2021年09月21日

828 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か F “大宮神社の境内社群”

828 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か F “大宮神社の境内社群”

20200417

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


827 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か E “大宮神社の本来の祭神は金山彦”から

282 大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 


これほど立派な境内摂社群はなかなかありません。後で参考になりますのでご紹介しておきます。


大宮神社の境内摂社群それこそが山鹿の祖神であり本来の御祭神

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生目神社(実は垂仁天皇で草部吉見の四世の孫) (左)別稿とするためここでは触れません  


金刀比羅神社 (右)金刀比羅神社の大物主は一般的には大国主命とされます

  ただ、百嶋神社考古学では大山咋=松尾=日吉=日枝=佐田大神とします

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神殿の背後に居並ぶ49基の猿田彦大神(左)祠と併せ五十猛です  地主神(右)


興玉宮があります。猿田彦とは、伊勢の外宮様(=豊受大神=伏見稲荷=辛国息長大姫大目命=天鈿女命)の夫でもある山幸彦=ニギハヤヒだからなのです。ただ、興玉宮とは二見ケ浦の名の通り夫婦神ですね…。従って、本当は豊受大神の方が祀られており、旦那様の猿田彦は外に出されているのかも知れません。

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興玉宮

 一番重要な地主神社に関しては、Bの次稿で詳しく触れますので、ここではコメントしません。

以上、多くの境内摂社を見て頂きましたが、「熊本県神社誌」122pによる大宮神社(山鹿市)にも搭載されていない境内摂社があることがお分かり頂けたと思います。白抜きは神社誌にない境内社です。

では、15も数えられる境外摂社はどうなのでしょうか?

 現地を見ていないため祭神だけをお示ししますが、一目、博多の櫛田神社(祇園神社)の関係者ばかりが並んでおられます(白族、大幡主系)。決して阿蘇系ではない。

参拝殿右手の八坂神社の分社に思えるもので、これが、本来、山鹿の人々が祀ってきた神様なのです。

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829 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何かG “櫛稲田姫は山鹿の稲田村で生れた”

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:49| Comment(0) | 日記

2021年09月18日

827 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か E “大宮神社の本来の祭神は金山彦”

827 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か E “大宮神社の本来の祭神は金山彦”

20200417

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


826 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か D “玉名、山鹿から国東、姫島へ”から


 これまでのブログから 熊本県玉名市の疋野神社(旧県社)が主神として 波比岐神=御年神=孝安天皇、相殿に父神である 大年神=草部吉見=ヒコヤイミミを 祀る神社であった事、さらに波比岐神=御年神=孝安天皇の子が贈る景行であり良く知られた贈る天皇が生まれ育った場所であろう事、また、これらの氏族が蟠踞した領域が巨大な製鉄地帯、冶金地帯だったと言う事をお伝えしました。

まさに、足(帯)の名を持つ製鉄集団が菊池川流域に展開し定着していた事が見えて来たのです。

このように理解した時、列島でも最大級の火山である阿蘇山が地上に持ち出してくれた鉄やその他の金属資源が吹き出し流れ出し堆積する菊池川一帯に、神話の世界で最も著名な製鉄神の金山彦=金山毘古神

=火之迦具土神、軻遇突智…もこの流域にいたのではないかと想像する事は誤りではないはずです。

 ここから先は概略だけをお話しします。ただ、それでは分からないという方は、以下の20ブログから拾い読みして頂ければ端緒は掴めるのではないかと思います。

以下、前ブログの主要部をご紹介致します。特に必要な4本は色分けをしておきます。

では、本題に入ります。熊本県山鹿市の中心部に大宮神社(県社)があります。

神代史〜古代史に関心を寄せる人々にとって、熊本は言うまでもなく九州でも最も重要な神社ではないでしょうか。

現在この神社は、景行天皇と阿蘇十二神を祀る神社とされています。

しかし、良くお考えください、阿蘇神が大量に持ち込まれたのは早ければ鎌倉期、実質的には宮方が跳梁した南北朝争乱期以降だったはずです。

では、それ以前は贈る景行天皇を祀る神社だったのでしょうか?これについても、後の藤原によって第6代とされた贈る孝安天皇こそ玉名にいた現疋野神社の主神 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト)波比岐神=であり、その子が第12代とされた贈る景行=大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)、親子で6代と離れているとするのですから漫画ですね…、景行は山鹿の人でもないのです。勿論、通説派は大和を発し周防の佐波から九州に入ったとするのですが。

