2026年07月31日

ビアヘロ 265 ひぼろぎ逍遥1174の先行転載 “神社で撮影された心霊写真を公開します”

ビアヘロ 265 ひぼろぎ逍遥1174の先行転載 “神社で撮影された心霊写真を公開します”

20260624     

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥1174 最近行った神社トレッキングで起こった「心霊現象」についてお話しします

20260615

太宰府地名研究会 古川 清久


当会はカルト集団ではないのですが、実際には少数ながら霊能者と思われる方が参加(時に出入り)されており、過去、男女を問わず延べ10人近い方が通過されています。女性が5:110:1が普通なのですが、今は不思議と男性で2人のパーマネントな中枢メンバーとして活躍されているのです。一人は建築士で2本の神社関係ブログを書いておられる方で、もう一人は❷50代の会社役員です。  

最初にご紹介した方を仮に❶S氏としておきます。後で確認すると自分が撮影する写真もかなりの頻度で心霊写真が撮れる…と語っておられました。

 この手の話は誤解される事が多いため具体的にどの神社であるかは勿論伏せますが、心霊現象が映像として撮影できましたのでご紹介したいと思います。

 福岡県内の某神社とまでは申し上げられますが、それ以上は当面差し控えます。ただ、会員内部では承知しておいて頂きたいと思いますので、画像だけをオンエアしておきます。

 昨年の夏の終わりに実施した川上 猛の生誕地を探る神社トレッキングに於いても、熊本県高森町の二つの神社で前述の若手男性の霊能者が➀神殿から何事かとこちらを除いていた、A神殿から二人の童子がこちらを見つめていた…と言っていたのでした。こちらも仮に❷M氏としておきます。

 と言っても、単に妙な霊感を持つ変わった男性…と言った人物ではなく、きちんとした会社の役員で、なおかつ「古事記」「日本書紀」を一応は全部読んだ…と言ており頻繁に全国の神社を見て宮司、禰宜と話をしてくる強者ですので、ご心配は全く必要が無いのです。






















ではご覧ください。

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驚くべき映像ですが、現場では誰も気づいてはいなかったのです。ただ、一人を除いてはです。

 それは、❷M氏だけが気づいていたようなのです。彼に聴いてみると、開口一番“やはり出てましたか”でした。“参拝殿から神殿に向かう途中の渡り廊下ですれ違っていたので”と言ったのです。

これがエクトプラズムという意味ではありませんが。心霊現象の範疇には入るでしょう。


AI
による概要(エクトプラズムで検索)

エクトプラズムとは、心霊現象において霊媒の身体から発するとされる正体不明の物質(心霊体)を指します。1893年にフランスの生理学者シャルル・ロベール・リシェが提唱した造語で、かつては幽霊の物理的な実体として交霊会などで報告されていましたが、今日では科学的な根拠はないとされています。

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M氏はこうも言っていました。

 ここでは要約して書きますが、急に多くの参拝客が来たから何事だといった面持ちで、決して悪意とか敵意を持った反応ではなかったと感じていますが…”でした。

 私も電話での話でしたが、堂々たる話し振りで、改めて彼の感受性と理解力に驚かされたのでした。

 当日は参加者も156人程度でした。今回も都合が着かず参加できなかった方を対象に何度か追加トレッキングを行っているところです。

 参加者でも神殿内まで入った人は少なく、私が現在の状況と以前の配神の違いなどを説明したのですが、中には、今回のブログには胆を冷やす方も出て来るでしょう・

 一方、改めて神社への尊崇の念を抱き、お賽銭を高額にしよう…とか、神殿のお掃除だけでもしてあげたい…と言った話も出始めています。

 これについては、私も神社トレッキングには清掃用に小型の充電式掃除機を持って行っていた事もあるのですが…今は氏子婦人会の清掃活動もままならず、私達の探訪参拝でも組織化して清掃ご奉仕を行おうかとも考えているところです。

 それほど、氏子組織の高齢化、員数の減少と併せ神社への尊崇の念が消失しつつあるのです。

 今般、心霊写真、UFO、人工地震と言った一般には白眼視される記事を公開しましたが、それは学芸員とか教育委員会とか権力に尾を振り、新たな食い扶持を探ろうとするさもしい連中の定番と言ったもので、このような心霊現象などと言ったものを極端に嫌い否定したがる構造に連動賛同し私もその仲間のつもりですからどうぞ仲間に入れて下さいと自らを売り込もうとするあやかりを狙う恥ずべき構造を感じさせるものだからです。

