太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに


すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。


かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。


綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」は、九州大学の物理学の教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星・拾遺」をヒントに神功皇后を追い求めておられます。


これに対して、対向の意図は全くないのですが、当方は、かつて、草ヶ江神代史研究会を主宰されていた百嶋由一郎氏の神社考古学に基づくフィールド・ワークにより書いて行きたいと考えています。


お断りしておきますが、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。


これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。


詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。


また、このブログには百嶋神社考古学を追求する他のサテライト研究会に参加されている研究者の小研究を掲載することも考えています。


最近の傾向としては後発の(跡宮)の方がより読み込まれているようです。



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2017年04月26日

328 伊予の伊予神社に九州王朝の影を見た 

328 伊予の伊予神社に九州王朝の影を見た 

20161009

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


伊予には伊予神社ありと頭には入っていたのですが、これまで参内した事はありませんでした。

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伊予神社 カーナビ検索 愛媛県伊予郡松前町神崎193

南阿波〜東土佐の神社調査を終え戻ってきたのが愛媛の松山市、伊予市の一帯でした。

まだ陽も高いことからもう一社見せて頂こうと西に向かっていると伊予神社が目に留まりました。

特別の思いもなく直ぐに境内傍の道路に車を止めたのでした。

ただ、伊予神社なるものは二つあり、まずは松前町のほうから見せて頂くことにしました。

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伊予神社

伊予神社(いよじんじゃ、伊豫神社)とは愛媛県に鎮座する神社であり、『延喜式神名帳』の伊予国伊予郡にその名が記載され、名神大社とされている。現在「伊予神社」を名乗る神社が愛媛県伊予郡松前町神崎と伊予市上野にそれぞれ鎮座しており、いずれも式内社の論社となっている。…

…河野氏の系譜を記した『予章記』には孝霊天皇の皇子の彦狭島命が反抗する民を制圧するために伊予国に派遣されたとあり、続けて皇子が現社地にあたる神崎庄に鎮座し、このことから当社を親王宮と呼ぶと記している。

速後上命は『先代旧事本紀』内の「国造本紀」では神八井耳命の子孫とされており、成務天皇の時代に伊予国造に任命されたとある。

ウィキペディア(20161010 09:23による

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無題.png祭神

主祭神 彦狭島命 

配神  愛比売命 伊予津彦命 伊予津姫命 日本根子彦太瓊命 

細姫命 速後上命

言うまでもなく、欠史8代と貶められた九州王朝系の人物の中には、重要人物であったことから、綏靖、孝安、孝昭のように後の藤原によって天皇だったことにされた贈)天皇もあるのですが、本物の九州王朝の天皇であった第9代開化に繋がる孝霊、孝元の一族があるのです。

 その九州王朝の皇統を受けた一族が展開している領域が愛媛の伊予だったことが見えるのです。


懿徳 大日本彦耜友天皇     おおやまとひこすきとものすめらみこと                 

孝霊 大日本根子彦太瓊天皇  おおやまとねこひこふとにのすめらみこと

8 孝元 大日本根子彦国牽天皇  おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと

9 開化 稚日本根子彦大日日天皇 わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと


この79代の和風諡号を見てもその同族性が見て取れます。

また、祭神の一人とされている細姫命も物部系のウマシマジの妹であり、多くの皇別氏族を輩出した孝元天皇の母君(皇后)こそがこの神社の主祭神に思えるのです。

それが、「神殿上部の千木は何故か女千木で、どうも三五桐がうたれているようですね」とした理由でもあったのです。

してみると、伊予と言う一国名も、もしかしたらこの細姫のことかもしれず、卑弥呼以来の祭祀権を引き継いだ栄えある卑弥呼宗女イヨから付されている事が見えてくるのです。

ここまで考えてくると、日本根子彦太瓊命=孝霊天皇が配神として下げられていることまで見えてくるわけで、むしろ、近畿大和朝廷の影響下で良くぞこの祭神を保ったものとも言えるのです。

 今回は、図らずも九州王朝の版図の一端を見せて頂いたようで、その意味でフィールド・ワークの終わりでの有難い贈物だったわけです。

 最後に、この神社の本来の祭神は卑弥呼宗女イヨであり、愛比売命とはその別名なのかも知れず、それだと女千木との整合性があるように思えるのです。欠史8代を架空とする知ったかぶりの学者どもはどのように説明するのでしょうか?聴いてみたいものです。


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百嶋由一郎最終神代系譜


ウィキペディア氏も祭神は把握されていましたが、境内摂社に関しては触れられておられません。

「細姫命も物部系のウマシマジの妹であり」と前述しましたが、境内にはそのことを如実に表す摂社が置かれています。

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 猿田彦とは山幸彦でありニギハヤヒであり、ウマシマジと細姫命の父親でもあるのです。

 この外の摂社としては金山彦系の奥津彦命、奥津姫命、白族の厳島姫、修験の匂いがする竃神社と多くの神様が残っておられます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 06:33| Comment(0) | 日記

2017年04月22日

327 龍王とは豊玉彦=ヤタガラス 那賀町日浦の龍王神社の神とは豊玉彦 

327 龍王とは豊玉彦=ヤタガラス 那賀町日浦の龍王神社の神とは豊玉彦 

20161009

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

神社研究に於いて、龍王とか八大龍王といったものが何であるか分からないといった話を良く聞きますが、元々は仏教の概念であり、神仏混交によっていつしか神様の一つと考えられる様になった結果、この混乱は拡大している様に思います。

