2022年05月21日

898 秋葉神社を理解するために少し巨視的に調べてみましょう

898 秋葉神社を理解するために少し巨視的に調べてみましょう

20211125

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


広川町の秋葉神社だけでは全貌が見えてこないことから少し視野を広げて考えるしかありません。

南の八女市にもあるのですが、まずは中心部の久留米市から簡単に調べてみる事にしました。

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筑後の中核都市である久留米市としても同系統の秋葉神社がこれほどあるというのはかなり重要な示唆を与えてくれます。

 ただ、これで結構あるんだなあ…と早合点すると直ちに間違いに嵌まり込むので、前もってお断りをしておかなければなりません。以下、グーグルトップ画面から。


@  久留米市櫛原町3-49 味耜高彦根神

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A 福岡県久留米市草野町194
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B  福岡県久留米市田主丸町菅原1232 

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一応、グーグルから久留米市北部の秋葉神社を見ました。水天宮とて境内摂社なのですし、消失社とか廃社と言えば失礼になるでしょうが、一目、搔き消された神社の誹りは否定できないでしょう。

 他の神社を見ても良いのですが、成果が得られそうでないためここで止めることにします。

 さらに、何故か有馬藩ご推奨の秋葉神社が明確に味耜高彦根神としている事は衝撃的です。

 巷では味耜高彦根(アヂスキタカヒコネ)を大国主命と宗像三女神のタキリビメの子であるとしますが、その誤りの仕組みを先に考えましょう。ここでは百嶋由一郎の神代系譜に頼らざるを得ません。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)アジスキタカヒコネを確認しましょう


百嶋由一郎氏の神代系譜は、久留米の高良大社に残された貴重この上ない「高良玉垂宮神秘書」を軸に作成されています。

無題.pngこのため通説とはかなり違ったものになっていますが、一方にはこれほど正確なものはないという評価も受けてもいます。

では、説明させて頂ただきます。

まず、話は海幸山幸神話まで遡ります。実は、宮神秘書には冒頭からこの有名な海幸山幸神話の原型と思えるものが書かれています。

釣り針を失った山幸(ヒコホホデミ=ニギハヤヒ=五十猛=猿田彦…)は塩土老翁(実は博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ)のアドバイスを受け龍神(ヤタガラス=豊玉彦)がいる龍宮に向かいます。そして出会ったのが豊玉姫ですが、その間に生まれたのがウガヤフキアエズ=アジスキタカヒコネなのです。

 ところが、産みの母親である豊玉姫は子育てを放棄し、代わりに送られたのが妹とされる(勿論違いますが)玉依姫だったのです(鴨玉依姫)。

 しかし、乳母として送り込まれた育ての実質叔母の玉依姫とウガヤフキアエズが仲良くなり過ぎてか、過ちを犯し、実質、叔母が甥のウガヤ=アジスキタカヒコネの子を産んでしまう事になるのです。

実はこの話が宮神秘書にもちょっとだけ触れてあります。

 まあ、それもありうる話として良いとして、味耜高彦根(アヂスキタカヒコネ)が大国主命と宗像三女神のタキリビメ(鴨豊玉姫)の子とされている理由を考えることにしましょう。

 では、系譜をご覧ください。アジスキタカヒコネとはウガヤフキアエズ(山幸彦の子)の事です。

 豊玉姫は山幸彦のお妃なのですが、後に大国主命のお妃ともなっているのです。

 このため、母神の豊玉姫を介して考えれば、味耜高彦根にとって大国主命は義理の父親とも言えなくもないのです。飽くまでも無理して言えばですが。

 逆に言えば、ウガヤフキアエズをアジスキタカヒコネと読み替える事によって別の神として扱うことができる事にもなっているのです。つまり、からくりとしては複雑でもなく単純な構造と判るのです。

 さらに掘下げれば、その時代には山幸彦よりも、大国主の子とする方が都合がよく、権威があるようにさえ見えたのではないかと思うのです。


アヂスキタカヒコネ 『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神と表記し、別名に迦毛大御神(かものおおみかみ)、『日本書紀』では味耜高彦根命、『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記する。また、阿遅鋤高日子根神とも。

大国主神と宗像三女神の多紀理毘売命の間の子。同母の妹に高比売命(シタテルヒメ)がいる。農業の神、雷神、不動産業の神として信仰されており、高鴨神社(奈良県御所市)、阿遅速雄神社 (大阪府大阪市鶴見区)、都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町)などに祀られている。すなわちこの神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祀っていた大和の神であるが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もある。なお『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけである。

『ウィキペディア(Wikipedia)』20211207 10:08


 では、次に「福岡県神社誌」に話を進めます。

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無題.pngこれまで見てきた通りかなりの数(実際には久留米周辺に10社以上は確認できるようです)の秋葉神社、愛宕神社が在るにも関わらず「県神社誌」の中巻の旧筑後郡を見る限り正規の神社としては全く搭載されていないのです。