 特に、九州王朝論者であるにもかかわらず、非常に薄い根拠で、福津市の東端の某神社に残された文書に同地も「マツラ」と呼ばれた記述が有ったとして田川から京都郡に邪馬台国を持って行った行政の芸人とかそれに連動するK県K市のK八幡宮の宮司のような行政に自分を売り込もうとする連中、こう言ったった輩の踏み絵の様なものでしかないのです。

 結局、真実の探求はどうでも良く、村興し町興し果ては世界遺産登録で少しでも良い目に合えれば良いと言った構造に落ち込む事に成るしかないのです。

 敬愛する、佃収、米田良三、古田武彦といった巨星が落ちると、ペトログラフ問題同様こういったウゾウムゾウノ蛆虫共が沸いてくるのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2026年07月27日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1140 「鳥海」地名を探る…安倍宗任と「鳥海」

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1140 「鳥海」地名を探る…安倍宗任と「鳥海」

        20260131

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久

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山形〜秋田へと広がる鳥海山


二県五市に跨る中近世を対象とした旧「松浦党研究連合会」の解散に伴い、新たな活動を開始した独立系の研究会にお誘いを受けたのは2025年の夏でしたが、既に三回目の研究会が開催されようとしています。今後、どのような発展を遂げるか期待しているところです。

 三回目の講演にお呼びしたのは前九年の合戦によって滅んだ東北の安倍氏の流れを汲む、安部の宗任34代安倍貞隆氏(大分市在住)です。

 221日(土)に伊万里市の生涯学習センターで古代のルーツを知る会主催でご講演頂く予定です。

 そこで、安倍さんの紹介をして頂きたいとの依頼を受けたことからお引き受けしたのですが、短い講演時間を削る訳には行きませんので、ご紹介は文面で配布させて頂こうと書いたのが前ブログでした。そこで、とりあげたエピソードを改めて掲載しておきます。以下。


初めて貞隆さんにお会いした時にも出た話ですが、私も関心を持っていたテーマですのでご紹介したいと思います。、

弟の宗任(鳥海三郎)と前述しました

安倍 宗任 (あべ の むねとう)は、平安時代中期から後期の武将。陸奥国の俘囚の長とされる豪族、安倍氏の安倍頼時の子(三男)。鳥海柵の主で、安倍鳥海三郎宗任とも呼ばれる。安倍氏の本拠地である鳥海柵の主であり、嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあったと推察する説もある。             「安倍宗任」で検索したウィキペディア20260131 11:53 による

俘囚の長なるふざけた表現は、民俗学者の谷川健一(直接聴いてます)も含めよく耳にしますが、

 佐賀県の伊万里から武雄の中心に移動されるとして山内町を通ると、JR佐世保線の永尾駅の正面に鳥海(トノミ)という地区が在る事をご存じの方は居られると思います。

 東から鳥海川が流れ込み、舟原地区から流れ込む西からの河川と合流し昔から沼沢地が存在していただろうことは一目で、大雨が降れば海に成る事を昔は良く見ていました。

 恐らく、古代には多くの水鳥の棲みついた沼だった事でしょう。この鳥海川は数キロ降ると、西の青螺山を源流とする松浦川と武雄市武内町辺りで合流し唐津湾に注いでいるのです。

 安倍宗任もそのような沼沢地に近い河川合流地を拠点にしていたと思うのです。

 この「鳥海」という地名や屋号など全国にも散見されますが、一番有名なのが帝国海軍の重巡「鳥海」の元となった鳥海山の秋田、山形ですが、かつては実際に秋田県にも鳥海町もあったのです。

 私がこれも同じだと思っているものに、チューリップで有名な富山県の砺波平野(現砺波市)で

す。「ナ」と「ノ」は全く違うと反論がきそうですが、ナも所有の格助詞で、「そこおなご帯を解け

…」とは悪代官などがしばらく前まで使っていた普通の言葉なのです。

 古くは、「マコ」、「タゴコロ」、「川タゴ」(昔は田んぼの用水路にたくさんいたものです)…と普通に使われていた言葉なのです。まあ、本題から逸れ過ぎましたのでここで止めておきます。

では安倍一族とは何なのか…(俗称「金神神代系譜」部分から

百嶋神社考古学を根幹とする当グループとしては、以前から大彦の流れで久留米の高良大社の高良玉垂命の腹違いの兄の一族であるとしています。以上引用終了。


鳥海柵の主で、安倍鳥海三郎宗任とも呼ばれる。は、「安倍宗任」で検索したウィキペディア20260131 11:53 によるもでしたが、「鳥海弥三郎宗任」とも呼ばれているのです。


