2019年05月12日

576 宮地嶽神社の戦前の祭神 阿部相凾宮地嶽大明神について

576 宮地嶽神社の戦前の祭神 阿部相凾宮地嶽大明神について

20180523

太宰府地名研究会 古川 清久


 最近、宮地嶽神社についてはあまり書いていないのですが、関心をお持ちの方は以下をお読み頂きたいと思います。

 このシリーズに付け加えようという意味ではないのですが、懸案であった戦前の祭神に関する資料が故)百嶋由一郎氏の資料にありましたので、後付けながら記録として出しておきたいと思うものです。


79

宮地嶽神社と安曇磯羅 K “未来の宮地嶽神社参拝者のために”

78

宮地嶽神社と安曇磯羅 J “宮地嶽神社について現在分かる範囲で” 

77

宮地嶽神社と安曇磯羅 I “宮地嶽神社とは如何なる性格を持たされた神社なのか?(下)”

76

宮地嶽神社と安曇磯羅 H “宮地嶽神社とは如何なる性格を持たされた神社なのか?(中)”

75

宮地嶽神社と安曇磯羅 G “宮地嶽神社とは如何なる性格を持たされた神社なのか?(上)”

74

宮地嶽神社と安曇磯羅 F “「高良玉垂宮神秘書」では磯羅を玉垂命と別神扱いしている”

73

宮地嶽神社と安曇磯羅 E “雑感” 

72

宮地嶽神社と安曇磯羅 D “志賀海神社と大川風浪宮”

71

宮地嶽神社と安曇磯羅 C “底筒男命と表筒男命” 

70

宮地嶽神社と安曇磯羅 B “安曇磯羅とは何者なのか?”

69

宮地嶽神社と安曇磯羅 A “安曇磯羅が祀られているのか? 否!!

68

宮地嶽神社と安曇磯羅 @ “五人寄れば文殊の知恵”


無題.png

福岡県福津市宮司元町71 カーナビ検索  0940-52-0016


 私自身の認識としては、九州島だけでも万を超える神社がある中で、最も愛着を感じ、歴史的価値のある神社と考えているのがこの宮地嶽神社です。

 普通はただの神功皇后を祀る神社じゃないか…と思われるかも知れませんが、その底流にはとんでもない列島史の深層が閉じ込められているはずなのです。

無題.png無題.png

延喜式内社でもないのですが、太宰府天満宮と共に、民衆の信仰、崇敬を一身に集める神社であって、最近の嵐=光の道効果によって参拝客が急増している事(これ自体にもそれなりの問題はあるのですが)を喜ばしく思っているところです。

 さて、現在の宮地嶽神社の祭神は以下の三神とされています(以下公式HPより


息長足比売命
[おきながたらしひめのみこと]《 別名:神功皇后[じんぐうこうごう] 》
勝村大神[かつむらのおおかみ]
勝頼大神[かつよりのおおかみ]


ご由緒

ご創建は、約1700年前。当社のご祭神「息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)」別名「神功皇后(じんぐうこうごう)」は第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君にあたられます。 古事記、日本書紀等では渡韓の折、この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇(てんしんちぎ)を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとあります。その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)」としてお祀りしました。 以来、宮地嶽三柱大神のご加護のもとで事に当たれば、どのような願いもかなうとして「何事にも打ち勝つ開運の神」として多くの方に信仰されるようになりました。 当社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮です。


 ところが、昭和19125日刊行の「福岡県神社誌」下巻(143p)に於いてさえ、その祭神は、宗像三女神+神功皇后+勝村+勝頼と書かれており、現在の祭神と異なっている事は明らかです。

 実は、それ以前の祭神も確認してはいたのですが、現物のコピーがなかったため保留していたのです。

百嶋由一郎氏の手書き資料の中にありましたので、記録を残しておこうと思い今回改めて掲載する事にしました。

はっきりと、「祭神ハ阿部相凾宮地嶽大明神、…」と書かれ神功皇后は書かれていない事がお分かり頂けると思います。

 これを持って同社が誤っているなどとは申しあげませんし、ある時代に於ける祭神はこうであったという事です。

従って、どの神社も同様ですが、その時点の祭神をそのままに真に受けない事が肝要である事を申し上げているのです。

では、阿部相凾とはどなたでしょうか?それは仲哀亡き後の神功皇后を正妃とされた第9代開化天皇(高良玉垂命)であり、長子が仁徳天皇(シレカシノミコト)であり、その次三男が藤勝頼、藤助麿なのです。


