太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年10月18日

387 国東半島 朝来川の八坂神社 “大分県杵築市弁分の八坂神社”

387 国東半島 朝来川の八坂神社 “大分県杵築市弁分の八坂神社”

20170413

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久

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 国東半島南側の付け根、国東市安岐町の奥に朝来野川が注ぎ、朝来という地区があります(但馬の朝来)。

 ここには「弁分」という奇妙な地名もありますが(このような珍しい地名はそれだけで氏族の移動のメルクマールと言えます)八坂神社が鎮座しています。多分、物部系氏族との関係があるでしょう。

 この「弁分」という地名は福岡県飯塚市の中心部にもあり八坂祭祀と併せ関連を追及しています。

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八坂神社 カーナビ検索 国東市安岐町朝来弁分2588


 まず、旧安岐町の「安岐」が安芸の宮島の「安芸」へと地名移動している事は明らかでしょう。

厳島神社の市杵島姫祭祀が通底している事は明らかで、安岐の八坂(スサノウ)祭祀が、安芸の厳島の瀛島姫(イチキシマヒメ)が、姫島に逃げたアカルヒメとスサノウの子である事を考えれば、「安岐」「安芸」の関連も一目でしょう。

 百嶋由一郎氏が作成した最終神代系譜と極秘神代系譜を見比べれば、多少はその背景が見えて来ます。

 百嶋神社考古学では、イザナギ(シラギの昔脱解の後裔)とイザナミ(瀛の一族イスラエル系金山彦の妹)の間にスサノウが産まれているとします。

 そして、スサノウと白族として金山彦の一族と強固な姻戚関係を持ったアカルヒメとの間に産れた瀛の一族が市杵島姫=厳島姫=瀛島姫なのです。

 そして、通説でも伝承でも、アカルヒメはスサノウを逃れて姫島(恐らく筑前ではなく豊の姫島)に逃げて来ているのです。

 このことは、昔脱解(ソクタレ)の後裔イザナギ、新羅の王子様であったスサノウを逃れて、金山彦系、大幡主系の人々が国東に展開したように見えるのです。

 言うまでもなく金山彦=秋葉様は先端的な製鉄技術を持っていました。

 これが国東半島の古代製鉄と関係していると考えているのですが、問題が巨大なだけに今後に回します。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


 研究目的で資料(神代系譜、音声CD…)を必要とされる方は09062983254までご連絡ください


20060131

国東で2万トンを生産した跡


国東半島・重藤遺跡ですね。朝日新聞記事(1977.9.23)あるが、発見者の上野鉄雄さん、九州大学考古学研究室では発表を控えている旨を鹿島昇さん、鈴木旭さんらが述べており、その事情を知らない?大分大学教育学部編「国東半島」や、窪田蔵郎さん「鉄の考古学」でも同遺跡出土鉄剣の年代測定値を載せています。春成教授らによる弥生時代溯上説、日本出土殷代遺物の確認(山形・三崎山出土青銅刀子は殷・安陽期と確定(平尾良光「古代東アジア青銅の流通」)。など)、亀卜・卜骨が弥生中期頃から確認、先の川崎真治さんの説から、克殷による弥生期開始の可能性はあるが、製鉄がフェニキア人と繋がるには海路ルート上の島々での鉄滓出土遺物が殆どない為に難題ですが、聖書に鉄を「赤土からとる」旨の記事(鹿島さん)、山の赤土を川や流水に流して山砂鉄をとる方法は確認が必要ですがほぼ同じらしく、ヒッタイトがあったトルコで「赤い河」意の川もあり、とにかく中継地でして石川三四郎「東洋古代文化史談」ではフェニキア人がインドネシア・バダック族を使っていた旨述べ、G・GERINI報告(Researches on Ptolemy's Geography of Eastern Asia)でフェニキア文字碑文というがブラフミー文字碑文か不明で大学図書館に本があり未確認で、タイ・バンチェン遺跡は当初年代より新しく、新日鉄のHPで述べる製鉄技術伝播ルートが今のところでは。因みに、「牛」文字は来たが動物の「牛」は後から来たようです。「牛」崇拝が先に来た。牛王宝印。また、鹿島さん(「バンチェン・倭人のルーツ」など)は重藤遺跡以外にも何箇所か遺跡があるそうです。最後に、貝紫染料の乾燥防止に蜂蜜を使い、聖書で蜂蜜の採り方が載ってます。また、すこし前に上野鉄雄さんの返信では「船の問題はどうか」が印象的でした。長々失礼しました。

