2025年07月03日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1072 横浜市都筑区を探る ❶ “杉山神社とは何か”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1072 横浜市都筑区を探る ❶ “杉山神社とは何か”

20241213


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


横浜市に都筑区があります。一方、大分県日田市にも大山町東大山「都築」と言う大字が在ります。

 まあ、神奈川県に川崎市があり、一方、筑豊の福岡県の田川郡に川崎町があるのです。

 これくらいの同一地名はどこにでもあると言われそうですが、地名とは人が持って行くものであり、それは、ニュー・ヨークやニュー・ハンプシャー、ニュー・オーリンズ…でもご理解頂けるでしょう。

 横浜は「都筑」、日田の場合は「都築」と表記に違いがあるものの、共に「ツヅキ」と呼びます。

無題.png

無題.png「好字令」以来、二字表記の「木」「城」…は通常、半島から入ってきた人々が持ち込んだ砦集落を意味するものと考えていますが、茨木、茨城、茂木、茂手木、…多すぎるのでここで止めます(肥後の南半分はこれが以上に多いのです…)。茂木も茂手木も空堀の逆茂木なのです。

吉野ヶ里集落の入り口の門を入ったこの道の左右からは斜めの穴が多数発見されました。ここには、敵の侵入を防ぐための逆茂木と乱杭があったと考えられています。逆茂木とは、枝の張った樹木を外側に向けて斜めに立てて並べたものです。先を尖らした杭を並べる乱杭と共に、中世には臨時の防御用施設として戦場などで盛んにつくられました。
弥生時代の遺跡では、愛知県の朝日遺跡からも発見されています。弥生時代に戦いがあり、集落全体が守りをかためていたことを示すものの一つです。            よしのがりケータイガイドより


神奈川県には武蔵大国魂神社を始め、伊勢山皇大神宮、子神社、六所神社、大国主社…と大国主を前面に出さないものも含め、主神として大国主命を祀る神社は多いのです。

ここで、大国主命という存在をどう考えるかという問題に衝突します。

我々百嶋神社考古学の立場から言えば、所謂「出雲神話」は基本的には「古事記」だけのものと言う認識なのですが、その前に30年も前になりますが、NHKも含めて古代出雲大国の証拠などと大騒ぎした三本束の50メートル弱とまで言われた芯柱(心御柱しんのみはしら)の発掘について、理化学調査の結果鎌倉期の物であることが分かるも言いっぱなし状態になっているのです。無題.pngこの話は置くとして、そもそも大国主命とは、大山祇から博多の櫛田神社の主神大幡主に送り込まれた入婿(お妃は宗像の市杵島姫、豊玉姫=ウムガイ姫、キサガイ姫)で、出雲の人ではないのです。

その証拠に、宮崎県西都市の西都原第2古墳群には伝大山祇古墳があり、近くには大山祇とコノハナノサクヤを祀る石貫神社、ニニギの妃となったコノハナノサクヤを祀る妻神社(日向二之宮)があり、日向市の南の都農町には大国主命を主神とする都農神社(日向一之宮)が在るのです。

 大国主命は出雲の人ではなく、筑紫の朝倉郡を天照、タカミムスビ、草部吉見という三悪人に奪われた結果、出雲に追放されたのでした。その結果、大山祇は愛媛の大三島に、カミムスビとその息子の八咫烏は忌部の讃岐、阿波、讃岐、熊野に追放されるのです。

 まず、この事を理解しなければ、列島の神代から古代は藤原が捏造した漫画に陥ってしまうのです。

 簡単に言えば、近畿大和朝廷に先行する古代国家出雲と言う大嘘=蟻地獄に陥る事になるのです。そこまで行きついて初めて、関東の武蔵大国魂神社の意味が理解できるのです。

無題.png さて、大国主命が本質的に大山祇系の熊襲(百嶋神社考古学ではトルコ系匈奴=王昭君系南匈奴)=物部氏=武士であり藤原氏打倒を心に誓い筑豊から避退した武装集団であった事が漸く見えてくるのです。 

 もう一つの問題は、石清水八幡宮、伊勢神宮を本拠地としたヤタガラスの存在があるのです。

 そもそも、八咫烏=豊玉彦=豊国主の父神=カミムスビは博多を追われ熊野へ、本人も阿波へと、本拠地を奪われ、主要貴族であった橘一族としての立場からも奈良麻呂の変以降は中央の貴族としての地位を失い、地方の中級貴族として生き延びるしかなかったのでした。

 いつしか石清水八幡宮を拠点に、橘氏の一族も武装し鶴岡八幡宮を基盤として武家とも提携し同政権に仕えることに成っていったのでした。

 つまり、時代は異なるものの、大国主系というよりも、実質、大山祇系と石清水八幡宮として藤原に対抗した橘一族=八咫烏の連合が関東武士団(武蔵七党)児玉党の小代氏だったのではないかと考えるのです。

