2021年06月15日

816 「古事記」中つ巻 神武編 B “槁根津日古とは神武僭称贈る崇神の弟だった”

816 「古事記」中つ巻  神武編 B “槁根津日古とは神武僭称贈る崇神の弟だった”

20200331

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える私達にとって、「古事記」の内容を真に受ける事が無い事は言うまでもないことです。

「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄と言うより最初から創りでかしたものでした。

我々からは、それがどのような意図で本来の正統皇統が捻じ曲げられ、藤原が自らの先祖に当る崇神(第10代とした神武僭称贈る崇神)を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも説明したと思います。

ここに非常に分かり易い口語訳がネット上に有ります。そちらの意図に反するものになるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、今回は「和人」というサイトから引用させて頂きたいと思います。勝手ながら非常に感謝しております。

当方は、神代〜古代に掛けて最も重要な部分に関して百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと考えています。

今回取り上げるのは、神武東征の水先案内をした槁根津日古(サオネツヒコorシイネツヒコ)についての話です。

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阿岐国の多祁理宮(たけりのみや:広島県府中市近郊か)に七年、それからさらに東に行き、吉備の高島宮(きびのたかしまのみや:岡山県玉野市南の宮之浦か)に八年お留まりになりました。

神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と五瀬命(いつせのみこと)は、その地を発ち、さらに東に向かっていた時、速吸門(はやすいのと:海流が速い海峡(明石海峡か)がありました。すると、その海峡を亀の甲羅に乗り、釣りをしながら羽ばたきくる人(袖を振り向かってくる人)に会いました。神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、その者を近くに呼び、「あなたは、誰か?」

とお尋ねになると、「私はここの国つ神でです」と答えたので、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、「あなたは、海の道をよく知っているか?」と尋ねました。すると、「よく知っています」と答え、そこで神倭伊波礼毘古命は、「では、私に仕える気はないか?」と尋ねると、「お仕えいたしましょう」と答えました。

こうして、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、船棹(ふなざお:船をあやつるのに用いるさお)を差し渡しになり、その国つ神を船に乗り移らせました。

そして、すぐに槁根津日古(さおねつひこ)という名を賜(たま)いました。

これが、倭国造(やまとのくにのみやつこ:奈良県盆地東部の豪族)らの祖です。

その後、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と五瀬命(いつせのみこと)一行は、さらに東に進みになります。



そして、その後、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と五瀬命(いつせのみこと)はその地を発ち、次に筑紫の岡田宮(福岡県芦屋町付近か)に一年お留まりになりました。

さらにその後、阿岐国の多祁理宮(たけりのみや:広島県府中市近郊か)に七年、それからさらに東に行き、吉備の高島宮(きびのたかしまのみや:岡山県玉野市南の宮之浦か)に八年お留まりになりました。


筑紫野岡田の宮に1年はともかくとして、安芸や吉備にだかに何故、7年も8年も居たのかという妙な話になっているのか奇妙奇天烈この上なく不可思議でなりません。多分、これは巡幸伝承ではなく東征の実態だったのです。

 この時代の寿命を考えると156年も滞在すれば人生が終わってしまう事は明らかでしょう。

 この謎は将来への課題として置くとして、明石海峡辺りとされる速吸門について考えて見ましょう。

 贈る崇神を考えると息子に豊城入(トヨキニュウ)彦が居る様に、豊前豊後との関係が強い事に気付きます。

 事実、上毛野(カミツケノ)氏、下毛野(シモツケノ)氏は共に第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命を祖とする皇別氏族です。上毛野君は後「上毛野朝臣」姓を称しており、「下毛野君」を氏の名とする氏族です。この痕跡が今も福岡県上毛(コウゲ)町として豊前に残っています。


