太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2019年03月15日

556近江散歩 R 女性達に囲まれて大江山皇大神宮の外宮再訪 

556近江散歩 R 女性達に囲まれて大江山皇大神宮の外宮再訪 

20180512

太宰府地名研究会 古川 清久


 大江山の皇大神宮外宮と内宮を訪ねたのは五年も前だったでしょうか、あの頃は境内摂社の数の多さに圧倒され無我夢中といった感じでしたが、今回は、少しは分かるような気がして参拝しました。

 伊藤女史の丹波丹後の旅に合流するために大江高校前(京都府)で待ち合わせし、女性陣と最初に向かったのが大江山皇大神宮の外宮、内宮でした。

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京丹後鉄道の大江高校から、豊受大神社(大江山皇大神宮下宮社)、内宮社へは10分ほどで着きます。

 始めは外宮へ、次は内宮へと向かうのですが、内宮へはかなりの階段を登る必要があります。

 ともあれ久しぶりの外宮です。今回は、じっくりと摂社が確認できると踏んだのですが、随行者はあれも見たいこれも見たいとふんだんなスケジュールを組んでおられるようで、殆ど写真を撮る以上の時間はありませんでした。

 天気は良く参拝者は少ないとあってこれ以上の機会はなかったのですが、なかなか思うようにはいきません。いずれ、じっくりと検討させて頂きます。

 故)百嶋由一郎氏は大江山皇大神宮を非常に評価されておられました。“あそこの摂社の神々が誰であるかが全て分かります…”と言われていた事を今でも思い出します(さながら浄土真宗ならば面授の弟子となるのですが、不出来な弟子であり申し訳ないと思うばかりです)。

 しかし、同じ元伊勢でも脚光を浴びる籠神社の繁盛ぶりに比べて、これほどの凄い神社であるにも拘わらず、参拝客がまばらである事が情けなくも悲しく、天橋立目当てに群がる観光客の一割でも大江山に来て欲しいと思うものです。

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式内社 丹後國丹波郡 比沼麻奈爲神社 旧府社

御祭神 豊受大神 相殿 日子番能邇邇芸尊 天児屋根命 天太玉命


境内中央に拝殿があり、後方に茅葺神明造の本殿。

拝殿の左右には、別宮の多賀之宮と土之宮が祀られている。

本社社殿を取り巻くように、境内の左右・後方に境内社が並んでいる。

境内左手から、御幸神社、天田神社、蜂須神社大国主命)、若宮神社榊森神社和幣神社御釼神社大若神社鏡作神社(天照国照日子火明命、石凝姥命、天児屋根命)、知恵神社。

右手から、岩崎神社山幸彦)、保養神社、酒造神社、日吉神社、祓戸神社、椿本神社、姫若神社、榊原神社、南之神社(孝徳天皇)福徳神社(宇迦之御魂神)白鬚神社、小篠神社、甲之神社、礒之神社、平岡神社、保浪神社、青榊神社、横河神社。

社殿後方には、別宮の月宮と風宮に挟まれて、竈原神社、種木神社、瀧之神社(多記津比賣尊)、東羅神社、金刀比羅神社、蓬戸神社、神南神社、鹿嶋神社繁昌神社(市杵島姫命)

上記のように、四社の別宮と、三十七の末社(合計四十一境内社)を確認したが、『神社名鑑』には、末社四十二社と記されている。よって、見落としがあったかもしれない。ただ『日本の神々』には、三十七末社とあるのだが。

また、『神社名鑑』や『神社辞典』には、当社は旧府社とあるが『日本の神々』には旧村社となっている。

明治期の郷社以上が記載されている『明治神社誌料』には当社の記載がなく、明治以後に昇格したのかもしれないが…いずれにしろ、当社で確認すれば良かったのだが、忘れてしまった。