無題.png

「福岡県神社誌」

無題.png

昭和9年福岡県統計課…県勢要覧

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年05月09日

575近江散歩 24 宮原誠一氏に教えて頂いた“水沼君の「潟の渟名井」と丹後の「與佐の真名井」”

575近江散歩 24 宮原誠一氏に教えて頂いた“水沼君の「潟の渟名井」と丹後の「與佐の真名井」

2018019

太宰府地名研究会 古川 清久


 当会のメンバーには優秀な方が数多くおられます。私が近江散歩となどと称して近江〜丹波丹後のフィールド・ワークを行っている時、ただひたすら古文書と向き合い、九州王朝の本拠地と展開地の関係を井戸(真奈井)との関係として論証されていたのです。紹介の意味で全文を転載させて頂きます。

無題.png
無題.png

伊藤女史ご一行を案内して京都府宮津市「籠(コノ)神社」の「眞名井神社」も廻ったのですが、真奈井神社も見たいとの事、境内を出て右手奥にある真奈井神社にも足を延ばしました。

 一方、神社見聞諜の宮原誠一氏は古文書と向き合い格闘されていたのです。


無題.pngNo.060 水沼君の「潟の渟名井」と丹後の「與佐の真名井」


2018-05-13 12:00:00テーマ:神社見聞調考

宮原誠一の神社見聞牒 (060)
平成30(2018)0513

No.60 水沼君の「潟の渟名井」と丹後の「與佐の真名井」


.北野町大城の「蚊田の渟名井」

古代の生活水の確保はどのようになされたのでしょうか。
中山間地では、谷水を酌むなり、竹管を通して水を引き入れることは比較的簡単であったでしょう。麓で湧水があれば、それを酌むなり、引くなりすれば簡単でしょう。
しかし、平野の平地では簡単にいきません。庶民は近くの川まで酌みに行くことになります。
近代では、井戸を掘り、釣瓶(つるべ)で水を酌みます。この井戸とて、庶民は簡単に手に入れることはできませんでした。自宅の庭先に井戸を掘ることは多額の出費でした。6mほどの竪穴を掘り、周りの土が崩れないように、玉石垣を組みます。そして、釣瓶で水を酌みます。昭和の時代になると手押しポンプで水を酌みました。小学生の私の日課は、この手押しポンプで風呂に水を入れることでした。小学生にとっては重労働でした。電動ポンプが普及すると自家製水道施設の完成です。公共水道が引かれたようなものです。
随分過ぎるほど楽になりました。蛇口をひねれば水が出る。かえって、「水と平和はタダ」と日本人は思っていると外国に印象を与えました。
「水と平和はタダ」ではありません。多額の開発維持経費がかかっているのです。ただ当人がどれだけ意識しているかの問題です。
 ところで、古代の平野の平地に井戸があった。
 「記紀」では天の真名井の水と随所に出てきますが、福岡県北野町大城には、それに相当する井戸、益影井(ますかげのい)、豊姫縁起では「潟の渟名井 がたのぬない」があって、神聖な井戸として至るところにその名が記載されている。

益影井 大城小学校グラウンド南 福岡県久留米市北野町大城(筒井)

無題.png

.赤司八幡宮の「豊比悼暑L」から見る丹後国の「與佐の真名井」

赤司八幡宮の縁記書・水沼姓盛道の「止誉比盗_社本跡縁記」の地神三代の部分には、天真名井(あめのまない)、筑後国御井の「蚊田の渟名井」(かだのぬない)、丹後国の「與佐の真名井」(よさのまない)について重要な事が記載されている。

特に、丹後国の「與佐の真名井」と伊勢外宮の「豊受大神」の関係については通説に返す内容となっている。それは與佐の真名井と関連して、伊勢外宮の祭神が入れ替え混乱の状態にあるという。
まずは、「止誉比盗_社本跡縁」の地神三代の「渟名井」の部分から紹介。

(
注意) 天真名井(あめのまない)、蚊田の渟名井(かだのぬない)、與佐の真名井(よさのまない)はそれぞれ異なる。天真名井(あめのまない)、天渟名井(あめのぬない)も異なり、天渟名井は「蚊田の渟名井」と同義語。天真名井は天孫降臨時の真名井である。

