2023年11月30日

ビアヘロ219 菅原道真の御子孫の方から電話を頂きました ❷ 「宮原誠一の神社見聞諜」No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社 の転載(下)

ビアヘロ219 菅原道真の御子孫の方から電話を頂きました 

「宮原誠一の神社見聞諜」No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社 の転載(下)

20230804

太宰府地名研究会 古川 清久


986 菅原道真の御子孫の方から電話を頂きました 

「宮原誠一の神社見聞諜」No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社 の転載(上)20230804

からの続き

研究会の雑務を行っていると、色々な問い合わせや情報提供などに遭遇します。

 今回電話での問い合わせが来たのも、当然、我々(当然複数ですが)のブログをご覧になっての問い合わせだったのですが、北九州市在住の「重松」という姓を持つ方からのお話でした。

 当然、詳しくは申せませんし不正確かも知れませんから、私の道真に関する数本のブログのどれかに反応されて、電話を思い立たれたようです。要点は二つです。

父からは自分たちの家系は道真の血を引く一族であるという事、昔は系図もあったが、火事で失ってしまった…という話でした。

この様な話は古代史とか神社調査と言ったものに関係していると良く出くわすのですが、それは御子孫と言うものは、等差級数的にというかネズミ算的に増えるものであり、それほど珍しいものではないと言えばそれまでですが、親が意を決し伝えるとなるとその一族にとってはそれなりに重要な家伝であって、それなりに重要な氏族であった事が伺い知れるのです。

既に系図が失われている以上、それ以上を確認することはできませんが、我々のブログを見られて反応していただける事は当方にとっても有難く、更なる探求心が生まれると言う事になります。

 

「宮原誠一の神社見聞諜」

No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社2022/06/13 − 小郡市立石の重松家と菅原道真公小郡市立石の重松家は菅原道真公の子孫です。その記録を残すために重松家の墓地に墓碑銘の石塔が立てられています。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)521 菅原道真公の御両親 20180120 太宰府地名研究会 古川 清久

019 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った! ひぼろぎ逍遥

574 藤川天神再訪鹿児島県薩摩川内市藤川” |   ひぼろぎ逍遥

602 菅原道真が落ち延びた鹿児島県薩摩川内市の藤川天神

603 菅原道真が落ち延びた鹿児島県薩摩川内市の藤川天神

 この外にもありますが、関心をお持ちの向きには、まずはこのあたりから読み進めて頂きたいと思います。

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これは、姓名分布&ランキングというサイトからの重松一族分布状況を示すものですが、福岡県、それも久留米市にピークを持つ氏族であり、それだけでも九州王朝系の氏族を示す古い氏族のように見えます。

「宮原誠一の神社見聞諜」No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社から転載させて頂きます。

20220613() 170000

テーマ: 神社見聞調考

No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社

宮原誠一の神社見聞牒(196)  令和4年(2022)0613

一族の女性を主祭神に祀る天満神社が福岡市の西部にあることを聞いておりました。
このたび、その天満神社に巡り会うことができました。長年の思いが叶いました。
本殿の屋根の千木は平削ぎの女千木、鰹木三本で、女神と菅原道真公を祀ります。
どうして、主祭神が女神で、菅公でないのか、不思議ですが、それなりに理由がありました。
神社由緒によると、この天満宮は福岡城内に祭祀してあったのを、明治1510月福岡城解体の折、町民協議して福岡市西区姪の浜六丁目(水町) に移築されたと伝わっていました。
水町天満神社 福岡市西区姪の浜六丁目8-3(旧姪浜字水町)

無題.pngここまで前ブログの冒頭部

ここから

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宮原秀範氏の橘系図資料から

菅公受難の旅路
私の父は太刀洗町三川 (みかわ)の池田家(姫姓)、重松家と縁があり、私は小郡市立石の重松家と縁があります。三川の西が菅野で、その西の江戸老松神社があります。この江戸の老松神社の社紋は梅鉢紋ですが、祭神は道真公ではありません。
小郡市立石の重松家は菅原道真公の子孫です。
立石の重松家を紹介する前に、道真公の大宰府入りの「受難の旅路」のまとめです。
菅原道真公が右大臣に就任して3年、昌泰4年(901)正月25日破局は突然におとずれ、道真公は大宰権帥に左遷され、詔が公布されます。
大宰府に流される身となり、2月1日には早くも都を立たねばならなくなり、妻と女子は都に留まることを許されたが、長男の高視は土佐に流され、ほかの三人の男子も地方に追われ、一家離散となります。
九州下向の一行は、警固の役人二人と隈麿と紅姫の幼児二人と門人を含め七名で、見送る人もなく、配流の罪人として大宰府の長旅が始まります。道真公は京都を発してから、絶えず藤原時平の差し向けた刺客に狙われることになり、その刺客を避けるためか、大宰府館への路程は苦難の旅路でした。
以下、No.53 菅公受難の旅路と福岡県田主丸町の小川天満神社 2018319日」からの道真公の苦難の旅路の要約です。


