「宮原誠一の神社見聞諜」No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社 の転載(下)
20230804
太宰府地名研究会 古川 清久
986 菅原道真の御子孫の方から電話を頂きました ❶
「宮原誠一の神社見聞諜」No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社 の転載(上)20230804
からの続き
研究会の雑務を行っていると、色々な問い合わせや情報提供などに遭遇します。
今回電話での問い合わせが来たのも、当然、我々(当然複数ですが)のブログをご覧になっての問い合わせだったのですが、北九州市在住の「重松」という姓を持つ方からのお話でした。
当然、詳しくは申せませんし不正確かも知れませんから、私の道真に関する数本のブログのどれかに反応されて、電話を思い立たれたようです。要点は二つです。
父からは自分たちの家系は道真の血を引く一族であるという事、昔は系図もあったが、火事で失ってしまった…という話でした。
この様な話は古代史とか神社調査と言ったものに関係していると良く出くわすのですが、それは御子孫と言うものは、等差級数的にというかネズミ算的に増えるものであり、それほど珍しいものではないと言えばそれまでですが、親が意を決し伝えるとなるとその一族にとってはそれなりに重要な家伝であって、それなりに重要な氏族であった事が伺い知れるのです。
既に系図が失われている以上、それ以上を確認することはできませんが、我々のブログを見られて反応していただける事は当方にとっても有難く、更なる探求心が生まれると言う事になります。
「宮原誠一の神社見聞諜」
No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社2022/06/13 − 小郡市立石の重松家と菅原道真公小郡市立石の重松家は菅原道真公の子孫です。その記録を残すために重松家の墓地に墓碑銘の石塔が立てられています。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)521 菅原道真公の御両親 20180120 太宰府地名研究会 古川 清久019 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った! ひぼろぎ逍遥
574 藤川天神再訪 “鹿児島県薩摩川内市藤川” | ひぼろぎ逍遥
602 菅原道真が落ち延びた鹿児島県薩摩川内市の藤川天神
603 菅原道真が落ち延びた鹿児島県薩摩川内市の藤川天神
この外にもありますが、関心をお持ちの向きには、まずはこのあたりから読み進めて頂きたいと思います。