 過去、これに似た現象と遭遇したことがあるため直ぐに理由が分かるのですが、旧朝倉郡の田神社(カミムスビ神=博多の櫛田神社の大幡主)と同様、何らかの政治的な変化の結果、何時の時代かに消されている可能性があるのです。

 その証左が神社誌下巻末尾に書かれる無各社一覧の記述で、正しく墓標と言うべきもので、実際には死者累々と言った印象です。 

このため、以下、下巻413431pに記載のある10社程度の秋葉社、愛宕神社をご紹介しておきます。

 記載の量が少ないためその心算でご覧ください。いずれも無各社です。


久留米市

@  秋葉神社  味耜高彦根 火産霊神 櫛原町字三丁目

三井郡

A  愛宕社   軻遇突智神      草野町カナザキ

B  秋葉神社  軻遇突智神      草野町吉ノ尾

浮羽郡

C  秋葉神社  味耜高彦根      山本村大字豊田字東山

D  秋葉神社  味耜高彦根      山春村大字三春字長瀬 豊前坊

E  愛宕神社  軻遇突智神      山春村大字三春字長瀬 上原

F  秋葉社   味耜高彦根      船越村大字鷹取字内畑

G  秋葉神社  軻遇突智神      柴刈村大字恵利字三角

八女郡

H  秋葉神社  味耜高彦根命     福島町本村字東唐人町

I  火産霊神社 軻遇突智神      羽犬塚町羽犬塚字屋敷

J  秋葉社   味耜高彦根命     下廣川村一條町

K  秋葉神社  軻遇突智神      川崎村大字山田北童男

L  愛宕神社  軻遇突智神      昭代村大字西濱武喜四郎野田

以上、昭和19年当時の地名表記のため特定に手間が掛かりますが、無格社一覧とはこの程度のものなのです。

これも百嶋由一郎最終神代系譜をご覧ください。


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では最後になりますが、軻遇突智神とは何かをお知らせして終わりとします。

 軻遇突智(カグツチ)神とは、通常、製鉄神の金山彦として認識しています。

「古事記」では金山毘古神、「日本書紀」では金山彦神と表記する。金山毘売神(カナヤマビメガミ、金山姫神)と対になるともされる。


金山彦神 神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。

岐阜県垂井町の南宮大社(金山彦神のみ)、南宮御旅神社(金山姫神のみ)、島根県安来市の金屋子神社、宮城県石巻市金華山の黄金山神社、京都府京都市の御金神社及び幡枝八幡宮末社の針神社を始め、全国の金山神社で祀られている。『ウィキペディア(Wikipedia)』20211207 14:16 による

味耜高彦根(アヂスキタカヒコネ)がウガヤフキアエズであるという事は二重三重の意味で異論をお持ちの方は多いかもしれません。前掲の系譜にウガヤフキアエズがアジスキとも書かれていますからそう考えていますが、ほかの系譜にもないかと調べていると、一つだけ見つけました。

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これは 005 アイラツ姫 系譜と呼んでいるものですが、豊玉姫の御子とされており、アジスキタカヒコネがウガヤフキアエズ無題.pngで間違いないでしょう。

 豊後の大蛇の意味についてはここでは省略しますが、以下を参照してください。

No.066 三輪伝説と穴森伝説と下照姫 | 宮原誠一の神社見聞牒 外をお読みください。

このウガヤフキアエズの後裔氏族が豊後大野周辺の大神一族になっていると考えているのですが、今のところ想定のみです。

当然、宇佐神宮焼き討ちや豊後竹田の岡城の建設、義経の受入れ…の大神一族の事です。

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祖母山とは、結局、神武僭称贈る崇神の祖母(勿論違うんですが)という事に置き換えているのです。開化の臣下でしかない崇神ごときが神武などではない。

ひぼろぎ逍遥外

372

花本大神をご存知ですか?“博多の櫛田神社の花本大神

と豊後大野の宇田姫神社について”

189

阿蘇の大蛇伝説と祖母山 “大分県竹田市の穴森神社”(阿蘇大蛇伝説)

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この神社は九州自動車道広川インターの西のエリアで3号線の渋滞を避けるために頻繁に通るところですから同社の存在は承知していましたし、秋葉神社とも確認していましたが、参拝はしておらず、さっそく現地踏査をして、リポートの裏採りをしたいと考えています。

 ただ、カーナビだけで秋葉神社だから金山彦系=カグツチで安心していたのは誤りだったようで、もっと重要な深い意味がありそうなのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年05月18日

897 グループの老メンバーから依頼のあった筑後の秋葉神社について

897 グループの老メンバーから依頼のあった筑後の秋葉神社について

202111125

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


当会のメンバーには若手(と言っても40代程度ですが)から八十歳前後の方までおられますが、今回のお話しは戦後80年を生き延びたご老人からのご依頼から始まった秋葉神社のお話になります。