@博多に上陸
京を発つ時、樋口大膳進(だいぜんしん)は監視役として菅公に随行。博多入り直後、刺客の難に遭い、大膳進は菅公の護衛役へと転身した。一行は脊振の東麓を転々とし、脊振の板屋峠を越えて、早良郡司の壬生家に到着。滞在は7ヶ月に及んだ。ご一行は小郡市立石の重松家の伝承によると、基山にしばらく滞在しています。
A福岡市早良郡司の壬生家に滞在
長期滞在先の早良の壬生家に藤原氏の刺客が来襲(延喜元年901 1123)した為、密かに筑紫の西の山並みを抜けて、谷村(福岡市六本松)に到着した。
B谷村(福岡市六本松)を船出し福岡県築城町椎田沖で遭難
菅公は新編成の護衛団に守られて、六本松の谷村(草香江)から船出して、門司、椎田沖にて嵐に遭遇し遭難。椎田浜にたどり着いている。


綱敷(つなしき)天満宮
この時、漁船の艫綱(ともづな)を巻いて敷いて休まれ、菅公は艫綱敷きの世話をしてくれた二人の漁夫に、菅公が艫綱の上に座す我が姿の自画像を描き与え、綱敷天満宮のご神体となし、豊前国主小笠原、豊後国主木下両家によって、現在の綱敷(つなしき)天満宮の社殿が造営されたという。


C大分市邯鄲に上陸
大分市邯鄲(かんたん)に上陸。邯鄲は旧大分港の町。
D大分県九重町の安全堂に到着
玖珠郡葦谷村(あしやむら)、現在の大分県九重町菅原の白雲山安全堂に着かれる。「菅原」は山城國愛宕山の学友であった「観応」の地。「観応」が開基した真宗白雲山浄明寺(当時は天台宗)がある。延喜2年(902)の早無題.png春であった。ここに長期の滞在をされる。
葦谷村では、地元の女性二人が世話をされ、その女性の一人が浄妙尼(浄明尼)で菅公没まで身の周りの世話をされたという。ここ安全堂にて、菅公は手鏡を前に、自分の姿を映し、自画像を描かれたという。
地元では、榧(かや)の一枝を採り、自像を彫刻されたと伝承が残る。自像の彫刻像をご神体に「菅原天満宮」が創建されている。
E福岡県北野町の江口に上陸
玖珠郡葦谷村の長期滞在を終え、ご一行は舟で筑後川の日田を下り、福岡県北野町の江口に上陸される。後に、ここ上陸の地「江口」に天喜二年(1054)「北野天満宮」が創建される。
陸路松崎街道を通り、某年某月某日大宰府南館に着かれました。
F菅公終焉の地
菅公終焉の地は太宰府の榎寺(南館)と言うことになっていますが、薩摩では、「菅公は川内の藤川で没された」という、ここで生涯を終えたことになっている。そこに藤川天満宮があります。


道真公の公表生存期間は、承和12(845.8.1)-延喜3(903.3.26)とされています。
京を出発されたのが昌泰4(901)21日、壬生家滞在は7ヶ月、九重町の安全堂に到着されたのが翌年の延喜2(902)の早春、どれだけ九重町に滞在されたか不明ですが、太宰府の南館(榎寺)に入られたのは延喜3(903)春だとすると、太宰府滞在は2ヶ月程度となります。
 都府楼はわずかに瓦の色を看()る 観世音寺はただ鐘の声を聴くのみ
道真公は南館(榎寺)を一歩も出られず謹慎の日々を過ごされています。
朝夕に聴こえてくる観世音寺の鐘の音を聴くのみの蟄居の状態です。
菅原道真公息女・紅姫の悲運
菅原道真公が大宰府に左遷された時、奥方は病床にあり、幼い紅姫様と熊麿君を大宰府に連れて下向されている。翌年秋に熊麿君が死亡され、その十日後に道真公が薨去(こうきょ)され、幼弱な紅姫が残されています。
紅姫は亡き父から託された密書を四国の長兄高視卿に届けるために密かに大宰府を旅立ちますが、藤原時平の刺客追手が迫り、若杉山麓に身をひそめられ、山上の若杉太祖神社に御守護を祈願されたが、刺客に探知され非業の最期を遂げられました。千余年前、地元の人々は紅姫の悲運を憐れんで、祠を建立し稲荷神として祀られ「紅姫稲荷神社」が創立されています。
No.142 篠栗町尾仲の老松神社の古宮は開化天皇を祀る202051日」から
道真公は薩摩川内下向の折、九州王朝を祀られた
道真公は薩摩川内下向の折、各所に開化天皇を祭神とする老松神社を建立されています。
 小郡市松崎の老松神社(この地域は井上です、井上一帯は筑後の春日と呼ばれた)
 三井郡太刀洗町高樋、高橋の老松神社 みやま市山川町重冨の高良神社
これらの神社は開化天皇を祀ります。
山川町重冨の神社は三階松紋をもち、下宮が「山神宮」、上宮が「高良神社」で構成され、開化天皇、神功皇后、仁徳天皇の親子を祀る神社が鎮座です。下宮「山神宮」には三階松紋と梅鉢紋が打たれています。下宮には道真公もちゃっかり鎮座されています。
京都の北野天満宮は「星梅鉢紋」と「三階松紋」を使用されています。
小郡市立石の重松家と菅原道真公
小郡市立石の重松家は菅原道真公の子孫です。その記録を残すために重松家の墓地に墓碑銘の石塔が立てられています。小郡市立石に移って来る前は、佐賀の基山におられました。佐賀県三根郡の宮原家と同じ家紋で重松家の家紋も「剣花菱」紋です。