これは、姓名分布&ランキングというサイトからの重松一族分布状況を示すものですが、福岡県、それも久留米市にピークを持つ氏族であり、それだけでも九州王朝系の氏族を示す古い氏族のように見えます。
「宮原誠一の神社見聞諜」No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社から転載させて頂きます。
2022年06月13日(月) 17時00分00秒
テーマ: 神社見聞調考
No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社
宮原誠一の神社見聞牒(196) 令和4年(2022年)06月13日
一族の女性を主祭神に祀る天満神社が福岡市の西部にあることを聞いておりました。
このたび、その天満神社に巡り会うことができました。長年の思いが叶いました。
本殿の屋根の千木は平削ぎの女千木、鰹木三本で、女神と菅原道真公を祀ります。
どうして、主祭神が女神で、菅公でないのか、不思議ですが、それなりに理由がありました。
神社由緒によると、この天満宮は福岡城内に祭祀してあったのを、明治15年10月福岡城解体の折、町民協議して福岡市西区姪の浜六丁目(水町) に移築されたと伝わっていました。
■水町天満神社 福岡市西区姪の浜六丁目8-3(旧姪浜字水町)
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宮原秀範氏の橘系図資料から
■菅公受難の旅路
私の父は太刀洗町三川 (みかわ)の池田家(姫姓)、重松家と縁があり、私は小郡市立石の重松家と縁があります。三川の西が菅野で、その西の江戸に老松神社があります。この江戸の老松神社の社紋は梅鉢紋ですが、祭神は道真公ではありません。
小郡市立石の重松家は菅原道真公の子孫です。
立石の重松家を紹介する前に、道真公の大宰府入りの「受難の旅路」のまとめです。
菅原道真公が右大臣に就任して3年、昌泰4年(901)正月25日破局は突然におとずれ、道真公は大宰権帥に左遷され、詔が公布されます。
大宰府に流される身となり、2月1日には早くも都を立たねばならなくなり、妻と女子は都に留まることを許されたが、長男の高視は土佐に流され、ほかの三人の男子も地方に追われ、一家離散となります。
九州下向の一行は、警固の役人二人と隈麿と紅姫の幼児二人と門人を含め七名で、見送る人もなく、配流の罪人として大宰府の長旅が始まります。道真公は京都を発してから、絶えず藤原時平の差し向けた刺客に狙われることになり、その刺客を避けるためか、大宰府館への路程は苦難の旅路でした。
以下、「No.53 菅公受難の旅路と福岡県田主丸町の小川天満神社 2018年3月19日」からの道真公の苦難の旅路の要約です。
@博多に上陸
京を発つ時、樋口大膳進(だいぜんしん)は監視役として菅公に随行。博多入り直後、刺客の難に遭い、大膳進は菅公の護衛役へと転身した。一行は脊振の東麓を転々とし、脊振の板屋峠を越えて、早良郡司の壬生家に到着。滞在は7ヶ月に及んだ。ご一行は小郡市立石の重松家の伝承によると、基山にしばらく滞在しています。
A福岡市早良郡司の壬生家に滞在
長期滞在先の早良の壬生家に藤原氏の刺客が来襲(延喜元年901年 11月23日)した為、密かに筑紫の西の山並みを抜けて、谷村(福岡市六本松)に到着した。
B谷村(福岡市六本松)を船出し福岡県築城町椎田沖で遭難
菅公は新編成の護衛団に守られて、六本松の谷村(草香江)から船出して、門司、椎田沖にて嵐に遭遇し遭難。椎田浜にたどり着いている。
綱敷(つなしき)天満宮
この時、漁船の艫綱(ともづな)を巻いて敷いて休まれ、菅公は艫綱敷きの世話をしてくれた二人の漁夫に、菅公が艫綱の上に座す我が姿の自画像を描き与え、綱敷天満宮のご神体となし、豊前国主小笠原、豊後国主木下両家によって、現在の綱敷(つなしき)天満宮の社殿が造営されたという。
C大分市邯鄲に上陸
大分市邯鄲(かんたん)に上陸。邯鄲は旧大分港の町。
D大分県九重町の安全堂に到着
玖珠郡葦谷村(あしやむら)、現在の大分県九重町菅原の白雲山安全堂に着かれる。「菅原」は山城國愛宕山の学友であった「観応」の地。「観応」が開基した真宗白雲山浄明寺(当時は天台宗)がある。延喜2年(902)の早春であった。ここに長期の滞在をされる。
葦谷村では、地元の女性二人が世話をされ、その女性の一人が浄妙尼(浄明尼)で菅公没まで身の周りの世話をされたという。ここ安全堂にて、菅公は手鏡を前に、自分の姿を映し、自画像を描かれたという。
地元では、榧(かや)の一枝を採り、自像を彫刻されたと伝承が残る。自像の彫刻像をご神体に「菅原天満宮」が創建されている。
E福岡県北野町の江口に上陸
玖珠郡葦谷村の長期滞在を終え、ご一行は舟で筑後川の日田を下り、福岡県北野町の江口に上陸される。後に、ここ上陸の地「江口」に天喜二年(1054)「北野天満宮」が創建される。
陸路松崎街道を通り、某年某月某日大宰府南館に着かれました。
F菅公終焉の地
菅公終焉の地は太宰府の榎寺(南館)と言うことになっていますが、薩摩では、「菅公は川内の藤川で没された」という、ここで生涯を終えたことになっている。そこに藤川天満宮があります。
道真公の公表生存期間は、承和12年(845.8.1)-延喜3年(903.3.26)とされています。
京を出発されたのが昌泰4年(901)2月1日、壬生家滞在は7ヶ月、九重町の安全堂に到着されたのが翌年の延喜2年(902)の早春、どれだけ九重町に滞在されたか不明ですが、太宰府の南館(榎寺)に入られたのは延喜3年(903)春だとすると、太宰府滞在は2ヶ月程度となります。
都府楼はわずかに瓦の色を看(み)る 観世音寺はただ鐘の声を聴くのみ
道真公は南館(榎寺)を一歩も出られず謹慎の日々を過ごされています。
朝夕に聴こえてくる観世音寺の鐘の音を聴くのみの蟄居の状態です。
■菅原道真公息女・紅姫の悲運
菅原道真公が大宰府に左遷された時、奥方は病床にあり、幼い紅姫様と熊麿君を大宰府に連れて下向されている。翌年秋に熊麿君が死亡され、その十日後に道真公が薨去(こうきょ)され、幼弱な紅姫が残されています。
紅姫は亡き父から託された密書を四国の長兄高視卿に届けるために密かに大宰府を旅立ちますが、藤原時平の刺客追手が迫り、若杉山麓に身をひそめられ、山上の若杉太祖神社に御守護を祈願されたが、刺客に探知され非業の最期を遂げられました。千余年前、地元の人々は紅姫の悲運を憐れんで、祠を建立し稲荷神として祀られ「紅姫稲荷神社」が創立されています。
「No.142 篠栗町尾仲の老松神社の古宮は開化天皇を祀る2020年5月1日」から
■道真公は薩摩川内下向の折、九州王朝を祀られた
道真公は薩摩川内下向の折、各所に開化天皇を祭神とする老松神社を建立されています。
小郡市松崎の老松神社(この地域は井上です、井上一帯は筑後の春日と呼ばれた)
三井郡太刀洗町高樋、高橋の老松神社 みやま市山川町重冨の高良神社
これらの神社は開化天皇を祀ります。
山川町重冨の神社は三階松紋をもち、下宮が「山神宮」、上宮が「高良神社」で構成され、開化天皇、神功皇后、仁徳天皇の親子を祀る神社が鎮座です。下宮「山神宮」には三階松紋と梅鉢紋が打たれています。下宮には道真公もちゃっかり鎮座されています。
京都の北野天満宮は「星梅鉢紋」と「三階松紋」を使用されています。
■小郡市立石の重松家と菅原道真公
小郡市立石の重松家は菅原道真公の子孫です。その記録を残すために重松家の墓地に墓碑銘の石塔が立てられています。小郡市立石に移って来る前は、佐賀の基山におられました。佐賀県三根郡の宮原家と同じ家紋で重松家の家紋も「剣花菱」紋です。
菅原氏の由来
天穂日命(豊玉彦)の後裔、野見宿禰に始まる大和国添下郡菅原庄を本拠とする土師氏が、天応元年(781)に菅原宿禰を賜り、延暦9年(790)に朝臣姓に改める。
早稲田大学創立者の佐賀藩士大隈重信公の大隈家も菅原姓を称し、家紋も「剣花菱」紋です。
菅原の発祥の地は、現在の奈良県奈良市菅原町518です。そこに小さい菅原神社があります。菅原地名発祥の地です。

