2019年09月09日

624 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”@

624 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”@

20180730


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 粗いながらも二週間かけて福井から青森までの神社調査を行ったのは6月のことでしたが、北海道にも足を延ばしたいという思いは今も燻っています。

 勿論、真実の古代史の基礎調査として神社調査を行っているものとしては、どう見てもそれほど古い歴史を持たない蝦夷地のこと、普通は北海道を対象外とするところなのですが、どうしても行かなければならない神社があるのです。それが、今回取り上げる江差追分で有名な姥岳大神宮です。

 いずれこのためだけに北海道を踏むこともあろうことから、当面は下調べを行い、それをそのままブログとして公開しようなどと狡猾な考えから作業をすることにしたものです。

 従って、現地も踏まない神社リポートになる事を承知でお読み頂きたいと思います。


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創立年代は不詳ですが、言い伝えでは約570年前の文安4年(1447年)に折居姥の草創とされています。津花町より現在地に移転したのが正保元年(1644年)。文化14年(1817年)には正一位姥神大神社宮号を勅許された北海道最古の神社です。

江差町HPによる

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姥神大神宮 カーナビ検索 北海道檜山郡江差町姥神町9910139-52-1900


ソーラン節 鰊来たかと かもめに問えば 私ゃ 立つ鳥 波に聞け チョイ ヤサ エ〜エン ヤーサーノドッコイショ ハ〜、ドッコイショ ...


江差追分 <本唄>○鴎の(アーソイ)鳴く音に(アーソイ)ふと目を(アーソイ)覚まし(アーソイ ソイソイ)あれが(アーソイ)蝦夷地の(アーソイ)山かいな(アーソイ

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姥神大神宮(うばがみだいじんぐう)は、北海道檜山郡江差町にある神社である。旧社格は県社。社伝では鎌倉時代の創建と伝える、北海道最古の神社とされる。渡島国の一宮と称されており、姥神大神宮渡御祭にて配られる名刺にその記載がある事からもそれがうかがえる。

天照皇大御神・天児屋根神・住吉大神を祀る。

社伝によれば、建保4年(1216年)、江差の海辺・津花町に創建されたと伝える。

そのころ、津花の浜に「折居様」と呼ばれる老姥が庵を結んでいた。彼女には予知能力があり、天気や病気の流行を予言しては周囲に伝えるので、村の衆から何かと大事にされていた。さて、ある年の春先のこと。折居は神島(かむいしり)から光が発せられているのを見て驚き、光の源を訪ねて島に渡った。島には老翁がおり、「この中の水を海に撒くと、鰊という魚が群れになってやって来る」と、彼女に瓶子を授けた。その瓶子を持ち帰り、中の水を海に撒いたところ、話にたがわず鰊の大群が押し寄せ、村は豊漁に沸き立った。

ところが、村人が礼をしようと折居を訪ねたところ、彼女はいつのまにか姿を消していた。そこで、庵に残されていた神像を「姥神」として祀ったのが当社の始まりという。

正保元年(1644年)に現在地に遷座した。当地を治めた松前藩主松前氏からも崇敬を受け、9代藩主の道広は「降福孔夷」(福を降ろすことは孔だ夷なり)の扁額を奉納した。

やがて江戸時代中期になると、北海道近海にロシア船が姿を現すようになった。寛政11年(1799年)、幕府の命で蝦夷地を巡視していた最上徳内は、扁額の「孔夷」を「紅夷」(ロシア人のこと)と読み誤り、その報告を受けた幕府は、ロシア人と密通していたのではないかとの疑いをかけ、松前藩は取り潰しの危機となった。後の調査で、崩し文字のため「孔」が「紅」に見えてしまったということが判明し、藩の取り潰しは回避された。しかし、道広は扁額を現在の「降民殿」に取り替えた。文化14年、朝廷から正一位の神階が授けられた。

毎年、89日、10日、11日に姥神大神宮渡御祭が開催され、全国から観光客が集まる。

ウィキペディア(20180730 1538による


では 無題.png HPを見ましょう


姥神大神宮の由来

姥神大神宮の創立は不詳ながら昔から伝わる一つの伝説に始まります。

ある日、どこからともなく一人の姥(うば=おばあさん)が江差へやって来て、津花の地に草庵を結びました。当時、蝦夷地は冷涼で作物もあまりとれず、餓死する者も出る状況だったと云われています。そんな中で姥は、天変地異を事前に知らせることで人々から神様のように敬われ、折居様と呼ばれるようになりました。とある夜、神島(カムイシリ=今の鴎島)から虹のような光に草庵が照らされました。不思議に思い、尋ねてみると、白髪の翁(おきな=おじいさん)が岩の上に座り「汝の来たれるを待てり。機、正に熟せリ」と言って、小瓶を与え「この瓶中に水あり、之(これ)を海中に点ずれば鯡(ニシン)といふ小魚群来するに至るべし、之を以(もっ)て島人の衣食住の資(たすけ)とすべし。吾汝と共に島人を永く護らん」と告げて焚火と共に消えました。