菅原氏の由来
天穂日命(豊玉彦)の後裔、野見宿禰に始まる大和国添下郡菅原庄を本拠とする土師氏が、天応元年(781)に菅原宿禰を賜り、延暦9年(790)に朝臣姓に改める。
早稲田大学創立者の佐賀藩士大隈重信公の大隈家も菅原姓を称し、家紋も「剣花菱」紋です。
菅原の発祥の地は、現在の奈良県奈良市菅原町518です。そこに小さい菅原神社があります。菅原地名発祥の地です。

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重松家の墓碑銘

重松氏は菅原氏より出ず。
道真公七世の孫にて是綱(これつな)という。その弟、三位・在良より四世にして、信昇あり。大鳥居・小鳥居等の諸氏の祖たり。その弟、伊豆守・教繁の子を信愛(のぶえ)という。これ重松・岩松・海野等諸氏の祖たり。
その子、重松式部少輔教継より十二世の頼幸の弟・満幸の子を備後守信幸という。その子、金左衛門の弟、芸右衛門常治、時勢の変に処して、民間に下り、肥前基山より筑後に入り、三井郡立石村吹上に住み、世々郷党の牛耳を執()り、地方の開業に力を致す。
八世を経て、市郎吉常之に至り、宝暦四年(宝暦一揆)の騒憂に際し、同志教士と共に数郡の農民のために身を殺して仁を為す。
以来、しばらく逆境にあり。記録また詳しからざるも、家門は益々繁栄し、重松・〆野家を産するに至(いた)れり。
今、この一門十数氏、相謀(はか)りて、豊碑を建てて豊本祭祖を設(もう)く。
「・・・」に美挙たり。すなわち喜んで誌文の需(もとめ)に〆野応ず。
             大正十五年十月  晃堂不?撰井書
(
)「・・・」に美挙たり の箇所は「碑銘の謹書に名乗り出る」と解釈する

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更級日記の著者、菅原孝標女(たかすえのむすめ)は 菅原道真公の長男、高視(たかみ)の子孫です。  

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なぜ松井家の墓が一緒にあるのか分かりません。
(追記)吹上区には重松、高松、松井さん等が住まわれ、第二墓地は共同墓地でした。
菅原系図

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福岡県小郡市吹上の吹上神社(大通宮)
重松家の氏神神社が小郡市吹上の吹上神社(大通宮ふきあげじんじゃ)です。
吹上の前を徳川が流れています。今の宝満川です。
公表祭神は国常立神(クニトコタチノカミ)=神皇産霊神(カミムスビノカミ)=大幡主となっています。吹上の立石校区一帯には「○○隈」と言った村名が多く存在し、今隈、乙隈、山隈、横隈、つまり、古代、この一帯は大幡主ご一統の領域でした。
吹上神社 福岡県小郡市吹上820
祭神 国常立尊(大幡主福岡県神社誌による)

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ご祭神は福岡県神社誌によると国常立神=大幡主となっているが、久留米藩社方開基では大通天神となっています。第一鳥居の扁額は「大通宮」ですが、村の方々は「だいつうぐう」と呼ばれています。「大通宮」を考察しますと、「おおどおり宮」「おおとり宮」「大鳥宮」となり、先祖の大鳥居氏に繋がります。
祭神は大幡主(国常立神)ではなく、大幡主の御子・豊玉彦、つまり、天穂日命で、菅原道真公のご先祖様でした。


筑後国久留米藩の宝暦一揆
江戸時代、久留米藩では二度の大規模な一揆が発生している。享保の一揆(享保131728)と宝暦の大一揆(宝暦4年1754)です。
享保13(1728)8月、生葉、竹野、山本の三郡の農民は、藩の重税に耐えられず、減税運動の一揆を起こした。27才の若き家老の稲次因幡正誠(まささね)の働きにより大事に至らなかった。のちに対処不手際ありと、稲次正誠は家老職を罷免され蟄居を命じられ、藩辺境の御原郡津古村(小郡市)にて享保21(1736)35歳で亡くなった。
彼の遺徳を偲び、寛延2年(1749)地域の庄屋達が久留米城下に五穀神社を創建した。今では祭神の一柱だが、創建当時は真の祭神(稲次因幡正誠)は隠された。また、五穀神社も護国神社の隠し社号か?
西鉄津古駅前に八龍神社があり、その北隣に稲次因幡正誠蟄居の跡の記念石碑と案内板が設置されています。
宝暦の大一揆(宝暦4年1754)は藩の人別銀賦課に端を発し全藩的規模であった。参加者数5万人、少なからずかかわった農民は16万人に達したといわれる。大庄屋、庄屋への打毀60余軒に及び、田主丸八幡河原での大結集から鎮圧されるまでに2ヶ月も続いた。その結果、死刑16人という犠牲を出したが、人別銀廃止のほか貢租徴収制度の改善など領民の要求もかなり実現している。
庄屋以上の死罪者
竹野郡野中村 庄屋  八郎右衛門 御原郡井上先 大庄屋 八郎兵衛
御原郡干潟村 庄屋  三郎右衛門 竹野郡亀山村 庄屋  伴蔵
稲次八兵衛正延と寛文十年(1670)久留米藩社方開基
久留米史料叢書第六集 久留米郷土研究会
当時、江戸幕府の幕令により久留米藩でも宗門改めが準備され、寛文五年(1665)、寺社奉行が設置された。藩は領民支配強化に宗教統制を行い、その手段が寺・社であった。そのため藩としては、まず寺・社の沿革と実態を把握する必要があった。こうして、「寛文開基」(書上=報告)は久留米藩最初の本格的な寺社調査となった。主に調査取りまとめに当ったのは寺社奉行・稲次八兵衛正延である。
これが『社方開基』および『寺院開基』が作成された経過である。
しかも、寛文の開基帳は久留米藩成立五十年後(1670)の初期史料という貴重さをもっている。史料の解読を担当したのは、久留米市史編さん室勤務の古賀正美氏である。この部厚い古文書数冊を一人で作業され、久留米郷土研究会の史料叢書に提供された。この叢書は当会の「久留米史料叢書」第六集として昭和五十六年十一月に発行された。

