ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ250
新ひぼろぎ逍遥1107大山祇は月読命なのかを考える ❶“天津司舞の天津司神社の再掲載”
20250413
太宰府地名研究会 古川 清久
以下は、通説派の御用学者にとって都合が悪い話だったと見え、ネット上で公開〜流布されることを嫌がったと思われます。恐らくプロバイダーにダミー(恐らく文科省の天下り関連団体)を使い除去するか、検索で上位に上がらないように本質を隠そうとしたようです。このため、再度、掲載しますのでご理解ください。
国により1970年(昭和45年)6月8日に記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択された[3]。さらに、1976年(昭和51年)5月4日には、文化財保護法の改正によって前年1975年(昭和50年)に制定された重要無形民俗文化財の第1回指定(初回指定)を受けた。文化庁による指定種別は、民俗芸能・渡来芸・舞台芸である。 「天津司舞」で検索した「ウィキペディア」20250413 08:34
ひぼろぎ逍遥(跡宮)再掲載
565 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た” 20180501
神社に関心を持ち相当に詳しい方でも、同地の方は別としてこの神社を知る方はほとんどおられないのではないかと思います。
村の鎮守様といった神社と言うよりも、もっと小規模な同族集団の非常に小さな神社ですが、恐らく山梨県でも最も古く最も重要な神社がこの天津司神社ではないかと考えています。
勿論、初見の神社であり、最も大切な祭礼も見ず、関係者へのヒアリングさえも行ってもいないのにどうしてそんなことが言えるのかと言われるかも知れませんが、まずはネット上から祭礼の異様さを知って頂こうと思います。


古来よりの申伝へには此の地未だ開けず、草沼にありしころ、天津神十二神天降りまして、舞楽を為し給ふ。其の後に、二神は天上に昇り、一神は西油川村の古井戸に没し給ふ(此の井戸、祭日には神形影るを以て鏡の井と云ふ)。其の後も九神猶舞楽を為す。此地漸く開け人里となりて。その舞楽を見た人後、其の神形を模写して、神像九像九体を造り、神紋を九曜の星とし、毎年七月十九日(現在は四月十日に近い日曜日)神官等小瀬村古来の十七戸のもとに、諏訪神社に九神像御幸して、社前の御船囲にて、神舞楽(天津司の舞)祭祀を修行す。天津司の舞は大永二年以前から伝承されて今日に至る。因に、大永二年八月、武田民部少輔信乗、社殿修造の棟札、今に存す。
天津司の舞
昭和三十五年 山梨県の無形文化財 指定 昭和五十一年 国の重要無形民俗文化財 指定
山梨県神社庁による
カーナビとは便利なもので、もしもこれが無ければ遠来の者にはなかなかの辿り着けないような場所にひっそりと鎮座する神社です。
しかし、これが重要無形民俗文化財の第一号と言うのですから、それなりにと言うよりも、内部では密かにその重要性は認識されているような印象を受けます。
ただし、その重要性は国体に関わるものであることからあくまでも「民衆芸能扱い」として半ば貶めた形で存続だけはさせておこうと言った意図さえも感じられるのです。
それは、これが初代神武天皇(神武僭称贈る崇神ではないと言う意味での)絡みの重要この上ない国家伝承である可能性があるからなのですが、初見の者が何を惚けた事を言われる事は承知の上でお伝えだけはしておこうと思うものです。

訪れたのはGW前日の29日の午前中だったのですが感慨はひとしおでした
まず重要なのは、祭礼に際して「神官を迎えに行く」のではなく諏訪神社(諏訪大社などではない)の宮司が天津司神社(収蔵庫)の神像をお迎えに上がることです(偉いのはどちらか言わずもがなですね)。
また、この天津司が行われる舞台が「御船囲」と呼ばれている事が、彼らが遥か遠くから船に乗ってやってきた事を今に伝えているように思えるのです。
勿論、「天津司」が「傀儡(テヅシ)」舞の民衆芸能であるとされている(笑ってしまいますね)事は承知の上ですが、小瀬の17家(恐らく血盟的な同族集団)で伝承されていると言う事やただの民衆が傀儡舞を継承すると言うこと自体があり得ない話なのです(何故ならば傀儡は商業的な芸能集団なのであって、その元を辿れば大いなる主人持ちの宮廷芸能の継承者だった可能性もあるのであり、一般民衆に伝えるなどありえないのです。
ここで、神社考古学の立場から故)百嶋由一郎氏が残された天津司舞に関する手書き資料をご紹介する事にしたいと思います。

