2023年04月27日

960 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓮ 山梨県 若宮八幡神社

960 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓮ 山梨県 若宮八幡神社

20221005

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


韮崎市と言えば甲府の西に位置する甲府盆地の外れのような場所ですが、武田家最後の城となる「新府城」が置かれ、信玄が建てた武田八幡宮がある土地になります。遠来のため誤りがあればご教授を…。

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既に信州から甲斐に入り国境を越えていますが、もう最後の一本にしますので、「信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る」の最後として、そのまま、信玄公の晩年の本拠地の神社を取り上げることにします。まだまだ、書きたいことはあるのですが、もう11本も書けば十分ではないかと思っていますし、そろそろ、研究会のイベントも増えて来ていますので、そちらへ傾注しなければならなくなっており、余裕もなくなっているのが偽らざるところです。

もし読者で余力のある方がおられたら以下のぶどう寺リポートと併せて読んでいただければ、今回取り上げる武田氏のご先祖がどこからやって来られたかがより鮮明に浮かび上がってくることでしょう。

56年前、このぶどう寺問題に取り組み、大体の見当を着けていました。

ところが、決め手に欠け、それ以上は踏み込まないでいたのですが、今回、武田八幡宮を見せて頂き、武田氏のご先祖様は戦国期から1000年以上前に九州から入っていたという確信を持つに至ったのでした。今回はこの信じ難い驚愕の仮説を提出する事にします。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

 

349

勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には

何故「三階松の神紋」があるのか?”

 

348

勝沼ワインの里の大善寺 F “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)A

 

347

年毛神社と神代製塩池について “宗像、津屋崎境界領域の謎の古社”

 

346

蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜

 

345

勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

 

344

勝沼ワインの里の大善寺 E “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)

 

343

勝沼ワインの里の大善寺 D “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(下)

 

342

勝沼ワインの里の大善寺 C “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(中)

 

341

勝沼ワインの里の大善寺 B “ぶどう寺にはなぜ「国宝

ぶどう薬師」像があるのか?”(上)

213

勝沼ワインの里の大善寺 A “大善寺の全国的傾向”

 

212

勝沼ワインの里の大善寺 @ “山梨県甲州市勝沼町勝沼の

五所神社の神宮寺”

 

 その前に下の神社、街中の若宮八幡神社の画像をご覧下さい。


韮崎若宮八幡宮 カーナビ検索山梨県韮崎市若宮1丁目4-14

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 無題.png4年前にこの神社にも参拝していたのですが、今回、神社の紋章が唐花紋=花菱である事に改めて気付きました。同社は町中にあるのですが、今回、山の辺の道を通り、武田八幡宮(脇殿=若宮八幡宮を祀る)に遭遇し、改めて若宮を慌てて調べると、唐花紋=花菱紋(実は高良玉垂命こと開化天皇を祀る久留米の高良大社の本物の隠された神紋)を使っている事に気付いたのでした。

 個人的には、武田菱とも四つ割り菱とも言われる紋章について、以前から偏見(実は誤解)を持っており、これはその形状から、左下の高皇産霊神(タカミムスビ)高木大神(多氏=阿蘇氏を取り込んだ)系の紋章ではないかと理解していたため理解が遅れたのですが、最近になってこれは花菱の変形なのだとようやく気付き、数年を無駄に過ごしたことにようやく気付いたのでした。

 無題.pngもう少し早く気づけば、信濃、甲斐の調査に数年早く辿り着けていたはずで、ぶどう寺(こちらも唐花を使っています)調査の延長に作業をさらに進めることが出来ていたはずですが、その分残念でなりません。まあ、何はともあれ、正しいレールに戻る事ができたため、今後は武田氏の解明に前進できるのではないかと考えている所です。

 唐花=花菱には共感し四目紋にはマイナスに反応するのは、大国主命の国譲りの現場が福岡県の朝倉郡であり、建御名方が諏訪に追放されるのも同じく福岡県の筑豊地方=田川郡一帯だった事を知っているからであり、そのような他人が苦労して造り出した国土を高木大神、天照、草部吉見=正勝吾勝…(三悪人)が奪う事は許せないという、思いが働いていたからだと思うのです。この点、神代史探査に私情を持ち込むべきではなかったのですが、まあ、無視して頂き先に進ませてください。