『神社名鑑』の、同じく大江町にある「元伊勢皇大神宮」(現皇大神社)の項には、昭和五年府社に列したとあり、当社も同時期に府社に昇格したのだろう。

創祀年代は崇神天皇の御代。天照大神が倭国笠縫邑から当地へ還幸の際に創祀されたという。

旧号を与佐宮と称し、御山を比沼の真名井ヶ原と呼ぶ。伊勢外宮の縁起を伝える

延暦二十三年(804)の『止由気宮儀式帳』によると伊勢外宮は、丹波国比治真奈井に鎮座する豊受大神を遷座したものとある。

鎌倉時代の『神道五部書』によると伊勢外宮の御饌都神(豊受大神)は、天御中主神・国常立神と同神で、

雄略天皇二十一年、倭姫命に天照大神の神託があり丹波国与佐宮に祀られている豊受大神を伊勢山田原に迎えたもの。

享保二十年(1735)の『丹後国加佐郡旧語集』には当社・豊受宮は「人王三十三代推古女帝二十一丁巳年外宮遷座於伊勢国」とある。よって当社が、伊勢外宮の元社であると考えられている。

伊勢に遷宮の後は元伊勢外宮大神宮と称し、豊受大神を奉斎。

地方有数の名社とされ、遠近よりの参詣も多かった。

また、明暦二年京極高国は将軍綱吉の病気回復を祈願し、永井・阿倍・奥平・青山氏ら藩主の社参・代参や寄進等が相ついだ。なお『丹後風土記』には、当社を丹後国丹波郡の式内社・比沼麻奈爲神社とする説が載っている。

さらに、『加佐郡誌』には、雄略天皇二十二年、丹後国丹波郡の比沼麻奈爲神社を伊勢へ遷座する時、当地・舟岡山にしばらく鎮座したとあり、当社をその跡地とする説もあるようだ。

さらに、宝暦十一年(1761)の『丹後州宮津府志』には用明天皇の第三皇子・麻呂子親王が鬼退治の際に内宮とともに当地に勧請した社であるとし、元伊勢ではないとする説もあるようだ。


敬愛する無題.pngによる

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境内摂社は黄色のマーカーで色付けしたものぐらいしか分かりません。なお()書きは「玄松子」のデータに当方が書き加えたものです。

 若宮神社はこれまで何度も申し上げてきた福岡県久留米市の高良大社の主神である高良玉垂命(実は消された第9代開化天皇)と仲哀亡き後の神功皇后との間に産まれた五人の皇子の長子シレカシノミコト=仁徳天皇(藤原から第14代とされ応神の子などと貶められた)オオササギノミコトであり事実上最後の九州王朝の天皇なのです。

御祭神は豊受大神(実は辛国息長大姫大目命=伏見稲荷=アメノウヅメ) 相殿 日子番能邇邇芸尊(ニニギ) 天児屋根命(草部吉見=海幸彦) 天太玉命(ヤタガラス)ですが、何故、ニニギが祀られているかは不思議です。そのうち分かるかも知れません。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 09:37| Comment(0) | 日記

2019年03月12日

555近江散歩 Q 夕闇迫る中、急坂を登って頂いた養父市大屋町の御井神社

555近江散歩 Q 夕闇迫る中、急坂を登って頂いた養父市大屋町の御井神社

20180510

太宰府地名研究会 古川 清久


 合流した伊藤女史グループは久美浜温泉へ、私も久美浜温泉には入ったものの車中泊を決め込み、翌朝、気比神社で合流しました。

その後、兵庫県、朝来市〜養父市の神社をご案内する事になったのですが、既に、御読み頂いている通りです。


553

近江散歩 O 九州王朝の勅使門を持つ粟鹿神社再訪

 “兵庫県朝来市和多山

552

近江散歩 N 気比神社再訪 “兵庫県豊岡市


さて、夕闇が迫る中、向かったのは敗残した九州王朝の中枢部が逃げ込んだと踏んでいる兵庫県養父市大屋町の御井神社です。

実のところ、内倉武久氏など三人ほどの男性はお連れした事があるのですが、舗装もされていないかなりの急坂を登る事から女性には無理ではないかと思っていたのですが、どうしてどうして、アウト・ドア派のスレンダーな女性陣は気にする事もなくスイスイと登って行かれたのです。

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私自身はもう何度となく訪ねているのですが、始めは、百嶋先生から“九州王朝は但馬に逃げていますよ…それを支えたのは橘一族(ヤタガラス後裔)でした。…”といった話を聴かされたからでしたが、徐々に意味が分かってきたような気がしています。

 ともあれ、荒削りな数百メートルの参道を10分以上も掛けて登り詰めると、存在感のある神社が見えてきました。

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ひぼろぎ逍遥 131 兵庫県養父市大屋町の御井神社 “ 突然始まった周防から丹後の神社調査 C ”