鳥海の山名がどういう関係でつけられたかは、この山の変遷をたどる上で、見のがすことができない。鳥海という山名が記録の上に現れたのは、和論語の中に鳥海山大明神とあることに始まるとされている。

 鳥海山の号は国史に見る所なし。和論語に鳥海山大明神と出づ。三代実録には飽海の山とありて山名を記さず。(大日本地名辞書)

 無題.png和論語が作られたのは、丁度頼朝の時代で、鳥海の山名はこの時までには、すでに一般から呼ばれていたと思われる。

 この山について変遷を考えると、古くは大物忌の神山、北山、飽海の山とか呼ばれていたようで、鳥海と呼んだのはその後のことであった。飽海の山というのは、由利郡にはまだ設置されず、飽海郡内の山であったからそのように呼ばれたのであるが、後世長く呼ばれた鳥海の山名は、どうしてできたのであろうか。結論からすると、安倍氏の全盛時代安倍宗任(むねとう)の所領がこの方面にあったことによるものとするのである。なぜかといえば安倍宗任を鳥海弥三郎宗任※と称したことである。そのわけを調べると、宮城県亘理郡に鳥海の浦という所があって、ここが宗任の誕生地であるところから、その生地にちなんで鳥海弥三郎と称したと推定される。


無題.pngによる

第八代天皇である孝元天皇の第一皇子であり、日本書紀では「大彦命」、古事記では「大毘古命」と表記されている。日本列島の四つの地域に派遣された『四道将軍』の一人で、彼は北陸に派遣されたという。また、大彦はかの有名な陰陽師である安倍晴明を輩出している一族の「阿倍臣(後の安倍氏)」を始めとした諸氏族の祖とされている。無題.png

私達は通説派とは全く異なりますので、四道将軍は、高良玉垂命と神功皇后の指揮下で臣下の崇神=ハツクニシラススメラミコト(この男は天皇でもなんでもない)が、大彦(日本海航路)と共に崇神の息子が会津で出会ったから会津と言う…という日本書紀の記述と成っているのです。日本書紀は阿蘇氏の一派の末裔である藤原が創りでかした話なのです。

 ともあれ、日本海ルートで北上した結果、秋田、山形に鳥海地名が在る事は納得も行くのです。 その後も、九州王朝系の人々が何派にも亘り東北の開拓に入っている可能性が有るのです。それが岩手の菊池、菊地姓であり、これまた、帝国海軍の軽巡洋艦の阿武隈ですが、二等巡洋艦は通常、川の名から取られるのです。当然にも福島県宮城県に流れる北上川に次ぐ東北で二番の川である阿武隈川という地名にも現れているのです。正に安倍氏の住んで居た隈(雑餉隈など九州限定の地名が東北に飛んでいる事からも大彦は九州から移動した氏族の一員だった)なのです。そして、この阿武隈川の河口にも鳥海が在るのです。

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佐賀県武雄市山内町鳥海は別稿としますが、南の茨城県からサンプリングを始めることにします。


 茨城県 企業名、店名では確認できますが、市町村名、字名…は確認できません

❷ 福島県 福島県大沼郡三島町大登に「鳥海館跡」が確認できます。

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「日本書紀」の四道将軍による合流により会津と言う…に大彦の末裔としての宗任に関連する「鳥海」地名が確認できることから、会津へのルートは、安倍宗任に関連する「鳥海」地名の存在はやはり柏崎刈羽から上陸した安倍氏が魚沼郡を経由し沼沢湖畔の金山町から猪苗代湖の会津に入っている様に見えますね。因みに金山町と会津若松間の距離は60キロ程度です。

無題.png 秋田県由利本荘市に鳥海町が在りました。

由利本荘市は、秋田県の南西部にある市。20053月に本荘市、由利郡矢島町、岩城町、由利町、西目町、鳥海町、東由利町、大内町が合併し誕生した。

歴史・沿革……近世の藩領制において、秋田県の大部分が秋田(佐竹)藩であったのに対し、由利郡は、亀田藩、本荘藩、矢島藩、仁賀保氏領、幕府領に分かれ、鳥海町は、北に隣接する矢島町、東由利町とともに矢島藩に属していました。矢島町が武家、町人の居住地域であったのに対し、鳥海町、東由利町はそれを取り囲む農村部の位置づけになります。鳥海町は、昭和30年(1955年)に川内村、直根(ひたね)村、笹子(じねご)村の3村が合併して鳥海村となり、昭和55年(1980年)に町制を施行して現在に至っています。町役場、中学校のある川内地区、鳥海山麓の直根地区は矢島、本荘方面との結びつきが強く、一方の笹子地区は東に接する雄勝郡羽後町、湯沢市方面との交流が盛んです。

