太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「百嶋神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログを継続しています。


これにはプロバイダーを含め何時情報封殺が行われるかも知れないため、最低でも複数の発信媒体を準備しておくべきではないかと考えているからでもあります。


今後ともかなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史によるblogひもろぎ逍遥に対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 さて、現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。


 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では最低でも年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。


 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。


 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものと考えており、そのようなどこにでもあるような話を好まれる方々は、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に拍手を送り、思いっきり尾を振られれば良いでしょう。


しかし私達は後ろ指を刺される様な探究に踏みとどまり、これまでの歴代の行政権力が隠し続けた真実の歴史の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。




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無題.png読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久




ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。


 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。


 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。


 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。


 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。


 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。


しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。


さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。


 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)


さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。


ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。


今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。


元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。


人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。


基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。


今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。


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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。


振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。


 大分銀行 若宮支店 000093−7505802 フルカワ キヨヒサ


 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ


また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。


 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)


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2019年01月13日

ビアヘロ074 「魏志」伊都の長官「爾支」(ニキ)を祀る神社

ビアヘロ074 「魏志」伊都の長官「爾支」(ニキ)を祀る神社

20180810

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


伊都の長官「爾支」と言えば古代史ファンであれば直ぐに反応される重要な人物ですが、「自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史…」と書かれ 刺史を恐れるが如しと書かれているのです(於國中有如刺史)。


いとこく【伊都国】

3世紀の邪馬台国の時代に倭にあった小国の一つ。後の筑前国怡土(いと)郡,今の福岡県糸島郡。その中心は,三雲,井原の地とみなされている。《魏志倭人伝》によると伊都国は,末盧(まつら)国の東南陸行500里の地点にあって,その国の官に爾支(にき),泄謨觚(せまこ)があり1000余戸の人口があって,代々王がいたけれども,みな女王国に統属し,帯方郡の使者が往来するのに当たって,常にこの国にとどまったという。一大率(いちだいそつ)の駐留した国。  「世界大百科事典 第2版の解説」による


この人物を祀っている神社があるなどと言えば眉唾物と顰蹙を買う事になるでしょう。

 その神社とは、通称、荒江櫛田神社(福岡県福岡市の福岡県福岡市城南区荒江1丁目13-13)です。

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故)百嶋由一郎氏が残された手書きメモにこの伊都の長官「爾支」に関するものがありますので公開することに致します。

 これ自体をどのように受け留められるかは読み手の力によりますが、百嶋翁は何らかの聴き取りをされていたものと考えています。

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百嶋由一郎手書きメモ百嶋神社考古学追加19塩谷ファイル(大和神社)(荒江櫛田神社)


天照大御神は良いとして、大若子、小若子は、博多の櫛田神社の大幡主とその子ヤタガラスの意味であることは直ぐに分かります。

右に書かれた五穀神とはスサノウになるでしょう。

それは博多の櫛田神社にスサノウが祀られている事とも符合します。

問題は、天児屋根命です。これは「福岡県神社誌」にも登場するので厄介ですが、藤原の祖であり阿蘇の草部吉見(ヒコヤイミミ)=武甕槌=鹿島大神の事で、大和朝廷による挿入と見て良いでしょう。

この右の由緒が本物なのです。

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この表の由緒は改竄に近いものだと我々には分かるのですが、この天児屋根命を入れた由緒には幸神が入れてありません。明らかに排斥されたものと思えるのですが、「県神社誌」にはその痕跡が留められています。

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境内神社 幸神社(同祖神)荒江字幸の前に無格社として祭祀ありしを大正四年七月五日許可を得て合併古く荒江の産土神と伝ふ。と書かれています。

 まず、「荒江字幸の前に無格社として祭祀ありしを合併古く荒江の産土神と伝ふ」と書かれています。

「幸の前」という字があるのは幸神が祀られていたからそういう字名になっている訳であり、しかも産土神なのですから元々の祭祀があった(恐らく藤原対策で外に出された)からであり、大正デモクラシーの時代に締め付けが弱まった事から合祀され復活したものと考えられるのです。

