2026年05月03日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1122 続)伊万里湾に浮かぶ鷹島周辺の神社について

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1122 続)伊万里湾に浮かぶ鷹島周辺の神社について

20250924

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

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前ブログでは、野保佐神社と釜神社の見当が着かなかったため難航しましたが、このあまり馴染みのない神社以外は大体分りますので、鷹島がどのような土地であったかがある程度は推定できます。

 まず気付くのは鷹島北部の東岸日比港に若宮神社と朝日神社が在る事です。

久留米の郷土史に詳しい方は直ぐにお分かりになると思いますが、久留米の高良大社の高良玉垂命(藤原はこれを第9代開化天皇にしていますが現在はそれを隠しています)この高良玉垂命と仲哀死後の神功皇后(皇宮皇后)の間に生れたのが若宮神社の主神の長子シレカシノミコト=仁徳天皇(オオササギ命)で、隣接する朝日神社は、次子の朝日(アサヒ)豊盛命で、三男は暮日(ユウヒ)豊盛命とされています。この二つが在る事から、古くから鷹嶋は支配領域であった事が分かります。

 もう一つです。南北に宮地嶽神社が二社在る事がお分かりになるでしょう。

 宮地嶽神社は、福岡県福津市(実につまらない市名にしたもんですが…)に鎮座する大伽藍の神社です。

 現在は、神功皇后と二人の臣下を祀る神社とされていますが、前述したとおり、高良玉垂命と仲哀死後の神功皇后(皇宮皇后)の間に生れた次〜三男が朝日豊盛命で、三男が暮日豊盛命が宮地嶽神社の勝村、勝頼なのです。


AIによる概要(福津市 宮地嶽神社を検索したもの)

宮地嶽神社の祭神は「宮地嶽三柱大神」で、主祭神は神功皇后(息長足比売命)であり、随従した勝村大神・勝頼大神と合わせて祀られています。この三柱の神は、開運・商売繁盛の神として信仰されており、特に神功皇后が三韓征伐の前にこの地で開運祈願したと伝えられています。

各祭神について息長足比売命(神功皇后):第14代仲哀天皇の皇后であり、応神天皇の母君。古事記・日本書紀によれば、三韓征伐の際、宮地嶽に滞在して祭壇を設け、天神地祇を祀って開運を祈願したとされています。

勝村大神(かつむらのおおかみ):神功皇后に随従して三韓征伐に先頭で加わった神と伝えられています。

勝頼大神(かつよりのおおかみ):勝村大神と同様、神功皇后に随従して常に先頭に立ち、勝鬨を挙げた神と伝えられています。

信仰とご利益

宮地嶽神社は、これらの神々を「何事にも打ち勝つ開運の神様」として信仰されており、多くの人々に開運・商売繁盛のご利益があるとされています。


 無題.png右を見て頂ければお分かりになるように、久留米市の高良大社に残された高良玉垂宮神秘書(14p)には、玉垂命と神功皇后は夫婦だったと書かれているのです。

 九州王朝が白江戦(白村江の戦い)に大敗北を喫し、太宰府が占領される、恐らく唐、新羅と内通していた近畿大和朝廷が権力を握る時代になると、この事実を隠す必要が出て来たものと考えられ、久留米の高良大社では神功皇后を消し、宮地嶽神社では高良玉垂命を消したのでした。これについて詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下をお読みください。


576 宮地嶽神社の戦前の祭神 阿部相凾宮地嶽大明神について 20180523

太宰府地名研究会 古川 清久


 これらの神社群が示すものは、鷹島も三韓征伐のための軍団の集結基地だった様に見えるのです。

 半島攻略への人員、兵員の集積地として波静かな伊万里湾は最適であり、出船し平戸島沖を流れる黒潮の分流の対馬海流に乗れば、労せずして一気に大量の軍団を送り込むことが出来るのです。

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糧秣を始めとして、多くの戦闘用の物資から兵員、武器の搬送には、玄界灘沿岸だけでは不足したはずで、有明海沿岸から輸送するにも、松浦川を使い唐津市に送り、