彼は出生地の菊池川を二十キロほど溯上し玉名から山鹿に来ただけで、山鹿の人々が崇めた神でもないのです。恐らく、明治期の県社昇格に絡んで勇ましく通りの良い知られた天皇を祭神としたのでしょう。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

300

大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”

299

大宮神社と猿田彦大神 R “広島県庄原市の蘇羅比古神社にも山幸と豊玉姫が…”

298

大宮神社と猿田彦大神 Q “岡山県津山市の大美禰神社も天宇受賣命を祀る古社”

297

大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は猿田の

意味を知っていた”

296

大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?”

295

大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と安心院の

佐田神社 再掲”

294

大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の経津主も

猿田彦大神なのです”

293

大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“

292

大宮神社と猿田彦大神 K “全国展開された猿田彦大神“

291

大宮神社と猿田彦大神 J “古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“

290

大宮神社と猿田彦大神 I “山幸彦=猿田彦のもう一つのルーツについて”

289

大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから”

288

大宮神社と猿田彦大神 G “猿田彦がニギハヤヒで山幸彦であることについて”

287

大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の櫛田神社の

主神の大幡主の子であった”

286

大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経夫(神理教教団)と菊鹿町「吾平」の

ウガヤフキアエズ陵”

285

大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経夫(神理教教団)と猿田彦大神”

284

大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は

熊本県山鹿市で産まれた! ”

283

大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 

282

大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 

281

大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?


 では、大宮神社とは元々はどのような神社だったのでしょうか?それについては、281284辺り、できれば、全体の半分でも拾い読みして頂かなければ理解できないと思うのですが、一部を再掲載します。


281 大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?            20160721


熊本県山鹿市の中心部に大宮神社があります。


大宮神社 カーナビ検索  熊本県山鹿市山鹿196  0968-44-1257

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この神社の神殿裏には、あたかも本来の神でもあるかの様に北部九州の主要な神々を祀る多くの摂社群が居並び、参拝殿右手横には八坂神社が、左手には謎の摂社地主神が鎮座しているのです。

 この神社は、古代においては列島最大穀倉とも言うべき菊池盆地(気取って菊鹿盆地などと呼ぶ必要はないでしょう)を睨む菅制高地とも言うべき要衝に位置し、対岸の千田聖母八幡宮(聖母宮)と共に菊池、山鹿の一帯で最も重要な神社と言えるでしょう。

 まず、 一般的には“よへほよへほ”の山鹿灯篭祭や「景行天皇伝承」として知られる神社です。

 表面に祀られている通説をそのまま真に受け入れられる幸せな方々は別として、この神社が如何なるものかを解析する事無くして肥後の古代を云々することはできないと考えていますが、実際にはかなり難しい作業になりました。

 それは、先住神と思われる「地主神」が誰であるかの見当が全く着かなかったからでした。

「大宮神社の祭神は何ですか?」と問われれば、藤原により第12代とされた景行天皇+阿蘇12と言えばその通りですが、それは鎌倉期から室町期に掛けて覆い被さって来たもののはずで、景行(実は玉名の疋野神社の疋(ハイキ)の神=御歳神=贈)孝安天皇の子)に至っては明治期から(県社昇格のため)の事かも知れないのです。

そう考えれば、この山鹿の民が先祖代々守ってきた本当の神様を探し出すことこそが本来の神社探究であり本来の地元の信奉する神々を復興させる事とも言えるでしょう。

従って、神社探究とは、決して御朱印帳や由緒書きを集める事でも、景行天皇の御業績とやらを頭に刻む事でも、阿蘇の12神を覚える事でもなく、神社の基層(古層)に生き残る本当の祭祀を救いだし、総じて自らの出自を探る事なのです。


「熊本県神社誌」122pによる大宮神社(山鹿市)


現在の祭神と八坂神社のスサノウは良いとして、残りの五つの摂社の主はお分かりでしょうか?