を書いていますので、殊更書くこともないのですが、


兵庫県の養父市から豊岡市に掛けては、御井神社という非常に気になる神社が10社程度分布しています。

この外にも、島根県、鳥取県にも数社確認していますので、その数はもっと多くなるかも知れません。

兵庫県養父(ヤブ)市大屋町の御井神社を置き換えれば、但馬国養父郡大屋郷御井神社となるでしょう。

これらが全て九州からの移動地名であると分かるには、偶然、北部九州から兵庫県でも播磨ではない但馬に転勤したとか、ある程度、歴史や地名に精通しているという条件が必要になります。

五年ほど前でしたが、百嶋由一郎先生から“但馬に行きなさい。あそこには九州の地名がゴロゴロしていますよ。そして、皆が九州弁で話していて九州の(ご先祖が出身の)人々が住んでいますよ!”さらには、“九州王朝を最期まで支えたのは橘一族でした”といった趣旨の話を聴かされていました。

その言葉だけに導かれ、数度の但馬へのフィールド・ワークに入ったのでした。

そのリポートは「但馬」としてまとめていますが、百嶋先生の注釈を頂いており、その修正をどうするかでデッド・ロックにぶつかり、太宰府地名研究会では講演したもののオンエアには未だ至っていません。

さて、但馬国養父郡大屋郷御井神社を解析すれば、

@但馬が宗像大社の所在地宗像市大字田島

A養父は佐賀県鳥栖市養父町(旧養父郡)ちなみに、現在の鳥栖市養父は「和名抄」に西海道肥前養父とあり、兵庫県養父市は、「和名抄」に但馬国夜不(やふ)郡とあり、郡の中心として平安期には養父郷とある。

B大屋は頭領が住む土地の意 

C御井は高良大社の鎮座地久留米市御井町(久留米大学の御井学舎や味水御井神社がある)

当然ながら古い地名であり、「和名抄」に西海道筑後に御井がある。

無題.pngつまり、全て九州の地名が持ち込まれ冠せられているのであり、この地に住み着いた人々が九州の人々であったことが分かるのです。しかも、この御井神社の奥には岩井渓谷があり岩井という地区まであるのです。

そのベクトルは対馬海流に乗り、宗像族、安曇族(佐賀県唐津市呼子町の加部島に鎮座する田島神社が本当の但馬の起源かも知れない)が田島という地名を持ち込んだものであり、「養父」の表記が肥前の方が早いことからもそのことが推測できるのです。

イギリスのヨークの人々がアメリカ東海岸のニュー・ヨークを建設したしたのと同じ意味での地名移動が起こっていることが確実なのですが、それを説明するには、考古学、神社、寺院、その他の地名などの説明になり長文が必要であり(既に「但馬」で書いていますので)、ここではそのさわりをお知らせするだけにしたいと思います。いずれ、「但馬」は全文をネット上に公開します。

ただ、早く知りたいという向きもあると思いますので、分かりやすい例を一つお知らせしておきます。

これは、養父市の中心部、市役所からも近い幹線国道にある交差点の表示を見て頂ければ、お分かりになるでしょう。写真は 養父市 朝倉の交差点。

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八鹿バイパスは国道9号線のバイパスです。


これが福岡県朝倉市(旧朝倉町)の朝倉からの移動であることも明らかでしょう。

グーグル・マップ、グーグル・アースで調べれば、自宅で九州の地名が但馬に大量に発見できると思います。後はご自分で探して見て下さい。伯耆から但馬に掛けては、七釜温泉、二日市温泉、岩井温泉までもあるのです。御井神社の祭神その他については別稿とします。

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鳥栖市養父町


いずれにせよ、久留米、朝倉、鳥栖、唐津、那珂川町…など多くの人々が、大和朝廷が成立する遥か以前から山陰から但馬に植民地を作っており、ある時期、大和朝廷の弾圧を逃れ大量に移り住んだと考えています。

奈良の山奥から九州を制圧することはなかなか困難に思えますが、もし、それが可能であったとしても、さらに倍以上遠い土地は但馬であり津軽の十三湊なのです。津軽は唐津(後置修飾語)の裏返しかも…