先般、国立歴史民族学博物館・春成教授らにより「弥生時代開始期溯上説」が発表された。これにより吉野ヶ里遺跡の年代も大きく遡るようです。また、吉野ヶ里遺跡や多くの遺跡出土の甕棺からインド・タミール地方出土甕と共通するグラフィティーが大野晋さんにより確認され、吉野ヶ里遺跡でも確認された茜はインドから伝来する旨を上村六郎さんが主張し、弥生期出土ガラスもインドから伝来と肥塚さんらにより科学分析結果発表、川崎真治さんは吉野ヶ里遺跡からピッキングによる「牛」の甲骨文字刻字石を確認し、静岡・水窪石(川崎真治さん)、インドネシア(G・GERINI)、沖縄、フィリピンではフェニキア文字石などフェニキア関連品が確認され、インド・殷・中近東と日本との繋がりがありそうです。因みに、フェニキア人は地中海で貝紫織物を商品の一つとし、ゲルハルト・ヘルムさんは彼らがアカバ湾からインド周辺を商業地域とした旨述べ、インド・ブラフミー文字の起源はフェニキア文字との説からインドでも多く活躍したようで、後に「エリュトュラー海案内記」でもインド周辺の交易品として記載され、地中海の貝では数千から数万個で1gしか貝紫染料は採れないが、インド・太平洋周辺の貝(アカニシなど)では1個から1g程度採れるから、彼らフェニキア人が東南アジア経由で太平洋へ向かう動機になり、結果黒潮に乗り日本への可能性が大いにありうる訳です。染織研究の後藤捷一(ゴトウショウイチ)さんは中・南米伝統の貝紫染織を貝の違いだけでフェニキア由来と述べ(月刊「染織α」)、南米・パライバ碑文もフェニキア文字説があり、北米ではバリー・フェル教授が「紀元前のアメリカ」でフェニキア人往来説を述べたように、吉野ヶ里遺跡出土の貝紫布も彼らの可能性がある訳ですが、まだまだ問題点は残ると思います。長々と失礼しました。

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 こんなことを発表したら学会追放になるため隠されているのです。要は学問ではなく利権なのです。