 落ち着いて考えれば何でもなかったのですが、花菱デザイン化されたものと何故気付かなかったかが情けない限りです。

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言うまでも無く甲州騎馬軍団の背中に着けた旗指物用の家紋は大量生産のための簡略化された物であり、落ち着いて考え花菱の変形が四つ割り菱である事に気付くべきだったのです。

 では、今回のテーマである晩期の武田信玄の本拠地である韮崎市の武田八幡宮をご覧下さい。

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武田八幡宮 カーナビ検索山梨県韮崎市神山町北宮地1185


 絢爛豪華ではない虚飾を排した造り、質実剛健の佇まいを持つ身の引き締まる思いのする神社です。

この点、徳川家の日光東照宮の対局を成しているとまでは言えそうな気がします。

 では、武田八幡宮を覧下さい。読み終えたら我々久留米市近辺の者にとっては驚愕の事実(真実)に遭遇する事になるかも知れません。

 まず、駐車場、道路など、不必要な舗装工事がされていないだけでも好感が持て、適度な水分と結果としての冷涼感が漂い、参拝者の老人が暑さに負けて参拝を諦めエアコンの効いた車に戻るなどと言う馬鹿げた事が起きないだけでも良い事だと思うばかりです。

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さて、ここから今回のハイライトです。参拝殿がある事にはなっているのですが、直ぐに神殿に遭遇する変わった造りの神社で、不思議なことに本殿の隣には我々にとっては非常に親近感を持つ本物の天皇様、神様を祀る脇殿が置かれていたのです。

 宇佐から勧請されたものが本殿ならば、武田家のご先祖様が守り通した神様が大切に残されていたのです。本来的に武田家が祀っているのはこの若宮八幡宮だったことをここに来て初めて理解しました。

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ここでは、当グループのエース級主筆宮原誠一氏の「宮原誠一の神社見聞諜」NO.59を読んでいただくべきでしょう。なお、「高良玉垂宮神秘書」144pには、下記の神門紋が掲示されています。

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三韓を攻め従え給う。その後、皇后は月神(玉垂命)と夫妻になり給う。
311条 高良の御紋・木瓜(もっこう)のこと。
神功皇后が筑前国四王寺の嶺において大鈴を榊の枝に掛け七日間、異国退治を祈られた時、東の空に白雲が現れ、四方に開け、四方に光を放ち、四王寺の嶺に降臨された。四方に開けた白雲は四天王なり。紋の中に四本の鉾を交えているのは四天王の鉾なり。これをそのままとって門光(もんこう)と名付けたり。
異国追伐の時の高良の御紋はこれなり。四方に光を放っている故、門の光と書く。
高良(大菩薩・玉垂命)、四天王に従じて天降られた所を四王寺ヶ嶺と名付けたり。

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十字に交わる鉾は四天王の鉾、中心の小さい剣は斜め十字剣。四方に広がるのは白雲といわれる。
百嶋先生講演「久留米地名研究会」 201125
高格式ユダヤ系等の木瓜、剣唐花の紋をお使いになっているのは高良大社、或いは、大善寺玉垂宮です。この紋は神様の紋ではなく、その神様をお守りしたのがユダヤ・イスラエル系の人々ですという意味です。武内宿禰の紋章は天皇家の紋章、五七の桐です。武内宿禰さんは系統的には本物のイスラエル系統です。ところが胤は、九州王朝の系統です。
伊勢皇大神宮の神紋に気づかれた方はいますか?門光です。開化天皇が四王寺山にお立ちになった時に、まばゆいばかりの光が周囲に散ったのです。現在では、花菱といいます。これが高良神紋であり、住吉神紋です。門光以前の紋章は桐です。男は五七、女は五三の桐です。(玉垂命の紋は五七桐紋、神功皇后の紋は五三桐紋)

【高良大社の神紋】
高良大社の神紋は、案内パンフレットには下記のように載っている。
中央の木瓜紋は門光紋でないと奉斎氏族(彦火々出見命・ニギハヤヒ)の紋となる

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右は、百嶋神社考古学研究の基礎となった「高良玉垂宮神秘書」ですが、当会の