 無題.pngそこで、この大山祇+八咫烏連合が、どこで成立していたかを考えると、古くは、九州王朝の南九州経営=古代日向(鹿児島+宮崎)でも宮崎は大山祇の本拠地=西都原であり、民俗学で言われる、鹿児島の経営に連合した田の神(博多櫛田神社のカミムスビ神=大幡主)と山の神(大山祇)の儀神体=タノカンサーであり、火山灰土壌のため雨が直ぐに土壌に吸い込まれる南九州に於いても人口保持力の高い水田稲作を拡大するために手を組んだ、北のカミムスビと南の大山祇つまり、海の神と山の神の連合体によって、関東の開発が行われたのです。それこそが、カミムスビの子であった八咫烏と、関東に逃げた遠賀川流域から日本海を北上し、福井〜新潟辺りから上陸し関東に入った物部氏が武士(モノノフ)となった雑多な武士団と伊勢平氏=八咫烏によって成立した関東武士団=武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西野、児玉、丹治)、だったのではないかと考えるのです。そして、その中でも児玉党の分流(伊周の従臣)としての小代氏もあったのです。

 そこで、まず、武蔵国が如何なるものであったのかを考えることから始めたいのですが、何分、遠方からの探査だけに、杉山神社、氷川神社、武蔵大国魂神社の性格も明らかにする必要があるのです。

 ただ、古代出雲の神様と信じ切っている人々が圧倒的な中で大国主命に象徴される中で、杉山神社、氷川神社の素性を探りながら、この難解な関東平野の南西域を何とか把握し、鎌倉政権成立全までの武蔵を描きたいと考え、妙な地名を取り上げたのです。そして、小代氏が描ければそれは副産物となるのです。

無題.png

ウィキペディア(武蔵七党)20241217 09:11による


まず取り上げたいと思ったのは杉山神社です。それは冒頭にあげた横浜市都筑の周りにも杉山神社が多数あることから、ここに入った勢力が反映されていると考えたからでした。

 無題.png多摩川下流と鶴見川下に挟まれた流域が都筑区ですが、一目、杉山神社が6社もあることから、また古い神様であることから、まずはここらから考えてみましょう。

 少しは都筑の意味が分かるかも知れません。

 この神社は武蔵を中心に450社はあると思っていましたが、実際には70社は在るとの事で、開拓者が持ち込んだ神である可能性が考えられるのです。

 この事は5年ほど前に依頼と言うか相談めいた話が持ち込まれたことから、当時、二階から目薬宜しく簡単にお答えしていたのですが、最近、甲信越に合わせ北関東での調査が進み漸く見当が着いてきたのです。

 そこで、現場を理解するためにまずは最適な資料を手に入れました。これを軸にお話を進めますが、今回は、紙数の制限からここまでとして、五年前にお答えした内容の延長上の推定をお話ししたいと思います。当然、次のブログに回しますが、本ブログでは一応その全貌をご紹介します。この杉山神社の祭神は、日本武尊だか五十猛だかにされてはいるのですが、それは恐らく本質ではなく、政治的な配慮が在って変えられている、若しくは、自らの一族を守る必要があってそうしているようにしか見えないのです。

 阿波の忌部とくれば、八咫烏が頭に浮かぶ中で杉山神社を考えると、結論は一つしか有り得ないのです。

 藤原氏の祖である草部吉見の娘で伯父である阿蘇の健磐龍の妃となった阿蘇津姫=天豊ツ姫がその後、阿蘇ツ姫→天比理刀刀ィ寒川姫→杉山姫と夫を換え続け、その度に名を改め、最後に困り果てた草部吉見=ヒコヤイミミ=鹿島大神が八咫烏に頼み込んで受け入れてもらったその派生氏族が奉斎していたのが杉山姫だったのです。その一族とは天日鷲翔矢命1831⇒天富命1800古代大家郷、(現)大分県の中津市、大江八幡宮の祭神との百嶋メモが残っています。天日鷲=鳥子大神で、ふくろう神社の祭神です。

無題.png
無題.png
無題.png
無題.png
無題.png
無題.png
無題.png

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2025年07月01日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1071 小代氏の正体を探る “新ひぼろぎ逍遥1079〜 但馬編 多他神社”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1071 小代氏の正体を探る “新ひぼろぎ逍遥1079〜 但馬編 多他神社”

20241213 

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


無題.png 兵庫県でも日本海側の旧但馬国の片隅に香美町小代区があります。その小代区の「小代おじろふるさとガイド」を見ていると、多他神社という聞きなれぬ神社を発見し小代区埜謎が解けるのではないかと考えた試験稿を書くことになりました。誤りがあっても関東武士団児玉七党の小代氏を探るためには多少の冒険は厭う必要はないはずです。

