ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1072 横浜市都筑区を探る ❶ “杉山神社とは何か”
20241213
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
横浜市に都筑区があります。一方、大分県日田市にも大山町東大山「都築」と言う大字が在ります。
まあ、神奈川県に川崎市があり、一方、筑豊の福岡県の田川郡に川崎町があるのです。
これくらいの同一地名はどこにでもあると言われそうですが、地名とは人が持って行くものであり、それは、ニュー・ヨークやニュー・ハンプシャー、ニュー・オーリンズ…でもご理解頂けるでしょう。
横浜は「都筑」、日田の場合は「都築」と表記に違いがあるものの、共に「ツヅキ」と呼びます。

「好字令」以来、二字表記の「木」「城」…は通常、半島から入ってきた人々が持ち込んだ砦集落を意味するものと考えていますが、茨木、茨城、茂木、茂手木、…多すぎるのでここで止めます(肥後の南半分はこれが以上に多いのです…)。茂木も茂手木も空堀の逆茂木なのです。
吉野ヶ里集落の入り口の門を入ったこの道の左右からは斜めの穴が多数発見されました。ここには、敵の侵入を防ぐための逆茂木と乱杭があったと考えられています。逆茂木とは、枝の張った樹木を外側に向けて斜めに立てて並べたものです。先を尖らした杭を並べる乱杭と共に、中世には臨時の防御用施設として戦場などで盛んにつくられました。
弥生時代の遺跡では、愛知県の朝日遺跡からも発見されています。弥生時代に戦いがあり、集落全体が守りをかためていたことを示すものの一つです。 よしのがりケータイガイドより
神奈川県には武蔵大国魂神社を始め、伊勢山皇大神宮、子神社、六所神社、大国主社…と大国主を前面に出さないものも含め、主神として大国主命を祀る神社は多いのです。
ここで、大国主命という存在をどう考えるかという問題に衝突します。
我々百嶋神社考古学の立場から言えば、所謂「出雲神話」は基本的には「古事記」だけのものと言う認識なのですが、その前に30年も前になりますが、NHKも含めて古代出雲大国の証拠などと大騒ぎした三本束の50メートル弱とまで言われた芯柱(心御柱しんのみはしら)の発掘について、理化学調査の結果鎌倉期の物であることが分かるも言いっぱなし状態になっているのです。この話は置くとして、そもそも大国主命とは、大山祇から博多の櫛田神社の主神大幡主に送り込まれた入婿(お妃は宗像の市杵島姫、豊玉姫=ウムガイ姫、キサガイ姫)で、出雲の人ではないのです。
その証拠に、宮崎県西都市の西都原第2古墳群には伝大山祇古墳があり、近くには大山祇とコノハナノサクヤを祀る石貫神社、ニニギの妃となったコノハナノサクヤを祀る妻神社(日向二之宮)があり、日向市の南の都農町には大国主命を主神とする都農神社(日向一之宮)が在るのです。
大国主命は出雲の人ではなく、筑紫の朝倉郡を天照、タカミムスビ、草部吉見という三悪人に奪われた結果、出雲に追放されたのでした。その結果、大山祇は愛媛の大三島に、カミムスビとその息子の八咫烏は忌部の讃岐、阿波、讃岐、熊野に追放されるのです。
まず、この事を理解しなければ、列島の神代から古代は藤原が捏造した漫画に陥ってしまうのです。
簡単に言えば、近畿大和朝廷に先行する古代国家出雲と言う大嘘=蟻地獄に陥る事になるのです。そこまで行きついて初めて、関東の武蔵大国魂神社の意味が理解できるのです。
さて、大国主命が本質的に大山祇系の熊襲(百嶋神社考古学ではトルコ系匈奴=王昭君系南匈奴)=物部氏=武士であり藤原氏打倒を心に誓い筑豊から避退した武装集団であった事が漸く見えてくるのです。
もう一つの問題は、石清水八幡宮、伊勢神宮を本拠地としたヤタガラスの存在があるのです。
そもそも、八咫烏=豊玉彦=豊国主の父神=カミムスビは博多を追われ熊野へ、本人も阿波へと、本拠地を奪われ、主要貴族であった橘一族としての立場からも奈良麻呂の変以降は中央の貴族としての地位を失い、地方の中級貴族として生き延びるしかなかったのでした。