           止誉比盗_社本跡縁記・益影井(楢原写本)

無題.png

天津彦々火瓊々杵尊、下界に降臨の時、天忍石(あめのおしほい)長井の水を持降り、天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)を使い、その元(はじめ)の水を日向の高千穂藤岳山の神代川瑠理井(たまのい)と筑紫の道中の神代川蚊田の渟名井に遷す。天祖の神の教を言壽鎮曰(ことぶきよざして)、道主貴に進供(そなえまつり)き。これにより、御井の縣の名が起こりけり。
又、丹波の與佐の真名井石井(いわい)に移し鎮め、以て豊食神の饌水(とよけのかみのみけのみず)に献(たてまつ)りぬ。

日本書記に、素戔嗚尊、その頸に所嬰(うなげる)五百筒の御統(みすまる)の瓊を以て、天真名井、またの名、去来の真名井(いざのまない)に濯(ふりそそ)ぎ・・・云々。
これ、蚊田の渟名井と與佐の真名井と誓約(うけい)の中、天真名井と混同に伝え云う。

天渟名井は蚊田の渟名井の転語で、去来の真名井は與佐の真名井の転語である。
又、蚊田の渟名井の所に「道主貴」が在()り。
 與佐の真名井を守る神を「道主」と号し、また、水沼君が所祭(いつきまつる) 道主貴を訛りて、伊勢の大物忌の祖(おおものいみのかみ)を「
氷沼の道主 ひぬまのみちぬし」と謂うは「」と「」の字を誤れるものなり。

蚊田の渟名井の地に「道主貴」と「伊勢天照御祖神」(いせあまてらすみおやのかみ)が在まして、水沼君等が所祭(いつきまつる)ゆえに、「丹波の豊受宮」と「伊勢の豊受宮」を混同付会せり。
蚊田は筑紫の中瀛海(なかつうみ)に秀(ひい)でたる潟の地なり。故に、「潟」と「蚊田」は同訓なり。古歌に詠めるに「筑紫の潟はこの地に起これる言葉なり」。
この潟の渟中より湧き出でたる霊水ゆえに、「蚊田の渟名井」と号(なづ)けたり。この筑紫の潟神代川は当国の名所なり。

後人、石畳を敷いて「筒井」と名づく。この霊水を酌みて出産に祝梼るときは、生み子容顔端正異例聡明にして長寿なり。
この潟の地が連なる水沼に秀で、広く遠くして、村里数多く興して、ここに水沼の縣の名が起これり。


丹後国には古代、筑中国(御井郡、山本郡、竹野郡)の人達が大勢移住している。その時、「道主貴=田心姫」神も「蚊田の渟名井」の水も遷している。
 筑紫の道中の「蚊田の渟名井」を丹波の與佐に遷した井を「與佐の真名井」という。この水を豊食神の饌水(とよけのかみのみけのみず)に献じている。
 筑紫の道中の「道主貴」は、丹後では與佐の真名井を守る神「道主」という。
 また、北野大城には、水沼君が所祭(いつきまつる)「道主貴=田心姫」と「伊勢天照御祖神=四柱神社祭神」があり、丹後に遷した「伊勢天照御祖神社」ゆえに、伊勢神宮は、「丹波の豊受宮」と「伊勢の豊受宮」を混同しているという。丹後には元伊勢皇大神社や元伊勢豊受大神社が鎮座する。

 つまり、「丹波の豊受宮」の祭神は「豊玉姫=田心姫」であり、「伊勢の豊受宮」の祭神は「天鈿女命 あめのうずめのみこと」である。どちらも彦火々出見命の妃である。伊勢外宮の主祭神は彦火々出見命(饒速日尊)であり、その豊受大神が伊勢外宮様であるという。その外宮様が豊玉姫か天鈿女命かで混乱している。