秋葉神社、愛宕神社…と言った名で知られる筑後市(福岡県久留米市南隣の地方都市で岩戸山古墳石人山古墳のあるところと言う方が早いかも知れません)の秋葉神社の祭礼に参加された老メンバーがその神社の世話役でもある友人からこの神社の神様について「誰が祀られているかが分からない…」との話があったためご協力させていただく必要もあろうかとばかりに分かる範囲で小稿を纏めた次第です。

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「福岡県神社誌」には筑後市の秋葉神社は二社とも搭載されていません(中巻 八女郡)。

仕方がなく、下巻最後尾の無各社一覧を見ると、同じく八女郡として搭載はされているものの記述はこれだけです。


秋葉神社 味耜高彦根神 羽犬塚字屋敷  419p

秋葉社  味耜高彦根神 下廣川村    422p


このため少し広いエリアで確認すると、最下段右の秋葉神社(福岡県八女市東唐人町1-214-2)は、火之迦具土神 として書かれており、味耜高彦根神 ではなくこれが(火之迦具土神)本来の祭神のはずなのです。

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福岡県ではこれ以降の南では秋葉神社の分布が消えます。この金山彦系の祭祀は南の熊襲の領域には分布がないのでしょうか?また北九州でも消えます。

 そこで全国的な秋葉神社の祭神を考えることにします。出典はウィキペディア(20211125 19:24)ですが、学術書よりはよほど確実です。ご覧の通り上記の地図以南にはないのです。

 とりあえず、九州・沖縄地方のうち福岡県だけを考えます。

福岡県

徳力秋葉神社 - 福岡県北九州市小倉南区徳力5丁目にある神社。

秋葉神社 - 福岡県直方市大字上頓野にある神社。

秋葉神社 - 福岡県田川郡赤村大字赤にある神社。

秋葉神社 - 福岡県古賀市筵内にある神社。

秋葉宮  - 福岡県福岡市博多区吉塚1丁目にある神社。

秋葉社  - 福岡県福岡市中央区天神1丁目にある神社。

秋葉神社 - 福岡県福岡市中央区鳥飼3丁目にある神社。

秋葉神社 - 福岡県太宰府市にある神社。

秋葉大神 - 福岡県小郡市光行にある神社。

秋葉神社 - 福岡県久留米市櫛原町にある神社。

秋葉神社 - 福岡県久留米市田主丸町恵利にある神社。

秋葉神社 - 福岡県久留米市田主丸町菅原にある神社。

秋葉神社 - 福岡県久留米市京町にある神社。

秋葉神社 - 福岡県久留米市山本町豊田にある神社。

秋葉神社 - 福岡県久留米市草野町吉木にある神社。

秋葉神社 - 福岡県筑後市大字一条にある神社。

秋葉神社 - 福岡県筑後市大字羽犬塚にある神社。


 静岡県浜松市天竜区春野(はるの)町領家(りょうけ)、秋葉(あきは)山に鎮座。祭神は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)で、古くは秋葉山三尺坊大権現(さんじゃくぼうだいごんげん)と称され親しまれた。現在は秋葉山本宮秋葉神社を正式名とする。起源は不詳であるが、『三代実録』の貞観(じょうがん)16年(8745月の昇叙の記事を当社のものとみる説もある。古くから仏教と習合、防火の神として朝野の信仰を集めた。明治の神仏分離後、社蔵の仏像類は同県袋井(ふくろい)市の可睡斎(かすいさい)(曹洞(そうとう)宗)に移った。旧県社。例祭は1216日で、夜半に行われる「秋葉の火まつり」は有名。[茂木貞純]


通常、秋葉権現は神仏混交の結果ではありますが、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)こそが秋葉様の本体で、愛宕神社も同様と思われて構いません。

 してみると、筑後市一條の秋葉神社は何故 味耜高彦根神 とされているのでしょうか?

 そこでメンバーで筑前筑後の神社のエキスパートである宮原誠一氏(「宮原誠一の神社見聞諜」管理者)に尋ねてみると、実は久留米水天宮の神殿背後の立派な境内摂社も、秋葉神社の祭神を味耜高彦根神としており、それ以来、神社が誤っておられるのではないかと思っているとのお話だったのです。

 ところが後でお話しするとアジスキタカヒコネが本当ではないかと言われており混乱は深まってます。

無題.png久留米水天宮境内摂社


結果久留米水天宮、従って有馬藩の権威とを合わせ考えると理解できないのですが、本来、秋葉は金山彦=火之迦具土神であるべきものを何故か味耜高彦根神にしているとしか考えようがなく、その影響が廣川周辺まで及んでいたと見るべきなのでしょう。今のところここまでしか言えません。

 一応、裏付けのために、佐賀県や福岡市周辺の秋葉神社を見てみましたが、間違いなく金山彦=火之迦具土神としており、何故か筑後久留米班一帯だけが味耜高彦根神にしているようなのです。以下二例を。