無題.png

社名としても多他神社とは奇妙な名です。似たものでは奈良県に多神社が在ることは承知していますが、これは阿蘇氏=多氏を祀る神社であり、雲南省麗江古城=支那城(支配者の多大将軍を祀ったものでしょうが…)中国の最後の拠点とした(本当の最後の拠点は密支那=インパール作戦の旧ビルマのミッチーナ=ミツシナ)ですが。

但馬の小代区の他多神社が後に藤原氏となる阿蘇系神社などではあるはずはないのです。

無題.png

後に藤原となった阿蘇氏が大陸に於ける最後の拠点としたのが雲南省麗江と国外越境根拠地である密支那だったのです。彼らは白族と組んで漢族と最後まで闘い続けたのですが、遂に力尽き、メコン川(中国名瀾滄江)を下り、サイゴン(現ホーチミン)から海南島南西部に、後に対立することになる加茂族=伊勢氏=下賀茂神社=熊野系、九州で言えば博多の櫛田神社、産巣日皇産霊、神魂(カミムスビ)系=白族が八咫烏系〜橘一族=石清水八幡宮、元石清水八幡系は主として昆明から紅(ファン)河を下りハノイそして海南島に落ち延び、熊本、博多に亡命しているのです。

 この但馬も、本来は宗像大社の辺宮の大字田島の別字であり、白族の土地を意味していたのです。

 では、この栄えある列島の良い国を造ってくれた両派民族の中国に於ける痕跡をお見せしましょう。

一つは、志那などと媚びた表現を止め、正しく支那と言うべきですが、スターリニスト中国共産党も無様に滅亡必至となりそろそろ、「支那の夜」を歌うべき時期が来ているのです。

一つは現海南省の保亭黎族苗族自治県でしたか、地名としての「加茂」後の「賀茂」が存在するのです。

 次に、阿蘇の草部吉見(実質的な藤原)の御先祖様になる多大将軍をご紹介します。

最後に、石原〇太郎が支那人として侮蔑の意味で使ったとされている「支那」人とは私達であることをご理解して頂きたい事から、実際に「支那」という地名が存在していた事をご紹介します。

我々は、哀愁と親愛の情を込めて「シナ」と呼んでいた事がお分かり頂けるはずです。

 実際、中国の英語、独語、スペイン、ポルトガル、イタリア語表記はChinaであり、仏語
Chine」、隣接するロシア語で漸くКитайキタイ遼」となるのです。西遼は
カラキタイでしたね。契丹はその別名と言えば良いのでしょうか、
いずれもキタイが建国した国家の名称。契丹は民族名としても用いられるが、中国で用い
られた国号でもあった。
契丹は中国風の国号としては
(正確には大遼)と称したが、
それは後晋を滅ぼして都の開封(黄河中流域)を占領した翌年の947年が最初である。
一時ではあるが中国本土の華北を支配したので、中国風の王朝名が必要になってからの
ことであり、その後中国全土の支配を放棄して北方に戻ってからの983年に再び契丹に
戻し、さらに1066年にはまた遼(大遼)に復している。しかし煩雑さを避けて、
916年から1125年に存在した契丹の国家を遼として説明することも多い。なお、
キタイという民族名は、現在の英語の中国を意味する Cathay の語源となっている。
無題.png
様による。
 まあ、ロシアはともかくとして、海から遭遇した中国をチャイナ、若しくは、シーナと呼んだ海外の航海民民、海洋民族は等しくチャイナ、シーナ、チーナ…と呼んでいたからこそ、オリンピックでもそのように扱っている訳で、2000年前までは、実際に支那人の国(恐らく春秋戦国期までの呉の国は支那を受け入れていたはずなのです)、対して、憎しみを込めて我々は支那人ではないと声高に叫んでいるのは、後には漢族さえも皆殺しにして大陸を支配した今の中国人共こそが、蛮族の末裔である後の鮮卑族、蒙古族、金族の末裔だからなのです。そして、彼らが崇める英米西欧列国には平伏し、目下の配下と考える列島人に対してだけは「支那人」と呼ぶなと言うなと叫ぶのです。それももう終わりでどうでも良いのですが。
無題.png

中国共産党は隶属と表記し始めたのか、余程、日本が憎いのでしょう。それに石破が平伏するのです。

無題.png

無題.pngこれは、20年前の西日本新聞と思いますが、確かめてはいません。

 百嶋由一郎氏は西日本新聞を取っておられたからそう考えていますが、まだ、データベース検索を行っていません。

雲南省麗江の麗江古城が「支那」城と呼ばれていたことは確実ですが、薄汚い鮮卑系の現中国人共が隠すはずですが、しかし、山科はともかくも、列島の辺境を中心に、立科、蓼科、宇品、阿品、温品があり、そもそも信濃の元の表記を調べれば、「古事記」では科野国造」としており、穂科、倉科と通底しているのです。