 高住神社の天照皇大神外二神は始め思いつかなかったのですが、当然にも彦山の北谷の高住神社だったわけです。ただ、天照以外の二神は特定できません。

金刀比羅神社の大物主は一般的には大国主命とされますが、百嶋神社考古学では大山咋=松尾=日吉=日枝=佐田大神とします。

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 興玉宮の猿田彦神は問題なく理解されると思いますが、何故、興玉宮と呼ばれているかは分かられないと思います。それは、猿田彦とは、伊勢の外宮様(=豊受大神=伏見稲荷=辛国息長大姫大目命=天鈿女命)の夫でもある山幸彦=ニギハヤヒだからなのです。しかし、興玉宮とは二見ケ浦の名の通り夫婦神ですね…。従って、本当は豊受大神が祀られているのであって、旦那様の猿田彦は外に出されているのかも知れません。

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伊勢の二見ケ浦の興玉宮


伊勢の二見ケ浦の祭神が興玉宮なのです(画像はネット上の写真家 三好祐司氏の撮影によるもの)


二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)は、三重県伊勢市二見町江にある神社である。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。境内の磯合にある夫婦岩(めおといわ)で知られる。

猿田彦大神と宇迦御魂大神(ここでは神宮外宮の豊受大神の別名とされる)を祭神とする。

ウィキペディア(20160721 0830による

 最後の宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)は所在が分からないため今のところ保留します。

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。第15代応神天皇皇子(『日本書紀』では皇太子)で、第16代仁徳天皇は異母兄にあたる。


菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国宇治(現・京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。


郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。

ウィキペディア(20160721 0830による

 さて、最も重要な地主神ですが、この話に入る前に「熊本県神社誌」(以下神社誌と呼ぶ)に記載のない境内摂社(分社)の方からご覧いただく事にしましょう。

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百嶋由一郎神代最終系譜(部分)


283 大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 


 はじめに、次の写真をご覧ください。「大宮大明神」と書かれた神額です。

 明治期の廃仏毀釈の中で廃棄された神額が残されているのです(明神は神仏混淆)。

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決定的な意味があるかどうかは不明ですが、神殿の真横に地主神が置かれ、あたかもこれこそが本当の祭神であるかのように、その延長上に大明神の旧神額が置かれているのです。

 「神社誌」を見ると、「…大宮大明神と称した。延久四年菊池則隆が阿蘇大明神を合祀し…」「明治四年旧称大宮明神(ママ)を山鹿神宮と改称し、」とあり、阿蘇系は11世紀(平安末期)に菊池氏のイニシアティブのもとに加えられています。

 問題は景行天皇ですが、景行が大宮大明神とは思えないため、もしかしたら、廃仏毀釈前後の縣社昇格に絡み通りが良い「景行」が挿入された可能性さえも考えておく必要があるかも知れません。

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地主神社は「土の神」(埴安命)「火の神」とされていますね… 火之迦具土神命では …


「神社誌」では、地主神とは「埴安命外二神」と書かれています。

お分かりでしょうか?残りのお二人は隠されているようなのです。

しかし、今ならば、このお二人が誰であるかのある程度の見当が着きます。それはこの神社だけを考えていては分かりません。

一応、結論を先に申しあげておきます。勿論、埴安命の関係者であることは当然です。

無題.pngお二人とは恐らく埴安命(埴安彦=土の神)の妹の関係者であり、その夫の金山彦(火の神)と金山彦と埴安姫の間に産まれた櫛稲田姫のはず(金山彦と埴安姫の可能性もあり)なのです。

恐らく、百嶋由一郎氏とも菊池至誠会を通じて濃厚な関係も持っておられた上米良純臣氏(神社誌の著者、編者)は、この点十分にご存じだったと思います。ただ、立場上、表に出せなかったのです。

それはスサノウのお妃となった櫛稲田姫の御素性が明らかになってしまい、「古事記」や「出雲神話」がでっち上げであることが明らかになってしまうからなのです。

これだけでそんな事が言えるのかと思われるでしょうが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)191 櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! をお読み下さい。

百嶋先生はヒントしか残してくれませんでした。

事実、昨年までは当方も全く分からなかったのです。

もしも、百嶋先生から「神社にご迷惑が掛かるため公にはできないがあなたにだけは教えておく…」と言われていたら発表できていなかったと思います。

しかし、名もない一民間人に過ぎない者が発表しても「素人の戯言」で済むため、今では百嶋先生のご配慮に感謝しています(よくぞ教えて頂かなかった…と)。

まず、境内摂社として手足の神様が祀られていた事を思い出して下さい。櫛稲田姫の御両親ですね。


アシナヅチ テナヅチ

二神はオオヤマツミの子で、出雲国の肥の川の上流に住んでいた。8人の娘(八稚女)がいたが、毎年ヤマタノオロチがやって来て娘を食べてしまい、スサノオが二神の元にやって来た時には、最後に残った末娘のクシナダヒメを食いにオロチがやって来る前だった。二神はスサノオがオロチを退治する代わりにクシナダヒメを妻として差し上げることを了承し、オロチ退治の準備を行った。このとき、スサノオによって娘のクシナダヒメは櫛に変えられた。