折居様が教えられたように、瓶子の水を海中に注ぐと、海水が白色に変わりニシンが群来して人々を飢えと寒さから救ったと云われています。やがてこの折居様も草庵に五柱の御神像(天照大御神、天児屋根大神、住吉三柱大神)を残したまま姿を消しますが、人々は姥にちなみ「姥が神」として祠を建てて祀り、後に初代藤原永武がこれに奉仕しました。その後、本道にはニシンが群来するようになり、「白金寄する」地として年々本州より人々が渡って江差は経済の中心となり、姥神大神宮は北海開祖神とも陸奥国松前一の宮とも云われるようになりました。正保元年(1644年)には津花の地から現在地に遷宮し、渡御祭はこの頃から行われたと考えられています。文化14年(1817年)には朝廷にて119代光格天皇御下、上卿唐橋大納言列座の下、10代相模守従五位下大神主藤枝政光が召されて、正一位の位記と大神宮号をすすめられました。また神職は代々豊後守、相模守に任ぜられ従五位下に叙せられています。

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もう一度無題.pngHPを見ましょう


江差を彩る祭のあゆみ 姥神大神宮祭

8月9日宵宮・10日〜11日神輿渡御、町内13台の山車(ヤマ)が供奉巡行する姥神大神宮の例祭が、絢爛豪華に繰りひろげられる。
姥神大神宮は陸奥国松前一の宮と云われ、その創立は古く、一説には文安4年(1447年)と伝説に語られているが、詳らかでない。姥神町南端、津花岬の一角に「折居の御井戸」と称する遺跡がある。
折居姥(於隣)の屋敷跡・姥神社の古社地と云われ、神域として信仰されている。
姥神大神宮の現社地は、正保元年(1644年)岩崎の麓に遷座、安永三年(1774年)拝殿が造営されて今日に至っている。この史実から地域が姥神町と名付けられた。
姥神大神宮の祭礼は、神輿の渡御に町内の山車(ヤマ)が供奉し、豊作・豊漁・無病息災を祈念して巡行する渡御祭である。この例祭の形態は何時からであるか。文化13年(1816年)の『社地伝記控』(藤枝家文書)に「当地姥神弁天両社祭礼、8月14日神輿洗・15日領主代参・15〜16日神輿渡御」とあるが、その創始は古く詳らかでない。
神輿の渡御に供奉する現在の山車(ヤマ)の中で一番古いのは、愛宕町の道指定有形民俗文化財の神功山で、その人形は宝暦4年(1754年)、水引幕は宝暦11年京都の松尾七郎兵衛が納めたもので、宝暦年代には渡御祭の形態が出来ていたことが窺える。渡御行列の模様は元治元年(1864年)8月『両社御祭礼行列並宿割控』(関川家文書)に克明ではあるが、千人を超える大仰な人数の行装、荘厳・厳粛なさまが偲ばれる。

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山車(ヤマ)は依代

江差で神輿に供奉する曳き山車を「ヤマ」と云うのは、京都祇園祭の系統をひいているからで、祇園祭の山鉾と同じように、青木や帆柱を依代として神が降臨する神域という意をこめてヤマと呼ぶ。それは江戸系統の祭りで、絡繰や歌舞伎、踊りなどを演じて移動する屋台を「ダシ」と呼ぶのと区別している。
江差では屋体の上に一本の青木(トドマツ)を立て、神の依代とする。この青木を立てることを「ヤマを立てる」(船山では帆柱)と云う。三頭立ての鹿子舞で青木を立てるが、ヤマと呼び、神の依代を表徴するのと同じである。明治30年代に撮影された聖武山(現橋本町)の写真を見ると、ヤマのシンボルである青木が高く聳え、土蔵2階建ての店舗を凌駕している。これが本来ヤマの様相なのである。ところが大正4年(1915年)電気会社が創業し、道路に電柱が立ち、電線が張りめぐらされて、高い山車(ヤマ)が通れなくなり、山車(ヤマ)が低く変貌せざるを余儀なくされた。さらに昨今信仰面での変革もあり、ヤマの守護神として添えられた人形が、ヤマの主体と主客転倒、形式化され「伝統だからヤマを立てる」と云うようになった。
さて祭礼行事のなかで宵宮は、ヤマが入魂する大切な神事で、神が降臨し移動神座となるのである。