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稲次因幡正誠蟄居の跡の記念石碑と案内板(八龍神社北隣・津古公民館)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:24| Comment(0) | ビアヘロ

ビアヘロ218 菅原道真の御子孫の方から電話を頂きました ❶ 「宮原誠一の神社見聞諜」No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社 の転載(上)

ビアヘロ218 菅原道真の御子孫の方から電話を頂きました 

「宮原誠一の神社見聞諜」No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社 の転載(上)

20230804

太宰府地名研究会 古川 清久


研究会の雑務を行っていると、色々な問い合わせや情報提供などに遭遇します。

 今回電話での問い合わせが来たのも、当然、我々(当然複数ですが)のブログをご覧になっての問い合わせだったのですが、北九州市在住の「重松」という姓を持つ方からのお話でした。

 当然、詳しくは申せませんし不正確かも知れませんから、私の道真に関する数本のブログのどれかに反応されて、電話を思い立たれたようです。要点は二つです。

父からは自分たちの家系は道真の血を引く一族であるという事、昔は系図もあったが、火事で失ってしまった…という話でした。

この様な話は古代史とか神社調査と言ったものに関係していると良く出くわすのですが、それは御子孫と言うものは、等差級数的にというかネズミ算的に増えるものであり、それほど珍しいものではないと言えばそれまでですが、親が意を決し伝えるとなるとその一族にとってはそれなりに重要な家伝であって、それなりに重要な氏族であった事が伺い知れるのです。

既に系図が失われている以上、それ以上を確認することはできませんが、我々のブログを見られて反応していただける事は当方にとっても有難く、更なる探求心が生まれると言う事になります。

 

「宮原誠一の神社見聞諜」

No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社2022/06/13 − 小郡市立石の重松家と菅原道真公小郡市立石の重松家は菅原道真公の子孫です。その記録を残すために重松家の墓地に墓碑銘の石塔が立てられています。ひぼろぎ逍遥(跡宮)521 菅原道真公の御両親 20180120 太宰府地名研究会 古川 清久

019 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った! ひぼろぎ逍遥

574 藤川天神再訪鹿児島県薩摩川内市藤川” |   ひぼろぎ逍遥

602 菅原道真が落ち延びた鹿児島県薩摩川内市の藤川天神

603 菅原道真が落ち延びた鹿児島県薩摩川内市の藤川天神


 この外にもありますが、関心をお持ちの向きには、まずはこのあたりから読み進めて頂きたいと思います。

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これは、姓名分布&ランキングというサイトからのもので重松姓の分布状況を示すものですが、福岡県、それも久留米市にピークを持つ氏族であり、それだけでも九州王朝系の氏族を示す古い氏族のように見えます。

「宮原誠一の神社見聞諜」No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社から転載させて頂きます。

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No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社

宮原誠一の神社見聞牒(196)  令和4年(2022)0613

一族の女性を主祭神に祀る天満神社が福岡市の西部にあることを聞いておりました。

このたび、その天満神社に巡り会うことができました。長年の思いが叶いました。

本殿の屋根の千木は平削ぎの女千木、鰹木三本で、女神と菅原道真公を祀ります。

どうして、主祭神が女神で、菅公でないのか、不思議ですが、それなりに理由がありました。

神社由緒によると、この天満宮は福岡城内に祭祀してあったのを、明治1510月福岡城解体の折、町民協議して福岡市西区姪の浜六丁目(水町) に移築されたと伝わっていました。


水町天満神社 福岡市西区姪の浜六丁目8-3(旧姪浜字水町)

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福岡城上図 他の福岡城下古図を当たりましたが、水鏡天満宮以外の天満社は城内にありませんでした。水鏡と水町、似ています。

水鏡天満宮
 道真公が今泉の若宮付近(鎌倉時代の博多古図)に上陸されて、水たまりに憔悴した自分の姿を映し嘆かれたという。後にその地に水鏡天満宮が建てられた。江戸時代初期に初代福岡藩主・黒田長政が、福岡城の鬼門にあたる東の鎮守として、今泉から移したとされる。この時の移転先が天神の地名の由来となっています。水鏡天満宮の宮司さんが、後に記す小鳥居さんです。

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水町天満神社 福岡市西区姪の浜六丁目8-3(旧姪浜字水町) 福岡県神社誌 無格社【祭神】菅原神、埴安神

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本殿の屋根の千木は平削ぎの女千木が三本、鰹木三本で 女神を主祭神に菅原道真公と共に祀ります