佐賀県鳥栖市の秋葉神社 秋葉神社縁起 火防・火伏の神、火之迦具土神を祭神


≪御祭神≫火産霊命(ほむすびのみこと)【火之迦具土神】軻遇槌神(かぐつちのかみ)

秋葉山本宮秋葉神社御祭神は、火之迦具土大神ヒノカグツチノオオミカミと申し上げ、伊邪那岐・伊邪那美二柱の神の御子で火の主宰神です。火の光は時間的、空間的に人間の活動範囲を拡め、その熱は人間に冬の寒さも克服させ、食生活を豊かにし、そのエネルギーは工業・科学の源になると共に、その威力は総ての罪穢れを祓い去ります。光と・熱と強いエネルギーを与えられたこの神は、文化科学の生みの親として畏敬され、崇められてまいりしました。


全国的にも神社を大切にした有馬家には特別な伝承が残っていたのでしょうか?

 それとも、味耜高彦根神を秋葉神社の名で守るべき必要があると考えておられたのでしょうか?

これ以上の追及は困難ですが、金山彦と味耜高彦根神を簡単に説明して将来へ託したいと考えるものです。

 時間的制約がなければ、最低でも九州全域の秋葉神社、愛宕神社…をネット検索でも続け、全体的傾向を把握し、何故、筑後にこの様な現象が生じたかを調べることもできますが、当面は不可能です。

 では、分かるところから作業を進めましょう。

秋葉、愛宕は通常火の神様として扱われ、百嶋神社考古学でも火之迦具土神として扱い、製鉄、冶金、瓦製造、陶磁器関係者で奉られることが多い神様です。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


福岡県下で最も知られた愛宕神社をご紹介しておきましょう。

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愛宕神社 カーナビ検索 福岡県福岡市西区愛宕2丁目7-1


古くは鷲尾神社といい、景行天皇の代に、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)の2神を祭ったという。寛永11年(1634)黒田忠之が京都愛宕神社から火産霊神(ほむすびのかみ、かぐつちのかみ)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)の2神を勧請し、愛宕神社を作った。明治34年(1901)両社が合併し、現在鷲尾愛宕神社として4神が祭られている。開運・長寿・商売繁盛・鎮火、また禁酒・禁煙などにも霊験があるとされ、「愛宕さん参り」の習俗が今も続く。

「福岡市の文化財」より

 百嶋神社考古学ではイザナミは金山彦の妹、スサノウのお妃となるクシナダヒメ(母神:埴安姫)も本物の神武天皇のお妃であるアイラツ姫も金山彦の娘となります(母神:大市姫)。

難敵なのは味耜高彦根神です。


『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神阿治志貴高日子根神と表記し、別名に迦毛大御神(かものおおみかみ)、『日本書紀』では味耜高彦根命、『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記する。また、阿遅鋤高日子根神とも。

大国主神と宗像三女神の多紀理毘売命の間の子。同母の妹に高比売命(シタテルヒメ)がいる。農業の神、雷神、不動産業の神として信仰されており、高鴨神社(奈良県御所市)、阿遅速雄神社 (大阪府大阪市鶴見区)、都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町)などに祀られている。すなわちこの神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祀っていた大和の神であるが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もある

『ウィキペディア(Wikipedia)』20211127 15:44による


ところが我が百嶋神社考古学はかなり異なる見解を採っています。

通説が大国主神と宗像三女神の多紀理毘売命の間の子とするのに対し、百嶋神社考古学では豊玉姫(タゴリ姫=タギリ姫)は良いとして、父神を彦火々出見命=山幸彦との間に生まれているのがウガヤフキアエズ命であるとします。

宗像三女神の市杵島姫と大国主命との間に生まれた下照姫を、この山幸彦と豊玉姫との間に生まれたウガヤフキアエズこと味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ)が妃としているのです。

このため、妃の下照姫を介してその義理の父神はと言えば大国主になる訳で、その意味で言えば、アジスキタカヒコネは大国主命の義理の子とまでは言えるのです。

そして、下照姫は母神が大国主命のもう一人のお妃である市杵島姫であることから、混乱が生じているのです。宗像三女神に関しては当の宗像大社でも、また、「古事記」と「日本書紀」とでも混乱が生じていることからしても分かるように、500年は降る時代に近畿大和政権の藤原系官僚(阿蘇系多氏)が不正確な理解をしたとしてもおかしくはないのかも知れません。宗像大社の本来の祭神が大国主命であり、そのお妃が市杵島姫(キサガイ)と豊玉姫(ウムガイヒメ)でもあるのですが、記紀の編者が二階から目薬を注すようなことをするから訳が分からなくなっているのかも知れません。

ちなみに久留米市中心部の櫛原天満宮(秋葉神社)も大火の教訓からか火産靈神 味耜高彦根神 を祭り神としており、重々承知の上で味耜高彦根神を祭神としているのです。

これで味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ)のアウトラインがご理解頂けたのではないでしょうか?