天降る ↓ ↑ 天駈る
山車


山車(ヤマ)の起源


姥神大神宮の祭りは「姥神宮祭礼之議是迄弁天宮両社ニ付隔年8月15日・16日両日祭礼修行仕」(藤枝家文書『元治元年七月姥神宮夜宮例祭日記』)とあるように、文久2年(1862年)まで、姥神弁天両社祭りとして隔年修行して来た。明年から姥神神社は8月15日・16日、弁天社は5月26、27日に分離して修行することになったが、前同『例祭日記』によると、姥神神社の例祭が修行されなかったので、本年(元治元年)から修行するように、氏子一同の相談がまとまり江差奉行の許可を得て、分離後最初の姥神祭りを修行した。この年の渡御行列は(元治元年八月関川家文書)千人を超える大行列であった。この年姥神祭の神輿渡御に供奉した山車(ヤマ)は、7台で現在は13台と増加しているが、変わりないのは神功山・蛭子山・松寶丸の三台だけである。
各町内の山車(ヤマ)が今日の形態になるまでには、紆余曲折はあるが、その創始は町の開発の推移と期を一にするようである。
元治元年『姥神宮例祭』日記を見ると、この年までの祭礼は、江差市中大手商人の無尽「常盤講」仲間の醵金で修行されて来たが、慶応元年から各町内の供物によって修行する様になった。これまでの山車(ヤマ)は、町内居住の大手商人が寄進し、祭礼に供奉する経費・直会までも大手商人(親方)出費で、町内の人々は親方の揃いの印入半纏でヤマに奉賛した。この状態から慶応元年ヤマは実質的に町内の所有となり、その保存運営は各町内の住民の手に委ねられることになった。山車(ヤマ)の起源には幾つかのパターンがある。今日各町内が保存伝承する絢爛豪華な山車(ヤマ)には、それぞれ変遷があり、はじめは鯡取り舟(ホッチ)に車を付け急造の舟山としたり、張りぼて人形を台にのせたりして、臨時急造のヤマから始まるのが多い。人形や付属品を入手した年代はそのヤマの創始ではなく、それに至るには臨時急造の時代があるのであり、結局創始年代は詳らかに出来ないのである。

山車かざり


屋体の上に青木(トドマツ)を立て森・深山をイメージして神座を設え、その前面に人形を飾る。ヤマに人形を配するのは、ヤマの守護・警固・化身ということで、ヤマの本質からは青木が主であり、人形は従である。各町内の象徴で、住民に神格化されている。

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山車(ヤマ)飾りの伝統として、ヤマの背後に「綿の御旗」と称して、女の丸帯を幟に仕立てて掲げる。これは多産信仰に発する豊作豊漁の願いをこめての信仰で、素朴な土俗信仰の名残である。神功山の綿の御旗は、年代物(伝蜀江綿)の逸品(道指定文化財)である。
ヤマ・御幣・人形・錦の御旗・山額は、山飾りの主体であるが、さらに特注の紋章を染めぬいた色とりどりの縮緬の幟・五色の吹き流しを掲げ、外廻りは提灯で飾り、更に正面をのぞく三面は豪華な水引幕で飾られる。この13台のヤマが神輿に供奉して巡行するさまは、吹き流し、錦の御旗が翻り、朱塗りの屋体、金色に輝く金具。祇園囃子をくむ祭囃子に乗って町並を行く、まさに一幅の絵巻物である。
各町内の山人形の一番ポピュラーなのは武者人形で、武田信玄・楠正成・大石良雄・水戸光國・加藤清正・伊達正宗、神話系の瓊瓊杵尊・神武天皇・蛭子、能面系の神功皇后、文楽系の日本武尊、歌舞伎系の武蔵坊弁慶の十二体に弁財型御座船松寶丸と、多岐である。
今日では見られなくなったが、大正の末年まで、山車(ヤマ)行列のあとに、町内の子供が演出するねり児が供奉した。一般に古い商家では家伝来の憧れの武将の子供用甲冑武具を所持保存しており、5才から10才位までの男児、主として嫡子が、家伝の武具に身をかため、介添として家印の半纏を着て床几持等、二人の供が付き添って、行列に供奉したものである。

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長々と引用させて頂き大変恐縮していますが、九州から北海道の事を書くと言うとんでもない事をやっているためお許し頂くとして、何故、この神社が重要であるかを今からお話ししたいと思います。

 大阪を起点とする北前船は江戸期に整備されますが、それ以前に物流が無い訳ではなく、我々が考える九州王朝の時代から博多を起点として日本海航路が開拓されていた事は間違いないと考えています。

 これは、以前ご紹介した「神武巡行伝承」と甲府の「天津司神社」に神武時代の有力な神々が揃い踏みしている事からも十分に推察されるのです。

 何を馬鹿な事を…と思われる方は、真実を知らないまま、近畿大和に邪馬台国があったとか惚けた話の古代史のお花畑で死ねば良いだけですからご自由に…としか申し上げられません。

95%が藤原が造った罠と嘘でしかない「古事記」と「日本書記」をそのまま信じるのは宜しいでしょうが、我々、百嶋神社考古学のものから見れば殆ど漫画の世界でしかないのです。

弥生時代の始まりさえも都合が良いように500700年遡らせたのですから、少しは固定観念から解放されなければ古代史の世界も蜘蛛の巣に入ったままになると思い続けているところです。

 詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)562565として書いていますので関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。神武一行が実際に糸魚川から甲府の山上楽園を踏んでいるとの伝承が確認できる上に、これに関与したと思われる、神武の次世代、次々の世代と言える若き市杵島姫、草部吉見=後の武甕槌…が浮かび上がってくるのです。その後、彼らの次世代は糸魚川の姫川を遡上し松本、諏訪、甲府へと開拓を進め、さらに日本海を北に上り国土開拓へと展開し、十三湊から北海道さえも見据えた人々もいたであろうことが想像できる所まで推定ができるのです。

 少なくとも新潟県の柏崎刈羽に近い二田物部神社の主神はニギハヤヒ(山幸彦)ですし、新潟市の南の弥彦神社も同様です。

 さらに言えば、秋田は男鹿半島の真山神社=赤神社も阿蘇高森の草部吉見神(海幸彦)なのです。


570

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から入った人々が開発した”

565

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た”