築上郡東部に位置し、福岡県の最東端に位置する町で、西は豊前市、北は吉富町、山国川を挟んで大分県中津市と隣接する。町域の北部は平野が広がっており南部は山地となっている。また人口は旧・新吉富村域では微増傾向にあるが、旧・大平村域は人口が減少傾向にあり過疎化も進んでいるため上毛町全体の人口は僅かながら減少に転じている。

ウィキペディア20200331 14:18 による

無題.png

では本当の速吸門とはどこでしょうか、勿論、通説同様ただの推定でしかありませんが、恐らく大分市の佐賀関周辺だったのではないかと考えています。

 佐賀関の名の通りこの中心部は船越が行われていたはずで、現在はトンボロに依り堆積が進み陸繋島となっていますが、遠く古代、神代には実際に水道が存在し関銭を取っていた可能性さえあるでしょう。

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してみると、「古事記」の字面だけを追い解析を行っている通説派の学者、研究者がいかに愚かしいかお分かり頂けるのではないでしょうか。

 何が明石海峡だ…。殆ど漫画の世界ですよね。ただただ、欠史8代に従い近畿大和朝廷に繋げるために腐心しているだけの事なのです。

 思えば、百嶋神社考古学をある程度理解されている方は、崇神=ツヌガノアラシトが福井県敦賀と朝鮮半島の阿羅伽耶(アラカヤ)とを行き来していた舵取り(カンドリ)であり、その父神の大山咋=松尾大神=日枝山王権現 日吉神社ともども半島とを往来していた人物だったのです。

 こちらの別名はクマカブトアラカシヒコ、熊本+甲佐+阿羅+舵彦であり、熊本県甲佐町の甲佐神社から緑川を降り(古代には海が目の前に迫っていたはずですが)、親子共々有明海経由で対馬海流に乗り半島を往来していたのでした。

 ちなみに、新羅の領域ではないものの半島南東部の阿羅伽耶からはどうしても海流の都合で能登半島にしか行けず、敦賀経由で九州に戻っていたのです。そこにも久麻加夫都阿良加志比古神社(石川県)があるのです。 

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この佐賀関の中心部には椎根津彦神社もあれば早吸日女神社もその摂社群が色濃く鎮座しているのです

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無題.pngなお、早吸日女神社については、当会のメンバーである ひとつ上がりのカフェテラス 氏が以下の三 本をアップされています。こちらも併せてお読み頂きたいと思います。

では、百嶋由一郎氏が残した神代系譜からも確認しておきましょう。

 椎根ツ彦は贈る崇神の弟なのです。

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大山咋神は阿蘇高森の草部吉見と宗像三女神の市杵島姫との間に産まれた人物で、大山咋から贈る崇神の舵取り=船長の航海術は、当然にも豊玉彦=ヤタガラス系安曇族族から受け継いだものでしょう。

当然ながら今回取り上げた椎根ツ彦も舵取りだったのです。これらについては以下を参考にして下さい。


ひぼろぎ逍遥

285

北北東に進路を取れ! D 石川県七尾市のクマカブトアラカシヒコ神社

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

53

阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 B

52

阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 A

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阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 @


では最後に“すると、その海峡を亀の甲羅に乗り、釣りをしながら羽ばたきくる人(袖を振り向かってくる人)に会いました。神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、その者を近くに呼び、「あなたは、誰か?」

とお尋ねになると、「私はここの国つ神でです」と答えたので、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、「あなたは、海の道をよく知っているか?」と尋ねました。すると、「よく知っています」と答え、そこで神倭伊波礼毘古命は、「では、私に仕える気はないか?」と尋ねると、「お仕えいたしましょう」と答えました“ 亀の甲羅に乗り、釣りをしながら羽ばたきくる人 とは何でしょうか?