有田川から伊万里市、松浦市に送ったはずですので、唐津湾の湊、神集島、呼子、名護屋湾、伊万里湾の鷹島から御厨半島一帯も軍団集結地だったはずなのです。

 当然、西に向かい平戸、五島沖辺りから兵船を整へ目的地を始めどこに置いたかによって、壱岐、対馬で風待ち潮待ちをして出陣した事でしょう。以下再掲載します。

576 宮地嶽神社の戦前の祭神 阿部相凾宮地嶽大明神について        20180523

 最近、宮地嶽神社についてはあまり書いていないのですが、関心をお持ちの方は以下をお読み頂きたいと思います。

 このシリーズに付け加えようという意味ではないのですが、懸案であった戦前の祭神に関する資料が故)百嶋由一郎氏の資料にありましたので、後付けながら記録として出しておきたいと思うものです。


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宮地嶽神社と安曇磯羅 K “未来の宮地嶽神社参拝者のために”

78

宮地嶽神社と安曇磯羅 J “宮地嶽神社について現在分かる範囲で” 

77

宮地嶽神社と安曇磯羅 I “宮地嶽神社とは如何なる性格を

持たされた神社なのか?(下)”

76

宮地嶽神社と安曇磯羅 H “宮地嶽神社とは如何なる性格を

持たされた神社なのか?(中)”

75

宮地嶽神社と安曇磯羅 G “宮地嶽神社とは如何なる性格を

持たされた神社なのか?(上)”

74

宮地嶽神社と安曇磯羅 F “「高良玉垂宮神秘書」では磯羅を

玉垂命と別神扱いしている”

73

宮地嶽神社と安曇磯羅 E “雑感” 

72

宮地嶽神社と安曇磯羅 D “志賀海神社と大川風浪宮”

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宮地嶽神社と安曇磯羅 C “底筒男命と表筒男命” 

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宮地嶽神社と安曇磯羅 B “安曇磯羅とは何者なのか?”

69

宮地嶽神社と安曇磯羅 A “安曇磯羅が祀られているのか? 否!!

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宮地嶽神社と安曇磯羅 @ “五人寄れば文殊の知恵”

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 私自身の認識としては、九州島だけでも万を超える神社がある中で、最も愛着を感じ、歴史的価値のある神社と考えているのがこの宮地嶽神社です。

普通はただの神功皇后を祀る神社じゃないか…と思われるかも知れませんが、その底流にはとんでもない列島史の深層が閉じ込められているはずなのです。

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延喜式内社でもないのですが、太宰府天満宮と共に、民衆の信仰、崇敬を一身に集める神社であって、最近の嵐=光の道効果によって参拝客が急増している事(これ自体にもそれなりの問題はあるのですが)を喜ばしく思っているところです。さて、現在の宮地嶽神社の祭神は以下の三神とされています(以下公式HPより

息長足比売命
[おきながたらしひめのみこと]《 別名:神功皇后[じんぐうこうごう] 》
勝村大神[かつむらのおおかみ]
勝頼大神[かつよりのおおかみ]


ご由緒

ご創建は、約1700年前。当社のご祭神「息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)」別名「神功皇后(じんぐうこうごう)」は第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君にあたられます。 古事記、日本書紀等では渡韓の折、この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇(てんしんちぎ)を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとあります。その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)」としてお祀りしました。 以来、宮地嶽三柱大神のご加護のもとで事に当たれば、どのような願いもかなうとして「何事にも打ち勝つ開運の神」として多くの方に信仰されるようになりました。 当社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮です。

ところが、昭和19125日刊行の「福岡県神社誌」下巻(143p)に於いてさえ、その祭神は、宗像三女神+神功皇后+勝村+勝頼と書かれており、現在の祭神と異なっている事は明らかです。