まずは、右の記事をお読み頂きたいと思うばかりです。

 いずれにせよ、九黎族の一派であった多一族と、白族が日本人の多数派を形成し、日本という古代に成立した多民族国家を支えた主要民族となり、大山祇系(トルコ系匈奴の南匈奴王昭君派)にイスラエル系の金山彦、その後に入った始皇帝の末裔の一族秦氏、呉、越の民、漢帝国の滅亡によって入ってきた後漢の霊帝の後裔氏族…、それに百済、新羅、高句麗…を加え、元々の南方系ポリネシアン、インドネシア系…の多民族国家として生き延びてきたのでした。

 それを中枢で支えたのが阿蘇系と白族=カミムスビ系〜八咫烏の一族だったのです。

無題.png

脱線が過ぎましたので、慌てて多他神社に話を戻します。

無題.png

多他神社 カーナビ検索兵庫県美方郡香美町小代区忠宮136


主祭神  素盞鳴尊(スサノオノミコト)

配祀神  大田多根子命(オホタタネコノミコト) 埴安姫命(ハニヤスヒメノミコト)

 様

貞観元年(859)9月の創立。延喜式の制小社に列せらる。とありますので、相当に古いですね。

拝殿の左右に境内社の「愛宕神社」「稲荷神社」が祀ってありますので、阿蘇系、藤原系の対局となる神社である事は間違いなさそうです。

はじめは、信濃の他田氏が神八井耳命祖とする多氏とあり疑ったのですが、愛宕=金山彦、稲荷=伊勢の下宮の豊受大神とダメ押しされれば、他田氏とは全く異なる神社で太田田根子の多他であることは疑いようがありません。まだ参拝していないのですが、オジロンには年に二回は行きますので、参拝させて頂く事に致します。


他田氏(おさだし)とは、日本氏族のひとつで、神武天皇の皇子神八井耳命を祖とする多氏に属する古代氏族とされる。


正しく”ただ”ですが、”神武天皇の皇子神八井耳命を祖とする多氏に属する”藤原が本物の神武(カム

ヤマトイワレヒコ)の血筋との宣伝工作であって、神武の本物のお妃であった吾平津姫を妃とした草部

吉見=ヒコヤイミミの父 金凝彦=ヒコヤイミミが神武の血を継いだと主張しているだけなのです。


さて、祭神を兵庫県神社庁のデータでも、再度、確認しましょう。

無題.png

無題.png貞観元年(859)9月の創立と伝え、延喜式の制小社に列せらる。近世三宝荒神とも多他大明神とも忠宮とも称し小代庄一の宮と仰ぎたり。寛文3(1663)本殿を建立し元文3(1738)同殿を造立す。文化12(1815)同殿を修覆し万延元年(1860)之を再興せり。明治2(1869)神仏分離の際、山名藩政務局調査の上、神霊を白川神祇伯より勧請し同3(1870)正月之を鎮斎して社名を多他神社と改めたり。6(1873)10月村社に列し大正6(1917)幣殿拝殿を新築せり。


ただ、気づき難いのですが祭神について、両データに異なる所があります。お分かりになりますか?

香美町のパワースポット様は、埴安(ハニヤスヒメノミコト)としているのに対して、県神社庁様は埴安命とされているのです。どちらかが誤りと思いますが、もう一つ確認して見ました。


多他神社

無題.png

ウィキペディア20241213 15:00による


 祭神の配置から考え、埴安姫が正しいと思いましたが、神社庁の事ですので、問い合わせて確認しました。

 まず埴安姫が如何なる神なのかがお分かりにならない方が多いかと思いますので、余計な世話をしますが、埴輪の”はに”は無論、土、泥…であり、特に小代区も製鉄の地であり、鋳型を意味しており、埴安姫とは鋳型を造る人、一般にはと言うか、古代にもと言うべきか、女性=姫、媛で良いのです。対して、埴安彦とは、その土を捏ね粒を均質化させ、石や鉱物その他の不純物を除き、焼成時に割れが生じないようにする仕事が必要になります。そのため、泥を均質化させる足踏みなどの重労働をすることに成ります。 

それが、須佐能と櫛稲田姫とが出会う時に遭遇する足名椎、手名椎であり、金山彦と埴安姫なのです。

足名椎は唐臼(水車の原型)を使わない時代は、足で踏んでいたのですね。金山彦はイスラエル系であり、秦の始皇帝ともお互いに同族と分かった事から、交互に姻戚関係を結んでいます。この金山彦の一族は、鉄、その他の金属資源や燃料としての木材、木炭を求めて、後には関東に入りますが、列島でも火山国の熊本や大分の国東や姫島に入っているのです。笑い話ですが、決して鉄の取れない奈良県などに入ったのではないのです。