 無題.png無題.pngこれについては佛教大学の黄 當時教授が一つの提案をされています。

 詳しくは、

「悲劇の好字」“金印「漢委奴国王」”の読みと意味 

黄 當時 2013年刊 不知火書房(福岡市)092-781-6962 をお読み下さい。

また関連して当方も田ノ浦を書いています。


 ひぼろぎ逍遥

698

田ノ浦 C

687

田ノ浦 B

696

田ノ浦 A

695

田ノ浦 @



無題.png手っ取り早くネット上でお読みになりたい方は、PDFながら左の論文をお読み頂くことができます。「亀甲」が帆を持った外洋船(大波に対応できる甲板付)であることがお分かり頂けると思います。


無題.png 私が好い加減に要約すれば、ポリネシアでは舟や船は「タウ」or「カウ」と呼ばれ、後置修飾語としてヌイ(大きい)、双胴を意味する複数のフロートを持つと、「ルア」が加わり、大きな双胴の外洋船はカウルアヌイ(カヌー、「枯野」)、タウルアヌイと呼ばれる事になるのです。

これが「古事記」などでも書きとめられ、田(タウ)田舟、従ってその寄港地が田浦、田の浦などと呼ばれた可能性を考えておられるのです。

当然にも、椎根津彦、椎根ツ彦が乗った外洋船と思われる「亀甲」もその表記であると思われるのです。

つまり、「古事記」にはポリネシア系言語が書き留められており、それを確認できるのです。


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年06月12日

815 「古事記」中つ巻 神武編 A “神武巡幸と神武僭称贈る崇神の神武東征とを分離しよう”

815 「古事記」中つ巻  神武編 A “神武巡幸と神武僭称贈る崇神の神武東征とを分離しよう”

20200331

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える私達にとって、「古事記」の内容を真に受ける事が無い事は言うまでもないことです。

「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄と言うより最初から創りでかしたものでした。

我々からは、それがどのような意図で本来の正統皇統が捻じ曲げられ、藤原が自らの先祖に当る崇神(第10代とした神武僭称贈る崇神)を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも説明したと思います。

ここに非常に分かり易い口語訳がネット上に有ります。そちらの意図に反するものになるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、今回は「和人」というサイトから引用させて頂きたいと思います。勝手ながら非常に感謝しております。

当方は、神代〜古代に掛けて最も重要な部分に関して百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと考えています。

 今回取り上げるのは、有名な神武東征と神武巡行伝承とを分離しなければならないという話です。

無題.png

そして、その後、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と五瀬命(いつせのみこと)はその地を発ち、次に筑紫の岡田宮(福岡県芦屋町付近か)に一年お留まりになりました。

さらにその後、阿岐国の多祁理宮(たけりのみや:広島県府中市近郊か)に七年、それからさらに東に行き、吉備の高島宮(きびのたかしまのみや:岡山県玉野市南の宮之浦か)に八年お留まりになりました。

神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と五瀬命(いつせのみこと)は、その地を発ち、さらに東に向かっていた時、速吸門(はやすいのと:海流が速い海峡(明石海峡か))がありました。すると、その海峡を亀の甲羅に乗り、釣りをしながら羽ばたきくる人(袖を振り向かってくる人)に会いました。

神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、その者を近くに呼び、「あなたは、誰か?」とお尋ねになると、「私はここの国つ神でです」と答えたので、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、「あなたは、海の道をよく知っているか?」と尋ねました。すると、「よく知っています」

と答え、そこで神倭伊波礼毘古命は、「では、私に仕える気はないか?」と尋ねると、「お仕えいたしましょう」と答えました。

こうして、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、船棹(ふなざお:船をあやつるのに用いるさお)を差し渡しになり、その国つ神を船に乗り移らせました。そして、すぐに槁根津日古(さおねつひこ)という名を賜(たま)いました。

これが、倭国造(やまとのくにのみやつこ:奈良県盆地東部の豪族)らの祖です。

その後、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と五瀬命(いつせのみこと)一行は、さらに東に進みになります。

 この槁根津日古は「日本書紀」では椎根津彦と呼ばれます。


椎根津彦神武天皇が東征において速吸門で出会った国津神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では曲浦(わだのうら)で魚釣するところを椎の棹を授けて御船に引き入れて名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津日子の名を賜ったという。