スサノオが無事オロチを退治し須賀の地に宮殿を建てると、スサノオはアシナヅチを呼び、宮の首長に任じて稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)(『日本書紀』では稲田宮主神)の名を与えた。                   ウィキペディア(20160722 13:00による


無題.png 「二神はオオヤマツミの子で、」は頂けませんが(オオヤマツミの子ではないのです)、「出雲国の肥の川の上流に住んでいた」は、あまりに符合し驚きますが、実に、山鹿は肥の国で、肥の川とは恐らく菊池川の 事なのです。そうです、スサノウは堂々たる八坂神社が拙社として置かれている事を思い出して下さい。当然にも、山鹿にも祇園祭があります。

元々、山鹿は博多同様の祇園祭の町なのです。


犬子ひょうたん祭(いんごひょうたんまつり)は、熊本県山鹿市、山鹿温泉にある八坂神社(大宮神社境内)で行われる祭りであり、毎年615日に行われている。正式名は「祇園祭」。米の粉で作られた授与品の「犬子ひょうたん」は無病息災に効験ありとされ、これを求めて多くの参詣者が訪れる。また山鹿では古来よりこの祭礼の日を「初かたびら」と言い、この日から浴衣を着始める習慣がある。

祭礼の名は、疫病退散に効験のあった子犬(神の使いとされる)の伝承に由来する。この伝承は、京都の祇園社(八坂神社)の神霊を山鹿の阿蘇品家に勧請した際にそばについてきた子犬をかたどってつくったという説と、同家で祀っていた祇園社を大宮神社へ勧請した時、神輿の後に子犬がついてきて離れず、神社についたらいつの間にか姿が消えていたのに因んでつくるようになったという説とがある。     ウィキペディア(20160722 13:00によ


一般的には、埴安彦神 埴安姫神とは、波迩夜須毘子神 波迩夜須毘売神 埴山姫神 埴安神 伊邪那美命の子神格とされ、土の神、田畑の土壌の神、陶器の神神社:榛名神社や愛宕神社が有名です。

 埴安神とは、伊邪那美命が火の神迦具土神を産んだときに、火傷で苦しみながら糞をした、その糞から生まれた神である。「埴」とは赤土の粘土を意味し、祭祀に用いる特別な器、たとえば酒、水、御饌(ミケツ=穀物)を盛る土器の甕の製作を司る神さまと言われています。

 埴安命の妹である埴安姫と火の神様=カグツチ=金山彦 or 金山彦と櫛稲田姫(クシナダヒメ)こそが外二神のご正体ということになるのです。

 ここで、百嶋由一郎氏が死を前にして残された最終神代系譜の一部分をご覧ください。

 瀛氏の金山彦と白族の埴安姫(埴安命=大幡主の妹)の間に櫛稲田姫(スサノウのお妃)が、金山彦と大山祗命の妹である越智姫の間に産まれた吾平都姫(アイラツヒメ)=本物の神武天皇のお妃もこの山鹿の近くでお生まれになっており、当時、この埴安姫が住んでおられた辺りに神話の世界の二大スーパー・スターのお二人が一緒におられた可能性さえもがあるのです。

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828 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か F “大宮神社の境内社群”へと続く

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年09月15日

826(後) 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か D “玉名、山鹿から国東、姫島へ”

826(後) 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か D “玉名、山鹿から国東、姫島へ”