ただ、金山彦はイスラエル系ですが、埴安姫は彼らを列島へと運んだ産巣日、神皇産霊、神魂(カミムスビ)神の一族で、具体的には博多の櫛田神社の主神である大幡主で、その妹が埴安姫で言わば、民族が異なる国際結婚になるのです。ただ神代には国境自体が存在しないのですから意味はないのです。

 神社庁の回答が直ぐ来るとも思えなかったため、更に検索すると、敬愛する「玄松子の記憶」様も同社を訪れておられたようです。以下、ご紹介します。

無題.png
無題.png

玄松子様も埴安姫ですので、多分、神社庁のHPの誤りですね。受託の制作業者のミスでも見逃しです。

では、ここから祭神を考えましょう。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 主祭神の須佐能はでお妃の櫛稲田姫はで、その父神の金山彦はで、母神の埴安姫はで、表示しています。ただ、埴安姫は大山祇のお妃にもなられていますので注意が必要です。多他神社の近辺に、愛宕神社(金山彦)や稲荷神社(罔象女神と須佐能の子である辛国息長大姫大目命)が在ることも、罔象女神=神大市姫が須佐能のお妃のお一人であることで納得されるでしょう。神代は、金山彦系、大山祇系、大幡主系が相互に政略結婚としての姻戚関係を深く結んでいるのです。

 祭神の埴安姫の兄が大幡主(神産巣日、神皇産霊、神魂)で、その子が八咫烏=豊玉彦、豊国主で後の橘一族に繋がり伊勢神宮にも通底するのです。

 そこまで考えれば、小代が但馬牛の発祥の地であり伊勢の松阪牛と直結し、石清水八幡宮領と伊勢神宮とも濃厚な関係性を維持していたことまでがお分かり頂けると思うのです。

 伊勢の松阪牛が神戸牛でそれが但馬牛であり、そのまた発祥の地が香美町でも小代区であるとかやたら大変ですが、天皇家、伊勢神宮との直結する見えざる糸こそ神代〜古代そして現代まで通底している事に驚愕と畏怖を感じざるを得ないのです。

 写真は但馬牛で検索したのですが、図らずも小代のスキー場リフトが見えるようです。

 問題は、大田田根子(意富多多泥古命)解明が追い付いておらず、現段階では紙面も尽きており、今後の課題とします。

 大物主が何者であるかは、主と言う尊称からある程度絞れますが、まあ神武僭称贈る崇神ではないことぐらいは直ぐに分かります。かといって直ぐに大国主命に飛び付く事も難しく、死ぬまでに分かればと保留しています。 ただ、須佐能、大国主、大田田根子と直結しているとも考えたくないのです。

百嶋由一郎が残した講演録音声CDMP3)、90枚の神代系譜スキャニングDVD、手書き資料スキャニングDVDを必要とされる方は090−6298−3254までご連絡下さい

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1071 続々 賀来(加来)一族とは何か “賀来神社から賀来一族を考える”

20241015


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 無題.png呉さんに引き続き加来さんがお出でになることになりました。「賀来」姓と言えば美人女優の賀来千香子 さんが良く知られています。さっそうとおいでになったのも、白のアウディを乗りこなす女性でした。呉さんについては、しばらく前に書いた 新ひぼろぎ逍遥から

1020

熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か?


1062

呉さんが当研究会の研修所においでになりました

を、お読み頂きたいと思います。


賀来神社から賀来一族を考える

無題.png

賀来神社 カーナビ検索 大分県大分市大字賀来58


概要

承和3年(836年、出典により852年とも)、豊後国一宮の柞原八幡宮の摂社「善王宮」として創建[2][3]。これを賀来荘の大分川沿いに遷座し、貞観11年(869年)「賀来神社」と称したのが起源とされる[4]91 - 7日に例祭が開かれ、大分県内で一番早い秋祭りとして「賀来の市」と称される[5]。殊に、卯の年・酉の年の例祭は、柞原八幡宮からの主神が大名行列をなして賀来神社に参られる行列神事「賀来の大名行列」が行われる[1]。なお、大名行列の年の例祭は11日間となる。

祭神

賀来神社の入口。左は大分川、奥は大分市立賀来小中学校

武内宿禰命(例祭時のみ。平時は柞原八幡宮に鎮座。)建磐龍命

賀来の市

「賀来の市」は毎年91 - 7日(大名行列の年は11日まで)に行われる例祭である。

大名行列の起源は武内宿彌命が柞原八幡宮の八幡神の側近にあたることから、平時は、柞原八幡宮の警護にあたり、この期間のみ、柞原八幡宮から自社へ還幸する行列へと変化したものといわれている[2]平安時代に始まったとされ[2]、明治時代に府内藩主大給松平家から大名道具を賀来神社に寄進した記録がある[5]