最後に残された問題は、何故、金山彦であるべき秋葉神社が味耜高彦根神を祀っているかです。

そこで考えるべきはこの場所が久留米の高良大社のお膝元であるという事であろうと思うのです。

実は、高良大社に残された貴重極まりない「高良玉垂宮神秘書同紙背」ではニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦=五十猛の子であるウガヤフキアエズが高良玉垂命(第9代開化天皇)と同等それ以上の存在として描かれている部分が多々見られるのです。

この点は、故)百嶋由一郎氏が特に強調されていたのですが、必要以上にウガヤを格上げして書いている部分があるので其の部分は割引いて読みなさいとの話を聴かされていました。

このウガヤフキアエズの出自についてはかなり興味深い話があるのです。ただここでそこに触れるの混乱するため避けますが、そういう意味もありその息子である味耜高彦根神が高良玉垂宮にとっては極めて重要であることから祭神としては消し去ることができず、高良大社の裏紋木瓜紋を所有する金山彦に関わる秋葉神社として神社を残し、密かに味耜高彦根神が守られていると見る事もできるかも知れません。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


実は、金山彦は九州王朝の初期を支えたイスラエル系の重要氏族であり、次の第二期は我々がトルコ系匈奴と考える大国主命に替わるのです。

その意味では九州王朝の中心部での政治的な転換に対応する問題なのかも知れませんし、非常に重要な祭神であったことから、秋葉神社という比較的問題の生じない神社名で味耜高彦根神が祀られたのかも知れません。勿論、その逆もありうるのです。つまり、秋葉神社=金山彦を奉斎する一族に対し、押し売り的にウガヤフキアエズが祭神として捩じ込まれたのかも知れないのです。

何れにせよ、全国区の神社である久留米水天宮の境内摂社が金山彦として味耜高彦根神を祀っているのですからただ事ではないのです。

下の紋章は久留米高良大社のものですが右端の左三つ巴紋が表紋で、右端が本来高良大社の裏紋で実際には初期の九州王朝を支えた金山彦系の臣下としての神紋なのです。そして唐花紋とも花菱紋とも呼ばれる真ん中の紋章こそが高良玉垂命の神紋でこの点も理解しておいて頂きたいと思います。

九州全域でも満遍なく秋葉神社が拾えますが、佐賀県だけが秋葉の名では空白地帯となります。

実際、佐賀県では秋葉では遭遇したことがありません。

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ただ、これは別の神社名で名乗られているためで、佐賀県では、ほぼ八天宮、八天社、八天神社という名で展開しているからです。

瞬間ぎょっとしましたが、こういうことがあるから神社探求は難しいのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年05月15日

896 熊本の神社研究+神社トレッキング・グループによる活動が本格化し始めた

896 熊本の神社研究+神社トレッキング・グループによる活動が本格化し始めた

20211115

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 既に熊本で百嶋神社考古学の勉強会を56人規模で始めていますが(現在では10人超え)、それとは別のメンバーで、神社トレッキングを二か月に一度のペースぐらいで恒常化させしたいと考えています。

 福岡県ではこの10年ほど続けてきましたが、熊本も九州王朝研究のための基礎研究としての神社調査は必要でようやくスタッフが揃い始め現実化し始めたようです。

 当面は車3台程度の小回りが利く範囲でコアのメンバーを強化したいのですが、余り急がずに静かで落ち着いた神社探訪を続けたいと考えています。

 最初に取り上げたのは、俗に「火の国」の中心地とされる氷川町周辺を巡ることにしました。

無題.png この地の神社トレッキングに関しては34年前に福岡のメンバーを熊本に集めて一泊二日で実施していますが、数年が経過し多少は理解力も上がったことから内容的には充実したものになると考えています。

 まず、九州外どころか熊本外の方には氷川町がどこにあるかがお分かりいただけないのでは思うことからそこから話を始めたいのですが、天草へと延びる宇土半島の付け根の宇城市と球磨川河口の八代市の中間に位置する旧竜北町+旧宮原町として二十年ほど前に成立した町なのです。

 その町名は、1000メートルを超える白山から端を発し景勝地立神峡を割って流れる氷川(ヒカワ)にちなんで付されたようです。

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この第二次氷川トレッキングで廻る神社は次葉の資料を見て頂くとして、何故、今回これらの神社を探査するかと言えば、@ 俗に古代「火の国」の地とされるこの氷川と八代の妙見神社の東隣に霊符神社という変わった名の神社がありその由緒に火の君が登場するからです。

 この由緒に百済の聖明王(著名な武寧王の子聖王)の一族が火の君を頼って入って亡命してきたとの記述があるからなのです。

 A 特に重要なのは、氷川町の古墳群の最上部には「姫の城」という字があり、宮崎県都城市の姫城と併せ、百嶋由一郎氏が呉の太伯の流れを汲む一族を担いだ痕跡と言われていたエリアでもあるからなのです。