実は、それ以前の祭神も確認してはいたのですが、現物のコピーがなかったため保留していたのです。

百嶋由一郎氏の手書き資料の中にありましたので、記録を残しておこうと思い今回改めて掲載する事にしました。

はっきりと、「祭神ハ阿部相凾宮地嶽大明神、…」と書かれ神功皇后は書かれていない事がお分かり頂けると思います。

 これを持って同社が誤っているなどとは申しあげませんし、ある時代に於ける祭神はこうであったという事です。

従って、どの神社も同様ですが、その時点の祭神をそのままに真に受けない事が肝要である事を申し上げているのです。

では、阿部相凾とはどなたでしょうか?それは仲哀亡き後の神功皇后を正妃とされた第9代開化天皇(高良玉垂命)であり、長子が仁徳天皇(シレカシノミコト)であり、その次三男が藤勝頼、藤助麿なのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年05月02日

ビアヘロ 260 新ひぼろぎ逍遥 1164 の先行掲載 ひぼろぎ逍遥1163 15年ぶりの瀬高町(現みやま市)への神社トレッキング資料の公開  20260410

ビアヘロ 260 新ひぼろぎ逍遥 1164 の先行掲載

ひぼろぎ逍遥1163 15年ぶりの瀬高町(現みやま市)への神社トレッキング資料の公開  20260410

= 本稿は後日ひぼろぎ逍遥(跡宮)に掲載の予定です                  20260421

    

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


オープン参加 資料代 1000 瀬高町と言っても分からない時代になりましたが、久しぶりに筑後地方の神社トレッキングを行います。お賽銭は各自用意して下さい。

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20265みやま市での神社トレッキン

日 時:2026517日(日)or雨天の場合は24日 10:00

 連休明けですが、人込みを避け遠くのトレッキングに出ましょう!(仮案)

 みやま市(旧瀬高町)を中心に神社を探る…

今回、特にお見せしたいのは堀切玉垂神社(現仁神社)です。高良大社より重要と言っても過言ではないのですが、残念なことにお見せしたいものは、現在、失われています。

ただ、暫く前まで、高良玉垂命と神功皇后が夫婦であった事の証拠が存在したのでした。


集合場所(本案) 道の駅みやま みやま市瀬高町大江2328

昼食 うどんのふじ家 道の駅みやま正面          

 集合場所(予備) みやま市瀬高町坂田873−1 大力うどんP 昼食も同店

探訪予定の神社無題.png

 堀切玉垂神社(現仁神社)は、西鉄江の浦駅の北東1.9kmほどのみやま市瀬高町河内(旧山門郡瀬高町大字河内字松原)実は筑後で最も重要な高良玉垂宮です。

現地は分かり難いため、みやま市瀬高町河内31443堀切公民館Pを目安においで下さい。

❷ 堀切聖母宮(泰仙寺)   みやま市瀬高町泰仙寺14 高良玉垂命と神功皇后

 こうやの宮(磯上物部神社)みやま市瀬高町太神1674  ここで昼食休憩になるでしょう

❹ 竹飯八幡宮        みやま市高田町竹飯14761

 九躰神社         みやま市高田町岩津897(岩津公民館に駐車を)

❻ 上楠田天満宮       みやま市高田町上楠田1264(参道右手にP有り

予備(駐車場が無いためパスする可能性あり)

※ 竹飯八幡宮 みやま市高田町竹飯1476

帰路は、北にはみやま柳川IC or 有明海沿岸道路、南には南関ICになるでしょう。

         集合場所           昼食(出発に支障なければ他も可) 

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❶ 堀切玉垂神社(現仁神社) みやま市瀬高町河内31443


一言で言えば、高良玉垂命=第9代開化天皇と仲哀死後の神功皇后とが夫婦であった事を今に伝える神社です。まず、肥前鳥居にも驚愕させられますが、社殿の荘厳さに圧倒させられます。

高良大社は高良玉垂命=第9代開化天皇を祀るも神功皇后を隠し、宮地武神社は神功皇后を祀るも開化天皇を隠し、こうして九州王朝のシンボルであった二つの巨大神社を引き裂き、阿蘇氏=後の藤原氏に乗っ取られた近畿王権は、九州王朝の痕跡を消し去ったのでした。

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ただ、以下をご覧ください。日本国政府が公的に発表する際のシンボルが五七桐紋ですが、これは天皇家の皇族でも天皇家の一族を表し、三互桐紋は天皇家と姻戚関係を結んだものの使用できる紋章なのです。つまり、五七は高良玉垂命、三五は神功皇后を表しており、かつては両者を表すかなり大きな等身大クラスの人形が祀られていたのです。ところが、始めは敗戦時だと考えられますが、開化天皇の178年前に神功皇后も隠されたようです。