ウィキペディア 20200330      07:35 による


 ここでも百嶋由一郎氏の説に従い最終神代系譜をご覧頂きます。

 この珍彦とはこれまた神武僭称贈る崇神周辺の人物、弟とされているのです。

 やはりこの珍彦を水先案内人とした自称神武とは崇神天皇だったことが分かるのです。

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無題.png何のことはない…。弟を案内人にしただけだったのです。

 このことから、当然にもこの神武も贈る崇神だったと分かるのです。

一方、百嶋先生も、神武東征説話は贈る崇神の話でしかなく、これとは別に神武巡幸(巡行)伝承が存在していると言われていました。

私も5年程前に筑豊から広島から岡山へと広がる神武伝承を追いリポートを残していますが、最も重要なのは今や忘れられかけているカムヤマトイワレヒコ一行による神武巡幸伝承なのです。

この神武ご一行が甲斐は甲府の山上楽園を発見した天津司神社について書いています。

余裕がある方はこの感動的な話を是非お読み頂きたいと思います(写真は甲府の天津司神社の祭礼)。


天津司神社 カーナビ検索 山梨県甲府市小瀬町557

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これらの話の一端でも知れば、そもそも先行する神武巡行伝承があり、それに準え贈る崇神を初代神武に仕立て上げ、藤原の直接の先祖である贈る崇神を初代神武と装ったと推定できそうなのです。

このように自らのウイングを拡げ事実上の藤原天皇制を強化しようと後の藤原氏が創作したのだと分かるのです。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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懸案だった二つの天都賀佐比古(彦)神社を参拝 “徳島県美馬市”

663

続)徳島の天津司神社 @〜A “四国の「もう一つの

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662

徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの

歴史教科書問題」氏による近稿からの転載”

   

これは甲府と一部徳島の神武巡幸伝承、以下は尾道、福山の神武伝承です。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

270

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269

王太子宮をご存知ですか? B “広島県福山市藁江の王太子神社”

268

王太子宮をご存知ですか? A “広島県福山市内海町の皇森神社”

267

王太子宮をご存知ですか? @ “広島県尾道市福山市の知られざる古社群”


尾道〜福山に掛けての神武巡行です。外にも書いていたと思うのですが、とりあえず思い出す範囲でご紹介しておきます。

くれぐれも贈る崇神の神武東征説話に対し、本物の初代神武による神武巡幸伝承を分離して頂きたいと願ってやみません。

あくまでも、東征をやったのはハツクニシラス自称神武によるものだったのです。


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:13| Comment(0) | 日記

2021年06月11日

ビアヘロ180 5回も追加実施した“出雲の国譲りは旧朝倉郡で起こった”トレッキング(下)

ビアヘロ180 5回も追加実施した“出雲の国譲りは旧朝倉郡で起こった”トレッキング(下)

20210528

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


20214月末(Gウイーク前)当会は北九州市を中心とする丁巳歴史塾との合同トレッキングを行ないました。

予定した日が過去二回ほど雨で流れたことから、三度目の正直といったところだったのですが、ようやくの上天気で二十数名によるトレッキングが無事終わりました。

ただ、昔の様に土日はどちらも休みですから…といった労働環境が崩れ、非正規のパート労働が広がってくると土曜日は行けるけれど日曜日は仕事だから…という方が多くなり、結果的に、二度も三度も追加トレッキングを行なわなければならなくなっているのです。

そこで、5月の春日市の若き大国主祭祀が確認できるトレッキングまで都合5回の追加トレッキングを行ない、暫くして7回目もやろうかとも考えている所なのです。

ここでは、このトレッキングのリポートを行なおうと思うものです。

実際、同じエリアで6回もトレッキングを行なうと、くたびれはて、事実、膝を痛めて今も体調を崩している状態にあります。

しかし、苦労すればそれなりの代償はありますし、新たな発見もあるものなのです。中でも新規で飛び込み的参加者が3組ほど現れたことです。自らの意志で参加を求めて来られる方は、誘って参加されるよりも十倍以上の継続性がある方が多く、そのような方が都合3組も加わられた事は有難い事でした。