考えれば分かる事ですが、櫛田神社の本社とも言うべき博多櫛田神社に天児屋根命など片鱗もありません。

つまり、本来、ニギハヤヒ=山幸彦を祀る神社であったことからそれを排除し、天児屋根命=海幸彦が入れ替えられたものと考えられるのです。

その理由は、追放された物部の頭目だったからに相違ありません。

重要なのは、この神社は元年間に早良区の野芥櫛田神社から持ち込まれたとされている事から、野芥の櫛田神社にも同様に山幸彦が祀られている可能性があるのです。

この神社についても、百嶋先生は話しておられ、“猿田彦=実は山幸彦のお妃であるアメノウヅメ=豊受大神はストリップでもしたかのように神話では描かれているが、この神社では頑として否定しておられます…”と話しておられました。

その意味でも、元々、野芥櫛田神社には山幸彦+豊受大神が祀られていた可能性があるのですが、今後の課題です。

 幸神は当然にも山幸神の山を外したもので、場合によっては海幸彦として繕うための配慮でしょう。

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伊都の長官爾支を祀るものですが赤い鳥居から判断してお妃の稲荷様

=アメノウズメ=豊受大神とご一緒ではないかと思っております


宇佐神宮とは何か 2012317日百嶋由一郎講演 


倭人伝にでてくる伊都国の長官は爾支「ニキ」、キがついているので新羅系であることがわかる、将来、饒速日となる山幸彦(猿田彦)です。投馬国の長官は弥々「ミミ」、彦山の天忍穂耳である海幸彦です。ある時期はこういう時代もあったということです。倭人伝は、何十年かのことをごっちゃ混ぜにして圧縮して書いているので、そのまま信じると間違えてしまう。伊都の国は伊都、投馬国は宇佐です。そして、すこし時代はおくれて、宇佐津彦が出てくる。宇佐津彦は生目(贈垂仁天皇)です。足一つ騰がりの宮、これを生目が、神武天皇(これは本当は贈祟神天皇)に献上したことになっている。贈祟神天皇を神武天皇とわざと混同したい連中がいる、高木の大神系統です。ところで高木の大神の故郷に日本の高天が原がそっくりそのまま移転したことをご存知ですか?近鉄奈良駅の地名、高天です(あの付近の地名は高天町です)。ほら吹き集団はどこに一番多く住んでいたか。一番多いのは福岡県です。もちろん奈良県も多いです。熊本の第五高等学校付近の龍田から、奈良の立田(風神、雷神の立田神社)まで、阿蘇火山帯(中央構造線)でつながっている。阿武隈(=おおくま)、大隈、七隈、嘉麻市の中心部の大隈、これは大集落という意味です。博多の櫛田神社系統の大集落という意味です。そして、奈良では葛木連山の葛木古道の中に高天神社があったが、次第にお賽銭が上がらなくなった。そして最終的には、この人たちは朝鮮半島の八万大蔵教のある高麗に移った。今、そこで非常にはやっている。


肥後翁のblog 民俗・古代史及び地名研究の愛好家 による


 驚きになったと思いますが、真実とはいつもベールに被っているものです。

 「記」「紀」だけを聖典と崇め、大家の説を真に受けるだけでは真実には到底到達などできないのです。

ましてや村興し町興し世界遺産登録に狂奔するような方々や、邪馬台国九州説を学ぶ会や九州王朝論を楽しむ会として通説派の学芸員などの御高説に平伏するような姿勢では古田武彦が一生を掛けて切り開き将来に託した九州王朝論は地に落ちる事にしかならないはずです。

 とりあえず、伊都の長官「爾支」=ニギハヤヒを祀る神社が存在する事、その祭神がニギハヤヒである事までが分かれば、ニギハヤヒの意味が見えてくるかも知れません。

 伊都の長官「爾支」は「ニキ」と読むべきかどうかも含めて(例えば大幡主の主「ヌシ」と呼ぶ…山幸は経津主とも呼ばれているのです)検討すべきかも知れません。

 逆に、ニギハヤヒの意味はニキハヤヒであり、この「ハヤ」も速玉大社の「速」早日別けの「早」かも知れないのです。 「幸神」の解釈には孝元天皇の可能性があり、こちらでも可能性を探っています。