 奥野正男教授の本(卑弥呼の時代奈良県では鉄は一切出土しない…)でさえ佐○ 真は握り潰そうとしたのですから推して知るべしと言うべきでしょう。

 話を戻しますが、これも杵築市安岐町でしたか歳ノ神で見掛けた巨大常夜灯です。これに至っては豪華の極み、贅沢の極みであり驚くばかりです。

 さて、この神社の話に戻します。

 この神社がスサノウを祀る立派な八坂神社である事は間違いありません。

 神社資料がないことから、良く見せて頂いている「神社と古事記」を参考にさせて頂きます。


八坂神社 大分県安岐町朝来弁分

20100512

奈良期に京の祇園社を勧請した宇佐神宮行幸会の止宿地


[住所]大分県安岐町朝来字弁分
八坂神社(やさかじんじゃ)は、大分県安岐町朝来の弁分にある神社。弁分八坂神社、弁分八坂社などと呼ばれる。宇佐神宮行幸会においては止宿地となり、往時は牛頭之宮などとも。御朱印の有無は不明。
創祀は奈良時代の天平神護元年(765年)とされる。ただし、これは行幸会の始まりの年ともされ、それに合わせて勧請・建立されたとも考えられる。
一般的には弁分は古くは政治の中心地である別符で、当社は当時の国司が京都祇園宮(現
八坂神社)の御分霊を奉遷して祈願所としたと言われる。
当時の国司にとって、宇佐の行幸会は最大級のイベントだったはずで、それに合わせて、宇佐の主神の1柱である
宗像三女神の父にあたる建速須佐之男命(牛頭天王)を勧請した、ということだろうか。
当社付近、国東地域には八坂神社が集中している。創祀の早さから考えて、当社が中核神社か。なお、創祀年が同じもので、宇佐神宮とのゆかりが深いものに、同市内に椿八幡神社、宇佐市に妻垣神社がある。
どちらにしろ、宇佐八幡宮と密接に関係のある神社であり、神領の扱いを受けていたようだ。鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)銘のある板碑がある。八坂社板碑として、県指定有形文化財。
境内社に五霊社(ごれいしゃ)がある。大正8年(1919年)に当社本殿新築に伴い、旧本殿を移築したもの。
その小屋裏内に昭和7年(1932年)の修理棟札が残されており、これに、元禄10年(1697年)の建立とある。その裏面には当社が、五霊社、天満社、大年社の合祀である、とも。
菅原道真はもとより、当社御祭神の御子神である大年神も祀られているようで、後年の近郊神社の合祀か。
正徳5年(1715年)、天明2年(1781年)に修理された記録が残る。彫刻で賑やかに飾り、江戸中期の特徴をよく表している建築物。町指定有形文化財。
現在の本殿の前には仁王石像が左右に安置されている。凹凸の激しいユニークな表情。ロン毛の狛犬、大きな楠と馬の像などもある。
旧暦615日、新暦の7-8月に夏祭りがある。祇園祭。子供たちが大きな山車の中から「コンチキチン・コンチキチン」とカネや太鼓打ち鳴らす様子を、この日を楽しみにしていたお年寄りが笑顔いっぱいで見守る。同地域の人々の親睦を図るほのぼのとした祭典。


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古い神殿に覆屋を掛け(鞘殿を設け)保存している事には感動を隠せません


 始めは排除された消された神々の牢獄ではないかと思ったのですが、入れ物さえも大切にする地域の方々の心根にしばし呆然とした記憶があります。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:48| Comment(0) | 日記

2017年10月15日

386 国東半島のただならぬ天満宮 “大分県国東市向田天満宮”

386 国東半島のただならぬ天満宮 “大分県国東市向田天満宮”

20170411

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


以前、ひぼろぎ逍遥147 神社の見方について “国東市の向田天満宮を見て”@ 基礎編20141206

を書いています。

以下再掲

現在、国東半島の某所(大分県国東市国見町)に車を止めてブログを書いています。

 本来は、別の講演用パワー・ポイントを創らなければならないのですが、気分の問題もあり、また、ブログは書こうと思った時に書かなければイメージやアイディアが継続して湧いてこない事から順番を入れ替えざるを得ないのです。

 しかし、いざ書き始めると、大して面白くもない上にあまり重要なものではないことから?無理してお読み頂くほどのものではないのではないかといったブレーキが掛っているのも事実です。

 国東半島についてはこの間かなりの神社を見て回っています。

ただ、国東と言えば「六郷満山」で知られた天台宗山岳修験の地であり、あまり神社に目を向ける人はありません。

 逆に言えば、その様なところだからこそ発見もあるのであり成果も上がるとも言えるのです。

 午前中は大分県の豊前市から中津市へ、そして宇佐市周辺の普段訪れない神社を見ていたのですが、午後からは国東半島でも南半分の神社で見落としている神社を潰して回っていました。

 勿論、驚くような発見はなかったのですが、少し確信を持つに至った事がありましたので幾つかお話ししてみます。

 その一つは鞘殿(サヤデン)です。といっても全く何の事だかお分かりにならないでしょうが、社殿でも参拝殿ではなく本殿(神殿)の外に屋根、壁を掛け、本殿そのものを風雨から守るという仕組みです。