 丹後の眞名井神社は籠神社(元伊勢籠大神宮)の奥宮という。

【丹波丹後の関連神社】

元伊勢籠(この)神社(匏宮・吉佐宮・与謝宮(よさのみや))
住所 京都府宮津市大垣430
祭神 彦火明命(彦火々出見命) 
元々の祭神は豊受大神
相殿 豊受大神 天照大神 海神(わたつみ)
   天水分神(天鈿女命)
由緒 古昔より奥宮眞名井原に豊受大神をお祀りしてきましたが、崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑から御移りになり、これを吉佐宮と申し、豊受大神と共に四年間お祀り致しました。その後、天照大神は垂仁天皇の御代に、豊受大神は雄略天皇の御代に、それぞれ伊勢にお移りになりました。それゆえ、当社は元伊勢と云われております。
両大神がお移りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社として崇敬を集めてきました。

眞名井神社
   元伊勢籠神社の奥宮で、別名を久志濱宮(くしはまのみや)とも云う。
住所 京都府宮津市中野
祭神 豊受大神
天照大神・豊受大神が伊勢に遷座された後の祭神が彦火明命(彦火々出見命)
相殿 豊受大神 天照大神 海神
   天水分神
由緒 奥宮の真名井原に匏宮(よさのみや)といい豊受大神が鎮座していたが、崇神天皇三十九年に大和笠縫邑から天照皇大神が遷座したので豊受大神と共に祭祀していた。垂仁天皇二十五年に天照皇大神が伊勢に遷座した後、雄略天皇二十二年に伊勢度会郡の山田原に豊受大神も遷座となった。
元正天皇養老三年に、本宮を奥宮眞名井神社の地から現在の本宮の地へ遷し、海部直愛志(えし)が祖神・彦火明命を主祭神とし、天照・豊受の両大神、及び海神を相殿に祀り、天水分神を合わせて祭るようになった。
(
神社石碑の社説から)
豊受大神元津宮なり。古名は匏宮・吉佐宮・与謝宮(よさのみや)
 別に云う、天吉葛宮、比沼眞名井、久志浜宮、元伊勢大元宮。

元伊勢内宮皇大神社
住所 京都府福知山市大江町内宮217
祭神 天照皇大神
由緒 崇神天皇三十九年に倭の笠縫邑を出御され、丹波へ御遷幸になり、其の由緒により当社が創建されたと伝える。仁天皇二十六年に伊勢の五十鈴川上(今の伊勢神宮)に永遠に御鎮座になった。引き続いて当社を伊勢神宮の元宮として「元伊勢(内宮)さん」などと呼び、今に至る。

元伊勢豊受大神社
住所 京都府福知山市大江町天田内60
祭神 豊受大神
古くから元伊勢だ、いや間違いだと論議の絶えない神社である。

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)
住所 京都府京丹後市峰山町久次宮谷510
祭神 豊受大神
由緒 この神社の創建年代等については不詳であるが、平安時代に制定された延喜式にも記載された式内社で、伊勢神宮の外宮の祭神・豊受大神はこの神社の分霊を祀ったものとされ、「元伊勢」とも称される。

大宮売神社

住所 京都府京丹後市大宮町周枳(すき)1020
祭神 大宮賣神、若宮賣=豊受大神
由緒 創立不詳。織物と酒造を司る大宮売神(おおみやめのかみ、鴨玉依姫あるいは豊玉姫)、食物・穀物を司る女神である若宮売神(わかみやめのかみ、豊受大神)の二神を祀る。
(
神社社説では、大宮賣神=あめのうずめの神、若宮賣=とようけの神となっていて、二人の豊受大神が祀られていることになる。)

竹野神社

住所 京都府京丹後市丹後町宮249
祭神 天照大神
相殿 竹野媛命 日子坐王命 建豊波豆良和気命(たけとよはずらわけのみこと)
由緒 竹野媛は、丹波大県主由碁理(ゆごり)の娘で、開化天皇の妃となったと古事記・日本書紀は記す。年老いた竹野姫が「天照大神」を祀ったのが竹野神社の始まりと伝える。

籠神社の奥宮・眞名井神社は別称・比沼眞名井神社(ひぬまないじんじゃ)と言われる。
止誉比盗_社本跡縁記(益影井)を参考にすると、「ひぬままないじんじゃ」「氷沼眞名井神社」と書くことになり、「氷」は「水」の間違いで、「水沼眞名井神社」となり、
比沼眞名井神社は水沼の眞名井神社となる。
よって、豊受大神といっている神は「道主貴=田心姫=豊玉姫」となる。本来の豊受大神は天鈿女命であるが、伊勢に遷座前の祭神・豊受大神は豊玉姫となっている。
だから、相殿に海神(わたつみ豊玉彦)がおられ、天水分神(天鈿女命)が別に配祀できることになる。
同様の神社に「比沼麻奈為神社」がある。これも「みぬままない神社」と読むことになり、祭神は田心姫=豊玉姫となる。
伊勢外宮の祭神・豊受大神は、間違って丹後の豊受大神を伊勢神宮に遷されたことになる。