メンバー10人ぐらいは所蔵しているようです。

この本には神功皇后と高良玉命=開化天皇とが夫婦であると書かれており、その長子(シレカシノミコト)が仁徳=オオササギであるとされているのです。通説派の仁徳は応神の子であるなどと言った大嘘を信じたい方はご自由に。(古川)


玉垂命の紋章は五七桐紋、武内宿禰の紋章も五七桐紋、二人は孝元天皇の異母兄弟であるが故に、高良大社の祭神について、「高良玉垂命は武内宿禰」という間違った話が一人歩きして来た。武内宿禰は高良玉垂命(開化天皇)の臣下であり、「記紀」では、神功皇后の臣下として目立った働きをされるが、高良玉垂命が「記紀」から消されているために、結果的にそう見えるだけ無題.pngで、本当は「高良玉垂命(開化天皇)と神功皇后」の臣下として働いておられる。「記紀」から高良玉垂命の主語が抜けているだけで、「神功皇后」を「高良玉垂命(開化天皇)と神功皇后」と置き換えると、話の展開が現実性を増す。
「高良玉垂宮縁起」では、高良玉垂命と神功皇后が共に新羅海戦で戦っておられる姿が描かれている。結果、神功皇后=女傑英雄 のイメージが薄れてくる。…中略
高良大社(高良玉垂宮)の神輿に門光紋が打ってある。高良大社の祭神は玉垂命を前面に出し、神功皇后を隠し、宮地嶽神社の祭神は神功皇后を前面に出し、玉垂命を隠してある、という。高良玉垂宮神秘書からすると、 玉垂命=開化天皇=物部保連=月神 

 右は普段は神輿蔵にあり人目に触れない神輿の直垂に使われている意匠です。これも門光と呼ばれる唐花紋=花菱紋です。

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002百嶋系図(極秘)003込(部分)


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで

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2023年04月24日

959 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓭ 長野県富士見町 若宮八幡神社

959 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓭ 長野県富士見町 若宮八幡神社

20221005

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


佐久市での調査を終え山梨県に入ることにしました。鹿教湯温泉で車中泊したこともあり、佐久市経由で山梨県に入るルートを採らず、富士見町に向かった事から非常に興味深い神社に遭遇しました。

 長野県を対象にしていたのですが、千曲、上田、小諸、佐久の4市しか拾い出しをしておらず、遭遇した神社が山梨県ではなく、つまり富士見町が山梨県だとばかり思い込んでいたのでした。

こういうわけで、当然、下調べまではやっていませんでしたが、なかなか興味深い神社に出くわすことになりました。

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これまで文中では若宮八幡神社は長野県では20社近くあると書いてきましたが、諏訪だけでも(八ヶ岳南麓、西麓)どうも5社はある訳で、正確に拾い出せばもっと多いようですね。ここで訂正します。

以下はGoogleでの山梨県下の若宮八幡神社です。全部を一度に出すことが出来ません。まだまだあるはずです。オンエア用の編集時点では、長野県で30弱、山梨県も30弱、新潟県で20以上、静岡県で40社同程度が拾えます。

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以前のブログでも掲示しましたが、再度、富士見町を始め、長野県でも八ヶ岳の南西麓の若宮八幡神社を掲載します。20社近く表示されますが、まだまだあるようです。

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なかなか威厳のある神社ですが、諏訪の隣の様な所ですから、御柱が4本でしたか建てられています。

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賽銭箱には丸に並び矢紋が打たれています。丸が無ければ石田三成、丸に並び矢なら服部氏、梶原氏…となるのでしょうか?見当が着きません。

九州では少なく、福岡県飯塚市の大分八幡宮などでニ〜三度見ただけで良く分かりません。

 境内は良く管理されており、良い集落だなあ…という印象を持ちました。

 さて、肝心の祭神ですが、無題.pngよれば、八幡社(ハチマンシャ)御祭神[推定]品陀和気命(応神天皇)(ホムダワケノミコトオウジンテンノウ)とあります。

 よく見て頂ければ分かります。も、推定と断っていますね。誉田分などではないのです。

 だからかも知れませんが、カーナビで若宮八幡神社との表記を見つけたから23キロ遠回りして参拝に車を廻したのですが、鼻から仁徳天皇(仲哀死後の神功皇后を正妃と言うより、皇后=皇宮皇后命と後の藤原が第9代とした高良玉垂命=開化天皇)つまりオオササギ命だと思って参拝したのでした。