 今日は、数は少なかったのですが、午前中に回った神社のといっても3、4社でしたが、その全てが鞘殿の形式を持つものだったのです。

 この鞘殿は山陰から但馬、丹波地方でもある程度見ますが、やはり多いのは筑後地方であり、丸い玉石を基礎に使う風習と併せ、筑後物部氏の社殿の造り方といった認識を持っています。

 逆に言えば、筑後物部氏の建築様式と言った理解をし、正体不明の神社に出くわした時の一つのメルクマールにしてもいるのです。

朝から数社見て午後にも見るとなると、やはり、筑後川流域から、遠賀川流域に進出したとされる筑豊の物部25部族のどれかが豊前にも組織的だって展開していたと考えるべきではないかと改めて思っているところです。

 その神社は国東市でも国見町の向田集落にありました。国東町との境界に近い海岸部から1キロ近く内陸に入ったところにある向田天満宮です。

 小さな集落であるにもかかわらず、社殿ばかりではなく立派な社務所があるなど、「その結束は金鉄の如し」と喝采したくなりそうです。


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 さて、菅原道真が物部とはあまり聞いたことがないと思われる方が当然おられるでしょうが、物部とは職能集団であり土師氏もあれば、暦法家、武装した戦闘集団から産鉄種族や造船氏族…もあるのです。

一般的には菅原道真は土師氏などとされ皆さんそれで安心されていますが、百嶋由一郎先生からは、“道真の一族はヤタガラスの一族とナガスネヒコの一族との政略結婚の中で生まれた氏族の末裔であり、ご本人も使い分けをされています…云々”と言われていました。

 当然、ナガスネヒコの流れを半ば隠していたのですが、その前に、太宰府天満宮を始めとして全ての天満宮が本当に道真を祀っていたのかと言えば非常に怪しいのです。

 それは、道真の追放により藤原一族に災禍が降りかかったとし、祟りを恐れ全国に天満宮を創ったとしてはいますが、では、その前はどうだったのでしょうか、当然にも道真の祖先先祖神が祀られていたはずなのです。そして、藤原はその一族が疎ましかったはずなのです。

 恐らく藤原一派は、「道真を祀れとして」各々の先祖神を表面から消し去ったのでないでしょうか。

 皆さんも天満宮に遭遇すれば菅原道真を祀るものと短絡して安心せずに、その背後にある境内社、分社、摂社の配置を見つめてお考えになることをお勧めいたします。

 最後に、この向田天満宮の参拝殿の天井に羅針盤が置かれていました。

これは道真の先祖に暦を読む職能集団=暦法家がいたことも同時に示しています。これはかなりあちこちで見かけますので注意して見ておいてください。博多の櫛田神社にもありますね。


参考「菅原道真の先祖神は何か」百嶋由一郎先生2012121日講演 牛島稔太のHPより


この赤城神社と、同じ群馬県内に金山彦を祀った榛名神社がございます。これが喧嘩を始めたのです。それで、赤城神社のお嬢さん、そして榛名神社のお嬢さん、両方とも引退ですよ。スサノオのところから逃げ出して、そしてすぐに、それを助けたのが、両方の危機を救ってくれたのが、天皇家と豊玉彦です。そういう関係で、ここには豊玉彦に回ってきた姫たちが、一家の生活を助けてくださいということで嫁いでいらしたのです。豊玉彦の御きさき様たちには、豊秋津姫、ミズハノメ、イカコヤヒメ、杉山大神、前玉姫、武内足尼という方々があります。菅原道真公のご先祖は、一番お若い武夷鳥(タケヒナドリ)〔母、武内足尼 × 父、豊玉彦〕となります。このことを証明するにはどのようなところをお話すればよいか? それは溢れるほど、お話しする材料が多すぎます。多すぎますので、思い出し思い出しお話します。