重松家の墓碑銘
重松氏は菅原氏より出ず。
道真公七世の孫にて是綱(これつな)という。その弟、三位・在良より四世にして、信昇あり。大鳥居・小鳥居等の諸氏の祖たり。その弟、伊豆守・教繁の子を信愛(のぶえ)という。これ重松・岩松・海野等諸氏の祖たり。
その子、重松式部少輔教継より十二世の頼幸の弟・満幸の子を備後守信幸という。その子、金左衛門の弟、芸右衛門常治、時勢の変に処して、民間に下り、肥前基山より筑後に入り、三井郡立石村吹上に住み、世々郷党の牛耳を執(と)り、地方の開業に力を致す。
八世を経て、市郎吉常之に至り、宝暦四年(宝暦一揆)の騒憂に際し、同志教士と共に数郡の農民のために身を殺して仁を為す。
以来、しばらく逆境にあり。記録また詳しからざるも、家門は益々繁栄し、重松・〆野家を産するに至(いた)れり。
今、この一門十数氏、相謀(はか)りて、豊碑を建てて豊本祭祖を設(もう)く。
「・・・」に美挙たり。すなわち喜んで誌文の需(もとめ)に〆野応ず。
大正十五年十月 晃堂不?撰井書
(注)「・・・」に美挙たり の箇所は「碑銘の謹書に名乗り出る」と解釈する