大屋町宮本の御井神社は周辺の本社とされるが、今も、御井の神は黙して語らない


今回は「地名移動」の話だけにしましたが、まだ、お疑いの向きには、織田徳川連合軍により攻略された戦国期の朝倉氏の居城が金ヶ崎城であったことを思い出してください。

現在、宗像市となっている鐘崎漁港の鐘ケ崎の地名移動と考えれば納得されるかも知れません。その朝倉氏もこの養父市から移住したのであり、そのルーツは甘木、朝倉にあったはずなのです。


 さて、今回、改めて摂社を確認したのですが、判別できる物だけをご紹介しておきます。

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兵庫県神社庁のデータをみると

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脚摩乳命 天穂日命 素盞鳴命 手摩乳命 天津彦根命 奇稲田姫命 天忍穂耳命 活津彦根命 熊野櫛日命 田心姫命 湍津姫命 市杵島姫命          

アシナズチノカミ アメノホヒノミコト スサノオノミコト テマズチノミコト アマツヒコネノミコト クシイナダヒメノミコト アメノオシホミミノミコト イクツヒコネノミコト クマノクスビノミコト タゴリヒメノミコト タギツヒメノミコト イチキシマヒメノミコト          


表記は一般的なものと多少異なりますが、脚摩乳命 手摩乳命 は櫛稲田姫の父神と母神の金山彦と埴安姫、天津彦根命は天照とスサノウの子産み比べで産まれた神ですが、具体的には特定できていません。

天忍穂耳命は草部吉見様ですね、活津彦根命は事代主かも知れません。熊野櫛日命はイザナギと別れた後のイザナミの別名で、熊野那智大社に祀られている方です。三女神は良いでしょう。

御井命とは恐らく九州王朝最末期の神ではないかと思うのですが長くなりますので別稿としましょう。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年03月09日

554 近江散歩 P 丹後で合流した 地図を楽しむ古代史の謎 の伊藤女史のブログの転載

554 近江散歩 P 丹後で合流した 地図を楽しむ古代史の謎 の伊藤女史のブログの転載

20180510

太宰府地名研究会 古川 清久


 メンバーには優秀な方がおられます。中でも、blog「地図を楽しむ・古代史の謎」のライターの伊藤女史は秀逸で、考古学、万葉集、古代史…に精通した第一級の研究者と考えています。

 既に、ひぼろぎ逍遥にはリンクしていますので、このブログにも目を向けて頂きたいと思います。

 今回、当方の「近江散歩」と伊藤女史一行の「丹波丹後但馬の旅」とのタイミングが合った事から、当方がオジャマムシとばかりに合流し現地を見て廻ったことから自分で書くのを止めて「地図を楽しむ…」にお任せする事にしました。(古川)


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ちなみにこのニャンコ(マオ)も古川家の子猫だったので、私は伊藤家の外戚にあたるのです。(古川)

網野銚子山古墳と福田川流域の浦嶋子伝承と宇良神社網野銚子山古墳に道案内をしてくれたのは、竹野の姫達でした 竹野川と福田川流域の大型古墳の距離は10キロ

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道案内のおかげで、どうやら辿りつきました。網野銚子山古墳は発掘中でしょうか。ブルーシートがかかっていました。前方部にトレンチを入れているようです。改葬されたのか、もともとの墳形や版築技術などいろいろ分かることでしょう。

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ここからは、丹後地域特有の円筒埴輪が出土しています。丹後地方に特有の円筒埴輪です。


 今回、伊藤女史が選んだポイントで最も驚き、重要に思えたのが網野調子山古墳でした。

 全長200メートル・クラスという日本海側最大最長の前方後円墳でした。

 恐らく、伊藤女史にご案内頂かなければ一人では絶対に踏まなかったはずの場所であり、この古墳が丹後半島の西の付け根に存在していると言う事実を認識しているだけで物事の理解が変わる訳で、実に有難い知恵を頂いたと感謝しています。

 後段で書かれている「網野銚子山古墳の傍にも、浦嶋子伝承地」とあるものも実に心を揺さぶるもので、浦島太郎=大幡主(博多の櫛田神社の主神=ヤタガラスの父神)説を取るものとして、丹後半島東岸の伊根の浦島神社と併せ、日本海航路の中間点である丹後半島西岸の付け根を見下ろす位置に、大幡主系白族の後裔氏族の拠点があり、志賀島の海人族の拠点があり、実際に大幡主が住居としていた事さえも現実味を帯びて理解できるのでした。(古川)