ウィキペディア 20241015 21:40 による

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2025年06月21日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ250 新ひぼろぎ逍遥1107大山祇は月読命なのかを考える ❶“天津司舞の天津司神社の再掲載”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ250

新ひぼろぎ逍遥1107大山祇は月読命なのかを考える ❶“天津司舞の天津司神社の再掲載

20250413 

太宰府地名研究会 古川 清久


以下は、通説派の御用学者にとって都合が悪い話だったと見え、ネット上で公開〜流布されることを嫌がったと思われます。恐らくプロバイダーにダミー(恐らく文科省の天下り関連団体)を使い除去するか、検索で上位に上がらないように本質を隠そうとしたようです。このため、再度、掲載しますのでご理解ください。


国により1970(昭和45年)68日に記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択された[3]。さらに、1976(昭和51年)54日には、文化財保護法の改正によって前年1975(昭和50年)に制定された重要無形民俗文化財1回指定(初回指定)を受けた。文化庁による指定種別は、民俗芸能・渡来芸・舞台芸である。                「天津司舞」で検索した「ウィキペディア」20250413 08:34


ひぼろぎ逍遥(跡宮)再掲載

565 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た” 20180501


神社に関心を持ち相当に詳しい方でも、同地の方は別としてこの神社を知る方はほとんどおられないのではないかと思います。

村の鎮守様といった神社と言うよりも、もっと小規模な同族集団の非常に小さな神社ですが、恐らく山梨県でも最も古く最も重要な神社がこの天津司神社ではないかと考えています。

勿論、初見の神社であり、最も大切な祭礼も見ず、関係者へのヒアリングさえも行ってもいないのにどうしてそんなことが言えるのかと言われるかも知れませんが、まずはネット上から祭礼の異様さを知って頂こうと思います。


無題.png
無題.png

古来よりの申伝へには此の地未だ開けず、草沼にありしころ、天津神十二神天降りまして、舞楽を為し給ふ。其の後に、二神は天上に昇り、一神は西油川村の古井戸に没し給ふ(此の井戸、祭日には神形影るを以て鏡の井と云ふ)。其の後も九神猶舞楽を為す。此地漸く開け人里となりて。その舞楽を見た人後、其の神形を模写して、神像九像九体を造り、神紋を九曜の星とし、毎年七月十九日(現在は四月十日に近い日曜日)神官等小瀬村古来の十七戸のもとに、諏訪神社に九神像御幸して、社前の御船囲にて、神舞楽(天津司の舞)祭祀を修行す。天津司の舞は大永二年以前から伝承されて今日に至る。因に、大永二年八月、武田民部少輔信乗、社殿修造の棟札、今に存す。

天津司の舞   

昭和三十五年 山梨県の無形文化財 指定   昭和五十一年 国の重要無形民俗文化財 指定

                           山梨県神社庁による


 カーナビとは便利なもので、もしもこれが無ければ遠来の者にはなかなかの辿り着けないような場所にひっそりと鎮座する神社です。

 しかし、これが重要無形民俗文化財の第一号と言うのですから、それなりにと言うよりも、内部では密かにその重要性は認識されているような印象を受けます。

 ただし、その重要性は国体に関わるものであることからあくまでも「民衆芸能扱い」として半ば貶めた形で存続だけはさせておこうと言った意図さえも感じられるのです。

 それは、これが初代神武天皇(神武僭称贈る崇神ではないと言う意味での)絡みの重要この上ない国家伝承である可能性があるからなのですが、初見の者が何を惚けた事を言われる事は承知の上でお伝えだけはしておこうと思うものです。

無題.png

訪れたのはGW前日の29日の午前中だったのですが感慨はひとしおでした


まず重要なのは、祭礼に際して「神官を迎えに行く」のではなく諏訪神社(諏訪大社などではない)の宮司が天津司神社(収蔵庫)の神像をお迎えに上がることです(偉いのはどちらか言わずもがなですね)。

また、この天津司が行われる舞台が「御船囲」と呼ばれている事が、彼らが遥か遠くから船に乗ってやってきた事を今に伝えているように思えるのです。

勿論、「天津司」が「傀儡(テヅシ)」舞の民衆芸能であるとされている(笑ってしまいますね)事は承知の上ですが、小瀬の17家(恐らく血盟的な同族集団)で伝承されていると言う事やただの民衆が傀儡舞を継承すると言うこと自体があり得ない話なのです(何故ならば傀儡は商業的な芸能集団なのであって、その元を辿れば大いなる主人持ちの宮廷芸能の継承者だった可能性もあるのであり、一般民衆に伝えるなどありえないのです。