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無題.png熊本県現氷川町は旧八代郡の龍北町と宮原町によって成立した主として氷川の南側に成立した町です。古来、この地こそ火の国であり、火の君の中心地であったと考えられてきた土地であり、古代史、特に九州王朝論者にとっても極めて重要なテーマでもあったのです。勿論、この地の大半は自然陸化と干拓によって産みだされた土地であり(国道3号線や旧薩摩街道以西)、古代の中心は山際から山間の小平地だったはずですが、阿蘇や熊本や菊池山鹿などではなくこの地こそ火の君の地とされてきた理由にはそれなりの理由があったはずなのです。ところがそれが何なのかが分からずにこれまで前進を阻まれてきました。特に重要なのは、肥前国と肥後国とは連続せず、筑紫に貫入を許しています。

つまり、連続していないのです。このため古代国名は単なる符合でしかないのかと考えたこともあったのですが、長年神社を調べているとようやくその縺れた糸が解れてきました。きっかけは霊符神社と呼ばれる奇妙な名の神社の存在でした。この氷川の北にある「霊符神社」と同名の神社が八代市の妙見宮(八代神社)の東隣にもあるのですが、この妙見宮の分身とも言える神社の由緒には、対岸の佐賀県白石町の稲佐神社直下の掲示板にも有名な武寧王の子である百済の聖明王の阿佐太子(肥後側では第三王子淋聖太子)が王族数十人を引き連れ、火の君の世話で亡命している事が書かれているのです。

肥前の杵島、肥後の氷川の北岸の泉地区の霊符神社一帯、八代の霊符神社の三ケ所に等しくこの話が伝えられている事は極めて重要で、@天御中主命を祀る八代の妙見宮に隣接する霊符神社と氷川の北の霊符神社(宇城市小川町)が同系統のものである事。A火の国の大王である火の君とは百済からの王族の亡命記事から鑑み6世紀初頭(完全な九州王朝の全盛期)に君臨した妙見宮を奉斎する一族=雲南省昆明から進出した白族=白川伯王〜大幡主〜ヤタガラス(豊玉彦)の一族である事。B宇城市の豊崎、豊野、豊福…地名もヤタガラスと関係がある事(西の豊の国)。C宇城市の旧小川町の海東地区(元寇の竹崎季長の恩賞地)という奇妙な地名も百済の王族の一部が亡命後定着した地名(「海東諸国記」)である事。D橘氏の後裔の本流の一派である宮原一族が故地としていた事からも、この橘一族こそ妙見宮の流れを汲む古代九州王朝の本体とも言うべき最重要氏族であったこと。これらの事が一気に分かり、ようやく火の君がどのような人々であったのかが分かるようになったのでした。今年の初夏にはこの火の国を探るトレッキングを行ないます。次の課題は野津〜大野古墳群の主と火の君との関係になりそうです。この火の君は百済滅亡の時期まではいたと考えられており、有明海を挟んだ肥前、肥後の両岸に火の君の伝承が書き留められていた事を考えると、九州王朝の全盛期を支えていた人々こそこの妙見宮=天御中主命=白山姫(北辰信仰)を持つ一族であり、博多の櫛田神社の大幡主、ヤタガラス、熊野、上賀茂、下賀茂に繋がる一族であった事が一気に分かったのでした。火の君の伝承が等しく三か所で確認できます。

これらの事から白村江の戦いを持って百済と心中した形となった九州王朝の中枢部にこの一族が関与していた事までもが見えて来るのです。詳細についてはblog「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)外をダブル検索して下さい。

熊本県現氷川町は旧八代郡の龍北町と宮原町によって成立した主として氷川の南側に成立した町です。古来、こここそが火の国であり、火の君の中心地であったと考えられてきたのであり、古代史、特に九州王朝論者にとっても極めて重要なテーマでもあったのです。勿論、この地の大半は自然陸化と干拓によって産みだされた土地であり(国道3号線や旧薩摩街道以西)、古代の中心は山際から山間の小平地だったはずですが、阿蘇や熊本や菊池山鹿などではなくこの地こそ火の君の地とされてきた理由にはそれなりの意味があったはずなのです。ところがそれが何なのかが分からずに、これまで前進を阻まれてきました。 