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水町天満宮の由来
ここ水町天満宮は福岡城内に祭祀してあった大宰府天満宮の分霊を明治1510月福岡城解体の折、町民協議して当地に移築されたものと伝えられています。
ご神体は学問の神様菅原道真公をお祀してあり、町内の氏神様また学問の神様として参詣する人も多く、50年位前までは毎年1月7日の夜には鬼すべ行事が行われ、網屋町(今の姪の浜三丁目)の海岸までお汐井取りに行っていました。大勢の人が鬼を中心に競い合い、狭い路地を廻るのでなかなか難しく、姪の浜の名物行事の一つに数えられており夜店も出て賑やかでした。ここ数年はこの行事も廃れています。
永い年月の間に社殿も古くなり昨年の長雨と台風のため神殿の屋根瓦が落ち、ビニールでおおい雨露を凌いでおりました。
このたび図らずも地元有志の方々の発議に依り、町内会とも相携えて新築することにご賛同を得、完成の運びと相成りました。ここにその由来を記し感謝の意を捧げます。
  平成6年(1994)10月吉日

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主祭神の女神は菅原道真公の室夫人でした。
菅原道真公(すがわらみちざね)
 承和12(845.8.1)-延喜3(903.3.26)
 父:菅原是善(これよし)
 母:伴真成(とものまさしげ)の娘
 妻(正室)島田宣来子(のぶきこ)-恩師の島田忠臣の娘
  (長男)菅原高視(たかみ 876-913)
  (女子)菅原衍子(えんし)-宇多天皇女御
 室(側室)宮原(百済姓)頴人(ひでひと)の娘
  (男子)菅原旧風

菅原道真公の室夫人は宮原(百済姓)頴人(ひでひと)の娘です。
道真公のご先祖は、天穂日命・天菩火命(あめのほひのみこと)で豊玉彦です。
百済姓宮原は姫姓です。
道真公と並ぶ時は室夫人が格上となり、本殿に祀られる時は室夫人が主祭神となるのです。
百済姓宮原については、朝倉の宮原○○さんのお父さんから立ち話で「さわり」を聞くことができました。


菅野氏(すがのうじ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E9%87%8E%E6%B0%8F
百済の王家から別れたという。
日本古代の帰化人系氏族(諸蕃)である。百済の王家から別れたといい、姓は朝臣(菅野朝臣)
百済の第14代国王貴首王関連で、『姓氏録』によれば、同祖の氏族に葛井宿祢(ふじいのすくね)、宮原宿祢、津宿祢(つのすくね)、中科宿祢(なかしなのすくね)、船連(ふねのむらじ)がいる。この中で、葛井・宮原両氏との関係は、『続日本紀』に載せる延暦97月辛巳(17日)条の菅野真道等の上表(上述の改賜氏姓を願った際のもの)において、皇太子の師となる有識者を探していた応神天皇の求めに応じた貴首王が孫の辰孫王を入朝させ、辰孫王の長子、太阿郎王が仁徳天皇に近侍、太阿郎王の孫の牛定君の3人の子から3氏に別れたといい、長子味沙(みさ、味散とも作る)が葛井氏の、仲子辰爾(王辰爾)が宮原氏の、末子の番麻呂が菅野氏の祖となったと述べている。この場合、三氏の氏祖の親は『姓氏録』には塩君(しおのきみ)とされているので、この塩君が牛定君とも呼ばれたことになる。

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もともと、向倭(むこうやまと)である百済王家は姫氏天皇の分家です。
天智天皇の和風諡号は天命開別尊(あめみことひらきわけのみこと)であり、別王(わけおう)であり、正統天皇ではありません。宝皇女(たからのひめみこ=斉明天皇)が舒明天皇の皇后になられる前の子です。
宝皇女(女王)は最初の夫で高向王と結婚し漢皇子があり、63037歳で舒明天皇の皇后に立てられる。(高向王は記紀では用明天皇の孫となっているが、出自は不明、また宝皇女は以前宝女王であった) 舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらず、642115日、皇極天皇として49歳で即位した。
若き天智天皇は佐賀脊振山南麓の白壁におられたことがあります。天智天皇の孫である白壁王(しらかべ)は、後の光仁天皇です。天智天皇は626年、田村皇子(舒明天皇)33歳の時の第二王子として誕生。宝皇女との子とすれば、宝皇女32歳の時の子となり高齢出産です。舒明天皇は641年に崩御され、この時の天智天皇は16才であるという。天智天皇は671年に46才で崩御されている。
一方、『本朝皇胤紹運録』『神皇正統記』では、天智天皇は614年生まれとなっていて、宝皇女20歳の時の子となります。天智天皇は58才で崩御されることになります。天智天皇が宝皇女20歳の時の子となれば、舒明天皇以前の子となります。やはり、天智天皇の父は高向王かもしれません。その子の「漢皇子」は韓(百済)の王子という意味です。
この時代の皇統譜は不明瞭が多いです。想像すれば、高向王は百済王子かもしれません。百済王子であっても皇統譜は繋がります。
なぜ、斉明天皇(宝皇女)・天智天皇親子は、白村江の難をもってしてまで百済救援を行なったのでしょうか。それは百済が自分に直接関係した国だったからです。
天武天皇は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひと)であり、新羅系となります。天智天皇と天武天皇では、血統的にはどちらが正統天皇に近いか?天智天皇です。
そのため、天武天皇の皇后は天智天皇の皇女から選ばれました。
天武天皇と持統天皇と大和()三山の舞台は奈良県ではありません。福岡県の筑豊です。香春岳三山のある香春町です。舞台が奈良県に移るのは白村江の難の後です。
奈良時代以前の香春岳三山は、それぞれ、畝尾山(うねびやま、一ノ岳)、耳成山(みみなりやま、二ノ岳)、天香山(あまのかぐやま、三ノ岳)と呼ばれていました。