これについては、南の鳥海山起源で付された町名の様です。起源としては浅いようです。

❹ 岩手県一関市大東町鳥海 この南西には平泉がありますね

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❺ 青森県平川市沖館

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これも後発の名称と言うだけで、直接的に宗任とはかんけいは無いようです。

何れにせよ、これだけで何かが分かると言った事にはならないでしょう。


❻ 山形県鳥海山                   

どなたもご存じの鳥海山


鳥海山(ちょうかいさん、ちょうかいざん)は、山形県と秋田県に跨がる標高2,236mの活火山。山頂に雪が積もった姿が富士山にそっくりなため、出羽富士(でわふじ)とも呼ばれ親しまれている。秋田県では秋田富士(あきたふじ)、山形県では庄内富士(しょうないふじ)とも呼ばれている。古くからの名では鳥見山(とりみやま)という。鳥海国定公園に属する。日本百名山・日本百景の一つ。2007年(平成19年)に日本の地質百選に選定された。2009年(平成21年)に国史跡「鳥海山」として指定された。

無題.pngによる

何故、鳥見山と呼ぶかを探っていましたが分かりません。一応、「トリミヤマ」と呼ばれていたとは出て来ましたが、山頂の湖を鳥海湖と呼んでいるからではもちろんないでしょう。

 山頂の湖に大量の水鳥が棲みついているとも思えないため、やはり裾野の沼沢地(池)が語源だろうと考えてしまいます。

 ただ、東北一帯に分布する「鳥海地名」が、西日本の中でも孤立して佐賀県の一画に存在するのかも良く理解できません。

 以下の想像は余り分かって頂けないとは思うのですが、少し頭に過る事があるのです。

 ひねり出した様な話ではあるのですが、東北の安倍氏は大彦の末裔と言うのは通説でも理解できる話であって、日本海ルートを北上した四道将軍の一人が大彦とすると、


四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。

 無題.pngウィキペディア20260201 1724による


勿論、通説とは異なりますが、百嶋神社考古学の立場からは、北陸道は大彦(具体的には高良玉垂命の腹違いの兄で武内宿祢の実弟)百嶋由一郎金神系譜=安部氏、山陽道は吉備津彦命(孝霊天皇とハイイロネの間に生れた桃太郎)百嶋由一郎最終神代系譜、東海道は彦坐王=天足彦(名目的には開化天皇=久留米の高良玉垂命の子であり実態は草部吉見と自らが滅ぼした長髄彦の妹武内足尼の間に生れた子)、丹波国は丹波道主(伊勢の外宮様と草部吉見の間に生れた息長水依姫と彦坐王=天足彦の実子)詳しくは神代系譜参照の事。

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東海道を武渟川別命(タケヌナカワワケノミコト)が進軍したとするのですが、この人物はナガスネヒコの乱を鎮圧した実行部隊で妹を妃にしているのです。百嶋は名目的には開化の子としているとしていました。その意味は、保障として開化が世話をしたのではないかと考えています。

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重要な点は、藤原が第9代とした開化天皇とは呉の太白の血を引く福岡県久留米市の高良大社にいた高良玉垂命で大彦の本拠地も大分県大分市です。彦坐王も福岡県東部の彦山北麓辺り、丹波道主も博多の櫛田神社の交易拠点で京丹後市には日本海側最大の前方後円墳が存在しているのです。

このように、全て九州から進軍しているのであり、通説派は畿内から四方に送り込んだように説明しているのです。

 まあ、この通説派の話は為にするだけのものですからここまでとして、要は九州から進軍しているとすると、「鳥海」地名が佐賀県に在る事が意味を持つのです。

 それは、神功皇后の三韓征伐問題でも気付いていたのですが、それは、この佐賀県武雄市山内町から松浦川が流れ唐津湾に注いでいるのです。

 人口は有明海側に集中しており、玄界灘側には今でも農耕地(水田)が少なく、兵員、資財、糧秣の輸送を考えると、ここほど便利な場所は無いのです。

 松浦川には現在でもダム、取水堰、河口堰が存在せず、周辺の木材を伐採し筏さえ組めば、半日、休憩を入れても一昼夜あれば容易に輸送が可能なのです。

 この佐賀県の「鳥海」辺りは標高80m程度で、武雄市中心部から西5キロ程までは舟でも移動でき

そこから、80メートル物資を運べば、一気に玄界灘側の唐津に送りだすことが可能なので、日本海側を進軍したのが大彦=安倍氏とすると、この補給廠(基地)とも言うべき土地を知っていた可能性があるのです。