特に重要なのは、肥前国と肥後国とは連続せず、筑紫に貫入を許しています。つまり、分断されているのです。このため古代国名は単なる符合でしかないのかと考えたこともあったのですが、多くの神社を調べているとようやくその縺れた糸が解れてきました。きっかけは霊符神社と呼ばれる奇妙な名の神社の存在でした。この氷川の北にある「霊符神社」と同名の神社が八代市の妙見宮(八代神社)の東隣にもあるのですが、この妙見宮の分身とも言える神社の由緒には、対岸の佐賀県白石町の稲佐神社直下の掲示板にも有名な武寧王の子である百済の聖明王の阿佐太子(肥後側では第三王子淋聖太子)が王族数十人を引き連れ、火の君の世話で亡命している事が書かれているのです。そして、肥前の杵島、肥後の氷川の北岸の泉地区の霊符神社一帯、八代の霊符神社の三ケ所に等しくこの話が伝えられている事は極めて重要で、@天御中主命を祀る八代の妙見宮に隣接する霊符神社と氷川の北の霊符神社(宇城市小川町)が同系統のものである事。A火の国の大王である火の君とは百済からの王族の亡命記事から鑑み6世紀初頭(完全な九州王朝の全盛期)に君臨した妙見宮を奉斎する一族=雲南省昆明から進出した白族=白川伯王〜大幡主〜ヤタガラス(豊玉彦)の一族である事。B宇城市の豊崎、豊野、豊福…地名もヤタガラス=豊玉彦と関係がある事(西の豊の国)。C宇城市の旧小川町の海東地区(元寇の竹崎季長の恩賞地)という奇妙な地名も百済の王族の一部が亡命後定着した地名(「海東諸国記」)である事。D橘氏の後裔の本流の一派である宮原一族が故地としていた事からも、この橘一族こそ妙見宮の流れを汲む古代九州王朝の本体とも言うべき最重要氏族であったこと。これらの事が一気に分かり、ようやく火の君がどのような人々であったのかが分かるようになったのでした。今年の秋にはこの火の国を探るトレッキングを行ないます。次の課題は野津〜大野古墳群の主と火の君との関係になりそうです。

この火の君は百済滅亡の時期まではいたと考えられており、有明海を挟んだ肥前、肥後の両岸に火の君の伝承が書き留められていた事を考えると、九州王朝の全盛期を支えていた人々こそこの妙見宮=天御中主命=白山姫(北辰信仰)を持つ一族であり、博多の櫛田神社の大幡主、ヤタガラス、熊野、上賀茂、下賀茂に繋がる一族であった事が一気に分かったのでした。火の君の伝承が等しく三か所で確認できるのです。

これらの事から白村江の戦いを持って百済と心中した形となった九州王朝の中枢部にこの一族が関与していた事までもが見えて来るのです。詳細についてはblog「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)外をダブル検索して下さい。

 火の君を頼り百済の王族が亡命してきたとの神社伝承が肥前の稲佐神社と肥後の二つの霊符神社に残り、その亡命地と見られる場所に東海東、西海東という朝鮮風(「海東諸国記」)の地名が認められる事から、やはり氷川流域に火の君の拠点が存在したと考えられそうです。

 当然にも、この一帯に阿蘇系神社が少ない事からこの「火の君」は阿蘇氏が勢力を拡大して以降に「火の君」との表記に変えられ阿蘇氏の先祖神と描いたものと理解していますが、ここでは、一応、「氷ノ君」(これも冷水が注ぐ氷の川の意か)、「日ノ君」、「肥ノ君」(貶めた表記かも)、「干ノ君」「櫃ノ君」(樋島)の可能性もあるとしておきます(上代特殊カナはせせら笑っています)。ただ、右の画像をご覧ください、今回取り上げた三社もこの円内に入っているのです。もしかしたら、雲仙普賢岳をシンボルとしているのかも知れません。というより、それ以外にはありあえないとさえ思うのです。


火の君とは歴代の橘一族だった 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”

 九州の古代史には火の君が横たわっています。

九州王朝を探索する者にとって、この火の国、火の君をどのように理解するかは極めて重要で、この解明無くしては全く前に進めないと言っても過言ではないものとさえされてきました。

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ひのくに【肥の国(火の国)】古代の九州の地域名の一つ。のちの肥前国,肥後国,現在の熊本,佐賀,長崎の各県に当たる地域を指す。《古事記》国生みの段に筑紫島が身一つにして面(おも)四つありとするが,その一つに肥国が見える。《日本書紀》には,景行天皇の船が,夜暗くして着岸が困難であったとき,遥かに火の光を見て無事陸に着くことができたので,その地八代県(あがた)豊村を火の国と名づけたという地名由来伝承をのせる。また《肥前国風土記》には,肥君らの祖,健緒組が土蜘蛛(つちぐも)を討ったとき,不知火(しらぬい)が天から降ったため,火の国としたという伝承をのせている。

世界大百科事典 第2版の解説

 まず、@橘一族の後裔にあたる宮原氏(blog「橘氏の末裔」)による自らのルーツ研究がまさにこの一帯(熊本県氷川町)にあった事、A考古学や文献史学に精通した知識を持つ伊藤女史(blog「地図で知る」)によるこの氷川流域の古墳(野津古墳群外)形式の北上仮説による推定、Bもう一人の宮原氏(blog「宮原誠一の神社見聞諜」)との氷川流域に於ける神社トレッキング共同作業、C当然にも65年に及ぶ故百嶋由一郎氏による神社考古学、D熊本県の女性メンバーF女史による氷川流域の重要性へのアドバイス、E古川による有明海を挟む対岸の佐賀県杵島山周辺の橘氏関連調査と火の君伝承、河童伝承への基礎的記憶…これらが総合的に結びついて、ようやく「火の君」の正体が見えて来たのでした。