それから、この途中において、一番最初、豊玉彦の京都における紋章をどうすればよいか、ということで頭に浮かんだのが葵の紋章です。土に這っている葵です。これがですね、天下分け目の大喧嘩の結果、豊玉彦に頼ってきた人々も葵の紋章にあやかって、ヤタノカラスが使っている葵の紋章にあやかって、立ち葵の紋章に切り替えられました。そしてそのときの場所はどこであったか?即ち、豊玉彦に助けられて、住まわせてもらった場所は、一番最初に住んでいた場所は、鹿児島空港の近くの鹿児島県溝辺町の界隈に、この人たちの秘密の隠れ家があります。この人たちとは大山ズミの神の一族です。大山ズミの故郷は朝鮮半島の金海(向こうの発音では、キメ)です。従って、そのお嬢さん方もここの出身ということになります。

そして今度は、その後がまた複雑になりましてですね、また、その天下分け目で非常に困った時期があった。各豪族がその豪族の座を維持するのに困った時期があった。その代表的なひとつと申し上げていいのが、物部、奈良天理に住んでいた天下の物部、現在、石上神宮がございます。この物部を打ち破ろうとしたのが、ヘブライ系の棟梁、金山彦の系統です。そして、物部もヘブライ系なのです。すなわち、ヘブライ対ヘブライ、判り易くいうとユダヤ人対ユダヤ人の対決です。その人たちが喧嘩を始めたので、この立ち葵の紋章も使えなくなりました。使えなくなったけれども、まだまだ勝った方はこれを維持してあります。負けたほうは、さあ、どうなったか?久留米の古いお宮さん、水天宮の御紋章は橘です(百嶋先生は、別の講演では、久留米水天宮の紋章は少し、橘紋を修飾しているとおっしゃっています:牛島注記)。負けたほうは葵の紋章はだめ、橘の紋章に切り替えたのです。その名残が久留米水天宮の橘です。そして、橘紋章の大本山とも申すべき、伊勢の国の一宮、山幸彦を祀ってある物部神社です。そこも天下の一宮といってもあやかった紋章はだめと言うことで、橘に切り替えてらっしゃいます。そういう大事なカラクリが何回かあっています。


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羅針盤のようですが、暦のカラクリです。これも注意していると良く出くわします。


境内社に「明見宮」とありますが、もちろん「妙見宮」のことで天御中主(水天宮)のことです

六郷満山の国東半島には杵築市に編入された安芸があります。

当然、安芸の宮島の安芸に地名移動しているのですが、この安芸に大田村があるのです。

大田村(オオタ)は、大分県西国東郡にもあった村ですが、近年、杵築市および速見郡山香町と対等合併し、新市制による杵築市となり消滅します。

しかし、広島県に安芸太田町がありますね。太田は、当然、大田田根子命 意富多々泥古命の太田のはずですね。

オオモノヌシを祭祀する者として、自身がオオタタネコ を指定したと「古事記」、「日本書紀」ともに書いています。当然ながら、物部氏のはずなのです。


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以上再掲分


一応、必要な事は全て書いているようですので、以下、三年後の写真を加えます。


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遅ればせながら境内社として愛宕社と山神社を見出だし製鉄がこの財力を支えていた事に気付きました

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 17:01| Comment(0) | 日記

2017年10月12日

385 国東半島の古社奈多八幡宮とは何か? “大分県杵築市八幡奈多宮”

385 国東半島の古社奈多八幡宮とは何か? “大分県杵築市八幡奈多宮”

20170411

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川  清久


 福岡市東区に奈田(ナタ)海岸があり、兵庫県に灘の生一本灘(ナダ)があります。そして国東にも奈多八幡もあるのですが、共に大幡主の一族が展開した土地だったのではないかと考えて来ました。