※更級日記の著者、菅原孝標女(たかすえのむすめ)は 菅原道真公の長男、高視(たかみ)の子孫です。

なぜ松井家の墓が一緒にあるのか分かりません。
※(追記)吹上区には重松、高松、松井さん等が住まわれ、第二墓地は共同墓地でした。
菅原系図


■福岡県小郡市吹上の吹上神社(大通宮)
重松家の氏神神社が小郡市吹上の吹上神社(大通宮ふきあげじんじゃ)です。
吹上の前を徳川が流れています。今の宝満川です。
公表祭神は国常立神(クニトコタチノカミ)=神皇産霊神(カミムスビノカミ)=大幡主となっています。吹上の立石校区一帯には「○○隈」と言った村名が多く存在し、今隈、乙隈、山隈、横隈、つまり、古代、この一帯は大幡主ご一統の領域でした。
吹上神社 福岡県小郡市吹上820
祭神 国常立尊(大幡主福岡県神社誌による)

ご祭神は福岡県神社誌によると国常立神=大幡主となっているが、久留米藩社方開基では大通天神となっています。第一鳥居の扁額は「大通宮」ですが、村の方々は「だいつうぐう」と呼ばれています。「大通宮」を考察しますと、「おおどおり宮」→「おおとり宮」→「大鳥宮」となり、先祖の大鳥居氏に繋がります。
祭神は大幡主(国常立神)ではなく、大幡主の御子・豊玉彦、つまり、天穂日命で、菅原道真公のご先祖様でした。
筑後国久留米藩の宝暦一揆
江戸時代、久留米藩では二度の大規模な一揆が発生している。享保の一揆(享保13年1728)と宝暦の大一揆(宝暦4年1754)です。
享保13年(1728)8月、生葉、竹野、山本の三郡の農民は、藩の重税に耐えられず、減税運動の一揆を起こした。27才の若き家老の稲次因幡正誠(まささね)の働きにより大事に至らなかった。のちに対処不手際ありと、稲次正誠は家老職を罷免され蟄居を命じられ、藩辺境の御原郡津古村(小郡市)にて享保21年(1736)35歳で亡くなった。
彼の遺徳を偲び、寛延2年(1749)地域の庄屋達が久留米城下に五穀神社を創建した。今では祭神の一柱だが、創建当時は真の祭神(稲次因幡正誠)は隠された。また、五穀神社も護国神社の隠し社号か?
西鉄津古駅前に八龍神社があり、その北隣に稲次因幡正誠蟄居の跡の記念石碑と案内板が設置されています。
宝暦の大一揆(宝暦4年1754)は藩の人別銀賦課に端を発し全藩的規模であった。参加者数5万人、少なからずかかわった農民は16万人に達したといわれる。大庄屋、庄屋への打毀60余軒に及び、田主丸八幡河原での大結集から鎮圧されるまでに2ヶ月も続いた。その結果、死刑16人という犠牲を出したが、人別銀廃止のほか貢租徴収制度の改善など領民の要求もかなり実現している。
庄屋以上の死罪者
竹野郡野中村 庄屋 八郎右衛門 御原郡井上先 大庄屋 八郎兵衛
御原郡干潟村 庄屋 三郎右衛門 竹野郡亀山村 庄屋 伴蔵
稲次八兵衛正延と寛文十年(1670)久留米藩社方開基
久留米史料叢書第六集 久留米郷土研究会
当時、江戸幕府の幕令により久留米藩でも宗門改めが準備され、寛文五年(1665)、寺社奉行が設置された。藩は領民支配強化に宗教統制を行い、その手段が寺・社であった。そのため藩としては、まず寺・社の沿革と実態を把握する必要があった。こうして、「寛文開基」(書上=報告)は久留米藩最初の本格的な寺社調査となった。主に調査取りまとめに当ったのは寺社奉行・稲次八兵衛正延である。
これが『社方開基』および『寺院開基』が作成された経過である。
しかも、寛文の開基帳は久留米藩成立五十年後(1670)の初期史料という貴重さをもっている。史料の解読を担当したのは、久留米市史編さん室勤務の古賀正美氏である。この部厚い古文書数冊を一人で作業され、久留米郷土研究会の史料叢書に提供された。この叢書は当会の「久留米史料叢書」第六集として昭和五十六年十一月に発行された。

稲次因幡正誠蟄居の跡の記念石碑と案内板(八龍神社北隣・津古公民館)