶那岐神・伊耶那美神の誕生を到達点として、そこに到る過程を神々の生成によって発展的に表現したものと捉える解釈が多い。その過程の意味する所は、(1)国土の形成を表すとする説、(2)地上の始まりを担う男女の神の身体(神体)の完成を表すとする説、(3)地上に於ける人類の生活の始原を表すとする説などがある。
於母陀流神は、次に成った女神、阿夜訶志古泥神と対偶をなす男神であるが、他の神世七代の対偶神と違い、神名に共通性がない所に疑問が持たれる。於母陀流神の名義は、『日本書紀』の「面足尊」という表記から、神や人の容貌にまつわるものとして解されており、その神格は、神世七代における岐美二神生成の直前に位置する対偶神として、身体の完成することを面貌に託して表した神とする方向の解釈が一般的である。
 「於母陀流」を顔(面)が成り整う(足る)意と解して、身体の完成を表していると考え、人体が完備することの神格化とする説や、『万葉集』(2220)に讃岐国を「天地 日月と共に 足り行かむ 神の御面と 継ぎ来る 中の湊ゆ 船浮けて」と表現した歌があるように、国土の表面が満ち足りていくことを意味しつつ、顔立ちや体つきが整って身体が備わることを表し、男女交合の兆しを表現しているとする説、また、男女の掛け合いの言葉が、二神の対偶によって表されたものとして、面足神を、男神が女神に対して「あなたの容貌は整って美しい」と褒めたこととし、阿夜訶志古泥神を、それに対する「まあ何と恐れ多いこと」という返事と解釈する説や、完成した肉体に讃美の言葉をかけることで命と魂を宿らせる古代の観念の反映とする説がある。他に、偉大な面貌を持った、境界防塞の神像もしくは生産豊穣の性格を帯びた守護神の神像の形象化とする説や、性器崇拝にまつわる、性器の様相に対する讃美による名称とする説などがある。

オモダル・アヤカシコネ も無題.png20250305 09:27 からご覧ください。

オモダル(淤母陀琉、面足)・アヤカシコネアヤカシキネ(阿夜訶志古泥、綾惶根)は、日本神話に登場するである。神武天皇は仍孫[要検証ノート]

概要 古事記』では兄を淤母陀琉神、妹を阿夜訶志古泥神、『日本書紀』では兄を面足尊妹を綾惶根尊(アヤカシキネ)と表記する。『古事記』において神世七代の第六代の神とされ、兄淤母陀琉神が男神、妹阿夜訶志古泥神が女神である。オモダルは「完成した(=不足したところのない)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。つまり、人体の完備を神格化した神である[1][2]。また淤母陀琉神は「淤母」は「面」、「陀琉」は「足る」と解して、名義を「男子の顔つきが満ち足りていること」とし、文脈や阿夜訶志古泥神との対応、また今日に残る性器崇拝から男根の様相に対する讚美からの命名と考えられる。阿夜訶志古泥神は「阿夜」は感動詞、「訶志古」は「畏し」の語幹、「泥」は人につける親称と解し、名義は「まあ、畏れ多い女子よ」とし、淤母陀琉神と同様の理由で、女陰のあらたかな霊能に対して恐懼することの表象と考えられる[3]中世には、神仏習合により、神世七代の六代目であることから、仏教における、欲界六欲天の最高位である第六天魔王垂迹であるとされ、特に修験道で信奉された。明治神仏分離により、第六天魔王を祀るの多くは神社となり、「第六天神社」「胡録神社」「面足神社」などと改称した。


無題.png「胡録神社」は対馬で、遭遇しており、故)永留久恵先生の海神と天神」 対馬の風土と神々にも搭載されていますね。

面足神社」は日蓮上人の出生地の安房国(千葉県山武市戸田446を始め20社近くあるようです。戸田となると、どうしても学会の牧口常三郎戸田城聖を思い浮かべますね。まあ、日蓮正宗や学会(門徒)総講頭は関係ないですが。日本全様によると全国に23社あるとの事ですが、ご覧の通り、半数は千葉でも房総でも旧安房国を中心に分布が確認できます。

それから考えると、百嶋由一郎の面足尊が日蓮上人と無関係では無いように思えるのですが。

百嶋由一郎の残した100枚近い神代系譜にも面足尊は一枚しか出てきません。このことは鹿島、香取、息栖…東北(北関東)の神社調査の際に併せて、安房の調査も行っている様です。

順番が逆になりましたが第六天神社は恐らく長野県の面足命社(第六天王宮)が該当しそうです。

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面足命社(第六天王宮は別名ですね)カーナビ検索長野県上伊那郡辰野町辰22−ロ


第六天神社については、ウィキペディア(2025250305 12:25)でも関東、東北、甲信越…に分布が多く拾えます。ただ、祭神ははっきりせず、あったとしてもデシャバリの高木大神になっており、採用できません。