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網野銚子山古墳は、神明山古墳から10キロ、黒部銚子山古墳や大田南古墳から6キロ、赤坂今井古墳から5キロほど離れているだけです。埴輪を持つ古墳は、竹野川・福田川・野田川流域にあります。

地図を見ると、野田川流域に特に「埴輪を持つ古墳」が集中していますね。
天橋立のある阿蘇海に流れ込む野田川流域の人が、より多くの富を築いたのです。
浦島児(うらのしまこ)伝承や羽衣伝承は、阿蘇海周辺以外の丹後地方の伝承ですから、阿蘇海の人々を見た人々は別世界へのあこがれを強く持ったのでしょうね。     (伊藤女史のブログから)


 まず、有名な天の橋立の内側が、何故、阿蘇海と呼ばれているかについて不思議に思われる方は多いと思います。

 我々九州王朝論者にとっては、古来、北部九州の海人族が対馬海流に乗って大量に入っていた事実上の神代を確信しているものとしては不思議でもなんでもないのであって、阿蘇山を知る「阿蘇」という地名を知る人々が数多く住み着いていた事を示しているのです。

 一例ですが、阿蘇高森の草部吉見(実は鹿島大神=武甕槌命)のお妃は宗像(古くは志賀島の安曇族)の市杵島姫であり疑問はないのです。(古川)

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網野銚子山古墳の傍にも、浦嶋子伝承地

此処にも竹野川の羽衣伝承と同じような「浦嶋子伝承」があります。
網野銚子山古墳の前方部の前の空き地は、「浦島児の宅址の伝承地」となっていました。この古墳の西を流れる福田川の河口には、浦嶋子を祀る「島子神社」がありました。

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この浦嶋児宅址伝承地はかなり衝撃的でした。「浦島太郎」の話からお伽話とされているのでしょうが、この網野調子塚古墳は宣伝や案内板はおろか、地元の人もほとんど知らないと言うもので、その傍にこのような伝承地があることは、どうみてもあやかりではなく真実性が感じられるのです。

 特に、伊根の浦島神社に何度も足を運び、浦島太郎が大幡主=塩土老翁であることを探った宮崎県の日南海岸の野島神社を探った者として逆に真実を感じてしまうのです。関心をお持ちの方は、ひぼろぎ逍遥(跡宮)201 宮崎市(日南海岸)のアコウの茂る野島神社 を…。(古川)

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浦島児は此処で玉手箱を開けたのだそうです。
古墳の前方部の裾の空き地です。

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此の空き地が浦島児(うらのしまこ)の住いの址なら、彼の系譜は網野銚子山古墳の関係者なのですかね? 
豊かな世界を夢見て船出して乙姫様の愛を得たのに、約束を破って失敗してしまったこの辺りの首長の話なのでしょうか。
では、海の向こうの豊かな国とは何処なのでしょう。

拘りますが、工事中だったからかも知れませんが、進入路も含め、殺風景この上もなく、逆に信憑性を感じるのです。浦島太郎は決してお伽話ではなく、古代に於いてそれなりの外洋船を駆使して列島を港伝いに移動していた武装商船隊があり、その一族の長が浦嶋太郎として崇められ後には末裔の氏族によって祀られていたのだと思うのです。(古川)

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網野町の島児神社は、海辺の小さな社でした。


浦嶋子を祀る神社は丹後半島にもありました。伊根町の浦島神社です。

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ここは式内社ですね。


元宮はこの田んぼの水溜まりの辺りに在りました。現在の社殿と50mほど離れています。立派な社殿を建てかえられた宇良神社は、大事にされているのですね。
相殿神は、月讀命・祓戸大神でした。

海辺ではなく高所に社殿を置いたのは、津波や高潮を避けたのでしょうか。

丹後地方の伝承は、風土記ができる以前の状況を反映しているのです。古代、素晴らしい国が何処かにあって、人々はあこがれていた。その国の王は海神だった。豊玉彦なのですかね?

豊玉彦って、九州の神話の神様ではありませんか? 
鏡だけではなく伝承も神様も、九州とのかかわりは深かったと思います。
では、今日はここまで。

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逆に当方のご紹介で優良ブログを傷つけたかも知れませんが、今後ともお読みいただきたいと思います。(古川)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 14:43| Comment(0) | 日記