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2019年01月12日

ビアヘロ 073 「伽耶」地名について百嶋メモから

ビアヘロ 073 「伽耶」地名について百嶋メモから

20180810

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回は、百嶋由一郎氏が残した手書きメモから伽耶国の地図をご紹介します。

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百嶋由一郎手書きスキャンニング・データ001草部吉見+キルギス20120717img003


 岡田先生や宮脇先生などは真実を追求されていますが、通説派の学者は嘘つきですから…まずは、ウィキペディアから民間研究をご紹介しましょう。


無題.png伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。また加羅諸国(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。

後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。以下、本文上は加羅で統一する。

414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている。

中国梁国の時の537年に蕭子顯が編纂した史書の南齊書によると、加羅國,三韓種也。建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登,遠夷洽化。加羅王荷知款關海外,奉贄東遐。可授輔國將軍、本國王。 と記録されている。

倭国の後継国である日本で720年に成立した『日本書紀』では、加羅と任那が併記される。

中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される。その後の『南斉書』、『梁書』、660年に成立した『翰苑』、801年成立の『通典』、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)も同様の併記をしている。唯一、清代に編纂された『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が用いられている。

基本的には加羅と呼ばれる。「三国史記」新羅本紀の奈解尼師今6(202)条に「伽耶」という表記があるが、「三国史記」同14(210)条には「加羅」と表記されている。

倭国および任那との関連

詳細は「任那」および「任那日本府」を参照倭国の半島での活動については、『日本書紀』『三国史記』など日本、中国や朝鮮の史書にも記されており、3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。または「韓は南は倭と接する」とある。

また高句麗の広開土王碑について改竄説が否定されたことで、倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、任那加羅の従抜城を守らせた。

日本列島での事例が大半である墓制の前方後円墳が朝鮮半島でも幾つか発見されている。

朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉に成立したもので、百済が南遷する前は任那であり、金官国を中心とする任那の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物、遺構をともなう。そのほか、新羅百済任那で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しており、朝鮮半島にはヒスイ(硬玉)の原産地がなく、東アジア地域においても日本とミャンマーに限られることや、化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明したことなど、倭国との交易、半島における倭国の活動などが研究されている。

任那地域については、日本が大陸での影響力を失い任那加羅が百済新羅両国により占領された後も、新羅と百済は倭国に対して任那地域の調を収めていた記録が残っている。

加羅地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族が、当地で統治権・軍事指揮権・定期的な徴発権を有していたとする主張もある。対して江上波夫は、騎馬民族征服王朝説を提唱し、加羅の製鉄の技術の高さと日本列島にある須恵器を見て、騎馬民族が加羅を建国し、その集団が九州に定住したと主張した。

ウィキペディア(20180810 0751による


 故)百嶋由一郎氏が作成された図に付された番号は、伽耶国の成立順番を示しています。

ようやく韓流ドラマの「朱蒙」「太王四神記」「善徳女王」「千秋太后」…で日本でも良く知られるようになってきましたが、伽耶の呼び名は、伽耶、加耶、加羅、駕洛、狗耶…などと表記され「日本書紀」では任那とされている事はご承知の通りです。

 まず、「カヤ」と「カラ」が同じと言われると違和感を持たれるかも知れません。

 それは子音+母音で考える日本語からの違和感であり、仮に日本語風にアルファヴェット表記で代行して見ましょう。

 KAA KAA の様に子音が一つ入れ替わっているだけで、恐らく、R音(本当はL音)とD音の入れ替わりでしかなく、KAAのR音の発音が苦手な人々はKADA→KAJA→KAYAと発音したのではないかと思うのです(ラジオとダジオ、ラッパとダッパ…の問題は日本の幼児語にも反映しています)。南米スペイン語とスペイン語でも外国語でも見られる現象です。