987 菅原道真の御子孫の方から電話を頂きました 

「宮原誠一の神社見聞諜」No.196 女神を主祭神に祀る福岡市西区の天満神社 の転載(下)20230804

へと続く

 百嶋由一郎が残した100枚近い神代系譜、30時間に及ぶ講演録音声CD、手書きデータス・キャニングDVDを必要とされる方は09062983254(古川)までご連絡ください。また、太宰府地名研究会、百嶋神社考古学の会合、神社トレッキングに参加されたい方は、太宰府地名研究会事務局09052892994(中島)or09062983254(古川)までご連絡ください。なお、神社について案内して欲しい、若しくは先祖について教えて欲しいと思われる方はご連絡ください。会には多くの知識をお持ちの方がおられますのでわかる範囲で協力致します。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:17| Comment(0) | ビアヘロ

2023年11月29日

ひぼろぎ逍遥(跡宮) ビアヘロ 217 氷川神社とは何なのか? ➋

ひぼろぎ逍遥(跡宮) ビアヘロ 217 氷川神社とは何なのか? ➋

20231018

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


先行ブログで「氷川清話」について触れましたが、明治維新の幕府側の要人の一人の勝 海舟 の随筆がたまたま近所の神社から採題されたのですが、


『氷川清話』(ひかわせいわ)は、勝海舟の談話録。勝は1887年(明治20年)伯爵を受爵した。勝は東京市赤坂区氷川町(現:東京都港区赤坂六丁目)に住んでいたため、氷川伯と呼ばれており、この書名の由来となった。

ウィキペディア20231018 0710


「氷川清話」については、有難い事にユーチューブで朗読の音声が流されています。

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パワー・ポイントの作成やブログを書きながら数十本の全編を聴く事ができると言うのは、大変助かります。勿論、「平家物語」や「徒然草」…から三遊亭圓生、桂文楽、古今亭志ん生き…なども聴き流しができますので残された人生が豊かになります。

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東京都 赤坂氷川神社


一応、首都の赤坂氷川神社に敬意を表し祭神を見おきましょう。


祭神: 素盞嗚尊 奇稲田姫命 大己貴命


 ただ、この祭神で良いかがこのシリーズのテーマになります。

 当会の百嶋神社考古学研究会の域外メンバーのお一人で、埼玉県在住のTさんがおられます。関東の神社調査に随行して頂いたり、埼玉の佃先生の集まりにも参加されており、九州の神社調査にも長期間お出でになっていますので非常に強力なスタッフのお一人となっています。

 その彼からの照会からこのシリーズを始めてしまった事があり、これは奥秩父から栃木方面への神社探訪への下調べでもあります。 どうも、祭神の三柱は、夫婦神に大己貴命が加えられており、スサノウ系、金山彦系、大山祇系と主要な民族が反映されているとは言え、武蔵大国主神社が幅を利かしている事を考えれば、大国主が末席を配されている事に不信も感じるのです。

 祭神の入替え変更は良くあるものであり、本来の祭神が何であるかは関東を知るための助けになるはずなのです。


では、氷川神社(武蔵一宮)を見てみましょう。

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ここも祭神は同じです。

祭神: 素盞嗚尊  奇稲田姫命  大己貴命


では、九州の氷川神社と言っても奄美大島のそれをご覧下さい。

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無題.pngどうも閉鎖されている様ですが、神額には氷川神社とあり、小さな花天集落の神社のようです。

 この外にも大分県の旧山香町などにも散見されますが、行っても何も情報が得られることも無く、引き返してくることしかできません。このような神社も元は御嶽(ウタキ)のはずで、ノロが仕切っていたはずなのです。

 しかし、過疎化、高齢化、限界集落化が進むと祀るもの自体が消失し、祭祀自体が消え去ってしましいます。


祭神:素戔鳴命(スサノオノミコト) 奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト) 大己貴命(オオナムチノミコト)。

琉球王支配の時代より村落民守護の神(ノロ神)を崇敬していたが、時代の進展により村落民の総意に基いて、古老の口伝に合った神徳を持つ東京氷川神社の御分霊を勧請奉斎した。

 これは鹿児島の神社庁のやった事ですね。

 こうして、下調べをしていると、山口県周南市や大分県の旧山香町などにも氷川神社が確認できるのです。

 一般的に関東の平野部=都市部の氷川神社は大体に於いて右習えしてしまいますのでどうしても原型が保たれている僻地の神社を調べるしかありません。

 そのためネット検索を進めていると、当方の調査にとっては非常にありがたいサイトに遭遇しました。

 そのレベルの高さ、当方の調査の趣旨にも合致する高質のサイトだったのです。

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中でも氷川神社は東京都、埼玉県の荒川流域、特に元荒川と多摩川の間に多く分布しています。 また、利根川流域には香取神社が、元荒川筋と利根川の間には久伊豆神社が分布しています。


中でも氷川神社は東京都、埼玉県の荒川流域、特に元荒川と多摩川の間に多く分布しています。 また、利根川流域には香取神社が、元荒川筋と利根川の間には久伊豆神社が分布しています。


 この立派なサイトは簡潔ながらも密度の高い内容に富んでいるも、タイトルが明示されておらず、余りにも控えめな「分布に特徴ある神社」ぐらいでしか検索ができないのが残念です。