 そして、今は、確信を持って言えます。博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の子であるヤタガラスの後裔こそが橘一族であり「火の君」の後裔でもあったのです。

 まず、この問題で最も遠い位置にあることから結果的に重要に見える佐賀県側の資料をご覧ください。

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佐賀県白石町稲佐神社(万葉の杵島山東麓) 県道傍の境内地に置かれた解説文


稲佐山累縁記により、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる

 十分にお読み頂けると思いますが、稲佐神社(佐賀県杵島郡白石町辺田2925)は直接的に百済の王族を祀る神社です。同社の伝承によると百済の聖明王の子である阿佐太子は“火ノ君を頼って”八隻の船で亡命しているのです。時代は有名な斯摩王こと武寧王(聖明王は武寧王の子)から聖明王の時代ですから6世紀に当たる訳で、まさに九州王朝の最盛期の時代に火ノ君は後の肥前、肥後を支配領域としていた事が分かるのでした。

 ところが、この孤立無縁と思われた伝承が、有明海を挟んで対岸の氷川流域〜八代市に掛けて存在していたのでした。蛇足ながら斯摩王が列島と半島の中間の加唐島で産まれたとの話がありますが、それは両国の学者の説を好い加減な所で纏めるために折半したものであり、当然、糸島半島の「志摩」に決まっているのです。学者、教委、学芸員は馬鹿か嘘つきか!?

 一つは、氷川町の北、旧小川町(現宇城市)の南海東の正しく泉地区にある霊符神社であり、もう一つが、有名な八代市の妙見宮に隣接する同じく霊符神社でした。

466

杵 島 A 2/2

465

杵 島 @ 1/2

505

熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見

508

八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった

詳しくは、稲佐神社を ひぼろぎ逍遥の「杵島」を、二つの霊符神社については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の505508をお読み頂くとして(公開のタイムラグがあり、本稿オンエア時には、まだ、公開されていませんので必要な方は09062983254までご連絡下さい)、実に二つの霊符神社の由緒には、稲佐神社と非常に良く対応する内容が書かれていたのでした。


阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ、6世紀末 - 7世紀前半頃)は、百済の王族出身画家で、威徳王の息子。日本に来て聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。生涯[編集]

『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる。奈良の法隆寺に伝来し、明治以降は御物となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が山背大兄王、左側が殖栗王)を小さく配置した構成である。この配置は、仏教の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられ、あるいは閻立本の作とされる初唐の『歴代帝王図巻』に見られる人物配置に似ることから、その頃の構図法に起因したものと解釈されることがある。

日本学界でも論議が多いこの像は、製作時期においても太子の冠の様式や太子及び王子の服飾から見て、8世紀(奈良時代)の作品だと見る説と、平安時代以降の模本と見る説が概して多い。

このように現在伝えられる聖徳太子像の作者および制作時期は、様式上の問題点と同時に、阿佐太子に対する記録が韓国側資料にはないという事実によって、未解決の課題である。

ウィキペディア(20171225 0114による

聖明王 朝鮮、百済(くだら)の第26代の王(在位523554)。『三国史記』『三国遺事』には聖王とある。武寧王の子である。中国の梁(りょう)によく通交して文物を得、「持節都督百済諸軍事綏東将軍(じせつととくくだらしょぐんじすいとうしょうぐん)百済王」に封ぜられた(524)。また欽明(きんめい)天皇の日本にも通交して仏教などを伝え、任那(みまな)の復興を図った。王は都を熊津(ゆうしん)(いまの公州)から泗(しひ)(扶余(ふよ))に移し、国号を南扶余とした(538)が、新羅(しらぎ)と争って戦死した。[浜田耕策]武寧王(462 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502 - 523年)

        日本大百科全書(ニッポニカ)による



無題.png霊符神社 カーナビ検索 妙見宮 熊本県八代市妙見町405 の東隣  

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霊符神社は八代の妙見宮に隣接する高い場所に置かれています。この只ならぬ関係は霊符神社と妙見宮と一体と言っても良いような同族性を感じさせますし、高い場所に祀られていること自体でも霊符神社の方の格式が上なのではないかとさえ思わせます。

 その霊符神社に火の君の記述(火の君こそがその時代その地域の支配者であったことを思わせる)があることから恐らく火の君と妙見宮それに九州王朝との濃厚な関係が存在したと考えられる百済系氏族(だからこそ九州王朝は白村江の闘いに突き進んだ)を受入れたのだろうと考えられるのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記