564

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 C “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(下)

563

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 B “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(上)

562

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は市杵島姫を祀る”


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甲府の天津司神社の祭神


昇天の二神とは阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)=海幸彦であり、それを婿神とした市杵島姫(奴奈川姫)であることが分かります。

百嶋メモに依れば、舞に登場する9人の神とは、大日孁貴(オオヒルメムチ)=天照大御神、経津主命とは山幸彦=ニギハヤヒ、黄幡神=博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神、月弓命は大山祗命、根裂神は金山彦、磐裂神は埴安姫=黄幡神の妹神、磐筒男命=八重(速)思兼(ヤタガラス)、磐筒女命=罔象女(大国主の姉)、豹尾神は本物の神武天皇になり、消えた一神とは神沼河耳(草部吉見の父神)、市杵島姫(奴奈川姫)とは神沼河耳の息子の草部吉見のお妃となったことから呼ばれたと分かります。

 話がかなり横道に逸れましたので、再度、戻しますが、この江差追分の江差までは、天草〜博多〜下関〜益田〜浜田〜出雲〜米子〜青谷〜鳥取〜…と日本海沿いの古代の潟湖と呼ばれる天然の港を利用した日本海航路と言うべきものが存在していた事が推定できそうです。

 天草ハイヤが日本海沿いに北前船で運ばれたといった話は良く言われますが、それは江戸時代に限ったものではなく、遠い古代からそれ以前の神世まで遡る神代にも展開されていたのです。

そして、その延長が江差まで進み伝えられているのです。

 勿論、蝦夷地の開拓は後代のそれとしても、中央から遠く離れた僻陬の地には、明治期に隠されたはずのものも御咎めが届かずそのまま残っている可能性があるのです。ここで、姥神に触れますが、姥神大神宮の「姥」とは、藤原が造りデカシタ「古事記」の創作である“産みの親の豊玉姫に引き継いで送り込まれた玉依姫”を乳母に見立て、「姥」(乳母)神とされたのでしょう。続編の百嶋手書きメモには大神一族についてもふれています。この三つウロコ紋の一族こそ一時期は宇佐神宮を支配した大神一族に繋がるものであり、ひぼろき逍遥(跡宮)372 花本大神をご存知ですか? “博多の櫛田神社の花本大神と豊後大野の宇田姫神社についてなどをお読み頂きたいと思います。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年09月06日

623 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu 

623 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu 

20180728

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえればアフガニスタンのカブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があります。

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他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。

古代ギリシャからは「トリスラピディア」とも呼ばれていたとか…。

さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、“この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」(いずれも中国表記)と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(これらについては後述します)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神代系譜の緑枠で囲った部分の金越智=ウマシアシカビヒコヂ〜大山祗〜大己貴(+神大市=罔象女神ミヅハノメ木花咲耶姫)の系統こそが列島に入って来たトルコ系匈奴と考えられていたようです。

ちなみに、本物の神武天皇の本物のお妃であったアイラツヒメも金山彦と大山祗トルコ系の神大市=罔象女神の間に産れたプリンセスであるためトルコ語の月=アイラールからアイラツ姫と呼ばれたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


中国領 塔什庫爾干=タシクルガン(石頭城、石城山)には、現在、ウイグル人(トルコ系とされる) が住み着いています無題.pngが、タジク人、キルギス人もいるようです。このキルギスも、ギリシャに「キルキス」と言う都市名があり、元々はギリシャ系ではないかとも思うのですが、どうせこの辺りはトルコ系、ペルシャ系、ギリシャ系、ソグド人、ユダヤ系…の混血が進んでおり議論しても意味はないのでしょう。

写真は現代のウイグル人美女(良過ぎますかね)。

 いずれにせよ、かつてこの地はシルクロードの東西交易の要衝であり、塔什庫爾干の石城山が誇り高いこの地のシンボルだった時代があったのです。

 どうも、この中国表記の=石頭城、石城山が熊襲=トルコ系匈奴と共に列島に入っているようなのです。

以前から気にしていたのが長崎県川棚町石木(イシキ)、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町石動(イシナリ)、鹿島市の石木津(イシキヅ)…でした。当時は奇妙な地名だなあ…程度だったのですが、故)百嶋由一郎氏がはっきり言われたのが、熊本県玉名市の石貫(石貫穴観音横穴や石貫ナギノ横穴群外多数の横穴式石室を持つ古墳群)、宮崎県西都市の石貫神社(オオヤマツミとコノハナノサクヤを祀る神社)であり、正面の西都原第 二古墳群に伝大山祗の墓=柄鏡型前方後円墳があるのです。

また、大分県にもあります。旧石城川村(湯布院と高崎山の間の山中の村)です。この由布市から大分市に向かう谷間の一帯も山神宮外大山祗〜大己貴祭祀が濃厚なエリアです。

この外にも、山口県光市の石城山神籠石、愛媛県越智郡上島町岩城(イワギ)は平安時代に「石城」の表記で記録のある地名ですし、そもそも大山祗を祀る瀬戸内海の大三島は愛媛県にあるのです。