 最も知られたのが、@金官伽耶であり、この地を拠点とした金海金氏(トルコ系匈奴)こそ天御中主命の夫神であるウマシアシカビヒコヂと書き留められた大国主命の父神である大山祗の父神に当たる人物なのです。

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無題.pngAが安羅伽耶です。話を進めるために簡略化して言えば、藤原により第10代と過大に格上げされた崇神天皇の出身地です。

御間城入彦五十瓊殖天皇・御肇國天皇・御眞木入日子印恵命

 別名、ミケイリノミコト、ツヌガノアラシトとされ、敦賀にやってきたアラカヤの人なのです。


都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物。

『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。

意富加羅国(大加耶/大加羅)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

『日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として2つの所伝が記載されている。1つ目として崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔した(任那(弥摩那)の語源)。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、これが新羅と任那の争いの始まりであるとする。

2つ目の所伝では、阿羅斯等が国にある時、黄牛の代償として得た白石が美しい童女と化したため、阿羅斯等は合(まぐわい)をしようとした。すると童女は阿羅斯等のもとを去って日本に行き、難波並びに豊国国前郡の比売語曽社の神になったという。

なお2つ目の所伝の関連伝承が、『古事記』の天之日矛(天日槍)・阿加流比売神説話や、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)に見える。

ウィキペディア(20180810 0918による


一番北の高霊郡(コリョン)郡は大韓民国慶尚北道南西部にあり大伽耶国の故地になります。


古代の大伽耶国の地であり、大伽耶は始祖・内珍朱智から道設智王まで16520年続いた。伽耶時代前期の盟主は金官伽耶(現・金海市)であったが、5世紀以降は大伽耶が伽耶連盟の盟主となった。562年新羅に滅ぼされて大伽耶郡となり、757年高霊郡(高陽郡)と改称した。

ウィキペディア(20180810 0926による

Bの高霊(コリョン)こそ高木大神こと、「日本書紀」では高皇産霊尊、「古事記」では高御産巣日神と書かれる天孫ニニギの親父の本拠地だった土地なのです。

 冒頭の地図でも気付かれたように、半島南部にも、「洞」「里」地名が大量に存在します。

 下も韓国の高霊郡の地名であり、あたりまえのように「里」地名が存在します。

 そして、殆ど知られていませんが、佐賀県の東半部を中心に異常なほどの里地名が拾えます。

代表的なのが吉野ケ里ですが、西部にも伊万里などが拾え、確か「佐賀県史」で読んだと記憶していますが、佐賀県には3000近い「里」という小字、大字が存在するのです。

それだけでも半島南部からの大量の移住を感じさせますが、最低でもこの一帯への半島からの移住を考えさせるのです。

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百嶋由一郎手書きメモ(007E(大蛇伝説)金朱露img001img002より

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2019年01月09日

534 「しつこい」と「ひつこい」

534 「しつこい」と「ひつこい」

20171111

太宰府地名研究会 古川 清久


桂米朝全集に「堺飛脚」があります(特選!!米朝落語全集 第28 CD土橋万歳/堺飛脚/看板の一)。

とりたてて面白いという噺でもなくどちらかと言えば小噺の範疇に入るものですが、何度も聴いてようやく気付くこともあるものです。

落語ばかりではなく、自分ではそれなりに関西弁には慣れ親しんでいるつもりでいたのですが、関西では「しつこい」を「ひつこい」と言うことにようやく気付きました。

勿論、関東が「ひ」の発音を「し」としか発音しない(できない)という事は半ば常識ですが、聴いていると、やはり米朝師匠も「しつこい」を「ひつこい」と発音している事に遅れ馳せながらも改めて気づいたのでした(この点は九州と同じですね)。

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【上方落語メモ第5集】その211

堺  飛  脚

●何じゃこら? 死んでんのかいな? 生きてんのか? しっかりしなはれあんた。

 「はい」ヒョッと上げた顔が、目も鼻も口もなんにも無いノッペラボォ。

●ド狸、ヒツコイやっちゃなぁ……、えぇ、次は何やと思たらお前、女の白瓜みたいな化けもん。おいッ、高入道の次がノッペラボォ、古臭すぎるなぁ

おい、古いわい古いわい、出直せッ!