昇天の二神とは阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)=海幸彦を婿神とした市杵島姫(奴奈川姫)
百嶋メモに依れば、舞に登場する9人の神とは、大日孁貴(オオヒルメムチ)=天照大御神、経津主命とは山幸彦=ニギハヤヒ、黄幡神=博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神、月弓命は大山祗命、根裂神は金山彦、磐裂神は埴安姫=黄幡神の妹神、磐筒男命=八重(速)思兼(ヤタガラス)、磐筒女命=罔象女(大国主の姉)、豹尾神は本物の神武天皇になり、消えた一神とは神沼河耳(草部吉見の父神)、市杵島姫(奴奈川姫)とは神沼河耳の息子の草部吉見のお妃となったことから呼ばれた様なのです。

百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

百嶋最終神代系譜(部分)この上段の神々こそが天津司神社の9人の神々に対応するのです
祭神は異なりますが、糸魚川市の奴奈川神社と天津神社が日本海ルートで信濃、甲斐の天井楽園への進入路を握る神社(事実上の行政機関)であり、その終点が甲府の天津司神社だったと考えられるのです。
この底流に存在するのが、神武東征(これを行なったのは第9代開化天皇の臣下でしかなかった贈る崇神でしかなく)とは別の、神武巡行と言われる神武、天照、大山祗、金山彦、大幡主、海幸(草部吉見)、山幸(ニギハヤヒ=猿田彦)…なのであり、天津司神社が如何に重要で如何に古い列島王権成立に関わる神社であるかが理解できるのです。
所謂「神武東征」(耳川河口からあくまで東征しただろう…程度の話)はやたら大袈裟に描かれていますが、この「神武巡行」はそれに遡る事数世代前に行なわれたもので、北九州の筑豊や瀬戸内海の尾道〜福山周辺などに薄いながらも今なお痕跡があり(筑豊、広島、福山…は一部ブログで公開しています)、その先端は男鹿半島にまで延びていたのです。
これは大国主命の「国譲り」やそれに伴う建御名方命の抵抗と屈服などと描かれた「古事記」の偽装(国譲りの現場は九州でありその移動先が現出雲でしかない)よりも前に行なわれた「神武巡行」に関わる神社であり、その物証の一つがこの天津司神社になるのです。

最後に、この神社の標柱正面上部には九法星が打たれています。これも天御中主命=白山姫=北辰=妙見を意味しており、その民族の後裔としてのプリンセスが市杵島姫(奴奈川姫)でもあったのです。
百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
573 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 L “金山彦を祀る岐阜県大垣市の 南宮大社” |
572 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 K “琵琶湖の北端の鹽津神社” |
571 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 J “諏訪大社(春宮)には呉橋がある” |
570 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から 入った人々が開発した” |
569 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 H “身延の若宮八幡神社は単独で 仁徳を祀る神社であった” |
568 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 G “身延の賀茂神社への疑問” |
567 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 F “諏訪大社(秋宮)再訪” |
566 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 E “思えば遠くへ来たもんだ…” |
565 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社に やって来た” |
564 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 C “天津神社にも奴奈川神社が 置かれていた”(下) |
563 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 B “天津神社にも奴奈川神社が 置かれていた”(上) |
562 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は 市杵島姫を祀る” |
561 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 @ “甲府ィお参り願ほどき” |
560 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 で考えさせられた甲信越の山上楽園の人々 |
612 | 続)徳島の天津司神社 @〜A “四国の「もう一つの 歴史教科書問題」氏による近稿からの転載” |
611 | 徳島の天津司神社 @〜A “四国の「もう一つの 歴史教科書問題」氏による近稿からの転載” |
ここで、百嶋由一郎が残した話の断片から、橘氏=大幡主(カミムスビ)〜八咫烏の直系氏族のシンボルは左の橘紋ですが、これに似たデザインで猿田彦(実は伊勢の外宮様=豊受大神の夫神)のシンボルとなっているのが右の椿紋です。
それは猿田彦=物部25部族の筆頭ニギハヤヒ(天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊)が対藤原戦に於いて、あまりにも過激であったために、カミムスビ系とタカミムスビ系の間に位置し勢力を温存しようとする八咫烏系後裔氏族も困り果てた結果、猿田彦=ニギハヤヒ系を切り捨て、橘紋の使用を禁じた結果…と言ったニュアンスの話をしているのです。
従って、東京水天宮、久留米水天宮は橘紋を使用していないと…いった話をしていたのです。
実際、猿田彦のお妃とされて、天岩戸で裸踊りをしたなどとアメノウヅメ(=実は伊勢神宮の主神)を実にとんでもない神話に仕立て貶めているのが後の藤原=阿蘇氏であることから(福岡市早良区野芥の櫛田神社はそれを頑として否定しています)、物部25部族は阿蘇氏に対して非常に強い敵愾心を隠していなかったのです。それを抑え鎌倉政権の実現を掴みその後の武家による千年大国を打ち立てたのはやはり橘一族であった事を思えば、仕方がない戦略であったとは言えるかもしれません。