無題.png

002百嶋系図(極秘)003込(部分)


下は、普通の…と言うか通説派の大嘘系譜で、仁徳が応神の子などでは全くないのです。

 さらに言えば、仲哀も応神も本物の天皇(呉の太伯の流れを汲む正当皇統)ではないのです。

 故)百嶋由一郎の神社考古学は、久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」を基礎に60年を超える独自の研究を加え作成されたものです。

 このため、天武〜藤原期に作成された偽書を聖典と崇める通説をそのまま権威あるものであるかのように考える通説派の漫画の様な古代史その基礎となる神代史を字面だけで吹聴し追従する古代史愛好家の方々の言説を受け入れることはできないのです。

 故)百嶋由一郎氏は最低でも“「古事記」の95パーセントは嘘だ”と言い切っておりました。

また、“一書に言うを残した「日本書紀」は少しは本当の事も書いてはいるが…”記紀に基づき立論する方々はどうしようもないのです。

他愛もない邪馬台国畿内説とか邪馬台国候補地は全国に百ケ所もあるとして金を引き出そうとする連中は、村興し町興し世界遺産登録同様歴史研究の破壊者でしかないのです。


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通称百嶋由一郎神代068細密系譜通称金系譜原本(部分)


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで

講演録は合計40時間程度、神代系譜は90枚程度収録されています。どの時間帯でもご連絡下さい。

まだ、紙面がありますのでご覧いただきます。

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神殿脇には祠があり、左は疱瘡の神、右は消されています

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風月庵


神社に隣接し集会所風のものがあります かつての神宮寺なのでしょうか これを見るだけでも価値あり

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2023年04月21日

958 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓬ 上田市 鹿教湯温泉の呉橋 

958 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓬ 上田市 鹿教湯温泉の呉橋 

20221003

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


鹿教湯温泉と言えば、松本市の浅間温泉から一山越える古くは秘湯と言われた古湯の温泉郷です。

無題.png20代の頃でしたから、450年前に、更なる秘湯を求めて、その先の大塩温泉に泊まった事があるのですが、この鹿教湯温泉には入りそこない、強烈な印象を与える呉橋の存在だけを強く意識していたのでした。

 今回、信濃の神社調査を終え、少し遠回りになっても鹿教湯温泉に入らないなどと言うのはあり得ない事でした。

 私の武骨な写真ではなくプロの写真家の皆さんの作品を少しご覧頂きましょう。

 ただ、昔は屋根付きの橋の意味で呉橋とも呼ばれていましたが、今は単に五台橋と呼ばれています。


鹿教湯温泉呉橋 カーナビ検索 上田市鹿教湯温泉13691 渓谷の上であるため傍の共同浴場文殊の湯

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我々が何故この呉橋に拘るかと言えば、呉の太伯の後裔(周王朝の末)である倭国の痕跡が僅かながらも残されているのではないかと考えているからです。

 当然、念頭に置いているのは宇佐八幡宮の呉橋であり、隣の中津市薦神社の呉橋です。

 宇佐八幡宮を和気清麻呂との関係から近畿大和朝廷の神宮ではないのか…とのお考えをお持ちの方は多いでしょうが、とんでもない話であって、宇佐こそ九州王朝でも九州政権でも何でも良いのですが、8世紀初頭まで確実に存在していた九州王朝の神宮であり、辛島、大神比義の時代に応神を持ち込み変質させたのが現在の宇佐八幡宮なのです。

 詳しくはGoogleで ひぼろぎ逍遥□宇佐神宮 と検索して頂ければ、15本ほどのブログでその痕跡を説明しています。


105

宇佐神宮とは何か? N “そろそろ本殿の探査に踏み込みましょう”

104

宇佐神宮とは何か? M “到津屋敷をご存じですか?”

103

宇佐神宮とは何か? L “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは

「三国史記」の目支国のマキ”

102

宇佐神宮とは何か? K “境外摂社鷹居社とは何か?”