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聖母宮とは神功皇后を祀る神社であり、最も規模が大きいものは熊本県山鹿市の聖母八幡宮です。通説は応神天皇の母との触れ込みですが、とんでもない大嘘で、長子が仁徳天皇=シレカシ命以下、朝日豊盛、暮日豊盛…など、高良玉垂命と神功皇后の実子5人と皇后の連れ子4人の9人を祀る神社が九躰皇子を祀る九体神社(みやま市高田町岩津897)に後で参拝します。

このように久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」を読まれればお分かり頂けます。

詳しくは、ひぼろぎ逍遥 055 みやま市河内に超高格式の玉垂宮が存在する を先に読めば意味が分かります。


無題.png153 超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮” 聖母宮と玉垂宮が隣接すること自体がお二人が夫婦であったことを示していますし、「宮神秘書」14p にははっきり夫婦と書いてあります。

さらにグーグル・マップを見ると面白い事実に気づきます。

 矢部川を渡るとそこは柳川市です。勿論、古代には柳川市は海の底で、中世の藤原純友の弟が有明海の通商破壊戦で活躍した時代に芦原や島ができる巨大な湿地帯になるのですが、この事から、柳川側が新興地である事が分かります。そこに応神天皇を祀る鷹尾神社、大和町鷹ノ尾地区が在ることからも、後発地帯に藤原の息の掛かったエージェント応神が防衛線を引くかのように立塞がっているのが良く分かります。

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 鷹とか隼で応神天皇を表現していますね。宇佐の境外摂社が鷹居社ですし、京都など隼神社は誉田別尊を祀ります。福岡県小郡市の横隈隼鷹神社外多くの例が在ります。


❸ こうやの宮(磯上物部神社) みやま市瀬高町太神1674

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分


無題.pngうやの宮なる奇妙な名の神社がある事は良く知られていますが、神社研究を怠ってきた古代史家には何のことだか分かっておられないようです。騎馬民族風の武人の人形が七枝刀の様なものを持っていますが、磯上物部神社の名の通り、7代孝霊天皇のお后である卑弥呼宗女伊予=細姫に対して兄(ウマシマジ)から贈られたもので、こうやの宮が別名磯上物部神社と呼ばれている事からも推定が可能です。

 ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦=彦火々出見…と伊勢の外宮様(辛国息長大姫大目命)との間に生まれたのがイヨでその伏見稲荷でもある物部を象徴する女神を后としたのが孝霊天皇になるのです。良く七枝刀を手にする女神を卑弥呼と誤っている方がおられますが、卑弥呼宗女イヨ様なのです。何でも卑弥呼に仕立てたがるのは商売目的ですね。

 我々百嶋神社考古学の者にとってはこのこうやの宮を含む旧瀬高町一帯は九州王朝の王族の居留地、パレスと考えてきましたが、この地に残されていた宝物は奈良に差し出さされ、その痕跡を残すためにこうやの宮が造られたものと考えています。

暫く前まで、この地には田中神社が在り(現在も残っているのかも知れませんが)、恐らくその一族が保管していた物と考えています。故)百嶋由一郎はこの地には五七桐紋を持つ田中姓の方がお住まいに成っており恐らく孝霊天皇、イヨに繋がる一族だろうと申していました。


 ここで昼食休憩だろうと思いますが、有明海沿岸道路で戻れば直ぐだと思います。

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概して筑後地方は、柳川の立花うどんを筆頭に、うどん屋が多くしかも格安店が多い事で知られていますが、大力うどんもその一つです。上のメニューは一例ですがうどんのふじ屋のものです。

 筑後に入ると一気にうどん店が多くなる事をご存じだと思いますが、これも日向の火山灰土壌のため水田稲作が出来なかった大山祇系の人々の粉食文化(ヤセウマ、だんご汁、伊予、讃岐、阿波〜信州のオヤキ〜甲斐のホウトウ〜関東の食文化に繋がっている)のです。起点は日向です。