いつしか石清水八幡宮を拠点に、橘氏の一族も武装し鶴岡八幡宮を基盤として武家とも提携し同政権に仕えることに成っていったのでした。
つまり、時代は異なるものの、大国主系というよりも、実質、大山祇系と石清水八幡宮として藤原に対抗した橘一族=八咫烏の連合が関東武士団(武蔵七党)児玉党の小代氏だったのではないかと考えるのです。
そこで、この大山祇+八咫烏連合が、どこで成立していたかを考えると、古くは、九州王朝の南九州経営=古代日向(鹿児島+宮崎)でも宮崎は大山祇の本拠地=西都原であり、民俗学で言われる、鹿児島の経営に連合した田の神(博多櫛田神社のカミムスビ神=大幡主)と山の神(大山祇)の儀神体=タノカンサーであり、火山灰土壌のため雨が直ぐに土壌に吸い込まれる南九州に於いても人口保持力の高い水田稲作を拡大するために手を組んだ、北のカミムスビと南の大山祇つまり、海の神と山の神の連合体によって、関東の開発が行われたのです。それこそが、カミムスビの子であった八咫烏と、関東に逃げた遠賀川流域から日本海を北上し、福井〜新潟辺りから上陸し関東に入った物部氏が武士(モノノフ)となった雑多な武士団と伊勢平氏=八咫烏によって成立した関東武士団=武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西野、児玉、丹治…)、だったのではないかと考えるのです。そして、その中でも児玉党の分流(伊周の従臣)としての小代氏もあったのです。
そこで、まず、武蔵国が如何なるものであったのかを考えることから始めたいのですが、何分、遠方からの探査だけに、杉山神社、氷川神社、武蔵大国魂神社の性格も明らかにする必要があるのです。
ただ、古代出雲の神様と信じ切っている人々が圧倒的な中で大国主命に象徴される中で、杉山神社、氷川神社の素性を探りながら、この難解な関東平野の南西域を何とか把握し、鎌倉政権成立全までの武蔵を描きたいと考え、妙な地名を取り上げたのです。そして、小代氏が描ければそれは副産物となるのです。

ウィキペディア(武蔵七党)20241217 09:11による
まず取り上げたいと思ったのは杉山神社です。それは冒頭にあげた横浜市都筑の周りにも杉山神社が多数あることから、ここに入った勢力が反映されていると考えたからでした。
多摩川下流と鶴見川下に挟まれた流域が都筑区ですが、一目、杉山神社が6社もあることから、また古い神様であることから、まずはここらから考えてみましょう。
少しは都筑の意味が分かるかも知れません。
この神社は武蔵を中心に4〜50社はあると思っていましたが、実際には70社は在るとの事で、開拓者が持ち込んだ神である可能性が考えられるのです。
この事は5年ほど前に依頼と言うか相談めいた話が持ち込まれたことから、当時、二階から目薬宜しく簡単にお答えしていたのですが、最近、甲信越に合わせ北関東での調査が進み漸く見当が着いてきたのです。
そこで、現場を理解するためにまずは最適な資料を手に入れました。これを軸にお話を進めますが、今回は、紙数の制限からここまでとして、五年前にお答えした内容の延長上の推定をお話ししたいと思います。当然、次のブログに回しますが、本ブログでは一応その全貌をご紹介します。この杉山神社の祭神は、日本武尊だか五十猛だかにされてはいるのですが、それは恐らく本質ではなく、政治的な配慮が在って変えられている、若しくは、自らの一族を守る必要があってそうしているようにしか見えないのです。
阿波の忌部とくれば、八咫烏が頭に浮かぶ中で杉山神社を考えると、結論は一つしか有り得ないのです。
藤原氏の祖である草部吉見の娘で伯父である阿蘇の健磐龍の妃となった阿蘇津姫=天豊ツ姫がその後、阿蘇ツ姫→天比理刀刀ィ寒川姫→杉山姫と夫を換え続け、その度に名を改め、最後に困り果てた草部吉見=ヒコヤイミミ=鹿島大神が八咫烏に頼み込んで受け入れてもらったその派生氏族が奉斎していたのが杉山姫だったのです。その一族とは天日鷲翔矢命1831⇒天富命1800古代大家郷、(現)大分県の中津市、大江八幡宮の祭神との百嶋メモが残っています。天日鷲=鳥子大神で、ふくろう神社の祭神です。