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美奈宜神社(みなぎじんじゃ)は、福岡県朝倉市林田にある神社。

祭神 今から1800年前、父君景行天皇の教えにそって、仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐されたが、不幸病にかかり崩御された。皇后はこのことを秘し、その根幹新羅を討つべく、出師の計画を立て、兵員を集め、兵船・軍器を整え、神々を祭って日本最初の外征に肥前名護屋から出征していった。皇后は航海中船中で素戔嗚尊・大己貴命・事代主命の3神に戦勝を祈願された。

無題.png海上つつがなく船は新羅の港に到着し、戦端は開かれた。戦いは連勝し3カ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗・百済も来貢し、肥前・高橋の津に凱旋された。そのあと戦争に勝利を祈られた3神を祭られた。その神が美奈宜神社の3神である。ウィキペディア(20180125 1012による

朝倉市にはミナギ神社と呼ばれるものが二つあります。

福岡県朝倉市林田210(旧蜷城村)の美奈宜神社

一つは、朝倉市荷原2421(旧三奈木村)の 美奈宜神社で、もう一つは、今回、取り上げる朝倉市林田210(旧蜷城村)の美奈宜神社です。

「…戦いは連勝し三ケ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗、百済も来貢し、肥前、高橋の津に凱旋された。…」と、書かれていたのです。


…神功皇后新羅御討征ノ折船中ニ於いて大己貴命、素サ鳴命、事代主命ノ三神ニ勝軍ノ始要ヲ折ラレ異賊ヲ討チ肥前国杵島郡高橋ノ津ニ帰還東上ノ途中、宮ヲ造リ三神ヲ祭リ給フ。…(同社御由緒)


083 朝倉市林田の美奈宜神社社伝に驚いた! 神功皇后は肥前の高橋津に上陸し武雄(柄崎)温泉で湯浴みした”


つまり、神功皇后はおろか開化天皇さえ(欠史8代)消し去ろうとする通説派(畿内説論者)は神功皇后の三韓征伐から有明海側への凱旋など絶対に否定したかったのです。

 その意味では、林田の美奈宜神社社伝は真実を伝えているのです。

 一方、朝倉市荷原2421(旧三奈木村)の 美奈宜神社は、日田の大原八幡宮の宮司家(大蔵氏=後漢霊帝の後裔阿智王の一族)が後に入っているため、由緒が全く異なるのです。

 これについては長く成るため別稿とします。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年07月24日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1139 古代ルーツを知る会で講演予定の安倍貞隆氏のご紹介

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1139 古代ルーツを知る会で講演予定の安倍貞隆氏のご紹介

        20260130

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


今般、松浦党研究連合会(これは佐賀県の唐津市、伊万里市、長崎県の松浦市、平戸市、佐世保市)が、県境を越えて創られた北部九州最大の郷土史会と言われたものですが、高齢化と共に、その上部の連合組織が2025年度で解散したことから、そのメンバーの方からのお誘いがあり、その中心的な組織だった伊万里の新たな研究会を作る動きに関与することになったものです。

私自身は古代史全般と言っても、どちらかと言うと、前半分と最近は神代史を中心に探っているものであり、松浦党研究会の事は以前から存じ上げてはいたのですが、中近世を対象とする松浦党研究は敬遠していました。ただ、自らが松浦党の末裔である事は分かっており流れて来た筏に乗る事にしたのでした。

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 私は中近世については門外漢であり、そんな見当違いの話をするのか…と言ったお叱りを頂く事は分かってはおりますが、私的には関心を持つエリアでもある事から僅かでも筏に乗ってみようと思うのです。

地名から見た松浦

 九州の北半分を考える時、対馬海流を海の中を流れる川と見れば、その川上にある地名が川下に移動している事に気付きます。呼子の瀬戸、七ツ釜という二つの地名が、長崎県西海市の旧大瀬戸町から佐賀県唐津市の旧呼子町に移動している事に気付きます。同じ様に、長崎県の平戸の瀬戸の南の鹿町町の鹿町が福岡県の志賀島、滋賀県の旧志賀町に、石川県の志賀町になっている事に気付くはずです。

 私は既に発会に際して最初の話をさせて頂いたのですが、今回、事実上の活動開始に際して、講演者を紹介して頂きたいと言うお話を頂き、最初に頭に浮かんだのが大分市の安倍貞隆さんでした。