ともあれ、雨で数回延期した朝倉のトレッキングは延40数名の参加となり、行動する古代史、神代史ファンを得られた事は有難い喜びでした。

加えて、ここ二十年近く古代史関係のブログを書いておられる朝倉市(甘木)の方との接触も産まれ、朝倉周辺でのテーブルに着いた講演会、研究会の実施も考えなければならないと思うようになりました。


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まず、トレッキングの配布資料をご覧頂きたいと思います。

参加人数が多くなると、機動性に欠けトレッキングには不向きであることは言うまでもありませんが、一緒に行動すると言う事は同じ現場を見ていると言う共感をおもたらし同じ釜の飯を食う効果を産み出しますし、現場と机上の論理の融合性を意識した立論は非常に大きな効果を得ることができるのです。

何よりも数十〜百キロ近く離れた人々が一堂に会して同じ神社群を観察すると言う機会を持つことがどれほど重要な事が分かってくるのです。

事実、今後も会の活動に参加してくれるであろう新規のメンバーがその中から得られるだけでありがたいのです。では、当日のトレッキング資料をご覧頂きましょう。

2021411日(日) 大国主の国譲りの現場(元出雲)は朝倉郡を探るトレッキング (案)

20210328

太宰府地名研究会 古川 清久

 オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 基本は各自車の用意を…


同日雨の場合、当日は中止とし延期とします。(事実日程は3月以来雨のため何度か変更しています)

午前1100に朝倉市甘木380イオン甘木ショッピングセンター(甘木IC東隣)P正面県道側

2021328日(日)10:00〜(予定)15:00 雨天の場合は4月第4週 日曜に延期(参加は要連絡)

                       尾杖代 古川 清久(太宰府地名研究会 編集員)

集合:朝倉市福岡県朝倉市甘木380イオン甘木ショッピングセンターP

お賽銭は各自ご用意下さい!


@ 倭五玉神社  倭の五王の一族の墓地を守る神社か?謎の群集墓があり久留米の人達が掃除に来る

  献身的にこの神社を守る人々がおられますのでできるだけ賽銭を奮発してあげて下さい!

A 松尾神社   現在は大山咋を祀るも元は田神社(無格社)しかも山鹿市菊鹿町の松尾を勧請する

B 高住神社   彦山(高木大神)の出張所か?

C 田神社    町中の本町公民館に隣接するかつての遊水地にあり堂々たる鎮守の社がある

C 昼食休憩   仮 案 筑後屈指のうどん店「大國屋」広い駐車場と床面積(朝倉水害の犠牲者)

D 大巳貴神社  九州の古代史家、学芸員も分からぬ大国主祭祀 この事を知らない人も多いが…

E 田(天神)社 大国主の国譲りの「日隅宮」はここだった 奪われた葦原中津国が見渡せる場所!

F 老松神社   朝倉市下渕840

G 寄志神社   朝倉郡を見渡す謎の古社肥前盲僧、傀儡の拠点か?

@ 倭五玉神社  保安のため公表できません!  倭の五王の一族の墓地を守る神社か?謎の群集墓

A 松尾神社   カーナビ検索  朝倉市古賀203   現在は大山咋を祀るも元は田神社(無格社)

A 松尾神社に替えて西宮神社に行くかも! 事代主を祀る西宮神社か? 朝倉市甘木1846

B 高住神社   カーナビ検索  朝倉市朝倉市柿原1048番 もしかしたら彦山の出先機関だった?