 ここで、神社考古学の立場から故)百嶋由一郎氏が残された天津司舞に関する手書き資料をご紹介する事にしたいと思います。

無題.png

昇天の二神とは阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)=海幸彦を婿神とした市杵島姫(奴奈川姫)

百嶋メモに依れば、舞に登場する9人の神とは、大日孁貴(オオヒルメムチ)=天照大御神、経津主命とは山幸彦=ニギハヤヒ、黄幡神=博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神、月弓命は大山祗命、根裂神は金山彦、磐裂神は埴安姫=黄幡神の妹神、磐筒男命=八重(速)思兼(ヤタガラス)、磐筒女命=罔象女(大国主の姉)、豹尾神は本物の神武天皇になり、消えた一神とは神沼河耳(草部吉見の父神)、市杵島姫(奴奈川姫)とは神沼河耳の息子の草部吉見のお妃となったことから呼ばれた様なのです。

無題.png

百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

無題.png

百嶋最終神代系譜(部分)この上段の神々こそが天津司神社の9人の神々に対応するのです


祭神は異なりますが、糸魚川市の奴奈川神社と天津神社が日本海ルートで信濃、甲斐の天井楽園への進入路を握る神社(事実上の行政機関)であり、その終点が甲府の天津司神社だったと考えられるのです。

 この底流に存在するのが、神武東征(これを行なったのは第9代開化天皇の臣下でしかなかった贈る崇神でしかなく)とは別の、神武巡行と言われる神武、天照、大山祗、金山彦、大幡主、海幸(草部吉見)、山幸(ニギハヤヒ=猿田彦)…なのであり、天津司神社が如何に重要で如何に古い列島王権成立に関わる神社であるかが理解できるのです。

 所謂「神武東征」(耳川河口からあくまで東征しただろう…程度の話)はやたら大袈裟に描かれていますが、この「神武巡行」はそれに遡る事数世代前に行なわれたもので、北九州の筑豊や瀬戸内海の尾道〜福山周辺などに薄いながらも今なお痕跡があり(筑豊、広島、福山…は一部ブログで公開しています)、その先端は男鹿半島にまで延びていたのです。

 これは大国主命の「国譲り」やそれに伴う建御名方命の抵抗と屈服などと描かれた「古事記」の偽装(国譲りの現場は九州でありその移動先が現出雲でしかない)よりも前に行なわれた「神武巡行」に関わる神社であり、その物証の一つがこの天津司神社になるのです。

無題.png

最後に、この神社の標柱正面上部には九法星が打たれています。これも天御中主命=白山姫=北辰=妙見を意味しており、その民族の後裔としてのプリンセスが市杵島姫(奴奈川姫)でもあったのです。


百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

573

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 L “金山彦を祀る岐阜県大垣市の

南宮大社”

572

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 K “琵琶湖の北端の鹽津神社”

571

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 J “諏訪大社(春宮)には呉橋がある”

570

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から

入った人々が開発した”

569

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 H “身延の若宮八幡神社は単独で

仁徳を祀る神社であった”

568

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 G “身延の賀茂神社への疑問”

567

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 F “諏訪大社(秋宮)再訪”

566

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 E “思えば遠くへ来たもんだ…”

565

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社に

やって来た”

564

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 C “天津神社にも奴奈川神社が

置かれていた”(下)

563

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 B “天津神社にも奴奈川神社が

置かれていた”(上)

562

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は

市杵島姫を祀る”

561

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 @ “甲府ィお参り願ほどき”

560

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 で考えさせられた甲信越の山上楽園の人々

612

続)徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの

歴史教科書問題」氏による近稿からの転載”

611

徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの

歴史教科書問題」氏による近稿からの転載”


ここで、百嶋由一郎が残した話の断片から、橘氏=大幡主(カミムスビ)〜八咫烏の直系氏族のシンボルは左の橘紋ですが、これに似たデザインで猿田彦(実は伊勢の外宮様=豊受大神の夫神)のシンボルとなっているのが右の椿紋です。

それは猿田彦=物部25部族の筆頭ニギハヤヒ(天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊)が対藤原戦に於いて、あまりにも過激であったために、カミムスビ系とタカミムスビ系の間に位置し勢力を温存しようとする八咫烏系後裔氏族も困り果てた結果、猿田彦=ニギハヤヒ系を切り捨て、橘紋の使用を禁じた結果…と言ったニュアンスの話をしているのです。

従って、東京水天宮、久留米水天宮は橘紋を使用していないと…いった話をしていたのです。

実際、猿田彦のお妃とされて、天岩戸で裸踊りをしたなどとアメノウヅメ(=実は伊勢神宮の主神)を実にとんでもない神話に仕立て貶めているのが後の藤原=阿蘇氏であることから(福岡市早良区野芥の櫛田神社はそれを頑として否定しています)、物部25部族は阿蘇氏に対して非常に強い敵愾心を隠していなかったのです。それを抑え鎌倉政権の実現を掴みその後の武家による千年大国を打ち立てたのはやはり橘一族であった事を思えば、仕方がない戦略であったとは言えるかもしれません。