101

宇佐神宮とは何か? J “安心院の妻垣神社は自称神武こと崇神天皇を供応したか?”

100

宇佐神宮とは何か? I “安心院の三女神社は筑紫の君が祀った?”

99

宇佐神宮とは何か? H “安心院の三女神社は二女神社だったのか?

98

宇佐神宮とは何か? G “神宮の故地か?今も上宮内二摂社が院内町に鎮座する”

97

宇佐神宮とは何か? F “宇佐神宮の向こう側”

96

宇佐神宮とは何か? E “御許山の大元神社とは何か?”

95

宇佐神宮とは何か? D “宇佐神宮の境内摂社「大尾神社」をご存じですか?”

94

宇佐神宮とは何か? C “宇佐神宮宝物館の神輿は誰のものだったのか?”

93

宇佐神宮とは何か? B “宇佐神宮の神宮寺としての大善寺”

92

宇佐神宮とは何か? A “和気清麻呂は勅使道ではなく舟で上陸した”

91

宇佐神宮とは何か? @ “呉橋から北へと延びる勅使道”


 詳しく話す必要もないのですが、宇佐の呉橋から薦神社の呉橋を経て豊前市の大富神社(ここには勅使井戸が今も存在する)へと延びる勅使道それ自体が西へ延びており、どう考えても近畿大和朝廷の古代官道などとは言えないのです。

 久留米市の大善寺玉垂宮〜高良大社直下〜太宰府〜米の山峠〜筑前大分宮〜香春神社 採銅所〜大富神社(豊前市)〜薦神社(中津市)〜宇佐神宮〜若宮八幡宮(豊後高田市)…国東半島伊美別宮社 六郷満山 ハート・ランド有明海〜国東への主要官道の終点に呉橋が置かれているのです。

 そして、若宮八幡宮(豊後高田市)には勅使門が存在しているように見えるのですが…まだ、決め手がありません。

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ここでも宇佐八幡宮ではなく宇佐神宮と書かれています(この時点では勅使門も残存してますね)


明治44年の呉橋(くれはし)

橋の長さは約24.7m、幅は3.5m。唐破風の檜皮葺き屋根に覆われた豪華な橋で、その橋体は神社の社殿や鳥居によく使われる独特の朱色で塗られている。このような屋根付きの橋は、アジア大陸ではよくみられるが、日本列島においては、宇佐神宮と大分県中津市の薦神社にみられる他は例が少ない。呉橋が架けられた年代は定かでないが、文献によれば鎌倉時代には既に存在し、中国の「呉」の人が架けたともと伝えられている。しかし、呉橋の建設当時に呉はすでに滅びており、橋を架けるために使われていた木材を表す漢字の「クレ」が「呉」に置き換わったと考えられる。宇佐市HP(…?古川)


 勿論、近畿大和朝廷に先行する九州の政権にとって宇佐八幡宮は宇佐神宮であり、久留米の高良大社と国東半島を繋ぐ古代官道の途上の重要拠点だったのです。そもそも、国の東と呼ばれているのです。

 この街道を使い相互に交通した天皇とその勅使だけが渡ることを許されたのが呉橋であり、現在でも勅使来訪の時などだけに一般にも解放される呉橋の内部に入ると、天井には二つ巴(一つ巴紋)の紋章(神武僭称贈る崇神)が節々に打たれており、この橋が高良玉垂命の臣下でしかなかった崇神若しくはその系統の勢力から寄贈(改修)されている事を暗示しています。

 では、何故このような高価で込入った橋を架ける必要があったのでしょうか?