C 田神社    カーナビ検索  朝倉市甘木633-1  町中の本町公民館に隣接するかつての遊水地

  余裕があれば甘木公園の田神社もお見せします

昼食休憩  朝倉市千手255-1    仮 案  筑後屈指のうどん店「大國屋」広い駐車場と床面積

D 大巳貴神社  カーナビ検索  筑前町弥永697-3  古代史家、学芸員も知らぬ大国主祭祀

E 田(天神)社 カーナビ検索  筑前町弥永1172   大国主の国譲りの「日隅宮」はここだった

F 老松神社   カーナビ検索  朝倉市下渕840   形を変えた大幡主系祭祀か?

G 寄志神社   カーナビ検索    朝倉市楢原664    朝倉郡を見渡す古社肥前盲僧、傀儡の拠点?

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まず、倭五玉宮ですが、倭の五王のイメージを振るい脱げません。しかも松野連系図を見ると、零落したこの一族は、倭国王哲、満から牛慈になると夜須の評督へと降格され、次も長堤、大野と評督以下と身を窶していることが分かるのです。この本拠地が筑後久留米だったとしてこの神社の価値は余り有ます。

 理由は簡単で、百嶋神社考古学の立場からは、田神社=タノカンサー=大幡主+大山祗の第二世代が大国主命=大己貴だからです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分) 


さて、大国主命の国譲りの話はどなたも良くご存知ですが、国を空け渡し高木大神(高皇産霊尊)から天日隅宮を建ててもらい、天穂日命に祀らせたとされています。

 百嶋神社考古学では、この天穂日命こそ田神様のお一人の大幡主(埴安命)の息子であるヤタガラスになりますので、それだけでも話が繋がってきますね。

「天穂日命」がヤタガラスであることについては、ひぼろき逍遥 175 「天穂日命(アメノホヒノミコト)とは」を併せてお読みください。

以前から、何故、筑前町と旧甘木市との境に縣社クラスの大己貴神社が置かれていたのかが分からずに奇妙に思ってきました。

普通なら、一定の領域の中心部若しくはその背後の高台といったところに置かれるはずなのですが、筑前町が朝倉市(旧甘木市)に突き出した先端のような場所に置かれているのです。

してみると、大国主命の転居先が、故地(古地)が見える隣町(隣国)に置かれたと考えればすんなりと理解できるのです。

では弥永の田神社の新旧の神社縁起をお読みください。

お読みになれば分かるように、まず、筑前町大字弥永に日隅宮という字があった(元々そこに大国主命の社があったと考えられそうですが、それが、国譲りの元宮があったという名残を持つ地名なのか?それとも国譲り以前の宮があったという痕跡地名なのかは今のところ分かりません)事はまちあいないようです。

そうなると、やはり、甘木、朝倉の一帯が国譲りに関わる故地であったようです。

最低でも、この筑前町弥永の田神社からそう遠くない所に本当の出雲の日隅宮(大国主の国譲りに関わる重要な地名)とも考えられる重要な内容を積極的には触れたくないようです。

「出雲の国譲りの話が九州であるはずがない…」と言う通説になびくお役人の発想です。

普通なら、使えるものなら何でも利用して町興しと村興しと大はしゃぎで使いそうなのですが、「日本書記」、朝廷、天皇…に繋がるとなると、既存の権力に尾を振り自己規制してしまうのでしょう。

結局、九州王朝論の立場に立つものしかこの驚愕の事実を掘り下げる事はできないのです。


出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。

大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)

高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)

所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)神魂命が「「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)

崇神天皇607月、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)

ウィキペディア (20160629 23:00)による

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これから、日隅宮を探す作業に入らなければならないようです。

 勿論、もし、小字日隅宮が国譲り以前の宮の名称でもあるのならば、現在の大己貴神社が鎮座している場所も含めて再検討する必要があるでしょう。まずは小字日隅宮を探す作業から入りたいと思います。

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一族関係者だけの努力で維持されており参拝に際してはお賽銭を多めにご寄進下さい。