そもそも「龍王」とは神ではなく王であり、神よりも人間との印象を与えています。

 このことにようやく気付き、意外と多く存在する龍王神社なるものがある程度理解できるようになってきました。

 元々龍王と呼ばれていたか後に龍王と呼ばれるようになったかは不明ですが、確かに龍王と呼ばれた神がいた事は分かるようになってきました。

 別に四国まで来てその話をする必要もないのですが、たまたま龍王神社があったことから取り上げる事にしたまでの事です。 

 豊かな社叢林に囲まれた神社はそれだけで心惹かれるものですが、龍王神社の祭神が誰であるかは同社由緒書をお読み頂ければ、お分かり頂けるでしょう。

 龍王神社の祭神が豊玉彦であることには気づいていました。

 同社の由緒書きによると、豊玉彦命はヤタガラスで良いとして、豊玉媛命とはお妃ではなく櫛稲田姫との間に産れた娘=鴨玉依姫の事と考えられそうです。それは、神武天皇の御祖母と書かれているからです。

つまり、ここでの神武とは神武僭称贈)崇神天皇を意味しているのです。

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同社御由緒


さて、龍王と言えば海幸山幸神話が頭に浮かんできます。以下、山幸彦と海幸彦で検索。


名前のごとく、山の猟が得意な山幸彦(弟)と、海の漁が得意な海幸彦(兄)の話である。兄弟はある日猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに出掛けたが、兄に借りた釣針を失くしてしまう。困り果てていた所、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」(又は綿津見の宮、海神の宮殿の意味)に赴く。

海神(大綿津見神)に歓迎され、娘・豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結婚し、綿津見神宮で楽しく暮らすうち既に3年もの月日が経っていた。山幸彦は地上へ帰らねばならず、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」を貰い、その玉を使って海幸彦をこらしめ、忠誠を誓わせたという。この海幸彦は隼人族の祖である。

その後、妻の豊玉姫は子供を産み、それが鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)であり、山幸彦は神武天皇の祖父にあたる。綿津見神宮          ウィキペディア(20161009 21:15による


百嶋神社考古学では塩椎神とは博多の櫛田神社の主神の大幡主であり、その子が豊玉彦にあたるのです。

つまり、釣針を失った山幸彦に息子である龍王のいる龍宮に行けとアドバイスをしたのであり、そこには鴨玉依姫=豊玉姫がいたのです。

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無題.png阿波は忌部の国です。

 当然にも大幡主の子である豊玉彦=ヤタガラスの国である以上、龍王を祀る神社は多いはずなのです。

 結論から言えば、龍王とは豊玉彦であることが確認できたことになるのです。 

そして、龍宮とは対馬の海神神社、和多都美神社であろうと考えていますが、大幡主自体も船で多くの港を行き来していた海人であろうことは言うまでもありません。

阿波には龍王神社、八大龍王神社が数多くあります。

龍王と八龍との区別はまだつきませんが、同種の神社であろうことは間違いないでしょう。

それはともかく、境内には摂社と思しきものがありました。

祭神は、左の通りです。

蛇王権現社というものは初めて見ましたが、まだ何の事だか見当も付きません。

龍王神社、八大龍王神社については見当があるのですが、もう少し多くのファクターを押さえてからでなければ結論は出せないようです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:56| Comment(0) | 日記

2017年04月19日

326 阿波と土佐の国境に鎮座する若宮神社と境外摂社高良神社

326 阿波と土佐の国境に鎮座する若宮神社と境外摂社高良神社

20161009

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 国道56号線で阿波から土佐に入ると、甲浦(カンノウラ)と呼ばれる天然の良港があります。直接太平洋に晒されるも正面に島を持つ天恵の地が甲浦であることは地図をご覧になればお分かりになるでしょう。


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この高知県現東洋町の甲浦駅のそばに八幡神社があります。

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同社由緒書

この八幡宮は宇佐八幡成立当時(応神単独)の一社一殿一神をそのまま表現しているのではないのか?と思われるほどの贈)応神天皇一神が祭神とされており、境内摂社には若宮神社が配されていたのです。

 この甲浦八幡宮自体に興味は尽きないのですが、ただちに東洋町役場の教育委員会を調べるも「東洋町合併50年記念・べんり帳」程度のものしかなく、成果は全く上がらず、まずは、自力で周辺の神社を全て見ようと廻ってみる事にしました。

 すると八幡宮の正面200メートルのところに高良神社が置かれていたのです。

 高良の神が甲浦八幡宮の正面に置かれているとなると、考えられることは一つです。

 それは、本来、甲浦八幡宮とは高良玉垂命と若宮神社(高良玉垂命と神功皇后との間に産れた嫡子=斯礼賀志命/シレカシノミコト=仁徳天皇=大雀命)を祀る神社だったものが、贈)応神天皇(こんなものは天皇でも何でもなくホンダワケと別王なのです)と入れ替えられ、はじき出された高良玉垂命を摂社として祀った可能性があり、その時期は高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」によれば、九州の宗廟を宇佐八幡に渡す749年の段階ではなかったかと考えられそうです。

 これはあくまで推測でしかないのですが、一目、その印象を持ちます。

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甲浦八幡宮正面に置かれた境外摂社高良神社

この神社が境外摂社であることは、「東洋町合併50年記念・べんり帳」の神社一覧にも掲載されていない事から明らかです。

してみると、甲浦港、旧甲浦村の甲浦とはこの高良神社から付されている可能性があり、そもそも高良玉垂命を祀る神社があったからこそ高良の浦と呼ばれ高良村と呼ばれていたものの表記が変えさせられたものであることまでもが見えてきたのでした。

そこまで分ってくると、古代九州王朝の神威が室戸岬の手前まで及んでいた事に戦慄を覚えるのでした。

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高良玉垂宮神秘書

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:19| Comment(0) | 日記