無題.pngさらに、東北の福島県の石城郡、いわき市・南相馬市の相馬の馬追を思い出して下さい。

いわき市のいわきは石木、岩木、磐城=タシクルガンなのです。

そして、出羽三山の湯殿山、羽黒山にも岩木山がありますね、ここも大山祗祭祀が非常に濃厚なところなのです。

 当然にも甲州騎馬軍団が跋扈した山梨県にも無いはずはありません。石和温泉の石和(今は笛吹市ですか)です。

ここからコノハナノサクヤを祀る富士山の河口湖一帯に掛けて、石尊神社が数多く拾えますが、これも、まず、大山祗=月読命なのです。まだまだありますが、このように実際にトルコ系の民族が入っているようなのです。

参考


「石貫神社」について ○創建:天平5(733)と伝えられています。○御祭神:コノハナサクヤヒメの父神のオオヤマツミノカミ。○オオヤマツミノカミ:山の神で、「天神」・「国神」・「海神」の三神の大神。○大祭日:1129日。石貫神社から169段の階段を上った西都原古墳群内の『大山祇塚(おおやまつみづか)』の前方部前で神事が挙行されます。                     西都市観光協会


先にひぼろぎ逍遥 641 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu として石頭城、石城山を取り上げ、この地名が列島に大量に持ち込まれていると言う事を書きましたが、当然にもこの地名は中国本土にもかなり拾えるのです。

勿論、占領されているとは言えタシクルガン自体は、今尚、中国共産党の支配地ですが、ここではそれ以外のタシクルガンをご紹介したいと思います。

恐らく、列島の十倍以上はあるのではないかと考えていますが、なにぶんにも中国語に対応できていないことから、ネット上から分かる範囲で探して見る事にしました。

きっかけになったのは故)百嶋由一郎氏が残された手書きメモに石頭塞があることに気付いたからでした。勿論、支那(シナ)という地名が残る麗江の南の石頭塞です。


 その前に南京に石頭城がある事を思い出しました。


石頭城(せきとうじょう)は、中華人民共和国江蘇省南京市鼓楼区、清涼門の北に位置している城址。六朝の都である建康の西面を守る城塁であった。後漢末の212年(建安17年)に孫権により築城され、1988113日、国務院により全国重点文物保護単位に指定された。現在は城壁の一部が残り、その城壁の模様が鬼の顔に見えるということから、別称を鬼顔城とも称す。

清涼山の自然地形を利用して土と石で築城し、西と北の両面は長江に近接し、地勢はけわしかった。石頭城西南には烽火楼があり、長江上流と連絡を通じあった。またここには水軍の駐屯地で、長江最大の波止場であり、船舶1000艘を停泊させることができた。

石頭城から城壁に沿って北側は六朝の頃の城壁で、南に行けば清涼門である。石頭城の城壁の上を歩く場合は国防園に入る必要がある。

ウィキペディア(20180730 1515による


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戦国時代,周顕王三十六年(前333年)に楚が越を滅ぼした。この 時楚の威王が金陵邑を今の南京に建設した。同時に、今の 清凉山と呼ばれるところに城を築いた。秦始皇帝二十四年(前223年),楚を滅ぼし、金陵邑を秣陵?とした。三国時 代,孫権は、秣陵を建業と改称、清凉山 に石頭城を建設した。当時、長江は清凉山下流を流れていて、石頭城の軍事的重要性は突出していた。呉では、水軍もっ とも重要な水軍基地とし、以後数百年 間、軍事上の要衝となった。南北朝時代、何度も勝負の帰趨に大きな役割を果たした。

石 頭城は清凉山の 西の天然の障壁をなし、山の周囲に築城したもの。周囲7里(現在の6里)あり 北は大江に接し南は秦淮河に接している。南向きに二つ門があり、東に向かって一つ,南門の西に西門があった。内部に は石頭庫、石頭倉と呼ばれる倉庫があっ た。高所には烽火台があった。呉以降南朝でも重要性は変わらなかった。

ネット上の「旅行日記」による

「三国志」がお好きな孫権とか周瑜ファンの方には魅力的な所だと思うのですが、「旅行日記」にはこのように続けられています。


無題.png写真は、城壁の拡大写真。上端部分が、明代の磚築部分。六朝時代の城壁部分(真ん中の大きめの煉瓦部分)も、一応日干し 煉瓦を埋め込んだような構造となっている。磚築となったのは、東晋末と考えられる。東晋時代は、全土、主に城門だけが磚築となり、城壁は版築だった。南斉に至り、各城 で城壁が磚築となったと考えられている。それまでは土墻(版築城壁)と竹籬(竹を編んだ城門)だった。


次は 阿蘇氏の故郷、雲南省麗江から北へ延びる茶馬古道の石頭城です。

これは、雲南省麗江の北の石頭城で、百嶋メモに出てくる「石頭塞」ではないようですが、「〜茶馬古道をゆく〜 宝山石頭城」からご覧ください。


麗江市内からは車で約4時間、村の上方にある駐車場まで分乗車で向かいます。

その地形から、見下ろすことのできる景色にまず、息を呑みます。

長江の支流、金狭江の峡谷にある巨大な岩の上に築かれた集落は、3方向が断崖絶壁となっており、

城砦と呼ぶにふさわしい佇まいを見せてくれます。

宝山石頭城は元代の1277年から1294年の間に築城されたと言われています。

当時、宝山州と呼ばれたこの地は、自然により形成された難攻不落の砦で、

この地に居住していた少数民族・ナシ族はかつて戦乱を避けるため、山腹に沿うようにして村を築きました。

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次は百嶋メモに出てくる雲南省麗江からずっと南の石頭塞です。