 当会、提携団体である北九州市の丁巳歴史塾などでも何度かご講演頂いています。

ここで、安倍貞隆について私の方から勝手なプロフィールをご紹介させて頂きます。

私が初めてお会いしたのは十年以上前の20155月だったと思います。丁度、福岡県朝倉市の山

の中、彦山山系の南麓旧小石原村の崖下の様な旧佐田村の高木神社に近い神社調査をしていた時、安倍貞任の末裔が住んで居る十戸ほどの集落が在るとの話を聴き込んだのでした。

一般的に長子の安倍貞任の一族は前九年の役で滅亡するも、弟の宗任(鳥海三郎)の一族は、後に帰順し死罪を免れ、京都に送られ、更に宇佐に送られたとされています。

ところが、旧佐田村で入手した話は貞任の乳飲み子の末子が宗任の子として託され、九州に戻り、先の水害によって半数近く離村するも、佐田村に今も何家族かが遺り、貞任の血脈を継承しているのです。

死んだはずの貞任の末子の後裔の一族までもが朝倉市内に居られる事を知り、その現地確認作業を進めているのですが、そうした中七年ぶりに朝倉市佐田の高木神社を訪れることになりました。

予定では二週間後のつもりでしたが、今日が祭礼日と聞き、急遽訪問した訳です。

ただ、神事の形跡は見られるものの、既に直会(ナオライ)に入っているようで、ただ一人、静かな社殿を見せて頂くことになりました。

 この地は“安倍貞任の末子を、血を絶ゆさぬように“…と宗任に託され逃れた一族の定着した隠棲地と聞き及んでいます。

 それを伝えるかのように、今も一族の名の刻まれた石柱が静かに立っています。

 こちらの安倍一族は、木和田、地下両地区に十戸ほどおられ、アベでも「安陪」の字を使っておられます。

888 市杵島姫が秦の始皇帝の贏政の「贏」が瀛津嶋姫と書かれる“朝倉市佐田町高木神社の境内摂社”

20210511 以下…部分

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高木神社参拝殿(朝倉市佐田)

九州に配流され下向した(実は故地に戻って来たと考えていますが)安倍一族については、既に大分市の宗任後裔の直系のご子孫の方が四月に自家製本ながら600pの大著(「豊後安倍氏の伝承」)を出され、こちらも少ずつ調べている段階ですし、障りがあるといけませんのでこれくらいにしておきます。

九州の通説派の方々(といっても大した数はおられませんが)は、“宗任は配流されているが、貞任は自決したはずで、その一族の後裔などいるはずもない”と考えておられるようです。

しかし、現実にその一族の事を知り、その五輪塔などの存在をまでも知ると、大分大学の教授や学芸員など通説派の判断も底の浅いものでしかないとの思いを深めてしまいます。

朝倉市佐田の鳥屋山の奥深くひっそりと隠れ住んだ安陪の一族を思う時、この一族が、“何故、この地を選び移り住んだのか”に思いが馳せるのを抑える事ができません。

私達は、この安倍の一族が、久留米の高良大社にいた高良玉垂命(実は第9代開化天皇)の腹違いの兄弟=第8代孝元天皇の別れである大彦の流れであると考えています。

してみると、九州王朝論の立場からも、やはり故地に戻って来たのではないか…と考えてしまうのです。

カーナビ検索 福岡県朝倉市佐田2953


このあ陪の一族の事を知りたいと考え、その一族の方と朝倉市の恵蘇八幡宮の一室をお借りして話しをお聴きしました。当方もメンバー56人でお話しをお聴きしたところ、貞隆さんの御著書の発刊を知り、ご本人とお逢いしたのはそれからひと月程の時でしたか、始めてご大分市七瀬のご自宅を訪問したのでした。

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ここで簡単に略歴をご紹介させて頂きます。


昭和35年に大分県野津原町に生れる。安倍實唐任34代の後胤。

神奈川大学建築科卒(連絡先:097588-0076)現在、不動産会社経営。

 その後もご自宅には何度かお伺いさせて頂いていますが、貞隆さんは書道の心得をお持ちの様で、ご自宅に残されている毛筆で書かれた大量の古文書を読み解き安倍一族直系の家に残された真実の伝承を読み解いておられるのです。

 私は、小学校の一年生の折、厳しい父親から連れていかれ、書道の塾に入門させようとされたのですが、落ち着きが無いとして断られた記憶があり、それだけでも尊敬するのです。

 因みにその父親も書について最後は師範に成っていますが、今となっては遅いと反省しています。

 ここで、伊万里の方々にも分かりやすい話をしたいと思います。これは初めて貞隆さんにお会いした時にも出た話ですが、私も関心を持っていたテーマですのでご紹介したいと思います。