今回、二度目の訪問でゆっくり見せて頂き、この神社の性格がおぼろげながらも分かるようになってきました。

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奈多海岸の沖合(と言っても目の前ですが)にある市杵島という小島が同社の元宮と言われ、比売大神はこの島に降臨したと伝えられています。

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宇佐神宮の別宮とし、神亀6729)年に宇佐神宮大宮司の宇佐公基により創建されたと言われ、主祭神を比売大神、応神天皇、神功皇后としています。

奈多宮

奈多海岸のほぼ中央に位置する。宇佐神宮と関係の深い神社であるが、正確な創建の時期は不明である。伝承では宇佐神宮の別宮として、神亀6年(729年)に宇佐神宮大宮司であった宇佐公基により創建されたという。主祭神は比売大神、応神天皇、神功皇后。

宇佐神宮の旧神体とされる木造僧形八幡神坐像と2躯の木造女神坐像の三神像を収蔵しており、これら三神像は国の重要文化財に指定されている。このことが示すように当社と宇佐神宮との関係は深く、かつて宇佐神宮で行われていた6年毎の行幸会では、新しい神体の薦枕が宇佐宮本殿(上宮)に納められると、上宮の古い薦枕は宇佐神宮の御炊殿(下宮)に納められ、下宮の古い薦枕はいったん奈多宮に納められた後、海に流されたとされる。

ウィキペディア(20170410 1858)による


宇佐神宮沿革


宇佐神宮を九州王朝論の立場から取り上げることについては、少なからざる危うさが付きまといます。

九州王朝論者の内部においてさえ、和気清麻呂の故事でも知られる近畿大和朝廷とのただならぬ結び付きからか、敵とまでは言わないものの、むしろ九州王朝の対極(敵方)と考える向が少なからずあります。

当然ながら、九州王朝論に立場にある研究者の中にも宇佐神宮に古王権の痕跡を探った人を知りません。

無題.pngしかし、宇佐神宮という最低でも六世紀まではその存在が想像できる神社が仮に九州王朝の敵対物だったとした時、西日本全域から東日本までも版図を伸ばしていたとは全く想像できない事になるのです。つまり九州王朝論者の喉に刺さった棘なのです。  

当方も百嶋先生との接触によって、ようやく、七〇一年以前において宇佐神宮は九州王朝の神宮だったと考えるに至ったのでした。

勿論、通説に寄り添う方々はこぞって否定されるでしょうが、注意して考えれば宇佐神宮はその痕跡をなおも持ち続けているのです。

そもそも「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、八幡大菩薩(大帯姫)は善記元年に唐より日本に還ってきたというのです(これが宇佐神宮の九州年号なのです)。

まず、「善記」そのものも通説派が否定し続ける最初の九州年号なのであって、容易に九州王朝との関係を無視できるはずがない事は明らかでしょう。

そこまで考えるまでもなく、宇佐神宮の祭神については、古来、“主祭神は二の御殿の比売大神ではないか”とか、実は“卑弥呼である”といった多くの疑問が出され提案もされてきたのです。

ここではそのような他愛もない「邪馬台国論」の経緯にはふれず、簡単に九州王朝との関係を考えて見たいと思います。

まず、主神は一の御殿の凡牟都和気(応神天皇)、正面の二の御殿に比売大御神、右の三の御殿に神功皇后が配されていますが、当然にも重要なのは、やはり、中央の二の御殿の比売大神でしょう。

その証拠に、その正面には勅使門、申殿が置かれているのです。

しかし、宇佐宮が始めからそうであったというわけでもないのです。

顕現は古く、欽明天皇32年(571)といわれ、和銅五年(712)に官幣大社に班幣されたと伝承されているのです。

今の亀山の地での創建は神亀2年(725)であり、その時点では一の御殿の応神天皇が単独で祀られていたとされるのですが、何故か、直ぐ四年後には二の御殿の祭神、姫神、(比売大御神)が天平元年(729)に併祀され、さらに百年近く遅れて平安時代の弘仁14年(823)に神功皇后が三の御殿として祀られ現在の形が成立しているのです。