20200415

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

430

奥出雲の神々 番外編 A 島根県神社庁リストにない神社 大谷の大荒神社

429

奥出雲の神々 番外編 @ 島根県神社庁リストにない神社 小馬木の板敷神社

428

奥出雲の神々 34 郡村の大領神社

427

奥出雲の神々 33 八代の三柱神社

426

奥出雲の神々 32 八代の仰支斯里神社

425

奥出雲の神々 31 馬馳の八幡宮

424

奥出雲の神々 30 佐白の伊賀武神社

423

奥出雲の神々 29 三成の八幡神社

422

奥出雲の神々 28 上三所の居去神社

421

第三次奥出雲調査に行かなければならない C

420

奥出雲の神々 27 三成の愛宕神社

419

奥出雲の神々 25 三澤の三沢神社

418

奥出雲の神々 25 三澤の三沢神社

417

奥出雲の神々 24 三成の諏訪神社

416

奥出雲の神々 23 河内の金刀比羅神社

415

奥出雲の神々 22 鴨倉の鹿島神社

414

奥出雲の神々 21 鴨倉の建御名方神社

413

奥出雲の神々 20 下阿井の八幡宮

412

奥出雲の神々 19 亀嵩の湯野神社

411

第三次奥出雲調査に行かなければならない B

410

奥出雲の神々 18 上阿井の大原神社

409

奥出雲の神々 17 横田の本山神社

408

奥出雲の神々 16 中村の羽鳥神社

407

奥出雲の神々 15 横田の伊賀多氣神社

406

奥出雲の神々 14 横田の諏訪神社

405

奥出雲の神々 13 横田の総荒神社

404

奥出雲の神々 12 稲原の稲田神社

403

奥出雲の神々 11 中村聞語山の八満宮

402

奥出雲の神々 10 稲原光森山の天満宮

401

第三次奥出雲調査に行かなければならない A

400

奥出雲の神々 09 大呂の大呂神社

399

奥出雲の神々 08 大呂の鬼神神社

398

奥出雲の神々 07 竹崎の王子神社

397

奥出雲の神々 06 竹崎の萬歳山之神社

396

奥出雲の神々 05 下横田の新宮神社

395

奥出雲の神々 04 八川の八幡宮

394

奥出雲の神々 03 小馬木の八幡宮

393

奥出雲の神々 02 大谷の大谷神社

392

奥出雲の神々 01 大馬木の天満宮

391

第三次奥出雲調査に行かなければならない

390

ダムに追われた石壺神社 “島根県雲南市木次町の石壺神社”


 さて、話が多少逸れました。景行天皇の移動ルートは「日本書記」と「風土記」とでは多少異なりますが、まあ、細かい事はここではどうでも良くて、長崎県の島原半島辺りからか宇土半島辺りからか、長洲、玉名方面に入るのですが、玉名では現新幹線玉名駅傍に鎮座する玉名大神宮辺りに入ったはずです。

 当時は、海がかなり奥まで入っており、丘陵地はその辺りから始まるからです。

その後、景行は菊池川を遡上し熊本県山鹿市周辺に巡幸したと言う話になってきます。

景行筑紫御巡幸の時、此の地にいたとされる土蜘蛛頬を誅し玉名大神宮や疋野神社の折りに祀られたと伝えられているのです。

 景行はさらに菊池川を溯上し、山鹿、菊池方面に進出したと思われるのです。

巡幸の折、山鹿の大宮神社では同社地に行宮が置かれ、茂賀の浦、八頭の大亀、震岳、上吉田の賊徒を平定しその宮地に天皇を祀ったという話があります。

また、有名な大宮神社の山鹿燈籠祭も景行天皇が玉名から山鹿に向かう時に濃霧が立ち込め進路を失ったことから松明で一行を迎え同社地にお迎えしその松明に準えたのが山鹿燈籠の起源とされているのです。

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 さて、皆さんは熊襲をどのようにお考えでしょうか?

近畿大和朝廷は熊襲とは鹿児島、宮崎辺りを拠点としていた南方系蛮族であるかのように描いていますので仕方がないのですが、実際には製鉄を行ない、馬を使い、相当の技術力を持った民族(ヘブライ系、トルコ系匈奴、一部ポリネシアン…)集団であり、時代によって異なりますが、徐々に北へと勢力を拡げ、

最北部は佐賀県佐賀市の川上峡温泉辺り(川上 猛)まで進出しており、実は、川上 猛を誅罰したとされるヤマトオグナ、オウスノミコトもこの菊池山鹿の熊襲地帯から発した熊襲間の同族争い=内ゲバでしかなかったのです。これについては、「ひぼろぎ逍遥」から551淀姫@〜淀姫Cをお読み下さい。

 パワー・ポイントも作成しています。

無題.pngこのパワー・ポイントは実費でお送りできます。


 さて、二千年前辺り(つまり真実の神代)以来、この一帯は非常に重要な製鉄地帯だったのです。

 その一つの象徴に、故)谷川健一も「青銅の神の足跡」で取り上げた天目一箇神があります。

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この天目一箇神とは製鉄を行ない続けるといずれは火玉が目に入り片目が潰れるのですが、その時製鉄技術を持った技術者は引退し神として崇められるのです。