百嶋由一郎先生は生前、中国で400回飛行機に乗って8,000万円遣ったと言っておられましたが、西のタシクルガンばかりではなく、南の石頭塞にも足を運ばれていた事が分かります。

 解放前の中国ですから苦労も多かったと思いますが、文字通り半島、北京からコーカサスへ、そして雲南省、四川省、貴州省まで調査に飛びまわれたようです。

以下は貴州省の「石頭塞」ですが、雲南省にも「石頭塞」があるようです。

非常に分かり難く、検索を続けて調べましたが、云南省河哈尼族彝族自治州と書かれており雲南省昆明辺りからベトナムのハノイ(ハロン湾)に注ぐ紅河の近くにもあるのでしょう。

パーモはインパール作戦に出てくるビルマのバーモでしょうし、木姐(ムセー)もビルマ領にあります。

 従って、ここが百嶋メモに出てくる石頭塞ではなく、雲南省昆明のそれであり、さらに、中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログに出てくるプイ(布依)族の住む石頭塞も別になります。このように、少し調べるだけでもかなり多くの石頭塞が拾えるのですが、現在の住民とこの地名を残した民族が一致している訳でもないと思います。結局、多くの石頭城型地名が確認できただけでした。


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是中人民共和国云南省河哈尼族彝族自治州的一个乡镇级行政位。

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百嶋手書きメモから


中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログがあります。


プイ族の住居 2010-02-01 12:11:46 | 中国のこと

 2006年3月に貴州省の西南部を旅した時に、少数民族のプイ(布依)族の集落に立ち寄った。プイ族は人口300万人くらいで、主に貴州省の西南部(黔西南プイ族ミャオ族自治州)に居住しているが、貴州の各地にも散在し、ほかに雲南省や四川省の一部やベトナムにも住む。
 訪れた村は石頭寨と言ったが、家々はすべて石造りで、このあたりのプイ族の集落の特徴らしかった。
 入り口のゲート。いろいろな銘盤が嵌め込まれているが、中に「貴州省 文明風景名勝区」というのがあった。プイ族の集落の中でもよく保存されているものなのだろう。

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 事務室のような所に入ると、民族衣装姿の大柄な娘が出てきて、村の中の古い住居や住居跡を案内してくれた。ゲートから向かって左には小高い丘があり、そこに石造りの家が並んでいる。だいぶ古いものらしく頑丈な造りだが、住んでいない家もあった。

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倉庫らしい建物 土地廟。村の神を祭る。道教でも仏教でもない、産土(うぶすな)神のような原始的な信仰ではないか。

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石組み。鉄筋や漆喰は使っていないで見事に築かれている。
 途中で村を一望できる場所があった。現在の家屋の多くは平地に造られているようだ。

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上に行くほど古い住居があり、すべて廃墟になっている。どれもかなり大きなもので、このような高い場所にたくさんの石を運び建物を造ることは大変な労働だったのだろう。これらの多量の石材はどこから切り出されたものか。

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 廃墟の道 石頭寨の傍にあった池。貴州でよく見られるカルスト地形の山が遠望される。

 石頭寨からの帰途の風景。この時期にはあちこちに菜の花畑がある。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年09月03日

622 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

622 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

20180728


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえれば、アフガニスタンのカブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があります。

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他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。

さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、 “この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(これらについては後述します)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神代系譜の緑枠で囲った部分の金越智=ウマシアシカビヒコヂ〜大山祗〜大己貴(+神大市=罔象女神ミヅハノメ木花咲耶姫)の系統こそが列島に入って来たトルコ系匈奴と考えられていたようです。

ちなみに、本物の神武天皇の本物のお妃であったアイラツヒメも金山彦と大山祗トルコ系の神大市=罔象女神の間に産れたプリンセスであるためトルコ語の月=アイラールからアイラツ姫と呼ばれたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


無題.png中国領 塔什庫爾干=タシクルガン(石頭城、石城山)は、現在、ウイグル人(トルコ系とされる)が住み着いていますが、キルギス人もいるようです。このキルギスも、ギリシャに「キルキス」と言う都市名があり、元々はギリシャ系ではないかとも思うのですが、どうせこの辺りはトルコ系、ペルシャ系、ギリシャ系、ユダヤ系…の混血が進んでおり議論しても意味はないのでしょう。写真はキルギス帽を被る老人。


キルキス / ラテン文字表記:Kilkis / ブルガリア語: Кукушはギリシャの中央マケドニア地方の都市で、キルキス県の県都。 2011年の行政改革で、ヘルソ、ドイラニ、ガリコス、キルキス、クルッサ、ムリエス、ピクロリムニの7つの旧市が合併し、現在のキルキス市となった。ウィキペディア(201807291011による