これも関連してお考え頂きたいのですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に386 国東半島のただならぬ天満宮 “大分県国東市向田天満宮”を書いています。
そこに引用した以下…
参考「菅原道真の先祖神は何か」百嶋由一郎先生2012年1月21日講演 牛島稔太のHPより
この赤城神社と、同じ群馬県内に金山彦を祀った榛名神社がございます。これが喧嘩を始めたのです。それで、赤城神社のお嬢さん、そして榛名神社のお嬢さん、両方とも引退ですよ。スサノオのところから逃げ出して、そしてすぐに、それを助けたのが、両方の危機を救ってくれたのが、天皇家と豊玉彦です。そういう関係で、ここには豊玉彦に回ってきた姫たちが、一家の生活を助けてくださいということで嫁いでいらしたのです。豊玉彦の御きさき様たちには、豊秋津姫、ミズハノメ、イカコヤヒメ、杉山大神、前玉姫、武内足尼という方々があります。菅原道真公のご先祖は、一番お若い武夷鳥(タケヒナドリ)〔母、武内足尼 × 父、豊玉彦〕となります。このことを証明するにはどのようなところをお話すればよいか? それは溢れるほど、お話しする材料が多すぎます。多すぎますので、思い出し思い出しお話します。それから、この途中において、一番最初、豊玉彦の京都における紋章をどうすればよいか、ということで頭に浮かんだのが葵の紋章です。土に這っている葵です。これがですね、天下分け目の大喧嘩の結果、豊玉彦に頼ってきた人々も葵の紋章にあやかって、ヤタノカラスが使っている葵の紋章にあやかって、立ち葵の紋章に切り替えられました。そしてそのときの場所はどこであったか?即ち、豊玉彦に助けられて、住まわせてもらった場所は、一番最初に住んでいた場所は、鹿児島空港の近くの鹿児島県溝辺町の界隈に、この人たちの秘密の隠れ家があります。この人たちとは大山ズミの神の一族です。大山ズミの故郷は朝鮮半島の金海(向こうの発音では、キメ)です。従って、そのお嬢さん方もここの出身ということになります。そして今度は、その後がまた複雑になりましてですね、また、その天下分け目で非常に困った時期があった。各豪族がその豪族の座を維持するのに困った時期があった。その代表的なひとつと申し上げていいのが、物部、奈良天理に住んでいた天下の物部、現在、石上神宮がございます。この物部を打ち破ろうとしたのが、ヘブライ系の棟梁、金山彦の系統です。そして、物部もヘブライ系なのです。すなわち、ヘブライ対ヘブライ、判り易くいうとユダヤ人対ユダヤ人の対決です。その人たちが喧嘩を始めたので、この立ち葵の紋章も使えなくなりました。使えなくなったけれども、まだまだ勝った方はこれを維持してあります。負けたほうは、さあ、どうなったか?久留米の古いお宮さん、水天宮の御紋章は橘です(百嶋先生は、別の講演では、久留米水天宮の紋章は少し、橘紋を修飾しているとおっしゃっています:牛島注記)。負けたほうは葵の紋章はだめ、橘の紋章に切り替えたのです。その名残が久留米水天宮の橘です。そして、橘紋章の大本山とも申すべき、伊勢の国の一宮、山幸彦を祀ってある物部神社です。そこも天下の一宮といってもあやかった紋章はだめと言うことで、橘に切り替えてらっしゃいます。そういう大事なカラクリが何回かあっています。
直接的には、参考「菅原道真の先祖神は何か」百嶋由一郎先生2012年1月21日講演 音声CDをお聴き頂ければ、百嶋先生が大山祇をどのような存在として理解していたかが分かります。
先生は、大山祇は天御中主命=白川伯王の姉と朝鮮半島の金海金氏=ウマシアシカビヒコヂとの間に生じた、つまり、南匈奴=王昭君の一族(東西分裂後の南北分裂よって生じたトルコ系氏族=従って大月氏とも通底する民族だったとお考えだった様なのです。
また、天津司舞調査の関連で、市杵島と草部吉見が薩摩の阿多に入り村長さんをしていましたと言う話の現場を探し、書いたものが以下の小稿です。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
461 | 南さつま市の辺境に市杵島姫と草部吉見の故地を 発見した? 阿多の白川の日枝神社 | |
1047 | 南さつま市 阿多・白川の日枝神社について 補足(577の再掲載) | |
1046 | 南さつま市 阿多・白川の日枝神社について再び… | |

これが、淡路島の神社調査の帰りに偶然発見した二つの天津司神社(天都賀佐彦神社)です。