弟の宗任(鳥海三郎)と前述しました

安倍 宗任 (あべ の むねとう)は、平安時代中期から後期の武将。陸奥国の俘囚の長とされる豪族、安倍氏の安倍頼時の子[2](三男)。鳥海柵の主で、安倍鳥海三郎宗任とも呼ばれる。安倍氏の本拠地である鳥海柵の主であり、嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあったと推察する説もある。             「安倍宗任」で検索したウィキペディア20260131 11:53 による

俘囚の長なるふざけた表現は、民俗学者の谷川健一(直接聴いてます)も含めよく耳にしますが、

 伊万里から武雄の中心に移動されるとして山内町を通ると、JR佐世保線の永尾駅の正面に鳥海(トノミ)という地区が在る事をご存じの方は居られると思います。

 東から鳥海川が流れ込み、舟原地区から流れ込む西からの河川と合流し昔から沼沢地が存在していただろうことは一目で、大雨が降れば海に成る事を昔は良く見ていました。

 恐らく、古代には多くの水鳥の棲みついた沼だった事でしょう。この鳥海川は数キロ降ると、西の青螺山を源流とする松浦川と武雄市武内町辺りで合流し唐津湾に注いでいるのです。

 安倍宗任もそのような沼沢地に近い河川合流地を拠点にしていたと思うのです。

 この「鳥海」という地名や屋号など全国にも散見されますが、一番有名なのが帝国海軍の重巡「鳥海」の元となった鳥海山の秋田、山形ですが、かつては実際に秋田県にも鳥海町もあったのです。

 私がこれも同じだと思っているものに、チューリップで有名な富山県の砺波平野(現砺波市)で

す。「ナ」と「ノ」は全く違うと反論がきそうですが、ナも所有の格助詞で、「そこおなご帯を解け

…」とは悪代官などがしばらく前まで使っていた普通の言葉なのです。

 古くは、「マコ」、「タゴコロ」、「川タゴ」(昔は田んぼの用水路にたくさんいたものです)…と普通に使われていた言葉なのです。まあ、本題から逸れ過ぎましたのでここで止めておきます。


では安倍一族とは何なのか…(俗称「金神神代系譜」部分から

百嶋神社考古学の一部を根幹とする当グループとしては、以前から大彦の流れで久留米の高良大社の高良玉垂命の腹違いの兄の一族であるとしています。

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第八代天皇である孝元天皇の第一皇子であり、日本書紀では「大彦命」、古事記では「大毘古命」と表記されている。日本列島の四つの地域に派遣された『四道将軍』の一人で、彼は北陸に派遣されたという。また、大彦はかの有名な陰陽師である安倍晴明を輩出している一族の「阿倍臣(後の安倍氏)」を始めとした諸氏族の祖とされている。無題.png

私達は通説派とは全く異なりますので、四道将軍は、高良玉垂命と神功皇后の指揮下で臣下の崇神=ハツクニシラススメラミコト(この男は天皇でもなんでもない)が、大彦(日本海航路)と共に崇神の息子が会津で出会ったから会津と言う…という日本書紀の記述と成っているのです。日本書紀は阿蘇氏の一派の末裔である藤原が創りでかした話なのです。

 無題.pngともあれ、日本海ルートで北上した結果、秋田、山形に鳥海地名が在る事は納得も行くのです。 その後も、九州王朝系の人々が何派にも亘り東北の開拓に入っている可能性が有るのです。それが岩手の菊池、菊地姓であり、これまた、帝国海軍の軽巡洋艦の阿武隈ですが、二等巡洋艦は通常、川の名から取られるのです。当然にも福島県宮城県に流れる北上川に次ぐ東北で二番の川である阿武隈川という地名にも現れているのです。正に安倍氏の住んで居た隈(雑餉隈など九州限定の地名が東北に飛んでいる事からも大彦は九州から移動した氏族の一員だった)なのです。そして、この阿武隈川の河口にも鳥海が在るのです。右矢印1

 今回の伊万里でのお話しに関して私個人が最もお聴きしたい疑問を以下に提案しておきます 

「倭国の統治者となった安倍氏」に関して安倍貞隆氏からの手紙    2019-03-20 08:57:16

テーマ:ブログ

「倭国の統治者となった安倍氏」に関する安倍貞隆氏からの手紙

過日、このブログ連載した「倭国の統治者となった安倍氏」に関して安倍貞隆氏から以下のようなお手紙をいただきました。ご本人の了解のうえ、ご紹介させていただきます。

安部貞隆氏は安倍宗任の子、安倍責任34代の後裔で、1970年大分県大分市に生まれています。彼は20154月に560ページの大著『豊後安倍氏の伝承』、20187月に『陸奥安倍氏累代の古文書が語る 逆説前九年合戦史』を自主出版しています。当方が「倭国の統治者となった安倍氏」で安倍貞隆さんの本を紹介した内容についてのコメントです。