 以下、何本かご紹介させていただきます。

 当方も、遠路、510回ほど山中湖の友人の別荘を利用させて頂いたこともあり今年の春先も含め一か月の長期間の調査に入っていました。それは甲信越の若宮神社の調査でしたが、その後異質な阿智村と群馬県の調査に入り、次のテーマに据えたのが氷川神社だったのです。


JAN

25


関東平野 氷川神社の分布


 氷川神社の分布にも特徴ありますが、久伊豆、鷲神社とは少し違っています。詳しくは、私の氷川神社サイトを見てください。全国の氷川神社を熱心に調べたサイトが、こちらにもあります。また、この神社の分布図は、各所にありますので探してみてください。

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大宮から離れて坐す氷川神社

埼玉県の大宮に、この神社の分布の中心がありますが、他に重要なものが、狭山丘陵、奥多摩、山梨県の勝沼に近い岩崎というところにもあります。また、秩父の三峰神社の麓にも氷川神社があります。これら大宮から離れたところにある氷川神社が、この神社の本質をものがったているのかもしれません。
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 大宮を中心とした氷川神社の分布を見ていきます。郡でいえば足立郡がその分布の中心となり、埼玉郡を中心に分布する久伊豆神社とははっきりとした境界を作って分布しています。そして南への分布も葛飾郡へとは及んでいません。香取神社とは対照的なことがわかります。さらに武蔵国では、荏原郡、豊島郡、新座郡、入間郡、比企郡、横見郡と大宮台地と入間川をはさんで、その対岸にある郡にも多く分布していることがわかります。

 大宮台地と武蔵野台地を流れる川は、昔は入間川です。その右岸の武蔵野台地にどのように分布しているかを見るため上の図を作りました。武蔵野台地は、谷戸周辺のみが人の住むのに適した場所であったのでしょう。渋谷川、神田川以北は多く、それより南大体荏原郡に属するところは疎らです。現在の世田谷区に属する大蔵、喜多見、宇奈根に氷川神社があります。ここは旧の多摩郡に属しますが、荏原郡の延長といってもよいところです。ここの神社は、伝承での古い創建のものがみられます。多摩川沿いの貝塚分布の最陸部と一致しているのが面白いところです。

 氷川神社は、多摩川下流域では、これを越えて南には進出していません。川崎市宇奈根にも氷川神社があるので、進出していないというと語弊がありますが、、昭和2年の勧請といわれており、また、相模原市の氷川神社は天保14年新田開発の折、高尾の氷川神社を勧請したものです。


こうして、このサイトをしっかり読ませて頂く事が最大の調査と下調べになると判断し、しばらくブログを書く事を後回しにするつもりです。

この点は、ここ数年埼玉在住の百嶋神社考古学の研究メンバーも同様の意見を持っており、改めて先達さんには敬意を感じている所です。

こうして、これから新たな調査の対象として取り組もうとしていたところ、嬉しいような悲しいような不思議な思いが過っています。

では、もう少しご紹介しようと思います。


FEB

3

大宮の氷川本社から離れて坐す重要な氷川神社(その3 岩崎・奥多摩 氷川神社)

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 大宮の氷川本社から遠く離れて坐す重要な氷川神社がありますが、奥多摩の氷川神社以外はあまり知られていないものです。

 さらに遠く離れては、大分県杵築市、長崎県大村市、鹿児島県大島郡(奄美大島)にもあります。前の二つの由緒はわかりません。奄美大島のものは、もともとは地元の村落民守護の神(ノロ神)を祭っていたものですが、その後東京の氷川神社を勧請したものです(鹿児島県神社庁HP)。これは、もともとの地主神がいて、権威あるないしは霊験あらたかな中央の神を勧請してそこに祭るといったことが古代においてもよくあったのでしょう。神社の名前を考えるときの参考になります。

甲州勝沼にある岩崎の氷川神社

岩崎の氷川神社は大きな社で、高尾にある氷川神社とともに五海道其外分間延絵図並見取絵図の甲州街道分間延絵図に描かれています。

 江戸時代文政11年にかかれた甲斐国誌には、上下岩崎村の鎮守で、7石1斗の御朱印地を賜った、古棟札の一つ寛政二(1462)年のものに、「至徳二(1385)載、前ノ筑前ノ守源武政・前ノ讃岐の入道道安、両人為テ2本願1建立遷宮ス至ル2于今月今日1ニ秊七十七年也・・・」と、また山梨県図書館発行 甲斐国社記・寺記p158に、「當社氷川大明神、人皇十三代、成務天皇之御宇、國内為鎮護之勅在テ當山尓奉祝祭」と書かれています。「成務天皇之御宇」はともかく由緒ある古社であることは間違いありません。

 この神社は、富士山の真北(但し、この神社からは富士山は望めません)にあり、拝殿は正面の岩崎山を遥拝する向きになっています。この神社からの冬至日の出は、カメラの対地高度10mでは岩崎山の南からになります。この神社からの、山の頂からの日の出は、対地高度100mにしなければなりません。しかし、この山と神社の延長線上、下岩崎郵便局近く位置では対地高度3mで岩崎山頂の冬至日の出がシミュレートできます。いずれにしろこの神社が、岩崎山からの冬至の日の出を意識した位置にあることは間違いなさそうです。