某所で車から見慣れない神社の鳥居を見掛けたことから、急遽、車を引き戻し、同行の内倉武久氏と確認に行きました。

場所は、某養鶏場と隣り合わせの微高地の縁のような場所でしたが、民家の裏手の林の中にきちんと手入れがなされた、かなり広大なひもろぎがあり、やはり、なにがしかの神社が鎮座しているようでした。

夕暮れに近いこともあり、境内に入ると光はなく、言い知れぬ不気味さも漂っていました。

始めは戸口の開いた裏から迷い込んだのですが、神社の存在が確認できたため、ぐるりと周り、改めて表参道から入り直しました。参道を進み鳥居の神額が読めるところまで来て、心臓が止まるほど驚きました。そこには、なんと、「倭五玉宮」と書かれていたのでした。

もちろん、そんな神社は見たことも聞いたこともありません。そもそも、なんと読むのでしょうか?

始めは讃、珍、済、興、武のいわゆる倭の五王と読み違えたのですから、当然にも九州王朝の痕跡を残す神社ではないかと緊張したことは言うまでもありません。

神額には明らかに「玉」と書かれており、倭の五王ではありません。

しかし、その五玉の意味は、逸魂の可能性もありますし、五つの御霊を意味しているのかも知れません。もちろん、五王のカモフラージュなのかもしれません。

勝手ながら、中を見せて頂くと、入口には「天御中主大神宮」(久留米水天宮、東京水天宮の祭神)の神額もありますし、「太古□□日向小戸之廟也」と書かれた掛札があるなど(欠字は筑紫?竺紫?)、もしも、本物ならば、大変なものかも知れません。

某地と言えば、旧某町であり、かつて、大量の甕棺墓が発見され、ガラスの玉壁(現在は東京博物館)まで見つかった遺跡のあった所ですが、その某遺跡からもそう遠い場所ではありません。

鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)については、これまでにも ひぼろぎ逍遥(跡宮)として、083タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市甘木から”217 甘木に二つ目のタノカンサーを発見した!(共通掲載)として書いていますが、二つ目、三つ目の田神社を発見したことから、今回改めて「福岡県神社誌」上中下を調べてみると驚愕すべき事実に直面したのでした。 ざっと目を通しただけの荒いカウントですからその範囲で理解して頂きたいのですが、「田神社」として幟を揚げた神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社近く(範囲を広げると60社)が拾えたのでした。

今回はこのリストを公開する紙面がありませんので村社として掲載されている一社を紹介するだけに留めますが、これを基礎資料として今後の調査を考えたいと思っています。

鹿児島のタノカンサーが甘木朝倉になどあるはずがない!とお思いの方は多いと思いますが、詳しくは、blogひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂くとして、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われていました。

今回、朝倉郡だけでも40社近い無格社を発見した事によってその実体がある程度掴めた事にはなるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。

朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。

文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。

中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。


今回のトレッキングは出雲の国譲りの現場が筑後川北岸の旧朝倉郡ではなかったのか?また、それを実行したのはタカミムスビ(彦山)と高木大神の次女タクハタチヂヒメを妃とした阿蘇高森草部吉見神社のヒコヤイミミだったという可能性です。それらは周辺の神社の配置状況を調べれば可能です。

何故ならば、後の鹿島大神とは武甕槌ことヒコヤイミミだからです。朝倉郡の背後地には彦山があり、天照大御神とは呉の太伯大率姫氏と高木大神の叔母(現在兵庫県佐用町の佐代都姫神社の天照御祖宮に鎮座)の間に生れた女神であり、高木大神系にあたるのです。

このため同地の国譲りとは大幡主+大山祗(もしかしたら金山彦系も)VS 高木大神+阿蘇氏という構造で衝突が続いていたと考えられるのです。


百嶋由一郎 神代系譜、講演録音声CD、手書スキャニングDVDを必要な方は09062983254

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