後半はみやま市でも高田町になります


竹飯八幡宮 みやま市高田町竹飯14761


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九躰神社みやま市高田町岩津(地番不詳のため傍の岩津郵便局の地番875−1

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9人の皇子を祀る神社の意味で、高良大社(福岡県久留米市)の摂社である高良御子神社(皇子宮、坂本宮で知られています)と同じ御祭神です。

祭神:高良玉垂命の子九躰王子

高良玉垂命=第9代開化天皇と仲哀死後の神功皇后との間に生まれた五柱の実子

斯禮賀志命(仁徳天皇 勿論、応神の子などは大嘘)、朝日豊盛命、暮日豊盛命(この二神は福津市の宮地嶽神社で神功皇后と共に祀られています)、神淵志命、谿上命

四柱は神功皇后の連れ子とされ仲哀との子とか仲哀の側室の子とも言われます。

神娜男美命、神坂本命、神安志奇命、神安樂應寳秘命

私の記憶では自民党の官房長官も務めた松野頼三(松野鶴平の子で松野頼久の父)の娘が嫁いだ

一族が寄進した神社で起源は明治以降とされています。この事は松野一族が九州王朝の一族であった事を物語っています。つまり、有名な松野連系図の一族です。

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無題.png松野連系図については倭王、倭国、九州王朝に直結する

問題ですが、松野頼三の話の行き掛り上取り上げました。

とにかく、筑後の最深部に入ると大変になります。


❻ 上楠田天満宮 みやま市高田町上楠田1264(参道右手にP有り

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大藤が有るだけで九州王朝系の神社と分かり祭神は菅原道真公。ワンコはもういないでしょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 15:00| Comment(0) | ビアヘロ

2026年05月01日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1121 伊万里湾に浮かぶ鷹島周辺の神社について

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1121 伊万里湾に浮かぶ鷹島周辺の神社について

20250922

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


伊万里湾に浮かぶ鷹島の神社を再考します。昔魚釣りで通った鷹島を神社から考えるものです。

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まず、社名だけでは分からない神社が幾つかありますので、少し調べて見る事にしました。


❶ 野保佐神社 長崎県神社庁のデータでは、鷹島町の同社は出て来ませんが、参考になるものがあります。

壱岐の野保佐神社が出て来ます。野保佐の読みと意味も今のところ分かりません。


大己貴命・事代主命・埴安命無格社として出て来ます。

328日 壱岐市石田町筒城東触480番地


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野保佐神社 壱岐市の石田町に3社在る矢保佐、野保佐神社であり、ヤボサ神社であることが分かりました。

 壱岐で有名な天手長男(アメorアマノタナガオ)神社に関係する神社の可能性が高いですね。


大己貴命オオナムチノミコト、事代主命コトシロヌシノミコト、埴安命 (ハ百万神による)

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AI様は、立派な回答を与えてくれる時もあるのですが、ここでは通説派そのままの説を流しています。我々から見れば祭神が入れ替えられている様に思えますね。これでは、学者が忌避するウィキペディアが余程役に立つようです。

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天手長男神社について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(20250923 09:53)による


天手長男神社(あめのたながおじんじゃ[2][3][4]、あまのたながおじんじゃ[5][6][7])は、長崎県壱岐市にある神社。式内社(名神大社)論社、壱岐国一宮後継社で、旧社格は村社。

『延喜式神名帳』に載る式内名神大社で壱岐国一宮の天手長男神社に比定されているが確証は薄い(後述)。


祭神主祭神 天忍穂耳尊 天手力男命 天鈿女命

また、『延喜式神名帳』に載る名神大社と比定されている「天手長比売(天手長比賣)神社」(あめのたながひめ‐[3]、あまのたながひめ‐[7])、小社の「物部布都神社」(ものべふつ‐[3][8]、もののべのふつ‐[7])を合祀している。天手長比売神社には栲幡千々姫命、稚日女命、木花開耶姫命、豊玉姫命、玉依姫命[9]、物部布都神社には経津主神が祀られている[8]が、この両社も式内名神大社の天手長男神社同様、本来の天手長比売神社、物部布都神社ではないと見られている。