 パッと消えてしまう。

 「あいつらの考えることちゅうたら、だいたい相場が決まっとぉんねな、ちぃ〜と変わったこと考えやがったらえぇのに……」なんか言ぅてるうちに、

もぉ狸も化けもんも諦めたのか、なんにも出ません。

 しょ〜もない=つまらない。くだらない。仕様もないの訛化。

 高入道=大入道:からだの大きな、坊主頭の化け物。

 ヒツコイ=シツコイ:一つのことに執着して離れようとしない。執念深い。

   関西では「し」音がしばしば「ひ」となる。質、七(ヒチ)・失礼(ヒツ   レエ)・敷く(ヒク)

 音源:桂米朝 91/08/19 米朝落語全集(東芝)

【作成メモ】

 参 照 演 者:main=桂米朝 sub=*

 ●main高座記録日:1991/08/19  音  源  名:米朝落語全集(東芝)

 ファイル公開日:2000/06/04  江戸落語相当:*

 更  新  日:2008/12/07  リクエスト数:

 注 意 事 項:内容を削除、追加、改訂している部分があります。

          記録日のmain演者によるさげを採用しました。


あまり真面目に考えてはいなかったのですが、元々、「しつこい」という言葉はどうしても意味が分からず、何が語源なのかの見当が着かないでいたのですが、「しつこい」は明治以降に関東方言が標準化された事によって「しつこい」が普通の表現であるようになっただけのことで、いわば国民全てが錯覚している訳で、「ひつこい」が元であれば何でもなく容易に理解できることに気付いたのでした。

実際、何度も聴いていながら聴き飛ばしていただけで、米朝師匠も「ド狸、ヒツコイやっちゃなぁ」と語っておられた訳です。

さて、「ひつこい」をひっつきやすいから「ひっつこい」に転化して「ひつこい」が成立したとすれば容易に理解できる事になる訳なのです。


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「しつこい」が「ひっつきやすい」が語源なら分かり易い訳で、まず、「関西方言」という理解(東→西)そのものが誤りなのです。

そうすると「しつけ」(躾)さえも、もしかすれば「ひっつけ」が語源なのかも知れないのです。

元々、躾とは関東武士団の子弟の教育が起源なのですから(以下をご覧下さい)。

考えれば仕付糸も引っ付けるための物ですよね…。


【しつけの語源・由来】 ... 漢字の「躾」は、しつけの対象を礼儀作法に限定する武家礼式の用語として生まれた国字で、この頃から「仕付け」が別語と意識されるようになった。 「躾」には、身(体)を美しく飾る意味があり、「身」に「花」という漢字も作られた。

仕付け・躾(しつけ) - 語源由来辞典 gogen-allguide.com/si/shitsuke.html


火鉢が「シバチ」、と呼ばれ、七輪が「シチリン」と呼ばれるなど幾つも例がありますが、分かり易い例でお考えいただきましょう(以下をお読み下さい)。


1.本当の下町育ちは、「ひ」が発音できない。「潮干狩り」を「しおがり」と言う。(「コーシー(コーヒー)」も同じ) それを江戸弁と言う。特徴は「ひ」が発音できない事。例:「しがし(東)」 「冷たい」という意味の「冷やっこい」は「しゃっこい」。

「ひ」が発音できないと言うより「い」の段の発音がそもそもおかしい。特に「い」の段が連続するとさらにおかしな発音になる場合がある。例「ひしみとうがらし(七味唐辛子)

「ひ」と「し」が区別できない地域に「七味唐辛子」は存在しない「七色(なないろ)」と呼ぶ.

「日比谷(ヒビヤ)」と「渋谷(シブヤ)」を区別できない。

外国のオーケストラが日比谷公会堂と渋谷公会堂にばらけて到着した事件があった。(呼び屋が江戸っ子だったらしい)

1から10の数え方を「いち、にい、さん、しー、ごう、ろく、しち、はち、くー、じゅう」と思ってました(ばーさまが江戸っ子だったので)

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