無論、根拠が僅かしかない私見ですが、数年で二殿、二神とされた経緯は何とも奇妙です。

本来、二の殿の比売大神が祀られていたものが、応神天皇にとって変わり祀られたものの収まらず(治まらず)、あわてて元の比売大神が呼び戻され合せ祀られたものに見えるのです。

では、比売大神とは何か。これが、全ての謎を解く鍵でしょう。

かつて、比売大神が女神を意味するお姫様の姫(媛)ではなく、「姫」姓を名乗る男神の姫氏であったと考えていた事がありました。九州王朝論者に限らず、古代史に精通した人ならば誰でも知っている「倭人は呉の太伯の末」という「後漢書」他の多くの中国側史書に記載された有名なフレーズが直ぐに浮び上がってくるのです。

無題.pngいわゆる邪馬台国論争はともかくも、北部九州が倭人の国であったことについては、畿内説論者でも無理に否定する人は少ないでしょう。

「呉」も、もちろん三国志の呉ではなく「臥薪嘗胆」の故事で知られる「呉越同舟」の呉ですが、その王は姓を「姫」と称していたのです。

だからこそ、その周王朝の末裔である姫氏=九州王朝の大王が祀られ、その裔たる天子が通るからこそ宇佐神宮の正面に呉橋(今は呉の工人が造ったとだけ説明される)が掛けられていたのではないかと考えていたのでした。

しかし、今はこの仮説を降ろし、百嶋由一郎氏が言われていた三女神を中心に考えています。

現在、宇佐神宮庁は二の御殿の比売大神を公式には宗像大社の三女神としているのですが、それは、一社三御殿制となって以降、比売大神の存在と神功皇后との座りの悪さによって生じた混乱を解消しようとされた上の事ではあるのでしょう。しかし、いつしか一社、三御殿、五神制という極めて変則的な形になった今の姿は、さらに一層混乱した姿に見えるのです。


高良大社に残る古文書「高良玉垂宮神秘書」
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宇佐神宮に於いても神功皇后が祀られるのは9世紀に入ってからであって、729年の段階では九州王朝は滅んだものの、その権威は残っており、最終的には749年に九州(従って列島)の宗廟を宇佐に譲る(奪われる)事になるのです(高良大社に残る古文書「高良玉垂宮神秘書」)。

 そこまでの背景を理解した上で、この八幡奈多宮を考えてみましょう。


伝承では宇佐神宮の別宮として、神亀6年(729年)に宇佐神宮大宮司であった宇佐公基により創建されたという。主祭神は比売大神、応神天皇、神功皇后。              (八幡奈多宮由緒)


今の亀山の地での創建は神亀2年(725)であり、その時点では一の御殿の応神天皇が単独で祀られていたとされるのですが、何故か、直ぐ四年後には二の御殿の祭神、姫神、(比売大御神)が天平元年(729)に併祀され、さらに百年近く遅れて平安時代の弘仁14年(823)に神功皇后が三の御殿として祀られ現在の形が成立しているのです。                          (宇佐神宮の経緯)


まず、八幡奈多宮は、宇佐神宮が応神単独から比売大御神を受入れた段階で成立していることが分かります。このことから八幡奈多宮とは比売大御神を奉斎する氏族によって創られた事が分かります。

 では、比売大御神を奉斎する氏族とは何でしょうか?