安部貞隆氏から久慈力宛の手紙

この度は貴ブログにて拙著をご紹介いただき有難うございます。早速お送りくださった草稿を拝見いたしました。日之本文書と拙著を絡ませての展開は流石と感心いたしました。

ところで、訂正すべき点があればとのことですが、一点だけp4の「宗任は、この清貞のために……買い受け、」とありますところ、拙著では「貰い受け」と記しております。

他に申し上げておきたい点として、p23の「(逆説前九年合戦史)における宗任の消息」に「陸奥話記」をみても「帰降客宗任」とあるとおり、……の「帰降客」という表現は日本文化研究家の佐藤弘弥氏の「陸奥話記原文」(仙台叢書第1巻奥州軍記所収本と明和7年伊勢貞丈書写本)から取材したもので、笠栄治著「陸奥話記校本とその研究」所収の群書類従所収本、寛文二年刊奥州軍志所収本、神宮文庫蔵本、蓬左文庫所蔵本、松本文庫所所蔵本、尊経閣所蔵「将門記」合綴本のはずれもが「帰降者」と記されていることと齟齬を生じています。また、梶原正昭校注「陸奥話記」は(伊勢貞丈書写本)を底本としていますが、この底本にも「帰降者」と記されています。

それを理解したうえで、敢えて「帰降客」の表現を採用した理由は、佐藤氏が意図的に帰降者を帰降客と書き換える理由も必要もないことから、佐藤氏の取材原本に「帰降客」という表記があったものと解釈したからです。

現在のところ、陸奥話記の原本は失われており、写本のみが伝わっているわけですが、その写本でさえ実際に手に取り見ることは出来ません。

ただ、この一文を取って著作の論説を否定しようとする読者(識者)もいることと思います。

私が宗任の動向として重きを置いているのは、「帰降客宗任」よりも、太政官符の「應安置便所」の一文と、百練抄の「治暦三年、宗任移遣大宰府」の一文です。

この史料こそ、朝廷が安倍宗任の立場を如何に捉えていたかを如実に物語っています。

今一つは、則任の動向です。当家史料「安倍軍記」には則任は、宗任と共に筑紫に下り肥前、肥後に子孫を残し繁栄するとあり、先の太政官符にも「沙弥良増(則任の出家名)従類一人」と記されています。

「東日流外三郡誌 第一巻 安倍系譜大抄の安倍則任―安倍八郎氏季 十三浦入潤城主」の八郎氏季なる人物が実在したとするならば、宗任と共に奥州に帰った「則任の息子」ではないでしょうか? つまり「沙弥良増従類一人」の一人が息子の事と思われます。

ご存知の通り、後三年の合戦は源義家の私的な合戦として、義家には何の恩賞も与えられせんでした。当家「安倍軍記」にあるとおり、義家に請われて後三年合戦に参陣した安倍一族にも恩賞は下されなかったと思います。

安倍貞任の忘れ形見、松若丸(後の厨川三郎安倍貞政)も宗任と共に奥州に帰り、後三年の合戦の後、義家の子である義国に仕え福井で亡くなったと記されています。

氏季が福島城を築いた康和四年(1102)は後三年合戦終結の年寛治元年(1087)から15年が経過しており、宗任と共に奥州に帰った氏季が一城の主として立派に成長する十分な年月と思われます。

安倍宗任が生き残った安倍一族と共に、伊予から大宰府に移遣されたことは疑いようもありません。

しかし、その後に宗任が本当に九州の地で一生を終えたとしたならば、平泉に奥州藤原氏の栄華が現出していたでしょうか?藤原清衡の奥州支配の道筋は、宗任を中心とする安倍一族の支援が無ければ果たせなかったと考えられます。

岩手県をはじめ、秋田、青森、山形、宮城各県に暮らす多くの奥州安倍氏の末裔たちの伝承は、宗任の奥州帰還説に裏打ちされているように思えてなりません。

私が、拙著「逆説前九年合戦史」において、宗任の大島終焉説が虚偽である事を詳しく説明した理由はそこに在ります。最後になりましたが、久慈様の今後ますますのご活躍をご祈念申し上げます。

平成31213日 安部貞隆拝



posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記