歴史

宗像大社(福岡県)の『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后の三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長」という旗竿に武内宿禰が持っていた紅白2本の旗をつけ、これを上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(玄界灘の沖ノ島)に立てたという。天手長男(と天手長比売)の社名はこの「御手長」に由来するという。

弘仁2年(811年)に「天手長雄神社」(アメノタナガヲ‐)として創建、後に「天手長男神社」。『大日本国一宮記』(『一宮記』)には、天手長男神社と天手長比売神社が物部村にあり、天手長男神社を壱岐の一宮としたとある[1]。『一宮記』では天思兼神を祭神としている[6][10]

その後、元寇により廃れてしまい、所在も不明となっていた。

現在の天手長男神社は、江戸時代にそれまで「若宮」と呼ばれていた小祠を平戸藩の国学者、橘三喜が名神大社の天手長男神社に比定したものである。三喜は、当神社の位置する「たながお(たなかを)」という地名から天手長男神社は田中触にあるものと推定した。そして、田中の城山竹薮の中に分け入り、神鏡1面、弥勒如来の石像2座を掘り出し、石祠を造って祀った。延宝5年(1677年)に発見された弥勒如来像には延久3年(1071年)の銘があり、後に重要文化財に指定され2012年現在は奈良国立博物館に保存されている[4][11]。元禄元年(1688年)には松浦藩主の命により社殿が作られた。

なお、三喜の式内社の査定は地名に基づいたものが多く、現在の研究では疑問が持たれている。天手長男神社については、芦辺町湯岳興触に興神社があり、興(こう)は国府(こう)のことであると考えられ、境内社に壱岐国総社もあることから、興神社が本来の天手長男神社であり壱岐国一宮であるとする説が有力となっている(橘三喜は興神社を式内小社「與神社」に比定しているが、これは興と與を見誤ったためと見られる)。

合祀されている天手長比売神社も橘三喜の査定によるものであり、本来の天手長比売神社の所在地は不明である。物部布都神社も、「田中触が物部(ものべ)村に属しているから」という理由で比定されたものであり、近年の研究では渡良浦の國津神社が本来の物部布都神社であったとされている。なお、平安時代に存在した森部郷は、江戸時代の物部村や、平成時代の田中触・渡良浦ほかを含む地域と比定されている[12]

もっともそうした経緯はともあれ、現在では当神社が壱岐国の一宮とされ、天手長比売、物部布都の両神社の神も合祀されている。


無題.png もう一つの矢保佐神社は壱岐の北方の勝本に在り、赤い鳥居の稲荷様の様な神社になっていますね。


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まさか、最初からこんなに難解な神社に出くわすとは思いもしませんでした。赤鳥居は稲荷様ですが、大山祇の娘の神大市姫=ミズハノメとスサノウとの間に生まれた娘(大山祇の孫娘)が伊勢の外宮様(豊受大神)=伏見稲荷でもあることは殆んど知られていません。それが正しければ伏見稲荷様とも同神であり赤鳥居は決しておかしくはないのです。とすると、矢保佐神社は伊勢の外宮様と同体の神様になるのです。

 とすると、長崎県神社庁のデータで、天手力男命・天鈿女と書いている事は、父神とご本人とは言えるのです。何故なら、伊勢の外宮様の最初の夫は草部吉見(藤原の祖)ですから先夫が天忍穂耳尊と書いているのです。ところが、夫婦の間にあったのは短期間で、御年神と呼ばれ藤原が孝安天皇としたハイキノカミが生まれているのです。

 ところが、外宮様は直ぐに夫を換えており、添い遂げたのは物部の権化であるニギハヤヒ=猿田彦=山幸彦であり、ウマシマジが生まれているのです。

  そして、日本書紀は藤原が創っておりこの事は消しているのです。

 そこまで分かると、天鈿女と書いている事が理解できるのです。


長崎県神社庁

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これで、野保佐神社、矢保佐神社の祭神が大山祇から二世代下った伊勢の外宮様と分かりました。