 いずれにせよ、かつてこの地はシルクロードの東西交易の要衝であり、塔什庫爾干の石城山は誇り高いこの地のシンボルだった時代があったのです。


 まず、重要なのは百嶋先生が言われていた玉名市と西都市の二つの石貫地名ですが、これが石城山、石頭城とどのような関係にあるかを考えてみましょう。

 無題.pngまず、九州(瀬戸内海側の豊前を除きますが)では本州のO音がU音と対応する傾向があることを知っています。

 栂(トガ)は栂(ツガ)ですし、大事はウーゴトですし、オッタマゲタはウッタマゲタ…となるのです。U音とO音の対応です。

つまり九州のイシキは本州のイシキと対応しており、石貫(イシヌキ)は、恐らくイシノキの原型であり、「石木」、「石城」の事なのです。

 山口県光市の神籠石はそのまま「石城山」として中国風表記がそのまま残っているようですが、この山口県東部には大山祇祭祀も多い上に、半島からモンゴル高原まで分布していたとされる古代朝鮮語の村、砦、集落を意味するムレ、ムル、モロ型地名と考えられる「群」「牟礼」型地名が多いこととも対応しているのです。

 「牟礼」型地名については、ネット検索されれば山ほど展開されていますのでご自分でご確認ください。

 ついでに、佐賀県の神埼郡吉野ヶ里町石動(イシナリ)も仮説を立てておきます。吉野ケ里の「里」型地名が佐賀県東半部には3000ほどの小字として残っています。「石動」(イシナリ)は石の里の事ですから、イシナリの「ナ」は「ソコオナゴ」の「ナ」つまり「ソコオナゴ」(「ナ」は所有の格助詞の「ナ」なのです)、であり、石ノ里の意味になるのです。そうです「里」は北朝鮮のミサイル発射実験場の舞水端里(ムスタンリ)核実験場の豊渓里(プンゲリ)などが代表的な地名で皆さんも良く聴かれているでしょう。

佐賀県の西部には伊万里焼の伊万里もありますね。つまり、石動(イシナリ)も石ノ里である事が分かるのです。               写真は国指定史跡 石城山神籠石(山口県光市、田布勢町)


では、最も重要と考えている熊本県玉名市の石貫古墳と宮崎県西都市の石貫神社をご覧頂きましょう。


始めは熊本県玉名市の「石貫」です。

誰も問題にしていない話であり、故)百嶋由一郎氏が発見された驚愕の仮説です。

無題.png倭人+日本人=列島人の主要部を形成した民族の列島への渡来について取り上げます。

A 恐らく紀元前後に雲南省麗江から阿蘇氏(黎族)と雲南省昆明から賀茂氏(白族)が海南島を経由し海路、南九州の薩摩川内辺りから天草〜熊本に、

B これも紀元前後でしょうが、土車、土舎(トゥチャ)族=楚か?が入っているという記録があります。

「熊本県玉名郡誌」の一部で、「土車の里」(土車の荘)以降には、新幹線玉名駅正面の玉名大神宮、玉依姫(この玉依姫は鴨玉依姫か?)に関わる「此所を土車の里と云石を…」という話が書かれています。では、「土車」とは一体何のことなのでしょうか?土車族(土家、土家族とも)をご紹介しましょう。

実質800万人以上とも言うトゥチャを少数民族と言うかは疑問ですが、伝統的な衣装を着たトゥチャ族とミャオ族とペー族の女性(恐らく白い服を着たのが白=ペー族)。

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この一帯はもともと玉杵名(タマキナ)と呼ばれおり、「日本書紀」景行天皇紀に「玉杵名邑」として出てきます。また、「熊本県玉名郡誌」の一部で、「土車の里」(土車の荘)以降には、新幹線玉名駅正面の玉名大神宮、玉依姫(この玉依姫は鴨玉依姫か?)に関わる「此所を土車の里と云石を…」という話が書かれています。では、「土車」とは一体何のことなのでしょうか?土車族(土家、土家族とも)をご紹介しましょう。中国の「土家」「土舎」(トゥーチャー)が入っていると考えている地域でもあります。

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ひぼろぎ逍遥(跡宮) 265 熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった! 参照


トゥチャ族(中国語:土家族 北トゥチャ語:フシマ、フマ、フスカ、ピズカ、ピジカ、チリカなど)は中華人民共和国が公認した55の少数民族のひとつで、主に湖南省、湖北省、重慶直轄市(旧四川省)の交界地帯に住む。

人口約800万人、中国の民族の中で8番目多い。言語はチベット・ビルマ語派に属する。長く漢族と交わって暮らしてきたため、現在ではトゥチャ語(プリ語とムズ語)を母語とする者は10万人程度とされ、ほとんどが中国語を母語としている。このように、民族の総人口と比較して母語人口が極端に少ない民族として、他に満州族(1000万人超えの民族であり、満州語を話せるのは5人以下)とシェ族(総人口約80万人、シェ語を話せるのは1000人程度)が挙げられる。湖南省湘西土家族苗族自治州、湖北省恩施土家族苗族自治州が設置されている。なお、例えば、彝族の事を彝家などと呼ぶ事もある事から分かるように、「家」には「族」の意味も含まれている。そのため本来、土家でトゥチャ族の意味をなしており、これに族を加えるのは重複した表現である。しかし、西北に住むモンゴル系民族である土族と区別するためにも、重複した表現ではあるが土族ではなく、土家族を正式な民族名としている。