 それが、倭は呉の太伯(呉越同舟の呉)の末とか言われる中国ナンバーワン周王朝の後裔の古代天皇家の象徴であり、その流れを汲む天皇(と後にはその勅使も)だけが渡ることを許される橋をお造りしていますのでお渡りください…と言う意味が込められていたのです。

 だからこそ、中国の江南に普通に存在していた呉橋が作られているのです。一例ですが、ご覧ください。

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日本では呉橋に相当するものは僅かしか知られていませんでしたが、今では多くの屋根付きの橋が造作られているのです。その中には、伝統的な意味あるものも存在するはずですが、なかなか判別することは困難です。これらには、単に橋を雨から守るという意味もあったでしょうが、民族の記憶と言う要素もあったのではないかと思うものです。

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愛媛県内子町田丸の田丸橋(左)、同じく弓削神社の呉橋(右)

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前山鹽野神社 カーナビ検索長野県上田市前山1681 上田市のホーム・ページの画像


 皆さんもウッド・デッキに憧れる方が多いと思いますが、雨晒し日晒しにすると木製のものは数年で劣化してしまいます。このため、毎年か二年ごとにクレオソートなどによる防腐剤塗装を行わなければならないのです。

 これを避け、重要な橋梁を守り寿命を伸ばすには、傘状の屋根を掛けそれを定期的に張りなおす方が効率的だとの発想が出てくるのは自然であり、だからこそ後には瓦をかぶせる本格的なものに変化していったであろうことは容易に想像できるはずです。

 従って、石橋(眼鏡橋)が最も合理的である事に気付くのです。

ただ、江戸幕府は九州島以外では石橋の建設を許しませんでした。それは、幕府を防衛するために橋を建設せず、九州をつまり薩摩を攻略する時に便利な九州の石橋建設だけを許したのでした。

 話が逸れましたが、この呉橋の痕跡はどう見ても呉の太伯の流れを汲んでいた九州王朝の名残に思えるのですが、この呉橋や鼓楼(漢族の侵入をいち早く知らせ防衛、避退を知らせる早金太鼓の櫓)の風習を伝える少数民族地帯に追い込まれた呉の一族の誇りを残すものに思えるのです。

 従って、長野県上田市の生島足島神社、同じく前山鹽野神社の呉橋に鹿教湯温泉の五台橋、そして諏訪の呉橋もその一つに思え、九州王朝の逃亡地を思わせるのです。

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諏訪大社 下社春宮 下馬橋 カーナビ検索 長野県下諏訪町諏訪大社下社春宮外

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琴平の鞘橋 カーナビ検索香川県仲多度郡琴平町琴平金倉川に架かる


法隆寺の五重塔も釘一本使わぬ技術で造られていると言われています。

 最後に鼓楼についても見ておきましょう。

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貴州省最大のトン族の村 肇興村 ここには五棟の鼓楼があると言われています


 ここにも呉橋と鼓楼があることに注目して下さい。

 そもそも楼閣とは木材が調達できない華北の文化ではない事は明らかで、木製の大建築が列島の至る所に存在している事からだけでも、我が国土が元々中国の江南の民によって開拓されたはずなのです。

 雲南、貴州などは高温で雨量が多く針葉樹の生育も早いため60年余りで建て替える頃には大きな木材が村人総出で山から引き出されてくるのですが、伝統的な大工の棟梁の指揮のもとそれこそ村の民の総力で建て上げられるのですが、当然ながら釘を使わず」臍穴で嚙み合わされ組み建てられるのです。

 では、何故、こういうものが造られたのでしょう。それは、本来、中国本土の中原一帯までも広がっていた人々が北方系の漢族、鮮卑族…に追われ、追われ、山岳地帯の辺境に追いあげられていったのでした。鼓楼とは漢族が、鮮卑が、モンゴルがやってきたと早鐘、太鼓を打つための鼓楼だったのです。

 一方、倭人とは事実上は越人で、ベトナムは越南の表記そのままであり、揚子江河口以南の浙江省、福建省、広東省、海南省(海南島)の人々なのです。

 我々は、大陸から追い落とされた民族(苗族、白族、土車、楚、呉越…)の末裔でもあるのです。

 故)百嶋由一郎氏は、抵抗を続けた苗族の一派の黎族が阿蘇氏に、白族が鴨族(下賀茂神社…)、大山祗は異なり、北方系のトルコ系匈奴=熊襲…とお考えのようでした。

 そして、初代神武天皇〜9代までの半分ほどが本物の天皇であったと考えておられました。

 しかし、担がれた天皇家は周王朝の末裔のイスラエル系の人々だった…と。これらに関しては過去何度となく書いてきましたので、テーマから逸れる事からここでは触れません。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記