無題.png

これも関連してお考え頂きたいのですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に386 国東半島のただならぬ天満宮 “大分県国東市向田天満宮”を書いています。

そこに引用した以下…

参考「菅原道真の先祖神は何か」百嶋由一郎先生2012121日講演 牛島稔太のHPより


この赤城神社と、同じ群馬県内に金山彦を祀った榛名神社がございます。これが喧嘩を始めたのです。それで、赤城神社のお嬢さん、そして榛名神社のお嬢さん、両方とも引退ですよ。スサノオのところから逃げ出して、そしてすぐに、それを助けたのが、両方の危機を救ってくれたのが、天皇家と豊玉彦です。そういう関係で、ここには豊玉彦に回ってきた姫たちが、一家の生活を助けてくださいということで嫁いでいらしたのです。豊玉彦の御きさき様たちには、豊秋津姫、ミズハノメ、イカコヤヒメ、杉山大神、前玉姫、武内足尼という方々があります。菅原道真公のご先祖は、一番お若い武夷鳥(タケヒナドリ)〔母、武内足尼 × 父、豊玉彦〕となります。このことを証明するにはどのようなところをお話すればよいか? それは溢れるほど、お話しする材料が多すぎます。多すぎますので、思い出し思い出しお話します。それから、この途中において、一番最初、豊玉彦の京都における紋章をどうすればよいか、ということで頭に浮かんだのが葵の紋章です。土に這っている葵です。これがですね、天下分け目の大喧嘩の結果、豊玉彦に頼ってきた人々も葵の紋章にあやかって、ヤタノカラスが使っている葵の紋章にあやかって、立ち葵の紋章に切り替えられました。そしてそのときの場所はどこであったか?即ち、豊玉彦に助けられて、住まわせてもらった場所は、一番最初に住んでいた場所は、鹿児島空港の近くの鹿児島県溝辺町の界隈に、この人たちの秘密の隠れ家があります。この人たちとは大山ズミの神の一族です。大山ズミの故郷は朝鮮半島の金海(向こうの発音では、キメ)です。従って、そのお嬢さん方もここの出身ということになります。そして今度は、その後がまた複雑になりましてですね、また、その天下分け目で非常に困った時期があった。各豪族がその豪族の座を維持するのに困った時期があった。その代表的なひとつと申し上げていいのが、物部、奈良天理に住んでいた天下の物部、現在、石上神宮がございます。この物部を打ち破ろうとしたのが、ヘブライ系の棟梁、金山彦の系統です。そして、物部もヘブライ系なのです。すなわち、ヘブライ対ヘブライ、判り易くいうとユダヤ人対ユダヤ人の対決です。その人たちが喧嘩を始めたので、この立ち葵の紋章も使えなくなりました。使えなくなったけれども、まだまだ勝った方はこれを維持してあります。負けたほうは、さあ、どうなったか?久留米の古いお宮さん、水天宮の御紋章は橘です(百嶋先生は、別の講演では、久留米水天宮の紋章は少し、橘紋を修飾しているとおっしゃっています:牛島注記)。負けたほうは葵の紋章はだめ、橘の紋章に切り替えたのです。その名残が久留米水天宮の橘です。そして、橘紋章の大本山とも申すべき、伊勢の国の一宮、山幸彦を祀ってある物部神社です。そこも天下の一宮といってもあやかった紋章はだめと言うことで、橘に切り替えてらっしゃいます。そういう大事なカラクリが何回かあっています。


直接的には、参考「菅原道真の先祖神は何か」百嶋由一郎先生2012121日講演 音声CDをお聴き頂ければ、百嶋先生が大山祇をどのような存在として理解していたかが分かります。

先生は、大山祇は天御中主命=白川伯王の姉と朝鮮半島の金海金氏=ウマシアシカビヒコヂとの間に生じた、つまり、南匈奴=王昭君の一族(東西分裂後の南北分裂よって生じたトルコ系氏族=従って大月氏とも通底する民族だったとお考えだった様なのです。

また、天津司舞調査の関連で、市杵島と草部吉見が薩摩の阿多に入り村長さんをしていましたと言う話の現場を探し、書いたものが以下の小稿です。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

461

南さつま市の辺境に市杵島姫と草部吉見の故地を

発見した? 阿多の白川の日枝神社

1047

南さつま市 阿多・白川の日枝神社について 補足(577の再掲載)

1046

南さつま市 阿多・白川の日枝神社について再び…

   

無題.png


 これが、淡路島の神社調査の帰りに偶然発見した二つの天津司神社(天都賀佐彦神社)です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