 なお、標高データ10mメッシュの場合、近い所への太陽入没シミュレーションは、うまくいかないことが多かったのですが、5mメッシュのデータが利用できるなってからは大分改善されました。

 また、この神社と筑波山を結ぶ線上に、奥氷川神社があります。たまたまだと思いますが、ふしぎなことです。ちなみに、甲州葡萄の発祥の地はここ岩崎といわれており、明治初期にワイン製造の勉強のためフランスへ派遣された二人のうちの一人が、岩崎氷川神社の神官の長男高野助二郎氏であった(HP 山梨県ワイン百科より)など、なにかと甲州の主産業にゆかりの深い場所です。

日川

この神社の前を流れる川は、大菩薩峠を水源とする日川です。ただし、甲斐国誌によると、この川は「三日川(ミツカカワ)或いは日川ともいう」となっています。

 古事記に「此~、娶淤迦美~之女・名日河比賣、生子、深淵之水夜禮花~」とあり、萩原浅男・鴻巣隼雄校注「古事記・上代歌謡 」日本古典文学全集〈1(1973)小学館の校注(p90)は、「 『日河』は『氷川』と同じか。水の神」と書いています。「日川」がこの日河が関係があるのでしょうか、よくわかりません。

 大菩薩峠は多摩川水系との分水嶺で、ここは甲斐国と秩父多摩地方をむすぶところで、江戸時代に南に今の甲州街道が開かれるまでは、甲斐から多摩へは、この峠から浅間嶺等の尾根道を通って、桧原村本宿の口留番所へといきました。

 大菩薩峠から小菅川を下っていくと多摩の地に入り、その川は名前を多摩川とかえます。そしてそれと日原川とが合流するところに、奥氷川神社があります。松尾俊郎著 「日本の地名」新人物往来社 (1976)に氷川神社の分布が触れられ、ここが日原川と多摩川の合流点で、交通の要衝の地と書いてありますが、ここと青梅への間には、大岩盤があって交通の難所で、江戸時代中期に、地元の人が3年をかけて切り開いた数馬の石門のあるところです。したがって、奥氷川神社のあるところはどんづまりの地なのです。

奥多摩町は昔は「氷川村」、登計集落の氏神は阿羅波々岐神社

 この地は、今は奥多摩町と呼ばれていますが、小さいころから青梅線の終点は「氷川」となじんできました。氷川駅が別の名前で呼ばれるようになって、さびしく感じたことを覚えています。武蔵の国で「氷川」とよばれる村は、中氷川神社のある村とこの村だけです。それだけ、その村にとって氷川神社は中心的なものだったのでしょう。

 ここの氷川神社は、この愛宕山の礼拝所に起源するという話があり、まさにそのように感ぜられます。この山のふもとの登計という集落があり、ここからは神奈備型をしたきれいな愛宕山がみられます。そして、この集落の氏神様は阿羅波々岐神社でした。この神社は、現在は愛宕山の山頂に合祀されていますが、今もその集落の地には小さな祠があるそうです。そして、ここはいまも大岳山の登山口にも当たっています。

 阿羅波々岐はアラハバキとよみますが、大宮にある氷川神社の地主神はアラハバキです。新編武蔵風土記稿では「門客人社」と書き、アラババキ社とよませています。養沢村(現在あきる野市養沢)にも門客人明神社がありました。大正時代に、付近のこの社を含む四つの神社は合祀され、養沢神社となりましたが、いまもその境内に「門客人明神」の文字が刻まれている石灯篭があります。詳しくは、私のホームページを参照ください。

大岳山の山口に坐す「アラハバキ神」

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なぜこんな山奥に、アラハバキ神がいるのでしょうか。大岳山は、武蔵野台地をうしはく神の坐す山と前にのべました。この二つのアラハバキ神社は、その位置からして大岳山の山口に坐して、この山を守っている神と考えられます。江戸時代中期以前の御岳山、大岳山への登山口は青梅側でなく、五日市側だったことも、知っておく必要があります。

 大岳山の夏至の日の日の出は、シミュレーションによると筑波山からになります。そしてその山のふもとにある筑波山神社からは、まさに冬至の日の入りが大岳山にあります。

『常陸風土記』の『筑波郡』の項に「坂より巳東の諸国の男女、春の花の開ける時、秋の葉の黄づる節、相携ひ駢闐り、飲食を齎賚し、騎にも歩にも登臨り、遊楽び栖遅へり」とあります。この「坂より巳東」は秋本吉徳「常陸国風土記」講談社学術文庫の注によると、足柄の坂より東方の関東諸国のこととあり、大岳山と筑波山は古代においては違った地域のものではなかったと考えられ、これ等の山は関東平野にとっては、大事な聖なる山だったのでしょう。

 昭和60年に出された奥多摩町史には、「牟邪志(後の武蔵)最初の国造は出雲臣伊佐知直ですが考証によれば、当初多摩川下流に拠点をもち、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲での祖神を祀る日御碕の神岳と見、ここへ祖神氷川神を勧請したのが武蔵に多い氷川神社の起源で、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国衙を府中に移して氷川神を中氷川へ、さらに大宮に移したのだろうといわれるのです」と、論拠を示さず書いています。「考証によれば」の主語がなく、このような「史書」をつくったこの町の教育委員会の質が問われます。歴史というのは、このように為政者の都合のよいように作られていくものなのでしょう。最近は困ったことに、インターネットにより、これが一人歩きしています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