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次は宮崎県西都市の「石貫」です。

これも紀元前に遡ると思いますが、半島経由で東西分裂後、さらに南北分裂し漢の傭兵と化した南匈奴(トルコ系)の一派(王昭君後裔)が南九州に入っていると考えています。

これこそが越智族=大山祗を奉斎する一族と考えているのですが…。

これらのように紀元前後の九州島には既に多くの民族が入っており、異なった民族の衝突がおこっているのです。コノハナノサクヤとニニギの出会い…スサノウとクシナダヒメの出会い…山幸彦と海幸彦の衝突…これらの神話から見えて来る多くの民族、異なった民族間で政略結婚が繰り返され、衝突の緩和が試みられた事が見えて来ます。コノハナノサクヤとイワナガヒメの話…。等々。

大山祗の墓といわれるものが宮崎県西都市の西都原第2古墳群にあり、正面には大山祗とコノハナノサクヤを祀る石貫神社、都万神社があります。

ついでに言えば日向一之宮都農神社(写真右)の主神は出雲神話のスターである大国主命であり、阿多の吹上浜には大汝牟遅神社(写真左)まであるのです。

通説派の大家の方々や出雲王朝論者といった方々にお尋ねしたいのですが、何故、南九州に出雲神話のスターである大国主祭祀が数多く存在するのか?勿論、北部九州の福岡県筑前町や熊本市北区にも大己貴神社があるのです。また、南九州には南方神社も多いのですが、これも大国主の子とされる(あくまでもされるであって子ではないのですが)国譲りに反対した建御名方を祀るものなのです。

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↑紀氏  ↑昔氏           ↑瀛氏 ↑白族     ↑越智族 ↑許氏 ↑黎族


百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

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その後この大山祗系(トルコ系匈奴)氏族は、山梨(コノハナノサクヤヒメを祀る富士山浅間神社…)、千葉、茨城、福島…に展開したように見えます。

実は、この西都市にあるコノハナノサクヤを祀る都萬(ツマ)神社(都万神社)の正面には桜川が流れているのです。

恐らく、この「桜」が「コノハナノサクヤヒメ」が関東で「桜姫」と呼び替えられたのではないかと思うのです。

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以下はネット上から拾った「樹木の文化誌」の一文ですが、サクヤヒメはサクラヒメだったのです。

これは百嶋先生が言われていた事ですが、晩年“関東に移動したコノハナノサクヤヒメは関東ではサクラヒメになっている…”つまり、関東ではサクラヒメと呼ばれている事が分かるのです。

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コノハナノサクヤヒメが祀られている大山祗系神社には桜の紋章がふられていますし、ご覧の通り、本家本元の都萬神社の社務所にも桜が施されています。

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コノハナノサクヤヒメはコノハナノサクラヒメであったとさえ考えるのですが、列島人はR音(実際はL音)の発音さえ困難であったため、コノハナノサクヤと呼ばれたのではないかとさえ考えていますが、これについては確信が持てないため今のところ構想に留まっています。ただこの桜川と無関係でもないでしょう。と言うよりサクヤヒメが居たから桜川の名が残ったのではないかと思うのです。

 一方、北部九州には呉の太伯(周王朝後裔)の一族が越人=倭人=スラベシと共に入っているはずで、その南には、高千穂の三田井〜長崎の南北高木郡に高木大神系許氏が展開し、阿蘇氏=多氏=黎族はこの高木大神への入婿となり混血後の高木系は現阿蘇氏として引き続き蟠踞し、東に向かったヒコヤイミミの一族(草壁、草部吉見系氏族)が中央の多氏として後の中臣氏→藤原氏と拡大し近畿大和朝廷の権力を支える中枢氏族になるのです。

 これらの氏族、民族が絶えず入れ替わり争いながら8世紀初頭まで存続していたのが、一時期邪馬台国を経由した九州王朝なのです。

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最も重要な以下の問題に関しては別稿として書いても良いのですが、当面、既に書いているもので代行します。

倭人+日本人=列島人の主要部を形成した民族の列島への渡来について取り上げます。

A 恐らく紀元前後に雲南省麗江から阿蘇氏(黎族)と雲南省昆明から賀茂氏(白族)が海南島を経由し海路、南九州の薩摩川内辺りから天草〜熊本に…


ひぼろぎ逍遥

194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?

159 秦の始皇帝と市杵島姫

042 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  I “肥後人は支那人だった!?”

033 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  支 那


ひぼろぎ逍遥(跡宮)


264 博多の大幡主の一族は雲南省昆明から海南島を経由してやって来た

209 阿蘇の草部吉見と博多の大幡主の御先祖がおられた海南島について“コピーペーストも活用しよう”

208 天草下島の都呂々神社で阿蘇の草部吉見とトロロ芋を考える “熊本県苓北町都呂々神社”

119 草部吉見と豊玉彦(ヤタガラス)のご先祖が雲南省から入って来たルートについて

064 博多の櫛田神社の祭神とは何か?

007 草部吉見神は、甑島(薩摩川内市)鹿島町の鹿島神社を通過したか?


これらをお読み頂ければ当方が考えている内容の一部はご理解頂けるかと考えています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記