先に引用した、オモダル・アヤカシコネは、先代旧辞本紀を含めた検討をされていますが、

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百嶋先生には、イスラエル系(秦の始皇帝と互いに同族だったとして姻戚関係結んだ)の金山彦が関東の面足神、面足尊であることはお分かりだった様です。我々も通説が何であれそう考えますが。

百嶋由一郎の最終神代系譜(次の次の二枚目)の金山彦=金鎖大神の妹のイザナミこそが阿夜訶志古泥神=綾惶根尊であり、具体的には全く語られておられませんが、私には日蓮宗の七面大神(天女)様もイザナミ=クマノフスミ(熊野那智大社主神)とお考えだったのではないかと思うのです。

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002百嶋系図(極秘)神代系譜 003込(部分)


まず、百嶋神社考古学では伊弉冉(イザナミ)と伊弉諾(イザナギ)とは早い段階で別れており、金山彦の妹のイザナミは、八咫烏の父つまり神産巣日=神皇産霊=神魂(カミムスビ)現地では博多の櫛田神社の主神大幡主の妃になっているのです。

そのため、イザナミは名をクマノフスミと改め、熊野三山の熊野那智大社の主神となり、大幡主は熊野速玉大社の主神となられているのです。

この事が、理解できないため熊野系神社群の多くで、伊弉諾が消されている事が解らないでおられるのです。それは、琵琶湖の傍に鎮座する高木大神系の多賀神社が堂々と元のイザナミ+イザナギとしている事が大きいのかも知れません。

信州の戸隠神社にも魏石鬼八面大王という神が祀られています。恐らく、この神が九州でも肥無題.png後熊本の阿蘇の入口、辺りの現大津町外牧に鎮座していた金山彦系岩戸神社の移動したものであり(日向の高千穂で荒神鬼八、肥後阿蘇谷で喜八伝承として残る)、八面神と対応しているのです。その金山彦の妹が七面天女とか言われる妹で元伊弉諾の妃だった方ではないかと考えるのです。 七面山=聖岳 右矢印1

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それが、現在、参道崩壊のため神社参拝が出来なくなっている岩戸神社です。

百嶋先生も講演に於いてこの地から戸隠に岩戸が飛んでいます…と話されていました。

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岩戸神社 カーナビ検索 熊本県菊池郡大津町外牧


では、「八」ハチとは何かとまで飛躍すると、以前から考えていた、ヒッタイト帝国の首都ハットゥシャ(ハッティシリ)ボアズキョイではないかと考えています。

金山彦は中国では事実上の工学博士であり、古代(神代)には工程師(工程Gōngchéngshīでもあったのです。イスラエル系の人々は近東から西に移動し中国に入り、安全な極東の島国に安住の地を求めたのでした。
                               大分県中津市に八面山があり、八天狗が祀られ山岳修験の山として知られる福岡県豊前市の求菩提山に金山彦系修験が国東、彦山の挟撃を受け、肥前に逃げ、八天神社が佐賀、長崎にかなりの数痕跡を留めている事とも対応するのです。
無題.png従って、八木、矢木姓がイスラエル系の工学系であることは、戦中派の方はご存じだと思いますが、軍部が無視し、逆に八木アンテナを米英が受け入れ、敗戦の一因でもあったレーダー開発に遅れを取った事は良く知られています。

そもそも七面山が聳えるのも山梨県南巨摩郡であり、半島奥の高句麗が唐に敗れ高麗王若光も列島に亡命しているのです。鉄道唱歌でも名高い高麗(コマ)神社が(祭神 猿田彦命、武内宿禰命埼玉県日高市に鎮座するのです。

してみると、その南高麗郡に鎮座する身延山久遠寺もイスラエル系言う事も可能なのです。                               七面天女像

そもそも、青森東半の南部藩と山梨南部に南部町が同じくイスラエル系と考えており、五年前に南

部町に福岡県久留米市に鎮座する高良大社があり、青森と山梨の南部町に高良神社を共に確認してい

るのです。これも、以前のブログでリポートしています。

636 ひぼろぎ逍遥(跡宮)からの転載 590 出羽から陸奥への道I“青森県五戸町の高良神社”

七面神社が金山彦系で在ろうという推定も、あてずっぽうでもないのです。ここで、高良大社の神

紋をご紹介します。
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左の三つの神紋の真ん中の木瓜紋は、実は初期九州王朝を支えた金山彦の神紋で、本物は右端の門光紋(唐花)なのです。

身延山久遠寺も元々は南部氏の支配地域であったはずですし、鎌倉末期には岩手に入っているらしいのですが、二戸に福岡という地名が在り、黒田藩(福岡)が金山彦系であることも間違いないずですが、山梨の南部町も青森の南部藩も共に、迎鶴紋(猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ)であり、これは保身のための偽装と思われます。つまり家紋からは確認できないのです。

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百嶋由一郎 最終神代系譜(部分)


無題.pngそもそも、鶴紋もヒマラヤを越えて北帰行、南帰行を繰り返す鶴の大編隊を知る民族であって、西から東に移動して来た人々なのです。島根県太田市の物部神社も日負鶴紋なのです。