 せっかくの機会ですから、壱岐一之宮の天手長男神社についても演習しておきましょう。


天手長比売神社には栲幡千々姫命、稚日女命、木花開耶姫命、豊玉姫命、玉依姫命[9]、物部布都神社には経津主神が祀られている[8]が、この両社も式内名神大社の天手長男神社同様、本来の天手長比売神社、物部布都神社ではないと見られている。


と引用しましたが、栲幡千々姫命は草部吉見のお妃で、高木大神の次女になります。

経津主神物部のニギハヤヒ=猿田彦=山幸彦ですので、伊勢の外宮様の旦那様です。

天手長男神社の主祭神 天忍穂耳尊 天手力男命 天鈿女命

天鈿女命が主神とすれば、草部吉見(先夫)、天手力男=スサノウ(父神)、天鈿女命(ご本人)が整然と並べられている事に成るのです。

 ただ、これは藤原がニギハヤヒ=猿田彦=山幸彦を改竄したとしか思えないので、そもそも疑わしいのです。ただ、時代と共に祭神は入れ換えられるものと考えれば、ある時代の祭神と考えることは正しいのです。それを認めれば、28の以下の形で、草部吉見+高木大神の次女として高木系の神社にされてしまっているのです。


私も以前から半島経由で何派もの渡来が行われている事は間違いないと考える以上(勿論それ以前は揚子江河口から海路で呉越が入っているのですが)、壱岐は糸島への橋頭保だったと考えており、春秋戦国の呉も北に陸路で逃げた氏族も物部氏も列島に入るには高木大神系天孫族だけではなく通過点だったはずで、誰が祀られても合理的だと思っているところです。 

とすれば、人気のないニニギも大国主も、金山彦も、若しかしたら、金山彦の孫のナガスネヒコさえも候補には成りうると思うのです。天手長男はナガスネヒコにぴったりだからです。

本来の話から逸れますので、ここまでとします。


 釜神社をグーグルで拾うと釜蓋神社を含めてかなりのデータが表示されます。ただ、鷹島南岸のそれは“釜神社”なのです。これがほぼ情報が皆無と言って良い状態で突然謎の神社に遭遇したことになるのです。

 ところが、茨城県に同名の神社が在りました。それが、ひたちなか市部田野1762の釜神社です。

正確には釜神社と釜上神社の二社なのですが、そちらについては、動画配信されておられるますので、ご覧頂きたいと思います。

 釜蓋神社については、P.P.まで作成し久留米大学でもお話ししているものですので、この神社とは全く性格の異なる神社です。ブログもかなり書いていますので、関心をお持ちになれば、ひぼろぎ逍遥 釜蓋or永ノ尾 と検索して見て下さい。

 驚いたのは、ひたちなか市の釜神社の祭神が、オキツヒコ+オキツヒメだったことです。

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 前述の動画は以下です。

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釜神社が全国に二社限定と言うのも驚きましたが、40年前に頻繁に魚釣りで殿ノ浦に入っていた時、フェリーの待ち時間に付近の神社を見ていましたので見ている事を思い出しました。

 それが、ひたちなかに繋がるとは思いもしませんでしたし、今尚、落ち着いて考えようと思っています。

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百嶋由一郎 008 イヨ神代系譜


木大神=高御産巣日神(タカミムスビ)の次女と阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)の間に生れた天忍日(アメノオシヒ)が興ツ彦、草部吉見と宗像三女神の市杵島姫の間に生れたのが興ツ姫となり、高木大神系、神皇産霊系の更なる強固な姻戚関係を結ぶ形で成立した神々ですが、その間に如何なる奉斎氏族が成立しているかは不明です。まさか、殿ノ浦を経由して九州から日立に移動したとまではここでは申し上げられません。

 それは、興ツ彦、興ツ姫は、鳥取、島根でも見かけま頻繁に遭遇しますし、製鉄に関係している様にも見えますので、試しに表記を変え奥津彦神、奥津姫神で検索されれば、大きく広がります。


無題.pngなども取り上げておられます。

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釜蓋神社は無関係ですが、関心をお持ちならば、これはパワポですので、ひぼろぎ逍遥+釜蓋でダブル検索をして下さい。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:07| Comment(0) | 日記