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それこそが宝物館奥に置かれた妙見宮を奉斎する氏族であり、ここに並べられた神々(妙見山山頂から降ろされたもので摂社扱いされていないようですが)こそが、元々、八幡奈多宮を支えた人々であった事が分かります。
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そこで、前掲の宇佐神宮発行の宇佐神宮神殿配置図(吹き出しは当方で書いたもの)をご覧下さい。

 北辰殿=妙見社(天御中主命)=博多の櫛田神社の大幡主の叔母が後見人として鎮座しているのがお分かり頂けると思います。

 宝物殿裏の北辰社=妙見社が外に出されたものと考える事は、一応は可能です。

神殿左の副殿が正面(海側)を向いている事から、普通に考えれば春日神社はないと見るべきで、外の妙見社は妙見山から降ろされたもので、同社の説明とは異なりますが、本当の妙見社とは神殿内に在るものかも知れません。

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八幡造りの中央神殿(一殿)の左に海を見た副殿、右から中央神殿を見た副殿が配置されていますが、宇佐神宮の神殿配置に酷似しています。

 ここで、宇佐神宮の一社三殿を一社一殿にして春日神社を外せば、八幡奈多宮の神殿配置と同一のものが出来上がります。

 このことが、春日神社が神殿内部に収められているのか?それとも本当にないのか?それは神殿内部を解析しなければ全く分かりません。

 一応、仮説を提出しておきます。

宗像の三女神(実際には市杵島姫=瀛津嶋姫だけかも知れませんが…)=比売大神の後見人としての妙見社奉斎氏族=紀氏=橘一族=忌部の象徴としての天御中主命が左の副殿に、応神天皇の母神とされた神功皇后の後見人としての九州王朝の大王=開化が右の副殿に祀られているのではないかと考えています。

 それは、中哀死後の神功皇后は開化の正妃となっており、その長男が仁徳(オオサザキ)だからです。

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由緒を見ると、社殿に於ける祭神の配置は一致しているものの、宇佐八幡宮では、一の御殿が応神天皇、

二の御殿の祭神が姫神、(比売大御神)、三の御殿が神功皇后として祀られている事から考えれば、八幡奈多宮は、主祭神を比売大神とする、より天御中主命〜大幡主〜市杵島姫に重心を移した白族(博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神)系の神社である事が見て取れるのです。

 また、「八幡奈多宮」との呼称そのものも、大幡主を祀る「正八幡宮」の痕跡を留めている様に見えるのです。

 正八幡宮は豊前、筑豊、筑後などにかなりの数認められます。簡単に言えば、八幡宮以前の八幡宮であり、本来の八幡神とは博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の事なのです。

勿論、「大幡」(可能な限り絹で造られた大きな帆の意味)とは博多港を拠点にして活動していた武装商船隊の船の帆の事であり、その大きな帆を張った船を率いて半島、江南、インドシナへと船を操っていた八幡船(武装商船=実質的な海賊船=海軍)を意味しているのです。


八幡船 ばはんせん


奪販,番舶,破帆とも書く。特に室町時代から戦国時代にかけて現れた海賊船一般をいう。後世倭寇の意味に用いられた。倭寇が「八幡大菩薩」の旗印を掲げたことに称呼の起源があるとされるが,確証はない。


ネット上の「ブリタニカ国際大百科事典」 小項目事典より


無題.png 何故、そこまで言えるのかとお考えの方も多いでしょうが、宝物殿手前に祀られた橘祖田道間守公由来を見て頂ければ、納得される方もおられる事と思います。

 この田道間守公こそ橘一族の祖であり、県の犬飼の橘美千代から始まる橘一族=紀氏=大幡主〜豊玉彦(ヤタガラス)の一族の起源なのです。

そして、「田道間」も「田島」であり宗像大社の鎮座地の大字田島なのです。

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橘とは「みかん」非時香菓=(ときじくのかぐのこのみ)であり、冬でも青々とした葉を付ける生命力あふれる木であり、垂仁天皇のころ不老不死を求めた天皇の命令により常世の国に往き持ち帰った「ときじくの実」と呼ばれ珍重されたのでした。

これが、後の県犬養美智代という美女が橘の姓を賜り橘美智代と名乗り、橘姓が一代で終わることを惜しみ、美奴王との間に生まれた葛城王で、弟の佐為王らとともに橘姓を継ぎ橘諸兄と名乗ったのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 14:59| Comment(0) | 日記