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若宮神社も山梨県に数多く分布していますが、それは、武田信玄公も南部氏も、共に新羅三郎の後裔であり、直接的には高良玉垂命=開化天皇(藤原も第九代天皇)とせざるを得なかったです。

その高良玉垂命が仲哀死後の神宮功后との間に生まれた長子=仁徳天皇(オオササギ、現地、久留米ではシレカシノミコト)その人なのです。

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002百嶋系図(極秘)神代系譜 003込(部分)前々図下半分


勿論、通説とは異なります。九州王朝は当然ながら隠されているのです。

詳しくは、以下をお読み下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

961

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)

⓯ 続 山梨県 若宮八幡神社(追補)

960

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)

 山梨県 若宮八幡神社

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まぼろしの九州王朝宮廷舞を継承するとする宮地嶽神社と、武田氏との濃厚な関係を見せるぶどう寺大善寺とが等しく三階松の神紋を掲げているという事実を考える時、両者を繋ぐものは、この九州王朝が派遣した四道将軍の大彦の北陸から甲州への展開としか思えないのです。そこまで考えてくると、冒頭に掲げた国宝薬師堂の最頂部に掲げられた神紋の意味も多少異なった意味合いを持っている事が見えて来ました。門光(唐花)を守るかのようにあしらわれた三階松は、武田氏を支える三枝氏を意味しており、傍系とは言え、武田氏も九州王朝の一族であり、その臣下の実働部隊として三枝氏のスクラムを意味している事が分かるのです。では、武田氏の家紋を考無題.pngえて見ましょう。言うまでもなく武田氏の家紋は四割菱とされています。一般的に戦国武将の家紋は、戦闘用の旗指物として増産する必要と遠方からも判別できる必要性があることから簡素化される傾向がありますが、実は四割菱ばかりではなく、花菱(門光)も使用しているのです。武田氏の家紋は有名な「割菱」すなわち「武田菱」である。武田氏の専用なので、武田菱の名が起こった。しかし、このほかに「花菱」も用いた。多くは、裏紋または控え紋として花菱を用いたが、女性などはやさしさを表わすために花菱を多用した。しかし、この花菱も菱形を花の文様に転化させたもので、根本は変わらない。すなわち、武田氏はいずれにしても「菱」紋で代表される。
 紋のいわれはさまざまに言いなされているが、かなり古くから用いられたことは間違いない。菱それ自身は、正倉院の御物の裂にもあるが、武田氏がこれを紋として用いたとおぼしき証拠が残っている。それは、塩山市にある菅田神社の「楯無の鎧」にこの紋が付けられている。この鎧は平安時代に作とみられるが、これに割菱も花菱もともに付いている。これが家紋とは断定できないが、武田家の重宝に付けられていることは重要な意味がある。この時代から、菱文様は武田氏と密着していたことは窺われる。 これについて『見聞諸家紋』には、武田氏の紋に対して

無題.png頼義男新羅三郎義光の末孫也。従四位下。伊予守鎮守府将軍。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奥州安倍頼時攻。是時詣住吉社。新平復夷賊。干時有神託。賜旗一流。鎧一領。昔神功皇后征三韓用也。神功皇后鎧脇楯者。住吉之御子香良大明神之鎧袖也。此裙之紋。割菱也。三韓皈国後。鎮座於摂津国住吉。以奉納干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼義賜之。可謂希代也。頼義三男新羅三郎義光雖為季子。依父鐘愛伝之。即旗楯無是也。旗者白地無紋。鎧有松皮菱。故義光末裔当家為紋。 と記されている。
 すなわち「この鎧は住吉神社の神託で、武田氏が拝領した、それに菱文様が付いているのだから、これは家紋とみてよい」というものである。…
特に「多くは、裏紋または控え紋として花菱を用いたが、女性などはやさしさを表わすために花菱を多用した。」と書かれている部分には関心を持っています。俗に女流家紋とか裏紋と言われるものですが、もしも、百嶋由一郎氏が残したメモの通り、孝元天皇の皇別氏族としての大彦が武田氏の祖とすれば、この一族が近畿大和朝廷などの後裔ではないはずで、何故なら学会通説は欠史8代として近畿一帯には何らの痕跡もないことから(そんなものある訳がないのです。何故なら、七世紀以前の近畿大和は、主要な古代史の舞台では全くないからです)崇神以前は全て架空のものとしたのですから。


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門光が九州王朝の正統皇統を示すものであることを知っている方にしか分かっていただけないのですが、故)百嶋由一郎氏からは、通常、久留米の高良大社表掲げられている左三つ巴の住吉の神紋と木瓜(モッコウ)紋は、臣下の神紋で本来の九州王朝正統皇統の神紋ではなく“本物の神紋は内部に隠されています…”と聞かされていました。ただ、四割菱は承知していましたが、当時は(と言うより近年まで)、武田氏の神紋が門光とは理解しておらず、その分対応が遅れたのでした。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:24| Comment(0) | ビアヘロ