.筒井天満宮境内の観音堂

益影井がある大城小学校の南に筒井天満宮が鎮座する。
境内の観音堂は豊姫神社の本寺堂であり、「天眞名井」を「潟の渟名井」として、ここにおさめられたという天村雲命(あめのむらくものみこと)の地蔵尊が祀られている。
「アメノムラクモ」といえば、金山彦の「天叢雲の剣」を連想する。
豊姫縁起では、天孫降臨の時、従った神様に「熊野忍蹈命 くまのおしほみのみこと」がおられる。別名、熊野久須毘命(くすびのみこと)という。金山彦である。
熊野夫須美命(ふすみのみこと)は伊弉冉命(いざなみのみこと)であり、金山彦とは兄妹関係にある。天村雲命地蔵尊は別名、愛宕勝軍地蔵と呼ばれ、大分県天瀬の高塚地蔵尊で知られる。愛宕勝軍地蔵の制作者は聖徳太子であり、金山彦の別称の一つである。なお、本地蔵は大分県日出町の愛宕神社にあり、高塚地蔵尊は、この分霊となる。

大城村郷土読本
天孫降臨に際し高天原から持伝えた霊泉という由緒を持つ益影井は、神功皇后の皇子出産にも重大な役をにない、御井の県の名の起源と伝え、長く豊比盗_社の神井として、又庶民の産湯の霊水としてほめたたえられました。今は小学校々庭に廃井として千古の歴史を秘めて静かに眠っています。
益影井に近い筒井天満宮境内の観音堂はかつて豊姫神社の本寺堂であり、ありし日には、その盛況をほこった日もあろうに、僅に古老の言に「安産・産後の観音」と伝えて霊験あらたかなりし過去の片鱗をうかがうばかりです。天眞名井を潟の渟名井として、ここにおさめられたという天村雲命も、路傍の地蔵堂と祀られて永遠のほほえみを含んでいます。東筒井・中筒井・西筒井・三井田という字名は益影井と深い関係を持っていますが、史蹟と地名の関連は興味ふかい問題です。

無題.png
無題.png

愛宕勝軍地蔵は菅原道真公の太祖でもあり、筒井天満神社の境内にある。西隣に益影井があり、地蔵尊観音堂の後方には大三輪神社が鎮座する。
「蚊田の渟名井」「天村雲命地蔵尊(金山彦)」「大三輪神社(大己貴=大国主)」「筒井天満神社」「蚊田宮」と、ここには大城の名物がそろっている。

無題.png

#蚊田の渟名井#與佐の真名井#天真名井#益影井#元伊勢籠神社#眞名井神社#元伊勢内宮皇大神社#元伊勢豊受大神社#比沼麻奈為神社#天村雲命

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年05月07日

574近江散歩 23 伊藤女史に言われるまま向かった式内社 “兵庫県豊岡市の與佐伎神社”

574近江散歩 23 伊藤女史に言われるまま向かった式内社 “兵庫県豊岡市の與佐伎神社”

2018017

太宰府地名研究会 古川 清久


 近江散歩での書き残していたものを報告しておきます。

 これも、伊藤女史のご指示のままに向かった式内社の一つで、奥まった集落の最奥部の小高い崖と言った場所に祀られている神社です。

 場所は比較的容易に見つかりました。狭い集落の道路を歩くと、強固な鉄製の扉で守られた参道が見えてきました。何やら仰々しい神社と思いましたが、猪が集落への侵入を塞ぐものであり、できれば神様は檻の内側にと思わないでもなかったのですが、致し方ない事でしょう。

無題.png

こんなことは普通に飼い犬が集落を走り回り巡回していた時代には、鹿や兎はともかくも、猿も猪も狼も里には下りてこられなかったのですが、戦後、保険所が利権とした狂犬病ワクチンから、飼い犬が鎖で繋ぐようになると、鎖に繋がれた犬の前を悠々と猿が歩き、猪も堂々と子連れで登場するようになるわけです。