 また、有名な安来節にドジョウすくいがありますが、これは面白おかしく仕立てられたもので、実は鉄を浚う鍛冶屋の姿を残したものなのです。

この滑稽さを競う踊りには片目が潰れ鉢巻を締めたひょっとこ面の男(メッカチ)が登場します。

ひょっとことは火吹男(ヒフキオトコ)であり、メッカチとは片目が潰れた鍛冶屋の意味なのです。

 地図をご覧頂ければ明らかですが、鹿北町芋生(イモオ)があります。

これも鋳物(イモノ)を置換えた地名ですし、下の地図には出てきませんが、付近には川沿い(菊池川の支流)に金堀(カネボリ)という地名さえ拾えるのです(国道3号線)。

こちらは支流ですが、阿蘇の火山灰が大量に堆積した土地から流れ出す土砂には大量の鉄が含まれているのです。このため火山地帯だった阿蘇の周辺では川の運搬に伴う浮遊選(洗)鉱が行われ砂鉄が堆積する場所があるのです(蛇行地の淵)。そこから川を浚えば今でも良質の砂鉄が手に入るのであり、天目一を祀る一帯が前述した上吉田地区なのです。

この点、後に鉄生産の中心となった山陰(島根、鳥取、広島北域)がカンナ流しを必要としたことから言えば有利だったはずなのです。ただ、人口が薄く有利な点はやりたい放題に山を壊せた事だったのです。

 さて、山鹿から菊池へと溯る一帯こそ後に南朝方として数百年に亘って闘い続けた菊池氏の領域にはいるのですが、谷川健一氏の著書に絡む「目一箇男神」の話がネット上にありますので参考にご紹介します。

肥後国誌 には 熊本県の鹿本郡を中心とした玉名郡や菊池郡に及ぶ広大な一帯が かっては水底で そこは茂賀の浦と呼ばれていたとあります そこに阿蘇大明神である健磐竜命が山鹿に来て 鍋田の岩を蹴透して湖の水を流したと云う話を紹介し 湖の水を有明海に導いた川が菊池けれつ川だと書いています 氏は 各地に残るこうした蹴裂伝説が鉄器を用いての開墾や開拓を暗示しているとし 阿蘇国造の祖神である健磐竜命がその阿蘇湖の干拓に係わった事が この伝説を生んだとしています くばるあめのまひとつかみ又 氏は 蹴裂伝説の他にも 山鹿市久原に目一箇男神 ( 天目一箇神 ) を奉る神社があり しかも その近くに銅山があった事を書いています そして 肥後国誌 巻之七には その金属ゆるぎたかまの神である目一箇男神が 6 世紀の継体大王時 ( 磐井の時代でもあります ) に震岳 ( 別名高天山 ) のたぐい主神として奉られている事を紹介しています 更に 地元の伝説にはその震岳にいた土蜘蛛の類が景行大王 ( 日本武尊の父 ) の軍勢に激しく抵抗したが 滅ぼされたという話がある事を指摘しています 興味深い事に 村上恭通氏の 倭人と鉄の考古学 によれば 発掘による鍛治工房跡は 当時の先進地域であった博多地区以上に その菊池 / 山鹿地区に於いて発掘されています つまり 弥生時代から古墳時代の移行期において 別の言い方をすれば 卑弥呼の時代において 鍛治工房跡の遺跡が集中的に見られる所が阿蘇 / 菊池 / 山鹿地区と博多地区なのです …(中略)… 又 先に見たように 魏志倭人伝には 邪馬台国には丹 すなわち 水銀朱が有ると書かれており 一歩下がって 丹がベンガラをも指すとしても 邪馬台国とその朱 & ベンガラの繋がりを辿る事に加え 青銅や鉄の軌跡と朱やベンガラがどう繋がっているかを探求する事は 古代を知る上で大事な事と思われます                    「母の故郷に見る鉄の跡」による

 これまでの話から、少なくとも足(帯)の名を持つ、孝安天皇=玉名の疋野神社の主神とその子景行という一氏族が入た領域が巨大な製鉄地帯、冶金地帯だったと言う事はお分かり頂けたはずです。


827 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か E “櫛稲田姫は山鹿で生まれた”に続く

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記