 そのうち、狂犬病予防による実益と飼い犬の放し飼いによる実害とが逆転する時が来ることでしょう。実際にはもう起こっているのかも知れませんが。

無題.png

さて、赤石、下鶴井は丸山川右岸の奥まった所にあります。特に鶴のような細長い小河川が注ぐ下鶴井は地形と地名とが対応する見た目で分かるような関係にあります。

 伊藤女史が何故この神社を選んだかは聴きそびれましたが、但馬に関しては私が先行しており、彼女も下調べからランダムに踏んでいるのだと思うものです。

無題.png

式内社 但馬國城崎郡 與佐伎神社旧村社 御祭神 依羅宿禰命 配祀 保食命


式内社・與佐伎神社に比定されている古社。本殿扁額にあるように、以前は伊與永大明神と称していた。

祭神・依羅宿禰命は、開化天皇の皇子・彦坐王の後裔。『特撰神名牒』では、宇麻志麻遅命を祭神としているらしい。

以上は敬愛する無題.pngによる


別のサイト「神社拾遺」も見ておきましょう。

無題.png

依羅宿禰 

出自とする依羅氏(よさみうじ、依網氏)は、摂津国住吉郡大羅郷(おおよさみごう、現在の大阪府大阪市住吉区我孫子・庭井周辺)・河内国丹比郡依羅郷(よさみごう、現在の大阪府松原市天美地区周辺)付近を本拠とした古代氏族である。一帯では、依羅氏の奉斎とされる式内名神大社の大依羅神社(大阪府大阪市住吉区庭井)が現在も鎮座する。依網男垂見は、この依羅氏の祖先伝承上の人物と見られる。

依羅氏は初め「依羅我孫(依網吾彦)」姓を称したが、天平勝宝2年(750年)に「依羅宿禰」姓が賜姓された。元の「我孫(吾彦)」は5世紀頃の地方官的官職名に由来するとされる原始的なカバネで、阿毘古・阿弭古・吾孫とも表記される。このカバネを有することから、依羅氏を古い時期からヤマト王権と関係を持った氏族とする説もある。

この依羅氏に関して、『古事記』では開化天皇(第9代)皇子の建豊波豆羅和気王を「依網之阿毘古」の祖と記している。一方『新撰姓氏録』摂津国皇別では開化天皇皇子の彦坐命を依羅宿禰の祖とし、日下部宿禰と同族とする。また『新撰姓氏録』では、饒速日命を氏祖とする神別の依羅連・物部依羅連や、百済国人の素禰志夜麻美乃君を氏祖とする諸蕃の依羅連らの記載もある。

ウィキペディア(20180518 1851による


「祭神・依羅宿禰命は、開化天皇の皇子・彦坐王の後裔」とありますので、ここで開化天皇の皇子とされる彦坐王について百嶋由一郎氏見解をご紹介しておきます。

ただ、その前に、この神社が与佐伎(ヨサキ)神社と呼ばれている事が気になります。

無題.pngもしも、「ヨサキ」が「ヨサギ」の清音化であったとしたら、「鷺神社」はウマシマジの父とか祖先神とされるニギハヤヒに通じるだけに、もしかしたら、開化天皇の皇子・彦坐王の後裔とニギハヤヒ系もともにこの地を拠点にした可能性もあるのではないかと思うものです。

無題.png

百嶋由一郎金神神代系譜(部分)


 百嶋神代系譜を見れば分かるのですが、天足彦=彦坐王は阿蘇高森の草部吉見と武内足尼(金山彦〜ナガスネヒコ後裔)との間に産まれた人物で、ヤマトタケル〜仲哀の祖先になるのです。

 実は、この金山彦の後裔という事に気付くと、同社の鳥居の横に置かれた宮司家に思える下宮家の謎が解けた思いがしています。その家紋は紛う事無き木瓜紋で、金山彦の神紋なのです。

無題.png

宮司家と思われる下宮家は金山彦後裔で間違いないでしょう

無題.png

赤枠の武夷鳥(ヤタガラスと武内足尼の子)=鳥子も「鷺」と呼ばれているのです。

 どうも、どちらの系統もありそうですが、現段階では保留させて頂きます。

 天足彦=彦坐王は開化と直接の関係はないのですが、年嵩ながら名目的に開化の子として扱われたものと理解しています。


百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記